Last Updated 2016/7/29
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1700冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
待ち望んだ時が訪れた。サイバーコミュニティバトルコミックの傑作にしてバーチャルワールドアクションの最高作、内田美奈子の『BOOM TOWN』が、ネットで漫画を無料公開している『マンガ図書館Z』に登場した。読めば分かる先進性と革新性。それでいて楽しく可愛いキャラクターたち。堪能せよ。そして叫べ。復刊を。連載再開を。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
【7月29日】 必ずしも先発として起用されるわけではないけれども、常に自分は今も日本代表に入ってワールドカップに出るくらいの気持ちで体を作り続け、試合に臨み続けずキングこと三浦知良選手にすべてが倣えとは言えないまでも、試合に出られないのならそれがどういうことかを考えつつ、やれる最大のことをやるのがプロのサッカー選手であり、スポーツ選手なんだろうなあという気持ちを一義的に起きつつ、飛び込んできた岡山湯郷Belleで起こった宮間あや選手や福元美穂選手らの退団申し入れと、監督代行の辞任といった内紛劇を見て、起用法に異論があったからといった理由で練習をボイコットしたり、4人も一気に退団したりといった行動のどこかに、共感を阻むようなささくれがあるような気が少しする。

 ただ監督が選手の人格を否定するようなことを言ったといった話も流れていて、そうしたチームにいられないというのも分かるし、女子サッカーの場合はプロである選手は一握りで、あとは仕事をしながら参加している感じでそこにプロフェッショナリズムを求め過ぎるのもちょっと違う。全人生をかけて挑んでいるのに否定されたらそれは辛いわなあ。ただやっぱり女子サッカーの世界を代表する選手であり、日本代表のキャプテンも務めた選手がこうした内紛めいたことで古巣に異論を唱える姿には、やっぱりなかなか気持ちを向けにくい。どういった事情があったのか、それはよほどの事情だったのかといったことが明らかにされることを願いたいけれど。

 しかし岡山はこれから大変だろうなあ。幼い頃から選手を養成してそのトップクラスが何人も試合に出られないでいるくらいに選手層が分厚い日テレ・ベレーザですら澤穂希選手や大野忍選手らが一気に抜けてINAC神戸レオネッサに移籍してしまったあとは、戦力的に立て直すのが大変そうでINAC時代を作ってしまった。古手の選手がほかにもいっぱい残っていたから引き締まってはいてもやっぱり試合は戦力。それがベレーザに比べてさらに乏しい岡山はいったいどうするんだろう。まあそれでも想定しつつ試合は進めていたそうだし、辞めることを表明した選手は結構なベテランで世代交代の必要性も言われていた。ここで一気に推し進めつつ立て直していくことで、また輝けると信じたい。Jリーグの傘下に入らず地元に支えられて頑張るチームは、ちょっぴり秋風が吹き始めた女子サッカーにといって必要だから。

 「内閣総理大臣ほか、主要閣僚全員の命を賭けても僕はゴジラに勝てないかもしれない」「賭けてから言いなさい」。なんてセリフを國村隼さんの出演を見てふと思い立ったけれども「シン・ゴジラ」、大筋において間違っていなかったというか、そんな感じに國村さんは頼もしげで慈愛も胆力も兼ね備えた好人物の統合幕僚長として描かれていた。そして呼応するように長谷川博己さん演じる対策の中心人物もその先輩格にあたる竹野内豊さん演じる官房副長官もそれぞれが信念を持って事態を見つめつつ自分が思う最善を尽くそうと努力し時に策も巡らせるやり手だった。総理大臣にしてからが逡巡はしてもやっぱり決めrうとなったらちゃんと決める覚悟を持った人として描かれていて、つまりはそうした人の強さが最終的には全てを決めるんだってことを、教えてくれた映画だったような気がしないでもない。

 見て人は有事法制がどうとか省庁間の壁がどうとかいった話をしてもっと事態に備えた法律を準備しなくちゃいけないよ、それを今の日本は自らが危機にあるんだと認めて推進しなくちゃいけないよってな感じに受け取りキャンペーンを張る人も出てきそう。権力の側にそういった思惑が浮かびそうだけれどもでも、そんな権力が自分の意見もなく誰かの意見を聞くでもなしに自分の立場に汲々として批判を恐れ右顧左眄している状況で、権力にすべてを委ねる法整備だなんて危なくてしょうがない。誰とは言わないけれども日本史に残るような凶悪で悲惨な事件が起こっても、困難に立つ被害者の側に寄り添うことなく予防拘禁に傾注するような政策を作りかねない人間たちの下で。

 可能な犯意でいろいろと想像できる叡智があって、常識にとらわれず判断できる人材がいて、そうした人材の具申を受けて行動できる決断力を持った人間が権力にいてこそ成り立つ法制度の整備を進める前に、まずは権力者たちも官僚たちもジャーナリストもすべての人も自分自身を磨くべき。そして決断して想像して判断しつつ最善を選び取れるようにするべき。映画を受けて意識をそういう方向へと持っていって欲しいけれど、世間は表面しか見ないからなあ。ともあれいろいろと考えさせられた映画。最後のショットのアレは何? 気になったのでもう1度見に行こう。あとはこの「それで作戦名はどうするのかしら?」「カッチン作戦で」「カッチン作戦? 迫力ないわねえ」「良い作戦名だ」「えっ」とかも最高だったし(そんな場面はありません)。

 ミーアキャットだミーアキャットだ、ミーアキャットが間近に見られるってんでセガ・ライブクリエイションが横浜で運営しているオービィ横浜って体験型テーマパークに行ったゴジラがいた。ちがうグリーンイグアナだけれどごつごつとした表皮とガバッと開く口がまるでゴジラ。立ちあがって火でも噴くんじゃないかとちょっと期待してしまった。それはさすがになかったけれど。元々はBBCっが持つ動物に関する膨大な映像資料と、そしてセガが持つインタラクティブ技術を合わせて動物に関する知識を得られるテーマパークとしてオープンしたオービィ横浜だったけど、今は子どもが滞在して楽しい場所になっている感じ。それならと実際に動物に触れるコーナーとして「アニマルスタジオ」が造られた。

 ミーアキャット意外にもウサギがいてインコがいてカメレオンがいてフクロウがいてミミズクがいてと盛りだくさん。ウサギは触れられるしハリネズミにだってタッチOK。ただし手に手袋は必須。だって痛いから。時間制で入って30分だっけ、そんな時間にいろいろな動物と触れあえるけれどもやっぱり見たいのはすっくと立つミーアキャット。眺めているとウロチョロしてなかなか立ちそうもないけれど、時々岩の上にのってフッと上を見上げたときに立ちあがるみたい。上で手のひらを動かすとそれが気になって立つのかな。いずれにしても横浜では希少な動物おさわりパーク。あるいは珍しい動物カフェ。「横浜ブルク13」で「シン・ゴジラ」を見た後に、真ゴジラを見に行くつもりで寄ってみてはいかが。

 阪大の石黒教授と東大の池上教授というたぶんアンドロイドとか人工生命とかの第一人者がコラボを組んで作り上げたという今までとはちがった人間らしさを持ったロボット「オルタ」ってのがお披露目されるってんで日本化学未来館へ。ニューロンがバチバチしているとか環境から非線形で条件を拾って関数をあてはめ動かしているとか意味がまったく分からなかったけれども、とってもランダムでありながらそれでもフッと人間らしさを完治させる瞬間を持たせるような動かし方をしているらしく、なるほどぐにゃぐにゃとタコ踊りをしているように見えながらもこれは人間、あるいは生命かもしれないなあと思わせた。

 人間を模して動きを近づけようとすればするほど無理が出て、それでも追いつかないギャップから不気味さが出る。「オルタ」の場合はそうしたアプローチではなく、人間というか生命が持つランダムな揺れみたいなのを表現することができるロボット、あるいはアンドロイドといったところなのか。表情は誰にも似てなくて体も構造が剥き出しになっていて、それでいて人間っぽさを漂わせるのはなぜなのか。仕草なのか視線なのか。そういった人間らしさを感じるポイントを考える上でもいろいろと役に立つらしい。まあ文楽人形だって表情は固定で関節だってあまり動かないのに動かす人が巧く動かすとものすごく表情豊かに見えるもの。そうした人間らしさとは何かってのを、対話から考えていくみたい。期間中もだからいろいろな人の反応を見つつロボットへの影響なんかも探っていく感じ。1週間経ったら見に行くかな。いきなりダンスとか踊ってたりして、マイケル/弱ション級の。

 取り仕切っていたSF大会でのオープニングアニメ上映をきっかけに作られたダイコンフィルムに端を発してガイナックスとなりゴンゾが分かれたりカラーが立ちあがったりした果てに、そんな系譜に連なる庵野秀明さんと樋口真嗣さんによる「シン・ゴジラ」が公開された日に、やっぱりSF作家の豊田有恒さんの事務所「パラレル・クリエーション」を拠点にして集まったSFファンがクリエイターとなっていろいろとやんちゃをしていな中から出てきた出渕裕さんやゆうきまさみさんがメンバーとなって立ちあがったヘッドギアが送り出した「機動警察パトレイバー」がリブート。1970年代から80年代のSFファン気質がクリエイティブに向かっていった成果が30年40年経って大きく花開いたなあって印象を抱きつつ、そんな人たちの活躍をずっと見てきた目に浮かぶ感慨と、一方でそうしたクリエイティブの戦列に加われなかったふがいなさへの慚愧が入り交じった、そんな1日。暑かったなあ。


【7月28日】 炎上しているなあ。とある新聞記者が相模原の障がい者施設が襲撃された事件に関して、警察が被害に遭った人たちの名前を発表しないとしたことに対してツイートして、「匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります」と書いていて、どうして実名でなければ事件の重大さが伝えられないのか、それはメディアの側の売ろうとする意識の発露であって、被害者の気持ちを蔑ろにしているんじゃないかといった非難を浴びている。もう集中砲火。メディアスクラムといって大勢のメディアが集まりくんずほぐれつの取材をして、迷惑を被る人たちが出る問題が顕在化している中で、さすがにこうした物言いは火に油を注ぐようなものだった。

 ただし、ここで注意したいのは、匿名発表と匿名報道はイコールではないってこと。発表においては権力側は情報を包み隠さず明かさなければならない。それは権力が情報を隠蔽することで、強いたげられる誰かがいるかもしれないから。メディアはだから公開を求めていくけれど、そうして得られた情報について、必ずしもメディアが明かす必要は無い。人権等に配慮して匿名で報じつつ、相手の理解を求めながら取材も行い、誰かといったことを公表せずとも、その人生が断たれた哀しみを伝えつつ、生きることの意味を訴える。そんなメディア環境があれば良い。

 けれども、残念ながら今のメディアにとって、権力による発表はイコールお墨付きだという逃げの感覚があり、どこよりも速く“人間ドラマ”とやらを伝えて読者の情動を誘い部数に、アクセスに、視聴率につなげたいという商売っ気があって、被害者の人権に配慮しつつ理解を求めるといったプロセスが吹っ飛んでしまっている。メディアスクラムが発生してもみくちゃにされる被害者の親族も現れる。だから、権力がメディアのそうした行為を誘発しないよう、匿名発表もやむなしということになっているという、そんな事情を噛みしめていれば、迂闊に権力による匿名発表は自分たちの商売の邪魔だなんて感じのことは言えなかっただろー。言葉足らずというか。そのあたりも含め、考えるきっかけを作ったと言えば言えるのかな。今後の言葉に関心を向けていこう。

 フロリダでの乱射事件の直後に会見して「『事件は米国民すべてに対する攻撃で、平等と尊厳に関する基本的価値観への攻撃だ』と述べ、少数者への嫌悪やテロ行為で米国の価値観が揺らぐことはないと強調した」(朝日新聞)オバマ大統領。事件が何によって引き起こされ、それがアメリカにとって不可欠な、というより人間の社会にとって大切な自由と人権を揺るがしかねない問題だという認識を持って、それを否定するような言説の台頭を牽制し、意識から立て直しを求めようとした。それが国を率いる者の使命であり、ひとりの人間としての信念だといった雰囲気。強いなあ。リーダーとはこうあって欲しいというひとつの形。  対して安倍総理は「『多くの方々が大変な不安を感じている。事件を徹底的に究明し、再発防止、安全確保に全力を尽くしていかなければならない』とした上で、塩崎厚生労働相ら関係閣僚に対し、施設の安全確保の強化策や、精神障害者の措置入院後の追跡調査について、見直しも含め早急に検討するよう指示した」(読売新聞)とか。違う。あまりに違いすぎる。人々が、とりわけ障がい者の人たちが不安を感じているのはどうしてか。それは弱者に対する脅迫的な言動が台頭して野放しになっているからで、そうした自由と人権に対する挑戦ともいえる行為をまず嗜め、感化されないように呼びかけこの国が寄って立つ基盤を立て直そうとすすべきだろう。

 それなにのに、談話から浮かぶのは障がい者施設の警備の問題であり、何らかの犯意を持ったものの隔離と監視の強化といった方面から事態を押さえ込もうとしているといった雰囲気。人権に対する挑戦であり自由に対する攻撃であって、そうした思想が垂れ流されている状況を憂慮し国民は絶対に感化されてはいけないといったメッセージはまるでない。まあ当人が、弱者を脇に寄せて格差を作り、その間を分断することによって上が下に対して溜飲を下げ、自分の地位を保とうとする雰囲気を作って、自らの地位を安泰なものとしている感じと見なされている総理大臣だから、格差や差別を糾弾するような言葉は言えないのか、それともそういう問題の所在に今だ気付いていないのか。こんな総理大臣を強いとおだてて持ち上げるメディアに情報の表面を埋め尽くされているこの国の未来やいかに。やれやれ。

 横須賀へ。「艦隊これくしょん−艦これ−」が流行り「蒼き鋼のアルペジオ」が流行り「ハイスクール・フリート」が流行っても今だ足を踏み入れたことがなかった横須賀だったけれども、そこに「艦これ」の店がオープンするとあってこれは行くのに絶好機と、朝から横須賀線を乗り継ぎ向かったものの大船で止まり、逗子で止まって乗り換えていく面倒さを思うとあんまり横須賀行きにJRは使わない方が良いのかもしれないと反省仕切り。とはいえ京急で横須賀中央に乗り付けると、きっと行かなかっただろうヴェルニー公園を歩きながら岸壁に泊まる自衛艦を眺め潜水艦がいるのに気付くこともなかっただろうから、これはこれで良かったのかも。眺めると艦艇が並ぶ港。大昔に体験入隊で行った舞鶴とは違った明るさもあって、好きな人は好きになる光景かもしれない。

 横須賀といえば米海軍なんだけれどゲートで仕切られた奥にあって建物が少し見えるものの港自体は山地の向こうに隠されていて艦船の姿が見えないようになっている。なるほど関係者らしい人は歩いているけれど、街全体に基地のある街って雰囲気が漂わないのはそうした配慮があるからなのかどうなのか。見られて戦力が露見することがないような立地ってこともあるんだろうけれど。そんな米軍基地の前を抜けて記念館三笠がある三笠公園へと辿り着いて三笠を見物する。でかいなあ。

