厚学山 伊勢寺 宝積院(岡山市阿津2100)

本尊 薬師如来弘

縁起

厚学山伊勢寺宝積院は薬師如来を本尊とする高野山随心院派の真言宗寺院で、慶長年中に火災に遭うて古文書を焼失、詳しい縁起がわからない。寺伝によると、もと阿津の平山にあった寺をいつの頃か現在の地に移転した。また九州相良の境にあった円明院定恵寺が火災にあい、本堂と他の建物の一部が残ったので、焼け残りの堂宇と、薬師如来の木像を阿津の平山に移して再興したとも言われる。


平山は阿津の集落よりもひと山越えた西の高地をいう、現在は耕地になっているが中世まで集落のあったところ。寺は集落が海岸に近い平地に移動するにともない現在のところに移って来たものと考えられる。
永禄十年四月堂宇を再建したが慶長十七年炎上したので同十九年二月に再興した。寺記に

「奉安置厚学山道場本尊薬師瑠璃光如来」と見え、また「再興仏師京都栗田青院蓮院宮御内御用工木村由雄門入岡山大黒町佐藤平之亟、日光月光十二神将合十四体造仏師東都法眼良運種則、同厨子二宇細工師西大寺村住人時岡弥右衛門」という記事もあり、江戸時代になって、火難を受けた本尊を修理し、脇侍の日光・月光両菩薩と十二神将とは新造して、新調の厨子を使用したことがわかる。また仏師や細工師の名が記録されていることもありがたい。
現在の建物は本堂・庫裡・客殿などで何れも江戸中期の改築、本堂は東面した三間四面(柱間)、一重、入母屋造、屋根本瓦葺、総円柱、装飾のすくない簡素・質実と評すべき建物。客殿も庫裡も入母屋造本瓦葺の平屋建てである。

阿弥陀如来胎内経

既刊の児島郡誌には宝積院の開基を「貞安二年」にしている、これは「安貞二年」の誤植であろう。安貞二年(1227)という年代は、この寺の本堂内陣にまつる阿弥陀如来立像の胎内に納めた大無量寿径の奥書に「誓願無誤必来迎引接給以此功徳聖霊決定増進伝道、安貞二年四月十日母服中書之、右大将実氏」とあり、この納経年紀に拠ったものらしい。当寺の草創と合致するかどうかはわからないが、この胎内経が以前から読まれていたことを知ることができる。
阿弥陀如来立像はこの寺が同地の広幡八幡宮の社僧であったころ、八幡宮の本地仏としてまつられていたと言われる。