 これも大昔に護衛艦の「あまつかぜ」ってのに乗ったことがあったけれど、現役の艦艇だっただけに人もいっぱいいてぎゅうぎゅうだった。三笠は戦艦だし旗艦でもあるんで甲板は広く艦内の部屋も広くってちょっとしたホテル。って“大和ホテル”ほどの広さはないんだろうけれど、当時の海軍の中枢を担った船だけのことはある。これに人が乗って動いていた時はどれだけの偉容だったんだろう。いわんや大和は。見ることのできない光景。見たいかというとそれはつまり軍備が整い軍事が行われることが前提だけれど、そうでない状況で戦艦というものが運用されて偉容を見せるような事態が、起こる可能性を想像してみたくなる。やっぱり戦艦道を作るしかないのか。「ハイスクール・フリート」みたく女学生が運用して日本を護る状況が来るべきなのか。

 そして横須賀中央駅の方へとあるいて途中で、目的の「艦隊これくしょん−艦これ−」から給糧艦の伊良湖をモチーフにした「酒保伊良湖」が着々とオープンに向けて準備中なのを確認してから、ネットで調べて横須賀海軍カレーを食べさせてくれる「横須賀海軍カレー本舗」へ。あれやこれやメニューがあってライスの上にソーセージがずらりと並んだ島風にもちょっと心ひかれたけれど、ことはとりあえず見た目が美味しそうだった海軍ではなく海上自衛隊の「はちじょう」にちなんだ「掃海艦はちじょうポークカレー」を食べたらやっぱり美味しかった。

 濃いめのルーにはチーズが練り込まれてさらに濃厚に。それがライスとマッチしてカレーを安倍テイルって感じにさせてくれる。コロッケもさくさく。牛乳もついて値段は1630円とお高めだけれど、こういう機会でもないと食べないものだけにここは奮発。でもメニューにあった島風カレーが気になったんでまた行こう。とはいえここでカレーを食べると今度は「酒保伊良湖」で食べられないか。内覧会に行ったらちゃんとメニューにあって横須賀海軍カレーらしく牛乳がついていた。味も良さそうだったけれど果たしてどうなんだろう。今日オープンだからそのうちリポートも出てくるかな。昼だけでなく夜もやっててお酒も出るみたいなんで、泊まりがけで行くような機会があったら寄って飲んでいたいなあ。アメリカ海軍さんも来てたらそれはそれで面白いけど。いるのか艦娘ファン。いるだろうなあ絶対に。


【7月27日】 ずらりと並んだ鉄道会社の連名が、3行しかない本文とあいまって異様な感じを醸し出していた、国内の主要鉄道会社による「ポケモンGO」を鉄道施設で遊べないようにしやがれってな要請分。なるほどホームで歩きながらスマートフォンをしてどこかにポケモンが湧いていないかを調べる人とかいたら危ないし、階段を上り下りしながらスマホを操作する人もやっぱり鬱陶しい。それが「LINE」とかの操作でも同様に鬱陶しく、規制を願うならそういうアプリが階段の上り下りとかでは動作しないようにしてと頼んでとも思ったけれど、そういう動きがなかったのは「ポケモンGO」ほど鬱陶しさが切迫していなかったからなのか。乗降の流れに沿って動きながらの操作は歩みをノロくはしても流れを乱さない。「ポケモンGO」はゲームの都合で人が流れに逆らって動き立ち止まる。危険度も高いだろう。

 ただ、それはマナーの問題であって必ずしも階段やホームを歩きながらプレーする必要はない。そして駅なんかにあるランドマークは「Ingress」の時代からポータルにされて「ポケモンGO」でも様々なステーションになっていたりして、その近所で遊ばないっていう手はないし、遊ばないっていう人もいないだろう。そう考えると鉄道会社が呼びかけるべきはポケモン発生の除外ではなく、ホームや階段の上り下りでのスマホ操作の厳禁であり、流れを止めるような立ち止まりだとかたむろの解消であって、それを果たした上で駅に人が来てくれる材料として、「ポケモンGO」を利用すれば良いんじゃなかろーか。そう考える余裕がないのかなあ、何かあった時に責任を問われる身としては。世知辛い世知辛い。

 「ポケモンGO」といえば昼のワイドショーで「ポケモンGO」をやっている人を侮蔑すると発言して顰蹙を買っていた漫画家のやくみつるさんが、テレビ東京の朝の番組に出て水道橋博士さんと“対決”しては互いに侮蔑合戦を繰り広げつつ擁護派、否定派と言った対立軸を立てて持った才知を繰り出し持論を披瀝していた模様。見ていないからその空気が和気藹々としたものか、ぴりりと緊張感に溢れたものかは分からないけれど、番組公式Twitterに上がった写真は反目しながらプラカードを持ってポーズを決めたもの。見れば発現が社会的な暴言にとられてしまって炎上していたやくみつるさんに、芸人として水道橋博士さんがぶっ込んで芸能的なブックの形を整えて、その上でメタ的に意見をぶつけ合い、見て人がそれについて考えるようになればっていった意識が感じられる。

 そこが水道橋博士さんの時宜を見ての芸人的ポテンシャルって感じだし、受けてブックへと状況を戻したやくみつるさんのギャグ漫画家としての機転って奴なんだろうけれど、そうした2人のタクラミを受け入れられないくらいに世間は厄介な状況になっていた模様。スポーツ新聞なんかを中心に水道橋博士さんが反論したといった形で、社会的暴言に社会的諌言がぶつかり合って火花を散らしているようなクソマジメな空気へと引っ張られている。折角の水道橋博士さんのアクションもこれで台無し。芸人と漫画家が真面目な顔をしてフザけているのにそれを楽しまず彼らに仮託しつつ責任を押しつけようとする。なんだかなあ。マジメとフザけの境界が入り乱れた結果、あるいはマジメをフザけた言葉で報じてきた結果、フザけをマジメに取ってしまう人が増えてしまったのかも。芸人もギャグ漫画家もタイヘンだ。

 混んでいるという「ジブリの大博覧会」だけれど、混むに値する内容があるかというと映画のポスターがいっぱいあって、宣伝材料とか関連グッズとかがずらり並んで、懐かしいなあと思わせてくれる一方で、原画とか背景画とかいった作品的な資料についてあまりなく、アニメーションを学ぶ展覧会というよりスタジオジブリの映画の宣伝はこう行われているといったことを知りに行く展覧会。それを見て一般のファンが楽しいかというと微妙ながらも、ジブリだからということで内外から女性も来れば子供も来てカップルも来る。そういうコンテンツになっていたんだなあ、スタジオジブリって。

 だからこそ、そういうコンテンツを護り育んでいくのが大人の責任って奴だけれども、ご存じのとおりにスタジオジブリは開店休業といった状況で、宮崎駿監督は長編からひいてしまってもう出てこず、高畑勲監督も新しい作品を作り出せる年でもない。プロデューサーは外にでて他の作品を手がけている。「レッド・タートル ある島の物語」はジブリが出資か何にかしていたってれっきとした海外のアニメーションであって、それをジブリ映画と言って展覧会に入れてしまって良いかというと微妙。僕たちが見てきたジブリ作品、僕たちが感じてきたジブリ風味、それらをなお継承していく構えのない中で、過去の残滓にすがり、過去の影響を披瀝する展覧会に未来を感じることがなかなかできない。もったいないなといも思う。

 どうしてこんな風になってしまったんだろう、って言えばやっぱり他に新しい監督を作れなかったことか。いやいや「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」の米林宏昌監督はとても上手な監督で、「アリエッティ」はともかく「マーニー」は格段の進歩でジブリらしさが感じられつつ、未来も伺えるアニメーション映画を見せてくれた。ああいった作品を宮崎アニメという文脈に頼らず喧伝しては、大勢の観客を集めてきたのがジブリのプロデューサーだった訳で、それが衰えたからこその解散、ってことになるのかもしれない。クリエーターの次代もプロデューサーの次代も生めなかったというか。それはやっぱり細田守監督のスタジオ地図にも起こることなのか。ずっと一人で作品ごとにチームを組む新海誠さん方式が良いのか。いろいろ考えた展覧会。ポニョの大きな像が半魚人だったのは個人的にナイス。あれが本性なのだから。

 言論であってもそれが明らかに間違っていたり、誰かを誹謗中傷しているものなら訴えられるリスクは当然あるし、そうした誹謗中傷の対象となっているのが、権力という部分では一般の人より相当に高い国会議員であっても、与党の政権にいある者であるとか幹部といった立場でなければ、誹謗中傷に対して振るう権力なんてほとんどなく、だったらと公権力なり司法なりに頼って悪いことではない。その前段階で話し合いが付けば幸いではあるんだけれど、そうでなければ訴え出ることでオープンな場で司法の判断を仰ぐ。それが解決には最善だろう。

 というか、公器と目される新聞紙面において発表された文章ならば、それを言論と認めつつ同じ言論でもって対峙するといったこともアリだろうけれど、個人が開いているSNSなりの場でもって、公器の看板を背負った人間が書いた悪口雑言を言論と認めることは難しい。その一方で、背負った公器の看板が公衆にはある程度の信頼性を持ち伝播力も持って語られていく。これを止めるにはやっぱり国会議員であっても司法を頼らざるを得なかった。そんな理解も出来そうな自称全国紙の人間による参議院議員へのfacebook上での悪口雑言を、議員が名誉毀損だと訴えていた裁判の地裁判決が出て、これはダメだってことが認められた。

 本人を名指しした訳ではないけれど、それと明らかに分かる言い回しでもってあげつらっては、誰かに聞いた話しとして、その人物の過去といった事柄を書いて非難する。受けてその人物に該当する国会議員が事実無根だと言って争った裁判の結果からするに、その文言が誰かを特定することはたやすく、そして書かれた内容が当人とは無関係だったといったことも立証された模様。なおかつ、それが名誉毀損に当たるくらい酷い内容だったということも。結果を受けて国会議員は喜び、負けた全国紙の人間は主張が認められなかったと言ったらしいけど、いったいどんな主張をしていたのかが気にかかる。その人物のことを書いた訳ではないといいうことか。あるいは本当に書いた内容に該当する事態があったということか。

 でも、負けたということはどちらも反論らしい反論が出来なかったんだろう。特定個人の話じゃないという言い訳は、だったら誰のことなんだという話になって別に誹謗が及びかねない。書かれた内容が本当だという言い訳も否定されてなお、立証する新たな材料を出せるとは思えない。どこまで争っても勝ち目には薄い裁判を、それでも続けることが妥当かどうか、って考えるくらいなら最初の段階で謝って言い訳をしていただろう。そこで踏みとどまれなかった問題が、個人に起因するものか所属する集団の習い性なのか。気にはなるけどこの敗訴した人間は、前にもこれは公器の紙上で噂話として虚偽を報じて裁判を起こされ敗訴した経歴があるからなあ。懲りてないというか学んでいないというか。目的のためなら虚偽でも報じてOKってな空気が、周辺に漂っているんだろうなあ。

 というか、例の国際問題になったソウル支局長の一件だって、権力が言論を摘発して刑事裁判として裁く妥当性については無罪とされたものの、その裁判の過程で伝聞を拾いそれが虚偽だと認めつつ虚偽ではないと証明することもしないまま報じて、大統領の名誉に傷が付くような結果を残したてtことが、裁判の上で認められてしまった。控訴しなかったから確定した事実として残っている訳で、そうした体質を一方に抱えつつ言いたいことが言えたからOKだといった空気をバックに英雄として迎え入れられ、講演に執筆に勤しんでいるから何というか。そういう風土にあれば、誰だって嘘でも一発かましてやろうってなるんだろう。また起こるだろうなあ似たような事態。やれやれだ。


【7月26日】 ぼんやりと目を開けて見たテレビに凄まじいニュースが。神奈川県にある障害者の施設に刃物を持った男が侵入しては、入所している人たちを次々に刺していってその時点で15人もの死亡者が出たとのこと。その後増えて19人にまで達し、怪我をしている人も大勢いて、30人殺しの津山事件には及ばずとも戦後で最悪の刺殺事件になってしまった。体や心に障害を抱えていて、身動きもとれず意思表示も難しい人たちを狙った犯行は卑劣にして外道。いくら自身に優生学にも似たような信念があったとしてもその信念を認める訳にはいかず、そうした信念が広まって影響を受ける人が出ることも鑑みて、世間は徹底した弾劾を行うべきだろー。

 そして犯した罪へのつぐないも。心神耗弱が言われているけれど、それはどちらかといえば狂的な信念によって育まれたもので、正常さが間違った方向に伸びた結果のような気がする。だとしたら責任能力はあるし、責任をとることだって覚悟していたのかと思ったら、衆議院議長を相手に出した手紙には自分の行為は認められるべきで、保釈され大金すら与えられて当然といった文言が書いてあったとか。それすらも心神耗弱の結果と言うならそれは違う、やっぱり間違った信念が育まれた結果で、許してはいけないし認めてもいけない。

 ただ、そうしたことへの罪の意識を果たして感じてもらえるようになるのか、といった辺りが難しいところ。それも含めてどういう人物でどういう心理だったのかを突きつめていくことも、同じ過ちが繰り返されないために必要だろー。暗闇の中を迫る足音が次々に刺していき、声もあげられず逃げ出せもしないまま命を奪われていった人の無念を思うと心が痛む。冥福を祈りつつ二度と繰り返されないために何が必要か、今回のように犯行を仄めかすようなことをしていた人物が、チェックされるような体制なりそうした思想を持つに至らないような教育なりを、整えていって欲しいと切に願う。合掌。そして傷ついた人たちの早い快癒を祈念。

 一時、大ブームとなりながらもその後、ちょっぴり潮が引き気味で存在感がないなあと思っていたらケータイ小説。「小説家になろう」とか「エブリスタ」といった投稿サイトの台頭もあって消えてしまっていたのかと思ったら、しっかりと残ってサービスを維持し、新しい作品もどんどんと生み出して存在感を保っていた。渋谷の方でそんなケータイ小説の代表格とも言える「魔法のiらんど」から生まれた作品を表彰する「第9回魔法のiらんど大賞」の発表会があったんでのぞいたら、女子ばかりが何十人も集まっては受賞した作家を祝福しつつ、自分もそんな列に加わりたいって意欲をのぞかせていた。

 というか、本当に女子ばかりで、年齢こそご主人がいたりする世代の人もいればまだ10代の女の子もいたりと幅は広いけれど、それでも女子しかいなかったのは顔を隠して男性が女性として活動するには「魔法のiらんど」は難しい場所なのか、授賞式の参加にそういったレギュレーションがあったからなのか。そういうところで差別するわけではないだろうから今、ケータイ小説というカテゴリーが女子の求める女子のための女子による小説になっていて、だから活動するのもリアル(世代には触れない)女子ということになっているのかも。本当に壮観だった。

 じゃあ小説はどうなっているのか、やっぱりベタベタならラブストーリーばかりなのかというとこれも違っていたようで、小説投稿サイトが異世界転生やら異世界転移ばかりに偏りがち(読者のニーズもあってだろうけど)なのに対して今回、大賞を受賞した花子さんという人の「奇人の頭を叩いてみれば1」(魔法のiらんど文庫)は、なるほどラブコメ系ではあってもキャラクターに癖があって、パターンから少しズラしていあって意外で驚きの展開が待っていて、ついつい読んでいってしまう。横書きに慣れていないにもかかわらず。

 名を戸島彦(としま・ひこ)という女子にしては変わった名前の少女が親の仕事の都合で転入した高校で、挨拶からしてどこか冷静で堅苦しく、とはいえ居丈高でもなく達観した風でクラスをギョッとさせる。思ったことは心に秘めずに言ってしまう性格で、相手から悪口を言われてもそれを受け取り落ち込まず逆に同じだけの批判をして喧嘩両成敗といってのけるような性格が、クラスで嫌われたかというとそうでもなく、ちゃんと友人めいたものも出来たし生徒会長をやっているイケメンからも関心を持たれた。

 そして、クラスでも問題児とされる5人組とも関わるはめに。暴れ出したら抑えが効かないイケメンの礼央という男子を中心に、弟の李央やその友人たちがたむろし全校生徒から恐れられている。退学にならないのは理事長の孫だから。それを嵩に着て暴れ回るということはせず、気に入らないことはやらないといった態度で第2視聴覚室にたむろしている。そこに迷い込んだ戸島彦。ちょうど兄にからかわれるように服をはぎ取られた李央と行き会い、相手が怖い人の一味とは知らず困っているとみて服を探して届けてあげたら慕われた。

 その後、寮に行ったら礼央を含めた一味がいて、彦とは同室らしい詩織という少女が部屋から出てこないのをどうにか誘い出そうとしていたけれど、とりあえずは引き取りそして寮を含めた彦での学校生活が始まっていく。どうやら礼央と李央とは三つ子の妹らしい詩織は、どうして部屋から出てこなくなったのか。その理由が生徒会長にあるらしいと踏んでいる礼央や李央たち。とはいえ確証はなく詩織も話そうとしない。彦は体面はかなったものの嘘をつけないまっすぐさで踏み込んでは、詩織にとってそれが結構なトラウマになっているらしいことを知る。

 一体何があったのか、といった辺りが恋愛が絡むミステリアスなストーリーとして続いていきそうで、そんな展開に妹を思うけれども、乱暴さが抜けない礼央が彦を連れ込み脅迫用の写真を撮ったりして、どうにか画像のデータを取り返して逃げ出そうとする彦との間に悶着が。そこでなぜか礼央の周囲のメンバーが彦に見方をしたのは詩織のことを思い、また彦が口だけではなく行動もまっすぐだということを理解したからなのかもしれない。そういう純粋さがワイルドな礼央を変えて恋愛に、何て行くのが普通のラブコメだけれどどこまでも直情的で野性味に溢れた莫迦な礼央にそういう機微はなさそう。

 ただ、純粋さでは負けない彼と彦とが諍いをしつつ、交わりながら学園で起こす騒動が、誰かを救うことに繋がっていきそうな予感があって、続きを読みたくなる。相手が怖くても臆さず、女子に悪口を言われても辞さずに自分を貫き堂々と反論しつつ相手をやりこめないで同じ土俵で勝負していこうとする彦の言動の痛快さが、弱さに流れたくもなければ強さに溺れたくない女子の間で共感を呼んでいるのかも。190センチの巨体だけれど、心は優しそうで彦に関心を持っている李央がどういう態度を見せ、それに李央がどう絡むかも興味。あともう1人、謹慎中なのか出てこなかったメンバーがどういう人間なのかも。続きはいつ出るかなあ。楽しみだ。

 「ONEPIECE FILM GOLD」をやっと見た、ナミのおっぱいが大きかった。んで物語的にはドフラミンゴを倒したあとではあるけれど、麦わらの一味が全員揃っているから今の連載よりもあとの時間ってことになるのかな、だってドフラミンゴ戦の最中に一味は分裂して、そのままサンジの結婚話まで至っているから。まあそれを言い出したらきっと負けになるだろうから、そんな瞬間がドフラミンゴ戦の直後に平行世界的にあったとうことにしておくか。それとしてニコ・ロビンのおっぱいが大きかった。歳も歳だけれど立派だった。

 そんな麦わらの一味がやってきたのが、全長10キロにも及ぶカジノ船のグラン・テゾーロで、黄金まみれの船をギルド・テゾーロって男が仕切っていて、自身もエンターティナ-として活躍している。その傍にいるカリーナって歌姫のおっぱいも大きかったけれど、どうやらかつてナミの泥棒仲間というか競争相手だったみたいで、それでなのかおっぱいも競い合うようにどっちもとても大きかった。そんなカリーナとともにテゾーロに仕えるバカラという女が迎えに来て、これまた大きなおっぱいを見せてくれて、そんなバカラに誘われカジノで大儲けして最後の勝負、テゾーロ相手の丁半博打でルフィは敗れゾロが捕まり一味は絶体絶命に。

 そこにあらわれたカリーナは胸元が大きく開いたシャツ姿で大きなおっぱいを見せつけつつ、瀬戸際に追い詰められながらもおっぱいは大きかったナミを誘って金庫から金を奪う話を持ちかける。他に道もなく乗ったおっぱいの大きなナミは、計画を立てたものの立ちふさがるおっぱいの大きなバカラに大きなおっぱいをしたニコ・ロビンも含め打つ手なし、ってところで終わらないストーリーの逆転と必死のドラマが実に良い。どうせ麦わら一味が勝つと話わかっていても、そこまでの段取り、そして起伏がうまいなあと思った。

 アクションは前の「ONEPIECE FILM Z」が凄すぎたから「GOLD」にオッと思うようなことはなかったけれど、標準は言ってたし何より意地のつっぱりあいのようなものが満ちていて楽しめた。あと誰にも見せ場があったのも良かった。黄金の牢獄で出会った2投身めいたギャンブラーとかにも。まさか声が北大路欣也さんだとはなあ。どうりでアニメ慣れしてないけれどお上手くて渋い訳だ。そしてサボも登場。あそこにいるってことは革命軍、本部を襲われても無事だったのか。やっぱりその後に本部に帰って襲撃を受けるという時系列なのか。コアラもあれでおっぱい大きいし。今度は参加して競い合って欲しいなあ。


【7月25日】 日本での配信開始から3日経っていろいろと経済だとか観光だとかを変える起爆剤になるって賞賛がわんさかと出ている「ポケモンGO」。ずっと前から存在していたけれどもこれで「AR(拡張現実)」というテクノロジーにも注目が集まり現実に情報を添えて見せるようなサービスがわんさか出てくるかというと、そうも言ってられないような気がしてならないのは案外に「ポケモンGO」がAR、すなわち現実を拡張しているものではないからなのかもしれない。

 だって「ポケモンGO」って地図上の上にその地域への関心とか感謝とかまるで関係成しにモンスターをバラまいてははい、自由に集めてくださいってやっているだけで、例えば寺院だったらいつ頃に立てられどういういわれがあったものか、橋だったらいつ頃作られどういう人たちが使っていたのか、海だったらどういう地域の伝承があったりするのかといったそれぞれの特性属性をまはるぜ結びついておらず、そうした地域地域に存在する“現実”をまるで拡張していない。というより逆にそうした地域を単なるポケモンの狩り場というゲーム上のルールでもって“蹂躙”している。あるいは覆っている。

 とても歴史があって謂われの多い神社仏閣に行ったところで、そこに現れるモンスターが現地の何かと紐付けされているわけではないし、古い建物に現れるモンスターがそこで営まれた人々の行為を代弁している訳ではない。森なら森で川なら川にちなんだモンスターが出てきても、それはいったん、ゲームの上で記号化された川であり森であり海であって、そこに記号的象徴的な川やら海やら森やらにちなんだモンスターが出現するだけ。狩ってふっと見渡して、ああそこはそういう場所だったんだと気付く機会をゲームが与えてくれる訳ではない。そこはだったら気付かせるよう、現地が仕向ければ良いという声もあるだろうけれど、無関係に“蹂躙”してくる現実に乗って現れた無関心な異人たちを相手にいったい何ができる? それでもすべき、という意見も捨てがたいけれど、そういう労力はどこか空しい。

 「ポケモンGO」の母体になっている「Ingress」にだって地域とは無関係にそこをポータルとして設定して誰もがやってきては戦い護っては去って行くようなやりとりがあった。それも当地にとっては迷惑な話だったかもしれないけれど、決して規模が大きくはなかった上に、ゲーム事態が現実の裏側にある別の世界、レイヤーを異にした世界で繰り広げられる侵略者と守護者との戦いという物語をそこに与えて、プレーする者たちに密やかで秘めやかな楽しみを与えていた。変化のない現実と戦争が行われている虚構。その重ね合わせという設定に現実を“侵食”する意図はなく、むしろ共存であり並立といった関係にあった。

 「ポケモンGO」はそこがちょっと違う。明らかに現実とは無関係な設定がなされ、現実に関心を持たない異人たちを招き入れては虚構のゲームによってその値を塗りつぶしていく。ゲームがはやって人数が増えれば増えるほど、そうした覆われる感じは強くなっていくだろう。そういった“浸食”であり“侵略”をSF好きな人間としてはそういう時代が来たんだと、ほくそ笑みながら眺めていたい気持ちはある。一方で厳然として現実に生きていかなければならない人間として、現実にある社会や暮らしや習慣や風俗や歴史や伝統や空気感を無視して蔑ろにしてしまいかねないそのパワーには畏怖すら覚える。そんな「ポケモンGO」をARの手本だとか、地域振興の起爆剤だと言っちゃいけないような気がするんだけれど、気のせいかなあ。柚ちゃんなら「気のせいじゃありません」って言ってくれるかなあ。

 そして気がついたらジェフユナイテッド市原・千葉の関塚隆監督が解任されていた。J2で昇格圏内にいるどころか9位に低迷していて今年もすでに昇格は無理目感が漂っていいるから仕方が無いといえば言えるんだけれど、去年の段階でチームを立て直して守備的に固く攻撃的に整った形に出来る感じじゃないと分かった時点で、選手を揃えるなり育成に絞るなりできなかったものかと思わないでもない。それは監督の責任というよりチームを預かるゼネラルマネジャーの責任だろう。与えられた戦力を育てながら強くなっていくタイプの監督でもないからなあ、関塚さん。

 そんな感じにJ2で低迷している監督が解任される一方でJ1で降格圏に落ちて13戦勝ち星無しの小倉隆史監督は名古屋グランパスによって護られているという不思議。ここで変えても変わらないという判断もあるんだろうなあ。落ちてそこから這い上がる覚悟があるのかな。でもチーム力が下がっている中での降格は育成して戦術を徹底させて昇格から即上位進出とはいかないことは、ジェフ千葉や東京ヴェルディを観ていれば分かること。落ちたまんま上がれずJ2の中で上がったり下がったりし続けるチームになってしまいかねないだけに、早めの対策をして頂きたいところ。まあ千葉で名古屋の試合を観られるのも嬉しいっちゃあ嬉しいんだけれど。

 中笈木六というか、由麻角高介といったペンネームがふっとのぞく気がした神野オキナさんの最新作となる「リラム〜密偵の無輪者〜」(ノベルゼロ)。冒頭からとある国へと和平の考証に向かう船に乗った使者の護衛のサムライたちが、25人もまとめてシノビたちによって消されて和平に暗雲がたちこめ、そしてヒノモトというサムライたちの国から亡命していた第三王子が、亡命先の館に攻めてきた刺客を退け彼に忠誠を誓う北方の美女も敵を蹴散らし、駆けつけた王女のような立場の少女を巻き込んであれやこれやし始める。

 房中術という名のそれやこれやで王子は王女を喜ばせつつ精気を送って食を太くさせて病弱から救いつつ、居続けたその国に和平を持ちかけつつ戦争を仕掛けようとする謀略に王子は時に武芸、時に料理で立ち向かうというストーリー。女装もします。そんな世界の人々の行為を金に換算して表示するコンピューターみたいな機械が存在して、経済的な損得からすべての行動が決定されるという、ある意味で合理的な設定もありつつ、それを覆すような戦争で世界を転がす方がより儲かるといった悪魔的なささやきが裏で飛び交い人心を惑わし始めている。表面上で繰り広げられる激しいバトルと、背景にある世界を動かす何者かの思惑。それがこの作品を分厚く奥深いものにしている。

 もちろんシノビの徹底した戦いぶりは凄まじく、捉えられて拷問を受けた者が辿る運命も悲惨きわまりない。そうしたアクションがありバイオレンスもある一方で、かつて敵だったものを従えた北方美女と王子との関係も見せつつ、中笈作品で由麻門作品と言えばな両性具有も混じってあれやこれやな描写もたっぷり。主人公の立場は未だ不安定で世界は謀略にさらされ、ハーレムは現在進行形で作られていく展開はさらなる続きを必要としているので、神野オキナさんには是非に続きを描いてほしいもの。世界を陰から動かそうとしている存在と、主人公との因縁なんかも気になるし。いずれにしてもラブコメチックなものが中心になったライトノベルのレーベルでは出せない作品かも。ノベルゼロ、踏み込んだなあ。


【7月24日】 金曜日の深夜というか土曜日の早朝に目が覚めてテレビを付けたら「フォーミュラE」ってのをやっていた。それは電気で走るフォーミュラカーのレースで、見た目からしてF1マシンの小型版といったものがちょい狭いコースをギュンギュンと走って競い合う。結構なスピードも出ているようでコースの狭さとマシンの小ささもあってかGTマシンなんかよりも速度が出ているようにすら感じられる。調べると最高速は時速225キロメートル以下に抑えられているうというから、それが最高ではなくても200キロくらい出ている場面もあるんだろうか。いずれにしても電気自動車だからといって公演のゴーカートみたいな感じでは全然ない。どちらかといえば電池で走るミニ4駆くらいのスピード感、ってそれはちょっと速過ぎか。

 そんなマシンを駆るドライバーの名前にプロストがいてセナがいる。いったいどういうことかと調べたら、プロストはプロストでもニコラ・プロストでアラン・プロストの子供らしくセナの方はアイルトン・セナの甥っ子のブルーノ・セナで、そんな2人がいつかの因縁を消すかのように同じコースを走っている。まあこの2人には因縁はないんだけれどもアラン・プロストとアイルトン・セナといえば、幾度にも渡ってF1グランプリでの勝利を競い合い、そのためにつばぜり合いまで演じた関係。とりわけ1990年の日本グランプリでは、最初のコーナーで先に出たプロストのインを強引にセナがつくような形になって接触して2台とも止まり、それでセナの年間チャンピオンが決まった。

 自爆によってタイトルをもぎ取ったと非難されたセナ。確執はしばらく続いたけれおdも1993年のシーズンにプロストがウィリアムズで年間チャンピオンに輝きセナから祝福されてわだかまりは解消されたと思った翌年、セナがサンマリノで事故死。その直前に無線で会話までしたというから2人は頂点を極めた者たちとして、反目しつつもわかり合っていたんだろう。そんな2人の血筋にあたる2人が同じレースで競い当ているというのは、古いF1のファンにとっては涙ものだけれど残念ながら2人は年間チャンピオンを争う立場にはなくて、別の2人がファーストシーズンとなった前年と同様、年間チャンピオンの座を競い合っていた、そんな最終戦にとんでもないことが起こった。

 優勝を争っていたセバスチャン・ブエミとルーカス・ディ・グラッシが接触、というかブエミが1コーナーに入ろうとするところにディ・グラッシが突っ込みブエミはリアウイングが取れディ・グラッシは前輪が歪んでしまうという大破を被った。まさにセナプロ対決の再来。解説をしていた人たちも古手のF1ファンなり関係者が多いだけに、何てことあと苦笑交じりに話してた。ただ、これがF1だったらそこで終わってポイントか、あるいはこれまでの順位の差なんかで優勝が決まることろなんだけれどユニークなレギュレーションを持っているフォーミュラEは、ここから展開が大きく違ってくる。

 燃料となる電池に限界があるため、フォーミュラEでは途中でマシンを乗り換えることが義務づけられていて、そのためにもう1台がピットに用意されている。だからリアウイングが壊れても前輪が歪んでも、走り続けてピットに辿り着いてレースを再開できるんだけれど大きくロスしたタイムでは、ポイント圏内に入ることは難しい。でも降りない。なぜならフォーミュラEにはもう1つ、F1なんかと違ったところがあるから。ファステストラップをたたき出すとポイントがもらえるという。なんとまあ。だからブエミもディ・グラッシも、そのポイントを狙って今度はどれだけコースを早く走れるかを競い合うことになる。

 それさえ得られればリタイアしたって構わないというレースを果たしてレースと呼べるのか、タイムアタックに出る予選を決勝の舞台で2台だけがやっているだけじゃないか、なんてことも解説の人たちが話して苦笑していたけれど、それでもコースに出ると遅い車が走っていたりしてうまくいかないのが難しいところ。そういった紆余曲折も含めていろいろな角度から楽しめるってところで、フォーミュラEはもしかしたら今のF1なんかよりも面白いかもって思えてきた。レース自体、抜きどころがあまりないし、ワンメイクだから大きなパワーの差も出ない。それでもちょっとづつ生まれる技術の差でありドライバーの差が生むレースの機微を楽しめる。F1が地上波から消えてBSですら放送されない状況に寂しさを覚えていたけれど、フォーミュラEを観ればその寂しさも埋められさらに大きな興味も得られる。そう分かった以上は来シーズン、また放送があれば今度は最初から観ていこう。日本人レーサーとかも参加すれば良いのに。チームアグリが撤退したんだから代わりに日本のファクトリーが入っても良いんじゃないかあ。

 早起きをして幕張メッセの「ワンダーフェスティバル2016[夏]」へ。とりあえず中に入ってプレスの待機場所のそばで準備をしていた本の雑誌社による「水玉螢之丞作品集 ワンフェスのワンダちゃん」の販売ブースを訪ねて編者のさいとうよしこさんとかが巨大な看板に帯を巻くのを見物。本を模した看板だけれど板じゃなくって立体的に造形してきたところがさすがは世界の造形会社、海洋堂。長く貢献してくれたことに感謝してか、自社の本でもないのにこうして本の模型のそれも巨大なのとちょっと巨大なのを2つも作って差し入れてきた。こういうところが海洋堂の造形魂って奴なんだろう。

 それだけに冬のワンフェスで、一般向けのカタログの表紙絵がちょっぴりエッチなワンダちゃんフィギュアの本絵になったことに非難が集まったけれど、この夏のカタログで釈明していて模型として売りたい、そして模型の楽しさを知って欲しいという意識から作ったものを、トップに持って来るのは当然だといった主張をしていた。それもまた真理なだけに判断には迷うところ。水玉さん絵のワンダちゃんのマークを外したのも、ワンフェスでもって追悼の展示もして一段落して、それで祭り上げるようなことをしてはかえって水玉さんが望んでいないとその性格を鑑みて配慮したからとも書いていた。問われればちゃんと説明して了解を求めるかたくなさが、ワンフェスをなれ合いではなくガチの模型による勝負の場へと換え、今なお版権元から信頼されて続くイベントにしたんだろうなあ。

 そんな「ワンフェスのワンダちゃん」の本は後回しにして午前10時の開場とともにグッドスマイルカンパニーとかセガインタラクティブとかコトブキヤとか海洋堂とかもろもろのブースを取材して回る。とりあえず今なお「艦隊これくしょん−艦これ−」の人気は根強いようでどこのブースにも写真を撮る人で長い行列が出来ていた。映画もあるしアーケード版も始まって盛り上がって艦娘への関心が萎えていなんだろうなあ。あとは改二とか新しい造形も出てきてそれをフィギュアにしていくことで2度3度と盛り上げていけるから。同様に「刀剣乱舞 ONLINE」も人気があってこちらは女子のカメラ娘による行列が出来ていた。夏のコミケでは徳川美術館が企業ブースに出るけどこれも、所蔵している刀剣男子になってる刀剣のPRを兼ねられるからかな。1年以上が経っても続くタイトル。「ポケモンGO」はそうなれるのか。

 月曜日に見に行ったSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016が終わったみたいで、コンペティション部門の受賞作品も発表された感じ。アニメーション部門しか観てないけれども長編短編には海外からの参加もあって本当に国際なんだなあと思った。アニメーションはそのあたり、海外からの参加ってどうなっているんだろう。来たらやっぱりそっちが勝ってしまうのか。というかグランプリに輝いた「こんぷれっくす×コンプレックス」のふくだみゆき監督は、すでに実写も含めて活躍している人だけれど、奨励賞の2作、円香さんの「愛のかかと」も里見朝希さんの「わたしだけみて」もどちらも大学院なり大学の卒業制作だったりする。

 他のノミネート作品にもそうした卒業制作が割とあって、卒業後にも恒常的に作り続けている人、って小野ハナさん水江未来さんといったあたりだっけ、見渡してそんなにいないのだった。今回は入っていないけれど、卒業後もずっと活躍している印象があるシシヤマザキさんは、短編アニメーションとしての作品作りをしているって感じじゃ無いからなあ。つまりは卒業制作という一種の楽天地でないと、世界に対して戦っていける作品は作れないのか、といった問題がここにも立ちふさがる。同じ国際規模の短編アニメーションのコンペティションとして、TBSがやってるDigiCon6 ASIAっていうのがあって、そこ に集まるアジア各国の短編アニメーションの凄さとか観ていると、どれも質が高くて、それがどういうバジェットでどんな座組によって作られているかが気になるのだった。

 卒業制作というある意味で別天地からの応募ではないとしたらどういう人が何を目的に作っているのか。それは日本にも適用可能な仕組みなのか。ベルリン映画祭で準グランプリに当たる銀熊賞をとった和田淳さんだって、新作を世に出すのは大変そうだし世界のアニメーション映画祭を総なめにしている山村浩二さんだって、新作を出すまでに結構苦労している。それが観られる環境もなかなかない。そういう状況を変えようとして頑張っている人がいるんだけれど、なかなか成果が見えてこない。ネット時代、自由に誰もが映像を発信できるようになって、これで短編映画なり短編アニメーションに一気に市場が生まれるはずとか期待していた時期もあったけれど、観る側に観ようとする気概が育まれず、そこにお金を出そうとする意識が満ちない状況はどうやったら変えられるのか。なんてことを考えたのだった。受賞した作品はどれも傑作なので受賞は当然なのだけれど、それに匹敵する作品を誰もがずっと作り続けること、それなくしては文化の豊穣はないのだよ。


【7月23日】 プレイステーション2の発売日に秋葉原の早朝、どこの店にも大行列が出来て秋葉原という街の風景が一変していたことはあったけれど、それは過去にも小規模であったことだし後にもやっぱり存在した。なおかつ風景が変わったのはそのひとときだけで日中から翌日翌々日と続くこともなかった。それが「ポケモンGO」ではまったく違う。提供が日本で始まってから2日目の秋葉原。万世橋の上にいつもだったら外国人が、流れる黒い川を見下ろしていたり、古めかしい欄干に興味を持って眺めていたり、上を走る電車との構図に感嘆していたりといった風景しか見られない。

 それが、今日は欄干を世にして何人もの人が手にスマートフォンを持って立ち、なにやら操作をし続けていた。普段は秋葉原になんて来そうもないカップルもいて内心、リア充爆発しろといった声もあちこちから飛んでいたかもしれないけれど、そんな人でも秋葉原に集めてしまう「ポケモンGO」というゲームの機動力、動員力にはやっぱり今は頭が下がる。他の普段は誰もいない場所にも大勢が集まり、夜になってもたむろする人たちが現れているとか。狙って強盗その他が現れないかが今は心配ではあるけれど、数がまだいるうちは大丈夫だろう。もうちょっと経って落ち着いてから、いったいどんなプレースタイルになっているか。そこに興味が向く。

 集めるゲームは得てして集める過程に気分は高まっても、ある程度集め終わった時にどこか気が抜けて続ける意味を見失ってしまう。だったらといってレアなキャラをどこかに潜ませるなりしたところで、それを探してやり続けるだけの気分を抱き続けられるかどうか。それだけの“価値”をプレーに見いだせるかどうか、ってあたりが人気キャラクターに誘われて、半ばブームに気持ちを押されてプレーしている人たちのこれからを決めそう。課金してでもレアキャラを集め切る意味はあるのか。というかそういうスタイルのゲームをナイアンティックはともかくポケモンと任天堂は認めるのか。そうなった時に架空のゲームが現実になって浮かれている気持ちが萎えないのか、等々。

 「Ingress」が求道者たちによって自分はそこまで行った、どこまでも行くといった自賛の気概に支えられ、そして周囲にそうした気概を讃える風潮もあってプレーしている人は今もずっと続けている。そうした人たちの足が作り上げたポータルでありマップといったものを流用して形作られている「ポケモンGO」だけれど、そこから先の充実を招くだけの求道者を誘い込めるものなのか。見渡して周囲に誰もやっている人がいなくなり、いい加減図鑑も埋まってそれでもトレンドの逆風にさらされることなく、歩き続けられるかといった辺りから、どうなるのかをちょっと考えてみたくなる。1カ月後、万世橋の上にどれだけの人がいるかを、とりあえずは見極めよう。

 しかしなあ、こういうところにジャーナリズムを守り続けようとする気概と、バイラル化して瞬間の利益を稼ぐ方に傾く気分との差が出るんだろうなあ。「ポケモンGO」で自民党の党本部が「永遠の与党」といった説明になっているという話、「Ingress」をやっていた人はすぐに誰かがそういう説明を着けたんだね、って分かって「Ingress」の“資産”を流用して立ち上げた「ポケモンGO」の立ち位置とその課題めいたものに話を向けていく。分からなくてもいったいどうして、ってなれば調べてそうかと思う。そうした探求こそがジャーナリズムであり、世界のもつれを解きほぐすことに繋がると分かっているから朝日新聞はちゃんと調べて書いて、今後の対応についても言及した。

 でもそうした取材力を持たず、というより人はいても取材現場に張り付かせるだけのお金がもうあまり残ってなさそうな自称全国紙は椅子に座ってパソコンを立ち上げそこでの噂話やまとめを見ながら受けそうなネタを拾い集めて記事に仕立てて一丁上がり、といった感じにならざるを得ない。自民党本部が「永遠の与党」となっている、って騒動があればそれイケるといった具合に引っ張ってきて民主党が嘆いていると話を広げて、政治的ゴシップにするけれど、でもいったいどうして「永遠の与党」だなんてことになっている? という疑問には答えない。

 そんな記事を、というかまとめサイト的文章を読んで人が思うのは、「ポケモン」は任天堂(本当はポケモンであり「ポケモンGO」はナイアンティックだけど)という図式から何考えているんだといった批判。違う「Ingress」勢の遊びだと言わないまま、無実の罪を着せて構わない姿勢はちょっと拙いんだけれど、そういう意識も今はないんだろう。稼げれば勝ち。だから海外のメディアから噂話を集めてまとめて一丁上がり、なんて記事も載る。これならまだ、自分の足でプレーしてその面白さを実況する方はよほどか増し。目で見えた世界から感じることもあるだろうから。とはいえこの騒動に乗ろうと遊んで終わりなのもまた問題か、日頃から歩いて街で本当に問題になっていることが、アクセス稼げないと没にされる可能性を示している訳だから。貧すれば鈍する。それが真理ってことで。やれやれだぜ。

 午前中に起きられたのでいえやっと川崎市民ミュージアムへと向かって「『描く』マンガ展 〜名作を生む画技に迫る―描線・コマ・キャラ〜」を見る。大分から始まって高崎だとか豊橋だとかに巡回しているけれど、見に行く機会がなかなかなかったのがようやく首都圏の行き慣れた場所に来てこれは行かないわけにはいかない。でもって到着した会場にいきなり飾られた、石ノ森章太郎さんによる手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の原稿というレアあのか奇跡なのか分からないような原稿。よく新人に描かせていたそうだけれど、それでそっくりに描いてしまうところが石ノ森さんの凄さなのかもしれない。それでも見る人が見れば違っているらしいのも驚き。切り取られたコマが構成し直された漫画に貼り付けられているのは手塚さんがその画を認めていたことと、そして常に描き直しをしていたことの現れか。やっぱり神様。

 竹宮恵子さんのずらりと並んだ作品はやっぱり美しく目にも豪華だったけれど、気になったのは陸奥A子さんの作品で漫画的劇画的物語的な雰囲気を醸し出すそれまでの漫画から一変して細い線で柔らかくそして軽やかにキャラクターを描いてほわっとした雰囲気を作り出す。美麗ではなくところどころ肩の力が抜けたようにほげらっとした顔立ちになるキャラクター。その親しみやすさがパッと明るい笑顔になった問いに盛り上がりを読んで目を離さない。こういう辺りがあるいは1980年代のほわっとしたラブコメの文脈を生んでいったのかもしれない。かがみ・あきらさんとかもろ、陸奥A子さんのトーンの影響を受けているしさえぐさじゅんさんも絵柄的に似た雰囲気。そんな2人も含めたあの時代のフォロワーたちが、美少女漫画誌やアニパロ誌で活躍して作った空気が今の漫画やアニメーションにも影響を与えているとしたら、その源流としての陸奥A子さんをもっと知る必要があるかもしれない。読み返してみるかなあ。

 そんな演劇が京都でずっとロングランされているとは知らなかった「GEAR」。セリフがなくパフォーマーやマジシャンや諸々の人たちが体と仕草でもって描いていく物語から醸し出されるSF的ファンタジー的な世界観を、言葉にしようと考えた人がいて文章を菅浩江さん、絵を山田章博さんが手がけた「GEAR Anotehr Day 五色の輪舞」という本が出て、そのサイン会が横浜であったんで川崎から回って参加。たぶん久々に見かける菅さんとどこかで見てはいるんだろうけど話したことはない山田さんというSF的ファンタジー的に神がかっている2人からサインを頂けたのはまずもって僥倖。中身はまだ読んでないけど読めばきっとみたくなるんだろうなあ、演劇も。そうだ京都に行こう。いつ? それが問題か。暇ならあるが、金がない。


【7月22日】 お姉様などと慕ったふりをしてミラーサは、雪姫にそっくりなムエッタと共に国連の黒部研究所に侵入を果たし、柩石の存在を確認してから手柄を独り占めしようとしてムエッタを刺して黒部ダムの底へ。生きているかどうかは分からないけど大気圏からだって飛び込んで来られるスーツを着込んでいるんだから、ダムに落ちたくらいで死ぬようなことはないだろうとは思うけど、その衝撃で過去の記憶を取り戻し、青馬剣之介時貞との関係も蘇って2人でクロムクロに載り敵と戦おうとするのかそれとも、時姫からはきっと遠い子孫になるんだろう白羽由希奈に全てを任せて、敵との戦いを見守るのか。いろいろ案は浮かぶけれどもどれが正解で間違いでも、予想できない展開になりそうなんで期待して見ていこう「クロムクロ」。ソフィー・ノエルは止まってくれるのかなあ。

 信州大学に通う巾上岳雪は、バイト先にいた成績不振の女子高生、矢諸千曲の家庭教師をやることになって彼女をとりあえず信州大学に入れるA判定の成績にすることを至上命題とし、それが出来なければ辞めると言ったというか、内心ではとっとと辞めたくで無理な条件を出したといった感じだったけれどもそんな家庭教師の果てに模試が有り、結果も出たらしいのでそれを聞こうとしたらなかなか話さない千曲。そして2人でなぜか松本城へと行き、天守閣に昇っていたところで地震が起こって天守が崩れ落ちたような感覚を味わい、気がつくと松本城の天守閣にいた。着物姿にちょんまげ頭で。

 時は1686年。鈴木伊織という松本藩の武士に自分が重なって、巾上としての記憶はもちろん鈴木伊織という武士の知識なんかも持った状態で目覚めた巾上は、松本城に伝わる二十六夜神伝説の主ともいえる神様の姫がそこにいて、それが鈴木伊織になった巾上とは違って、セーラー服のままで飛んできた千曲だと知る。そして伝説で二十六夜神様に供えられるはずの餅が来ず、なおかつちょうどその時代に起こった貞享義民で多田加介とう名の農民が立ちあがっては退けられ、磔にされながら年貢を下げて欲しいという願いを込めて「二斗五升!」と叫びその声が、松本城を傾かせたという伝説の現場にも居合わせる。

 どうせだったら止めたいと願い、鈴木伊織がそのために奔走しながら馬が倒れて藩主の減免の許可を伝えられずに加介を処刑させてしまった歴史上の出来事も変えたいと願いながらも巾上の奮闘はかなわず、歴史通りにおしゅんという名の16歳の少女も含めて大勢が磔になり獄門になってそして「二斗五升!」の声は起こって松本城は崩壊する。それに巻き込まれたはずの鈴木伊織=巾上が目覚めると今度は明治の世にいて着物にちょんまげ姿で、そしてまた過去に戻って貞享義民をどう抑えるかを模索するくり返し。タイムスリップからのタイムリープで起きてしまった悲劇を止めようとあがく物語ならよくあって、最近でも辻村七子さん「螺旋時空のラビリンス」がそんな話だったけど、この六冬和生さんの「松本城、起つ」(早川書房)はそんな自力の努力で時間の壁に挑み突破するような話にはならない。

 得体の知れない宇宙人だか異次元人だか超越者だか何かが蛾のような格好で天守閣に現れ血栓を除去して血の流れをスムーズにするような医療行為を時間に対してしているような会話が繰り広げられる。時間ならぬ時管が詰まった先は腐って滅びてしまうといった説明。そして時様体を持ってきては新しい時間につなごうとかいった差配の中に巻き込まれ、マーカーとして21世紀から17世紀へと巾上や千曲は連れてこられたらしい。そして他の何人かも。そんな彼ら彼女たちが蛾のような何かの思惑を強制されるといった感じでもなく、自信でどうにか突破しようとあがくものの上手くいかない積み重ねが、人間というものの小ささであり限界めいたものを感じさせる。時間は人間には荷が重いのかもしれない。

 それでも可能な限りあがいて動いて走り回って加介やおしゅんちゃんたちに課せられた運命を変えようとする鈴木伊織や千曲たち。どうしても行き違ってしまう様子にどうして気付かないんだよと言いたくなるけど、神様のようなポジションにある千曲とは違って鈴木伊織は一介の武士で無茶は出来ず能力もない。そんな身でも足掻きのけた結果、ちょっとだけ世界が動いて幸せのようなビジョンが見えてくるにつけ、諦めないで続けることは悪くないと思えて来る。タイムパラドックスに挑むとか時間の牢獄を突破するとかいった過去に類例がある話とは違い、また現代人が過去にいってチートする話とも違った、狭い範囲、歴史を壊さない中で最前を願う者の頑張りを描き、その有りように共感を誘う物語。松本城、見に行きたくなってきた。

 お台場といったら既にナムコがダイバーシティ東京に「VR ZONE」を設置して、居ながらにしてロボットを操りスキーで滑降し高所でネコを助けるアトラクションを登場させて、VRの聖地と化しつつあるけれども、それとはまた違ったVRの楽しさを味わえるアトラクションがセガ・ライブクリエイションの運営する「東京ジョイポリス」に登場。その名も「ZERO LATENCY VR」は何もない空間がVRヘッドマウントディスプレイを着けるとゾンビに攻め込まれる廃墟となり、プレーヤーはそこで手に銃を持って動き回りながらゾンビを相手に戦い救出ポイントを護ることになる。

 つまりは自在。どこでもって訳ではないけれど、自分が行きたい場所へと右へ左へ前へ後ろへと移動し、ぐるりと見渡しながら迫ってくるゾンビを相手に撃ちまくれる。操作によって2階へと上がることも可能で、その時に傍目にはずっと止まったままなのに、VRヘッドマウントディスプレイを着けている身にはエレベーターに乗って上へと上がり、さっきまでいたフィールドを見下ろすような格好でゾンビを狙撃しまくることができる。一緒にプレーできる6人が、コンビネーションをとりながら前や後ろを警戒し、そして何人かが上に上がって狙撃をしてゾンビを撃退するような、チームプレーも可能なゲーム。これは据え置き型で装置によって動きを感じさせるVRでは味わえない楽しさだ。

 もちろん「VR ZONE」にあるVRはどれも素晴らしくって、ちょっとした可動の調整によって人間の体はいとも簡単に騙され重力を感じては、居ながらにして加速と滑空の世界に身を委ねることができる。そうした体験は「ZERO LATENCY VR」では出来ないけれども代わりに自在性があり、チーム制があってその空間をまったく別の場所にして、それでいて実際の空間を存分に使った遊びを楽しめる。サバイバルゲームのビジョンに「アクセルワールド」の加速世界を重ねたような感じ? まああそこまで世界全体が追われている訳でなく、室内がせいぜいだけれどいずれマーカーが全世界に埋め込まれ、位置情報とか映像情報と結びついて世界中のあらゆる場所が「ZERO LATENCY VR」のフィールドになる可能性だってある。そうなった時、、「ポケモンGO」とはまた違ったARであり加速世界でありVRの遊びが登場して、僕たちを現実と重なった別の世界へと誘ってくれるだろう。そうした近未来のビジョンを感じられるゲーム。やれば分かる未来の遊びと社会のあり方が。


【7月21日】 新シリーズを見る気力が湧かない中で、続きならだいたい世界観も分かっているからと「アクティヴレイド −機動強襲室第八係− 2nd」を見たらメンバーに異動があって主役の片割れだった瀬名颯一郎が名古屋の清掃会社の社長になっていたけれど、優柔不断なんか体より頭が先に動くパターンなのかボンヤリとした立場にいるところを、下にいる専務のアビゲイル・マルチネスが仕切って会社はとりあえず順調そう。だったら居場所があるのかないのか、不透明な中で起こった東京での事件い呼ばれ民間からの協力という形で復帰し相変わらずの腕前を見せていた。

 ダイハチの内偵といった役割だったものがだんだんと仲間になっていった花咲里あさみは大阪に行ってダイクの創設に関わり派手な踊りでアピールしていたけれどもなぜか途中で出てきた時は、清水の舞台でゲラゲラ笑っていただけでいったいどうしたものか。意味不明ではあるものの登場しているならいずれダイハチと重なることもあるんだろう。そうした旧メンバーに加えて美少女が登場、名をエミリア・エデルマンという金髪さんはポーランド警察からの出向らしいけれども過去、ウィルウェアが解除できずに閉じ込められた経験から、長くウィルウェアを着られないポンコツになっていた。

 そんな人をどーして寄越すかなあ。それも謎だけれどとりあえず瀬名とそれから主人公の黒騎猛の導きによってどーにか立ち直っていくんだろう。さらにもう1人のポンコツが。鏑木まりもは視線恐怖症の気があるらしく直接他人の顔が見られない。ゴーグルを着けてAR的に人間の目線を塗りつぶせばどうにか立ち直るけれど、勇んでゴーグルを外すととたんにへなちょこになってしまうところがやっぱりポンコツ。東京を救い日本を救った英雄な割には人材、集まらないのかなあ。脳に別人格をしみこませる技術をちょっと使われ大丈夫そうだったけれど猛に影響も残ってそう。そんな伏線をこなしながら東京を狙う勢力との戦いが続いていくのか。見ていてお気楽な作品だけにこれは楽しく見ていけそう。

 「人生に、文学を。」問題は尾を引いてあちらこちらのネットメディアが主体の日本文学振興会に突っ込みを入れているけれど、どうにも糠に釘というか危機感が薄いというか、まさかそう取られるとは思わなかったなんて迂闊なコメントを出しては、文学なら想像力を養えて人生が豊かになるぜっていった趣旨を繰り出していながらも、まるで想像力が欠けていてそれでよくまあ日本文学振興会を名乗っていられるなあ、なんて突っ込みを受けていたりする。アニメを莫迦にするつもりはなくて、想像力を養わせるって意味でアニメもあるけどそれだけじゃなく文学にも興味を持ってよって趣旨だった、なんて言い訳しているけれど、だったら下に続く文章は何んなんだってすぐさま言われそう。

 なぜって本文ではこう書かれている。「読むとは想像すること」で、「想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない」「想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない」。つまりは読むことが最上位。それも文学を読むことを欠いては人生なんて想像できないだろってことを言っている訳で、そこにアニメが入り込む余地なんてさらさらない。まあこれが仮に単に(アニメか?)って部分で終わっていたとしても、アニメで想像するのかお前らって話になって、それも余計なお世話で何が悪いかって憤りを呼ぶ。加えてああいった矛盾しか感じられない言い訳が出てくると、本当に事態の厄介さを分かっているのかって話になってくる。改善策は考えているみたいだけれど、それなら直木賞と芥川賞の宣伝でしかない部分も変えて、文学全体に広げなければ巻き込まれた形でアニメや漫画のワルクチを言ってしまった形になってる他の文学関係出版社も納得しないだろう。どうなるか。どうもならないかなあ、そんな危機感があればそもそもあんなキャンペーンなんか始めないだろうし。やれやれ。

 そんな芸術のランク付け競争が今も残る日本とは違って芸術の都パリにあるルーヴル美術館はさすがというか。漫画とそれからバンド・デシネを展示するルーヴル美術館特別展「ルーヴルNo.9 〜漫画、9番目の芸術〜」が7月22日から六本木にある森アーツセンターギャラリーで始まるんだけれど、その内覧会に登場した出版制作局副部長で展覧会の総監修を務めたファブリス・ドゥアールさんは「芸術に序列はない。芸術はただ単に芸術なのだ」と言って漫画も堂々と展示して憚らない気概ってものを示している。漫画が展覧会に出展されるようになってずいぶんと経つ日本だけれど、どこかに漫画を他の芸術とすりあわせて文学性だとか画力だとかいった部分で善し悪しを決め、だから展示して良いんだといった言い訳をしようと身構えている部分がある。

 送り手にそんな意識はなくても受け手にまだ残る以上、説得の言葉として用意しておかなくちゃってことなのかもしれない。でも、ルーヴルではもう漫画は芸術なんだから他に理由なんていらないよ、っていったコンセンサスがとれている。あるいは内部にあったとしてもそういう言い訳をせずとも他の芸術と並べて恥じ入らないだけの覚悟はできている。そこが面白い。まあルーヴルってのは元からそういうところがあって「常に生きている。進化し続けている」というドゥアールさんの言葉にもあるように、コンテンポラリーも平気で受け入れそれを吸収して言っている。大騒ぎになったピラミッドだってもはやないと寂しいランドスケープになった。今はまだ外部に違和感をもって捉えてられている漫画も、やがてあって不思議はないものになっていくんだろう。『モナリザ』の横にバンド・デシネ。『サモトラケのニケ』の横に漫画。そんな感じ、ってそれはないか、時代が違いすぎるから。

 まあでも「物語絵画、連続絵画と呼ばれる芸術の伝統の古い歴史があって、バンドデシネの作者たちはその流れを引き継いだ担い手だ。BDの作者はラファエロやルーベンスだ」とまで言ってしまうからそうした19世紀絵画の横にバンド・デシネが並んでも不思議はないかも。「もしもブリューゲルやミケランジェロが現代に生きていたら、きっとバンド・デシネを描いていただろう。芸術として絵を描く作業は同じだから」。聞いて嫌々漫画はもっと別のスキルがいるから一緒にしないでという声も上がるかも知れないけれど、とりあえずは歴史的とされている画家たちとフラットに漫画家たちを捉えていることは分かる。だからこうしたルーヴル美術館の紹介するような漫画を描いてと漫画家たちに頼み、それがこんな展覧会になるんだろう。フランスって凄いなあ。日本でこういうことは出来るかなあ。

 そんな展示ではやっぱりエンキ・ビラルの絵に目が向いたかなあ、「ティコムーン」って映画を観たのはもう20年近く前になるけれど、その立体感のある塗りと独特のビジョン、そして何よりキャラクターの顔立ちが好きでずっと意識していた。そんなエンキ・ビラルの絵を間近に見られるんだからこれは凄い。あと作品ではヤマザキマリさんの「美術館のパルミラ」にちょっと感動。シリアにあって長く親しまれてきたパルミラ遺跡が内戦の中、ISによって破壊されて遺跡をずっと調査してきた考古学者も殺害されてしまった。その思いをシリアに暮らしたことあある自分の使命だと筆を取り、パルミラの遺跡を描き今ルーヴルに行けばパルミラの遺跡の一部を見られることを紹介して、ルーヴルが持つ多様性を称揚していた。機を見て敏に描き、義を見てしっかりと成す漫画家。やっぱりヤマザキマリさんは強いなあ。


【7月20日】 しばらく前の永六輔さんに続いて大橋巨泉さんの訃報が入ってまた1人、昭和を感じさせるテレビタレントが去って行った。見送る黒柳徹子さんの心痛やいかに、って感じでそれこそ「トットちゃんねる」で最終回に繰り広げられた森繁久彌さんとのやりとりを、黒柳さんに置き換えて通じる時代になったのかもしれない。また1人。そしてまた1人。とはいえそうした心痛にくじけるトットちゃんでもなく今を謳歌し未来に言葉を伝えていくんだろうなあ、そこが男性と女性の違いでもあるのかな、どうなのかな。

 大橋巨泉さんといえばだいたいの人が「クイズダービー」の司会だろうけど僕らの世代だと、そしてもうちょっと上だと深夜の「11PM」で洒脱な司会を務めていたおじさんといったところ。火曜日と木曜日に大阪から関西なのに洒落た雰囲気で語りかけてくる藤本義一さんと、比べて下品かもなあとは思ったけれどもそれが古都としての大阪の美学であり、新興の東京の賑やかさでもあったんだろう。今は逆転してしまったというか、東京が下品さすら失って沈んでいる。もしも大橋さんがいれば……って考えても詮無いか、そこに居場所がないからこそ、身を引いたんだろうから。

 「ギミア・ぶれいく」でのワイドショー的ではあってもオリジナリティを心がけた企画で新鮮な驚きを与えてくれた? って実はほとんど内容覚えてない。覚えているのはだから喪黒福造による「笑ゥせェるすまん」の放送で、これによって藤子F不二雄さんではない方の藤子不二雄Aさんが存在感をぐっと増し、「プロゴルファー猿」とか「ウメ星デンカ」といったA作品を今に蘇らせてくれた。「ドラえもん」だけじゃないんだってことを分からせてくれた。ありがたい。あと大平透さんも。この役があったからこそつい最近までも世の中に居場所を得られ続けた。先に行かれて大平さん、天国で大橋さんをどんな言葉で迎えるかな。「ドーン!」と送り返してくれないかな、政治に社会に、もっといろいろ言って欲しかった。合掌。

 「ガールズ&パンツァー劇場版」を手がけたアクタスの方々がパッケージではもうけられないところを版権で頑張って稼ごうといった気持ちもちょっぴり含めつつお世話になったファンに向けてまとめたスタッフたちによる公認同人誌的な「皆さんお疲れ様でした本」が届いてぺらぺら。考証の人とか作画の人なんかが集まって映像を見ながらガヤガヤと話す誌上オーディオコメンタリーがとにかく充実していて、その場面に出てくるそれらがづいう趣旨から描かれ、そしてどれだけの苦労を持って描かれているかが分かってたった1枚の絵であっても、あるいは1台の戦車であってもおろそかには見過ごせなくなる。膨大な資料に辺り情報を持った人に問い合わせて描かれているんだなあ。でも映るのは一瞬。それでも背後のリアリティが見た目の楽しさを相まって画面に説得力を与えるのだ。

 そんな考証ともちょっと関わりがあるのがチャーチル戦車の中でダージリン様が正座でちょい膝立ちしつつ無線機を握って会話をしているシーンで、本当はあそこにそんなスペースはないんだけれどもやっぱりそういう格好をさせたいという作り手の信念が、場面として残してポーズとして描かせたらしー。見てあのシーンでダージリン様の可愛らしさを再認識させられただけにあって必然のシチュエーション。もし中ったら「ガールズ&パンツァー劇場版」の面白さの幾分かが削がれていたと思うとスタッフ、よくやったよく頑張ったと心からの喝采を贈りたくなる。本にはそんなダージリン様のラフ画から作画監督修正総作画監督修正といった具合に直されていく課程が載っていて、1つのポーズにあれだけの情熱がかかっているのかが分かる。そりゃあ心に響く訳だ。

 想像するなら芥川賞と直木賞の発表があった翌日に、というか会場近くにもそんなポスターが置いてあったことからこれは日本文学振興会、すなわち文藝春秋が中心となって文学賞をフックにして文学を盛り上げようとしたキャンペーンであって、だから本文中に「繰り返す。人生に、文学を。(一年に二度、芥川賞と直木賞)」だなんて一文があったりするんだろうけれど、これ自体もだったら三島由紀夫賞や山本周五郎賞や吉川英治文学賞や泉鏡花賞や山田風太郎賞といった既成の作家に与える賞、あるいは太宰治賞や江戸川乱歩賞や横溝正史賞といった新人の公募に与える賞は文学じゃないのか、って話が起こって同じ文学の内側であっても、お前らの文学なんてごく一部じゃないかといった避難を招きそう。

 というより、あたかも自分たちこそが文学の代表でございといった顔で新聞に広告を打ち、企業も巻き込んでキャンペーンを打つことにもっと反論の声をあげても良いんじゃなかろーか。協賛とされる企業群にはそうした出版社の名前が入っていないのは当然としても、こうして日本文学振興会とそして芥川賞と直木賞だけが前面に出ているキャンペーンは、業界にといって決して好ましいものではないだろー。なおかつそんなキャンペーンが、主催者側の独りよがりな宣伝文句によってあらゆる表現者から激しい非難を浴びている。「文学を知らなければ、目に見えるものしか見えないじゃないか。文学を知らなければ、どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)というコピーは、明らかに文学がアニメを見下しアニメごときに人生を表現し人生を想像させる力はないと言わんばかりのもの。その傲岸不遜な物言いにアニメから人生を学び想像力を鍛えた現代人の大半が怒り呆れている。

 「アニメか?」とここに挙げられているアニメはもとよりそうした映像表現、あるいは文学以外のあらゆる表現が文学のような人生を想像させる力を持っていないといったニュアンスすら漂うそうした文言は、ゲームであり漫画であり映画でありダンスであり落語であり演劇であり絵画であり音楽といった表現に対する挑戦でもあって、そうしたものに人生をかけ、そしてそうしたものから人生を学んだ者たちを敵に回すようなものだろう。ずらりと並んだ協賛企業はつまりそうした文学以外を嗜む者たちの敵になったといった自覚が果たしてあるのか。そんなつもりはなかったというなら、こうしたコピーをぶら下げてきた主催者に対して即座に異論を唱え、他の表現に対する侮辱的な言葉を取り下げさせるべきなんじゃなかろーか。もちろん文学は素晴らしくそこから人生も学べる。でも文学だけじゃない。戦車道にだって人生の大切な全てのことが詰まっているという説もある。それを思って文学も、それ以外も称揚する中で改めて文学の価値を問うキャンペーンになっていってくれたらありがたいんだけれど、そういう視座はあるかなあ。それがないような想像力なら文学ってたいしたことないよなあ。

 ニッポン放送というよりオタクなアナウンサーとして知られる吉田尚記さんと、「PSYCHO−PASS サイコパス」のドミネーターを作ったCerevoと、そして初音ミクでありねんどろいどでもあるグッドスマイルカンパニーが共同で何かやる、っていうならそれは絶対にキャラクターを使った新しいエンターテインメントで、動くとか走るとかいった特長を持ちつつネットにも繋がって、いろいろと日常を豊かにしてくれるものだと思って当然だろう。でも、そういった期待をさらりと交わして行われた発表に登場したのはFMラジオ。円筒形で無指向性のスピーカーを搭載して四方に音楽とか喋りとかを流せるラジオ。それをどーしてニッポン放送が作ったか、というとそれはラジオ局として感じているラジオの特質としてのラジオが持つ「気配」を表現するラジオがなかったから、ってことになる。

 一人暮らしの寂しい部屋に帰ってもラジオが鳴ればそこに明るさが生まれ誰かとの繋がりが生まれて寂しさが消える。スマートフォンを見てSNSなりメッセンジャーで誰かと言葉を交わしていても、寂しさは紛らわせることができるかもしれないけれど、ラジオはそうしたネットを通じた誰かとの繋がりとはまた違った、ラジオから流れてくるパーソナリティとの繋がりであり、同じ放送を聞いている誰かとの間接的なつながりを思って気分が紛れる。そういうものらしい。そんなラジオをよりラジオらしく作りたい、ってことでCerevoに話を持っていき、グッドスマイルカンパニー経由でメチクロというスタイリッシュなヘッドフォンを手がけたデザイン集団とも繋がって生まれたのが「Hint」という製品だ。

 円筒形でそこに立てておけば成って無指向性スピーカーから音が響く。音声が聞こえやすいようにチューニングもされているからラジオからの言葉が耳に響く。なおかつ音楽だってしっかりとあふれ出す。空間を満たしてくれるラジオの声を音楽。ラジオの理想がつまっている。なおかつラジオを通してネットとの繋がりも持てる。ずっと前にニッポン放送が開発して送り出した、放送でもってピポパ音を流すとそれを受けてURLを案内するようなtoneconnectという技術を使いつつ、Hint自体がピポパ音によって伝えられたURLを記録して無線で周囲にあるスマートフォンに配信し、それを受けたスマートフォンがブラウザから見られるようにした。生放送で流れるピポパ音を受けなくても、書き換えられるまではHintの周辺でずっとURLを受けられる。これはちょっとした進歩だろう。

 放送に際して口でURLを言うのは難しい。かといって連動しているSNSにアドレスを挙げてはラジオを聞いているという連続性が薄れてしまう。それならば音声に混ぜてURLのコードを流せれば伝えやすいしショッピングサイトの連絡みたいなことをラジオでもできるようになる。詳しくは検索サイトでといった手間を踏ませずにラジオからネットへの進入を促せる。ただ、そうしたことを可能にしていたtoneconnectに残っていたリアルタイム性という壁が、BLEビーコンとしてHintを作ったことで大きく崩れて常時性を持ち得た。ビジネスとしての幅も広がりサービスとしての可能性も大きくなった。使わなくちゃ損、ってことだけれどニッポン放送の番組全てで使われるか、ニッポン放送以外にも広がるかが重要で、それはだからHintなりBLEビーコンの機能を持った機材がちまたに溢れることが必要。始まったクラウドファンディングが成立して、そしてどれだけの台数が導入されるか。逆にどういったサービスがあって、それが普及を促すか。ラジオの未来を伺う意味でも、様子を眺めていこう。


【7月19日】 東京の街を突き進むゴジラに向けて放たれる戦車からの砲撃も、戦闘機からの爆撃もすべて効かずに跳ね返され、あとはアメリカの原潜から核攻撃を行うべきかという決断を迫られている時、上空から巨大な羽根をはためかせながら、何羽ものモスラが舞い降りてきた。その様を、ヘリコプターに乗ってゴジラ周辺を飛ぶ石原さとみさん演じるカヨコ・アン・パタースンが見てつぶやく。「モスラシリーズ、完成していたの!?」。そして鳴り響く「魂のルフラン」。物語はそこでいったん途切れ、続きは冬に公開の「シン・ゴジラ劇場版 Air/まごころを君にで。

 そんな会見かと思ったけれども「シン・ゴジラ」は一応完成していたようで、あちらこちらにレビューも出始めて謎だった作品の雰囲気も伝わり始めている。ただ、そこに紡がれている国難だとか災害の暗喩だとかいったニュアンスに触れれば触れるほど、作品への思いも遠ざかっていく気がしてならない。だってそんな「ゴジラ」は既にある。第1作。そこへのオマージュだとしても、そこを超えられるだけの驚きと喜びを果たして与えてくれるのか、ってあたりが目下の疑問として浮かぶ。

 たとえあたふたと対応にあたる政府を揶揄するような内容であったとしても、逆に一致団結して国難に挑むようなプロパガンダ性を帯びた内容であっても、現実に災害が起こり事故が起こった状況で、懸命に収集にあたった政府なり自衛隊なり行政といったものを見知った上でそれをどこか戯画化して、あらを探すような展開を見て喜べるとは思えない。それが叱咤になり未来に繋がるものだとしても、エンターテインメントの上で嘲笑して良いものではない。逆に賞賛しているものだとしても、そこにどんなメッセージ性を感じといと言えるのか。逆に良くやりました、ありがとうでも、それで終わりのような気がする。見てないからまだ何とも言えないけれど。

 見たいゴジラがあるとしたら、過去に類を見ない暴威っぷりであってもはや日本の半分を壊滅させるくらい暴れ回ったのを、日本が世界の手すら借りて倒すような極熱の展開。それですら「インディペンデンス・デイ:リサージェンス」にスケールで負けている訳で、大災害に立ち向かう人類といった構図の上で劣ってしまう。見知った場所が蹂躙されていく表面的な苦衷の内面にある爽快感を、愚図どもの小田原評定という見ていて愉快ではない会話劇でスポイルするような映画をそれでも、2011年を経て人類が改めて自らに問うた英知の大切さを描いたものだというなら、現実に無駄話を繰り返す国会をこそテーマにして、滅び行く国民を描いてくれた方が悲惨な現実に誰もが気付く分だけマシだろう。そういう感想を見た後でも抱けるか否か。そこが分かれ目かなあ、僕の評価の。

 目覚めるとネットがざわざわしていて、何だと思ってみるとあの「サイボーグ009」がまたしても映像化されて「CYBORG 009 CALL OF JUSTICE」として11月から全3章で公開されることになったとか。もう結構前に「009 RE:CYBORG」が公開されてここから新たに「サイボーグ009」の物語が始まるのかなと思ったけれど、制作を手がけたサンジゲンは今回関わっておらずにプロダクションI.Gの関連会社であにめたまご2016では「カラフル忍者いろまき」を作ったSignal−MDってところが制作を手がけ、「RE:CYBOG」で監督をした神山健治さんが総監督を務めるとか。

 作り手って意味では「RE:CYBORG」そのままとは言えなくても、あそこで描かれた善と悪の二項対立とは一筋縄ではいかない関係、それによって分断される世界の有様なんてものがまたしても持ち出される可能性はあるけれど、監督は「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」で助監督を務めた柿本広大さんで、どういったドラマ性を作り上げてくれるのかは今の時点では未知数。スタジオも「アルペジオ」を手がけたサンジゲンではない訳で、テイストもがらりと変わったものになりそうで、原作はともかく映像として東映動画の時代から数々生まれた00ナンバーサイボーグたちに新たな雰囲気を持ったメンバーが加わりそう。というか既に明らかにされているキャラクター表を見ると、フランソワーズはすっかり可愛くなっているし、ジェットはどこの金髪ロン毛ミュージシャンって雰囲気になっている。

 衣装も今までのソフトなスーツ姿ではなく、戦闘用のプロテクターといった感じでこれなら戦う姿ではあるけれど、下半身とか色がかえてあってストラップで絞めてあるからおむつをはいているような風にも見える。全体にゴツつくなっていて、ジェロニモはそれで良いけれどもフランソワーズは女性的なラインが見えずに残念。スーツを脱いだ私服の姿はもしかしたらグラマラスかもしれないけれど、戦闘シーンで格闘戦をするタイプではないフランソワーズに着せる必要があったのかな、なんて思わないでもない。まあそれでも始まれば、圧倒的な活躍に目を見張って応援するんだろう、そこに神山健治さんならではの社会批判が入っても。あとは誰が声を演じるか。「RE:CYBORG」での宮野真守さん斎藤千和さんを引き継ごうにも今度のフランソワーズはお姉さん的斎藤さん声じゃないからなあ。ベッキー声ならあるいは。発表を待とう。

 それにしても11月25日から12月22日まで、重なりながらも3作が2週間ずつ上映されるのを挟みつつ重なるように「RWBY」のVOLUME1とVOLUME3の日本語吹き替え版が相次いで公開されるだけに映画館通いも忙しくなりそう。VOLUME1も劇場で観てその圧倒的なスピード感と迫力を持った戦闘シーンに撃たれつつ、演じた日本の声優さんたちのピッタリぶりにこのまま続きも吹き替えてくれと願ったばかり。興行的に心配だったけどパッケージ販売としてそれが叶い、上映まで実現してしまったのだからこれはもう行くしかない。

 モンティ・オウムの死去によってアクションが前ほど入り組んでいないんじゃないか、っていう評価もあったりするVOLUME2と3だけれど、見ればそこそこ頑張っている上に物語がとにかく凄くてルビーたちがいる学園に迫る危機、裏で巡らされる策謀にスリリングな興奮を覚えてしまう。VOLUME3のラストに繰り出される展開の衝撃たるや、半ば絶望を生んでどうなってしまうんだろうと不安も起こるけど、そこから続いていくVOLUME4できっとルビーたちも復活し、チームRWBYとして再び最前線に立って世界を平穏へと導いていってくれるだろう。それがまた日本で、日本語吹き替えによって見られるようになるためにも、VOLUME2と3の上映には必ずかけつけパッケージも買わなくては。忙しくなるなあ、年末。


【7月18日 】 映画「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」を見てコンテンツ東京で講演した、ピクサーでカメラオペレーターをやっているサンドラ・カープマンさんの言葉を思い出す。「映画はクイズではあってはならない。観客が集中していることができるようにする」。見せたいキャラクターより先にカメラが動いてはいけない。それが原則で、キャラクターが動いてカメラが追いかけていくようにしないと、カメラが先に動いてそれにキャラクターが追従するような形にすると、どうにも観客は見るのに困ってしまう。なんてことをサンドラさんは話してた。

 CGでモデリングしているんだから、引きだって回り込みだって自由自在でそれこそ歩いているスターをパパラッチのカメラが追い回し待ち受けるようなカメラワークだって簡単に作り出せる。でも、それをやってしまってはキャラクターを追ってストーリーを楽しむ映画としては拙い。まず観客ありき。そこから組み立てられているからこそ、ピクサーの映画は見ていてストレスを感じることはない。CG酔いなんてあり得ない。

 んで「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」はカメラが動き過ぎる。それこそドローンをクレーンの上に載せてそれを手持ちでぶん回しているようにカメラが動き回るんだけれど、それによって見せたいものに視線がいかない。何かが起こっているんだけれど、何が起こっているかを頭が理解するより先に場面が動いていく。頑張って見ようとすると、視点が残って画面がズレて頭が混乱する。かといって視線をずっと追従させていくと、今度は上下左右に視点が揺さぶられて気持ち悪くなる。

 どんな視点からだって自在に撮れるし、カメラワークだって勝手気ままに動かせる。そんなフル3DCG映像の特長を生かし切ったと言える映像だけれど、それが映画として、物語を伝える映像として正しいかというと微妙。何を語り何を見せ何を感じてもらうのか。そういう物語る映像としての映画ではなく、ただアクロバティックに視点を動かしこんなに見た目凄い映像を作れるんだぞという作り手の自慢げな気分があふれ出てきて脳を埋め尽くす。とても処理しきれない映像に気持ちを虚無の彼方へと持って行かれる。

 かといってカメラを据えてじっくり撮れば、フル3DCGの極限を行ってリアルさを出そうとした映像のどこかに粗が見つかる。不気味の谷は越えられていても、どこかにたどり着けない実写との差があって、それを見つけられなくてカメラをぶん回して常に視点を変えて動いているように見せかけたのかもしれない。でも逆効果。据えられたカメラによって認識させることなく進んでいく展開が、ちっとも頭に入ってこない。目が慣れたのか冒頭のバトルに比べてラストのインソムニアを舞台にした戦いにはまだ何をやっているのかが分かったけれど、それも巨人と船との戦いに戦士たちの戦いを重ねてシーンを追って行けたからで、カーチェイスのあたりとかもうちょっと視点を据えつつカットを切り替えつないでいくようなことをして、迫力を出しても良かったって思わないでもない。

 たしかにリアルさを追求した映像は凄まじくって実写かと見まがうばかり。CG版「キャプテンハーロック」よりもさらにリアルさで上を行く。最初の劇場版「ファイナルファンタジー」だって当時は凄かったけれど、最新作に比べればやっぱりどこか表情がぎこちない。動きだって。押井守監督の「GARM WAR」による実写とCG映像の重ね合わせと紙一重と言っても言い過ぎではない。時々本当に実在する役者が演じているのかもとすら思わせる。そんな映像のパワーとそしてピクサーならではの見る人視点のカメラワークがあればあるいは、もっと素晴らしい映画になったかもしれない。

 ストーリーは……まああんなものか。王様と将軍が戦っているのを見てないでさっさと逃げろと思うし、逃げようとさそっても踏みとどまっていた姫が次の瞬間にさっさと逃げようといたりするし、心理の繋がりがどうにも見えない。でも分からないでもないそのてんかい。だから「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」のスタッフは、ラセターの元、サンドラさんらの指導でカメラワークとは何なのかを学び直してもらって、今あるデータを元に作り直してもらいたい。そんな気がする。

 その時は声もちゃんとして欲しい。言いたいことは一言。音響監督仕事しろ。役者を使ってもその演技がハマっていれば文句は言わない。綾野剛さんも最初は良かった。でも途中からどこか投げてしまったような声になってしまった声色で、芝居はつけてあっても感情が乗っていなかった。忽那汐里さんは声の芝居の人じゃない。途中からどんどんと感情がはがれていく。平板になって見る人の情感を刺激しない。あるいはそんな2人のナチュラルさにマッチして全体を統一すれば聞けたかもしれないけれど、他の役者は山寺宏一さんに藤原啓治さんに中村悠一さんといったアニメならガンガンと響く特長をもった人たち。それゆえに綾野剛さん忽那汐里さんとの乖離を呼んで全体のバランスを木っ端みじんにしていた。

 さすがにプロの声優さんたちだけあって上手いんだけれど、リアルな空間に響くナチュラルな演技との対比として突拍子もない感じ。もしもパッケージ化するなら綾野さん忽那汐里さんをそうした声優陣に合わせて特長を持った声優に変えるなり、全体を洋画的なナチュラルさに揃えて欲しいと切に願う。ともあれCGによる実写クオリティの作品という意味でひとつのエポックメイキングな作品で現時点での最高到達地点にある作品ではあるけれど、ここが感性ではなく通過点として捉え、どうすればより映画らしくなるのかを吟味し他の作品がどう見せているのかを精査した上で、同じスタジオには次の作品を作り出していってもらいたいものだけれど、果たして。

 ふと思い立って「海の日」だけれど海のない埼玉県は川口市で開かれている「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016」のアニメーションコンペティション部門を観に行って、ふくだみゆき監督の「こんぷれっくす×コンプレックス」という作品で最高に笑う。プールの授業で女子中学生の少女が手本になっている少年の挙げた手の奥の脇に見たものは? 思春期の女子中学生のフェティシズムというか性的なものへの興味がふわっと浮かんで漂い見る人をぐふぐふといった笑いの中に引っ張り込む。

 端正だけれどそんなに動かないFLASHアニメーションで、プレスコによってとられた情感たっぷりの声に重ねて着けられた表情の変化が淡々として、それでいて微熱めいた思いが浮かんで頭を埋めるあの世代の気分って奴を表現している。声は林奏絵さんと上妻成吾さんという人が担当していてそれほど有名って訳じゃないけど良い感じに若い2人を演じている。とくに林さんはもやもやとしながらも確信して脇毛にのめり込んでいく女子中学生のまっすぐさを透明感のある声の中に滲ませている。見終わってすれ違った2人のうち、女子中学生が少年を「子供だなあ」というのはやっぱり女子の方が成長が早いってことなのかな、性的に。

 同じ部門では東京藝術大学大学院のアニメーション専攻を出た円香さんの「愛のかかと」という作品も入っていて、こちらは4人の女性がそれぞれに抱く性癖めいたものが露わにされていくといった内容。中に1人、女学生がいて彼女は臭いフェチで犬とか鳥とか靴とか拾ってクンクンする。そして香水を漂わせる女性とか。それは大人への憧れなのか外界への興味の表れなのか自分の生を確認する作業なのか。分からないけれどもそうしたフェティシズムの形が『「んぷれっくす×コンプレックス」とはまた違った形で表現されていて、比べ並べて見て興味深かった。どちらが受賞するかなあ。

 でもフル3DCGでもって描かれた宮内貴広さん「東京コスモ」は前評判もあったし働く女性が一人暮らししている中で感じる諸々が淡々とした描写の中に描かれていて引きつけられた。高い評価を得そう。Gとの戦いはそうか女性の中ではあれだけの大事なのか。同じフル3DCGでは三島敦さん「アチラカセカイ」というのもあって、3年がかりで作られた作品はもう緻密。訪ねてきた女性の依頼で技術者が作ったお掃除ロボットが暴走するって展開はスペクタクルもあってコミカルなところもあってそれが隅々まできっちり描かれた世界の中で繰り広げられる。

 どこにも手抜きがない映像。それが逆に編集面での無駄も生んで長いかなって印象も醸し出す。キャラクターの造形もネコのふわふわとした描写も最高。眼鏡の巨乳な女性とか技術者でなくたって惚れるわ。また見たいなあ。どこかで上映されるかなあ。他にも石谷恵さん「かたすみの鱗」が上映されて、前にも見たけどやっぱり良い。子供の頃の思い出がふわっと浮かび上がって形になり変幻していく様がアニメーションという媒体を使って実に適切に表現されている。大人へとなってそして見つめる現実。でも心に残る幻想の思い出。淡い絵柄とマッチして大人も子供も引きつける作品になっている。これも評価、高いかな。

 東京では混んでいるからと千葉は幕張にあるシネマコンプレックスで見た「時をかける少女」。季節が過ぎれば空くとは思っていたけれど、空に入道雲がもくもくと吹き上がっている様子を目の当たりにしながら見たかったから、聖地と呼ばれている新宿を避けてでも行くしかなかった。そして見た感想を10年前の2006年7月22日付の日記に書いたけれども10年周年を記念して、角川シネマ新宿で開かれた上映を持ても当時と代わらず良く動き、そして良く練られた作品だなあという印象を改めて抱く。けだし傑作。声も抜群。プロの声優さんでなくてもハマる声であり演技。当時からそれを意識してたんだろうなあ。奥寺佐渡子さんが参加した脚本も貞本義行さんが手がけたキャラクターもそんな作品にベストマッチだった。

 その面々で「おおかみこどもの雨と雪」まで行って固まった評価な訳で、だからをどうして「バケモノの子」で崩してしまったのかが分からないけれどもそれが作品への僕の関心度にも表れていると言えば言えるのかも。もちろん「バケモノの子」も2度3度と見れば納得の展開ではあるんだけれど、「時をかける少女」や「サマーウォーズ」みたいに初見がらグッと引きずり込まれるようなものではなかった。ザラっとした主題への違和感。そこがあるいは僕という人間のアニメーション映画を観る限界で、そして一般性を持って世間が評価した「バケモノの子」を自分の脚本で作った細田守監督の正しさなのかもしれない。いずれにしても10年、大きく変わった製作環境の中で今度はいったいどんな作品を作ってくれるんだろう。願うなら10年を経て、チケットが完売になるくらいの作品を作って欲しいもの。たとえ当たったとは言えなくたって、永遠に記憶に刻まれる作品だった訳だから。


【7月17日】 いやもう瀬戸際がさらに手前へと迫ってきて落っこちそうになっているけど、それでもしがみつかなくちゃいけない人類の大変さがこれからグングンと増していくと思うと息苦しさが増してくる。鷹見一幸さんによる「宇宙銀士官学校−前哨−11−」(ハヤカワ文庫JA)は迫る粛正者が何百発も恒星反応弾を放ってそのすべてを迎撃しなければ地球は終わりというギリギリの戦い。さらに1万2000隻もの艦隊が現れ飽和攻撃を仕掛けてくる。どうする人類? とにかくパイロットを前面に出して人海戦術で恒星反応弾を打ち落としていたけどそこに意外な戦術が入って地球に大損害が発生する。

 まさかそんな。なおかつ地球圏だけじゃない他の銀河系星系にも粛正者が襲来して人類に戦力を割く余裕もなくなってしまう。このままではいずれ押し切られるのは必至。そして撤退戦の途中でさらに大きく戦力を削られる事態になってこの先どうあがいても逆転できそうな目なんてないんだけれど、物語はまだ続くってことは果たして描かれるのは大逆転の一手なのか、それとも地球が滅びてディアスポラとなった人類の漂流の物語なのか。今はただ瀬戸際の戦いにおいて人類が見せる戦術がどうとかいった楽しみと、滅亡に備えて人類がなにを備えるべきかって知識を得る面白さがあるけれど、根底にある人類の存亡とその先をいよいよ描く時が迫っている。そこでどんな運命を繰り出してくるか。続きを待ちたい。

 読まなくちゃいけない感じなんで、たかのてるこさんの「モンキームーンの輝く夜に」(幻冬舎文庫)とか「ガンジス河でバタフライ」(幻冬舎文庫)といった旅物のエッセイを何冊かぺらぺらと。出不精な人間にはどこかに行った先でチケットがとれないとか乗り間違えたとか、泊まる場所がないとか移動する手段が見つからないとか、ご飯が食べられないとか財布を盗まれたとか、強盗に襲われたとか殺されてしまったとかいったトラブルを想定して頭がいっぱいになって、そんな苦労するくらいなら行かなきゃいいやって思ってしまうんだけれど、この人はもうどこかに行こうと決めた段階でチケットを取り、行った先で何かあったら考えればいいやといったスタンスでずんずんと出て行ってしまう。そこにちょっと憧れる。

 さすがに調べて危険なところには行かないようにしているって書いてはあるけれど、どこに行ったって危険な人はいるし想像しないアクシデントも起こる。とりわけ今は安全だと思われていた都会だってテロが起こって大勢の命が危険にさらされてしまう状況。それでたかのてるこさんが書くような楽しげな旅ができるのか、って不安も生まれてはいるけれど、バングラデシュとかパキスタンといった地域ではなく、タイとかラオスとかミャンマーとかベトナムといった地域ならまだ心や穏やかで人への関心もあって、そうそう危険なことは起こらない、かもしれない。インドもレイプとか虐待といった話が以前にも増して多く起こっているように思えるけれど、それでもイスラムよりはヒンズーの国だけにバックパッカーにはまだ行ってなじめる国、かもしれない。

 中東だとか東欧だとかいったあたりは危険だし、アフリカもエジプトですらしょっちゅう銃撃が起こり襲撃もあってなかなか大変そう。チュニジアだって美術館が襲われた。モロッコだってヤバいかもしれない。イランならまだISの攻撃とかはないけれど、逆にイスラム教国としての厳格さがあって旅行者のとりわけ女性には行くのが大変な場所かも知れない。そういう意味では1990年代後半から2000年代にかけて多く出された、たかのてるこさんの旅の本に書かれた平和な国で行き当たりばったりに何でも見てやろう吸収してやろう的メソッドが通用するかは分からない。だからとって止まっていては意味がない。行ってみなければ危険に合わない代わりに幸運にも出会えない。

 「モンキームーンの輝く夜に」で出会ったラオス人のシノヤンなる大学生の青年と、恋仲になってしまうようなことも起こらない訳で、そう思うと行って良いのか悪いかを考える前に、行って良かったを探すことにまずは心を向けるのが、どうせ100年ない人生においてベターなことなのかもしれない。これはヤマザキマリさんの「国境のない生き方:私をつくった本と旅」(小学館)にも言えること。キューバに行ったりフィレンツェに長く滞在をして詩人の男性と子供まで作ったものの、別れて帰国をしてシングルマザーとして苦労もしたけど、そんな旅での出会いや経験も人生において決して無駄ではないと言っている。

 そ消せるものではない経験ならば、それをプラスに転換して糧として、言葉にして漫画にもして大勢の共感を誘うような2人の生き方を見ると、旅に恐れることなんてない、誰に迷惑をかけないのなら、あるいは迷惑をかけてでも行こう行くのだ行くべきだって思えて来る。書は捨てずに旅に出て、そして得よう経験を。とはいえニースであんな事件が起こりバングラデシュのダッカでは飲食店が銃撃され、マイアミではクラブが襲撃されてトルコでは戦車が街を走るという、そんな時代にどこへ行く? やっぱり近場からかなあ、上海ディズニーランドとか、ってそれはさすがに文明すぎ。台湾あたりから始めてみるか。

 子供たちは純真で、それゆえにまっすぐに世界を見つめ、自分を偽らないで突き進もうとする。たとえ壁が立ちふさがっても、乗り越えられると信じてひたすら歩み続ける。そんな子供たちの純真さを、大人たちは時に利用し、時に裏切って自分を保とうとする。それが社会のためだ、正義なんだという大義名分を立てたところで、結局は自分可愛さの独善に過ぎない。そしてそんな大人たちの身勝手に子供たちが挟まれ潰されていく。憤ったところでそれが世界のためだと言われれば、柵につながれた大人たちには何もできない。それで世界が絶望と混沌の渦中へと突き進もうとも。

 そんな大人たちにいずれはなっていく子供たちが、けれども自分を偽ることなく世界を裏切ることなく突き進んでいくことで、世界が救われ大人たちも居場所を保ち続けられた物語。多崎礼のシリーズ第2作目となる「血と霧2 無名の英雄」(ハヤカワ文庫JA)を語るなら、そうした話といったことになるだろうか。かたつむりの殻の中のような世界に生きる者たちが、血の力を基準に格を決められ生き方を決められているという設定の上で、ライコスという世界に君臨する女王の20番目の子供で王子のルークが失踪。その行方を追って、かつて女王の1番目の王女を妻に迎え子も成していたロイス・リロイスという男が、今は下層で血液専門の探偵業をしているということで動くことになって無事、ルークは助け出され、半ばロイスの助手のような形になって下層で暮らし始めるところまでが第1巻。

 そして第2巻では、ルークが女王の下に帰されることになってその身に半ば人質のような、そして当人にとっては女王の役に立てるという名誉のある任務が与えられ、ルークは意欲満々だけれどロイスには本当にそれで良いのかといった疑問が浮かぶ。さらにロイスがずっと探していたミリアムという娘の行方を、ルークが知っているのではないかといった疑念も浮かんで仲違いをし、逃げたルークを追おうとした矢先に撃たれてロイスは意識を失う。そこで見た走馬燈のような夢として語られる、ロイスとグローリア姫とのなれ初めと、彼女の運命とロイスの出生の秘密。離別があって虚脱の中に娘を失ったロイスが転落していった先で辿り着いたギィの店での日々へと戻って、そこからロイスはルークを救い出そうとして、彼に課せられたとてつもない運命を知る。

 そのとてつもない残酷な運命を、ルークはいったいどう受けるのかがこの第2巻の、そしてシリーズを通しての大きな注目点。直前、ライコスの最下層で起こった自分を好いてもいない娼婦のために、自分が好きだからとその身を犠牲にして恥じない男の生き様に触れたこともあって、ルークは決意しそして踏み出す。その勇敢さ。その潔癖さ。まだ幼いながらも聡明なその頭が自分に課せられた運命を知り、自分にできることを考え抜いて選んだその道に、大人たちはただただ頭を垂れるしかない。同情ですら無用。それは自分を高みに置いて相手を慰撫することだから。大人は高潔な相手の慈悲に触れ、足下に跪いて呻くしかない。そしてルークの意思を嗣いで世界を真っ当に導くしかない。そう思わされる。

 もうひとり、ロイスの娘だったミリアムもまた、自分の運命を感じ恐怖に怯えながらも次代へと道をつなげる役割をした。そんな2人がいたからこそ、もしかしたら世界は救われたのかもしれない。そうでないかもしれないけれどお女王による傲慢は諫められ、新たな世界の枠組みの中で物語は次へと向かおうとしている。頑張った子供たちの残した果実を受け取って、大人たちはどこへ向かう? 第2シーズンがあるとしたら、そんな物語になるのだろうか。「至高の血」を求めてやまない勢力の暗躍は続いて、高貴な血を持つ者たちの間に策謀が巡らされる。カタツムリの殻に生きる国々は諍いを止めず戦乱の予兆は増すばかり。そんな世界の中でロイスは、あるいは新たな登場人物たちはどんな活躍をするのかを、今は見極めたい。だから絶対に出て欲しい第2シーズン。そして第3シーズンも。常闇の王子、無名の英雄のそれが生きた証をつなぐことになるのだから。


【7月16日】 世界は動いているというか。起きたら何かトルコが騒がしく、見るとクーデーターが起こったとの報で、ネットには戦車が広場に出動している写真も上がっていたけど周囲を威圧するというよりは、逆におじさんたちに取り囲まれてトルコ国旗を被せられて押さえ込まれているのか歓迎されているのか、分からないけど激しい戦いといった風はない。ガルパンおじさんが大挙して戦車道を見物に行ったって感じでもないし。そうこうしているうちに大統領とかが反撃に出て、クーデーター勢力は鎮圧された模様。戦闘機も飛びボスポラス大橋も封鎖された割には、あっさりと片付いてしまった。

 原因は何でどこまで浸透していて成功の目はどれくらいあったのか。トルコに詳しくないから分からないけど、それなりな部隊は掌握していながらも本丸を攻めて権力者を拘束し、メディアも抑え一気に政権を奪取するといった規模ではなかった感じ。かといって内部にくすぶる不満をぶつけて、待遇の改善を求めるような柔らかさでもなし。隣接するシリアで猛威を振るうISとの連動といった感じでもないだけに、この一石がどこまで影響を及ぼすのか、今は見通せないけれども歴史というのはいつか大きく動いた時に、以前の小さな動きが発端だったということもないでもない。場所が場所で時期が時期だけに何かの萌芽をなっているかを気にしながら、成り行きを見ていこう。

 一方でフランスのニースで起こったトラックでの花火観覧車への襲撃は84人が死亡してなお52人が重体というからさらに亡くなられる人も増えそう。100人すら超えてしまうかもしれないと思うと戦慄するし、ノルウェーで2011年に起こった爆破と銃撃によるテロで亡くなった77人を抜いて過去最大規模の個人による殺人という意味でも、大変な事態が起こったんだってことが分かって震えが来る。ノルウェーの場合は個人とはいえ爆弾を用意し仕掛けて爆殺した上で、孤島に乗り込み逃げられない子供たちを銃で撃って殺害していったという用意周到なもの。それで辿り着いた77人という数を乗ったトラックを群衆に突っ込ませて行き来することで超えてしまった。

 その事実は、やり方次第でどれだけでも被害を大きくできるんだということを示している。というか、韓国の大邱で起こった地下鉄放火事件では、ガソリンを撒いて火を着けて列車を燃やして192人を死に至らしめることだってできてしまった訳で、これは自殺志願者による巻き込みだったけれども同じ事をテロとして行えば、どれだけだって被害は増やせるってことに世界が気付き、それを恥とせず実行してしまえる気分が広がっていった果てに、世界から安全がなくなるなんて可能性も浮かんで来る。地下鉄を止めるわけにはいかないし、ショッピングモールを閉鎖することも不可能だから、社会として。

 ノルウェーの場合は極右による憤りからの暴走で、大邱は自殺の巻き添えで、そしてニースもどうやら地域になじめないまま家族関係でも悩んだ末での暴走といった見方が出ている。インタビューに答えていた近所の人が「日本語でいうなら『ひきこもり』」と言っていたのは驚いたけれど」だからといって犯行に及んでいいという話ではないけれど、そうしたテロとは無縁の暴発であってもこれだけの被害を起こせるなら、テロとして計画されたものならいったいどれだけ世界を驚かせられるのか。その行為の大義とかもはや気にしてない、数こそが、話題性こそが重要となった意識の中でどんな事態が起こりえるのか。考えるとちょっと怖くなる。大丈夫か世界。続かないことを願いたいけれど。

 気がつくと一昨日に寄ったアーツ千代田3331で唐突に「月刊フラワーズ原画展」ってのが始まっていて、萩尾望都さんとか吉野朔実さんの絵が飾られているってんで駆けつけたら写真も撮り放題で驚いた。文化庁メディア芸術祭20周年記念展の会見をやったロビーにガラスケースを並べて見せるというお手軽な設営で、外からの光にカラー原稿とか大丈夫なんだろうかと心配もしつつ眺めたけれどもやっぱり良かった手描きの色と戦。田村由美さんは極彩色でもって埋め尽くされた「BASARA」か何かの絵がもう目にまぶしく、岩本ナオさんは「街でうわさの天狗の子」か何かの優しげでほのぼのとした雰囲気が漂う絵が心を和ませてくれた。

 そして西炯子さんはとにかく線が美しかったなあ。格好いい女性とクールな男性といったあたりを大きく描いても崩れない。さすがな画力。もっと重鎮と呼ばれていい漫画家さんなんだけれど。いつかマンガ大賞を。ほかにも「アルペンローゼ」の赤石民代さんがいて耽美さで成る波津淋子さんがいて「少女革命うてな」のさいとうちほさんがいる。ウテナとアンシーの絡む絵とかアニメーション版とはまた違ったなまめかしさがあって漫画版も改めて読み返したくなってきた。今でも手に入るんだろうか。吉田秋生さんの「海街diary」は鎌倉の青い空と海が目に刺さる美しい絵だった。いつかアニメーション化されないかなあ。実写版の続きでも良いけれど。

 そして吉野朔実さん。「ぶーけ」から離れて圧倒的に繊細で端正な絵からだんだんと遠ざかっていったその画風だったけれど、展示してあったのはたぶんまだ「フラワーズ」へと移って初期の頃で、「ぶーけ」時代から続く繊細なタッチとそして優しい塗りを持ったカラー原画が並んで好きになった頃の吉野朔実さんの雰囲気を感じさせてくれた。もちろん後期の荒々しさものぞくズバッとした線で輪郭を描いて、それでいてディテールは崩れない絵も嫌いではなかったけれど、古くからのファンとしては「少年は荒野をめざす」あたりからの絵がやっぱり好きなんだ。清原なつのさんが「本の雑誌」の中で吉野さん像として描いたようなその絵が。それが見られる。個展とか開かれる可能性が見えないだけにこれは貴重な機会。16日と17日の2日間だけの開催だけれど行き逃す手はない。

 夏アニメも新作よりは2クール目のものばかりを見ていて新作に目が向かない中で「ベルセルク」は劇場版からの流れを汲んでるってことで関心が及んで見てしまう。スタッフも画風もまるで違うけれど声はいっしょでそして向かう先はガッツたちを裏切ったグリフィスが受肉して立ち上げた新生鷹の団。心を痛めてしまったキャスカをどこかで広い信心深そうでこちらも心に疵がありそうなファルネーゼを引き入れ仲間も増やして突き進んでいく冒険の旅を楽しめそう。3DCGを2D風に見せる絵も個人的には気にならないし迫力も感じるんだけれど、劇場版のダークな作画を尊ぶとやっぱり違うってなるのかな。「亜人」よりは馴染んでいると思うんだけどなあ。

 馴染むとかどうより3DCGのキャラのモーションキャプチャ的動きにリアルタイムで声を乗せ、場当たり的即興的につなげていくことを楽しんでもらう「魔法少女?なりあガールズ」は実験性という意味合いで破天荒だったけれど、どこか周回遅れ的な中にキラリと輝く戦闘描写なんかもあって「一人之下」も捨てられない。中国かどこかの資本で作られて日本人もスタッフとして参加している作品だけれど表情付けがオーバーな上にデフォルメされててコミカルで展開からズレててあれれな感じ。演出のせいというより作画が追いついていないんだろうなあ。それを修正する手もないのかも。

 ストーリー面もついきなり長い回想も入って今どこなのかを見失う。ヒーローが朝から晩まですっぱだかで木の上にのぼってバカップルが朝から夜までいちゃつくのを眺めている。ヒロインはやつれやさぐれた主婦のようなファッションで死んだ目をして袖から包丁を取り出し振り回す。あり得ない展開に設定。でもそんなアクションがスピーディーでスタイリッシュ。声も早見沙織さんでピッタリ過ぎて耳もそばだててしまう。大きくストーリーで楽しむというより流し見て所々にホウとなる作品かも。録画して見て消してそしてまた見る感じになるのかな。


【7月15日】 思い出したのは秋葉原での無差別殺傷事件で、発端となったトラックによる歩行者天国への突っ込みで5人が跳ねられ3人がほとんど即死して、トラックという質量による高速での移動がもたらす破壊力の凄さを思い知った。でも歩行者がいっぱいいる中に突っ込んで5人を跳ねた“だけ”という状況から、いったいどうやったらトラックで100人以上を傷つけそして80人以上を死に至らしめられるのかが分からなかった。

 フランスはニースで革命記念日の7月14日に起こった事件。テロなのか個人のやさぐれから出た破滅的行動なのか。分かってはいないけれどもその行動の源流に秋葉原があるのかが気になっている。ニュースでは銃器や爆弾類と持っていたとの話もあって、普通ならそれを手に群衆へと突撃を敢行して幾人かを殺傷できれば背後に組織があったとしても、あるいは個人的な嫉みから出た憂さ晴らしであっても目的は果たせる。けれどもトラックを駆って群衆を狙うかのように突っ込んでいった。グッと巨大な質量を持ったトラックが加速して走っていく映像を見るに着け、その殺傷能力の高さも伺える。

 けれども、そうした力業を敢えてやろうとした意識のどこかに秋葉原での一件があったのか。あったのだとしたらどういう文脈で理解したのか、どういう経路で知ったのかが少し知りたくなってくる。何よりやはり昨今頻発しているISとの関連はあるのかどうかが目下の関心事となっているだろう。バングラデシュでのテロではすぐさま声明が出て、それが本当かはともかく空気として同じ流れにあるといった可能性はくみ取れた。

 今回はそうした声はないし犯人自身にも繋がりは見られない。やり口も通り魔事件としてはいっぱい合ってもテロとしては初物的なそんな事件をISとの関わりから実行するか。あるとしたら今後も同じようなテロの可能性を感じて警戒しなくちゃいけなくなる。とはいえトラックはちまたに溢れ群衆も各所に発生するこの社会で、すべてを未然に防ぐのは不可能だろう。だからやはり警戒しつつそうしたテロが起こらない社会を、制度を作っていくべきなんだけれど、生き死にが関わった瀬戸際にそうした考えも通りそうもない。寂しいけどこれ、まさしく戦争なのかも。

 「聖戦士ダンバイン」のHDリマスターが9月から放送するってんでその試写とそれから関係者による対談を見物。富野由悠季作品ではTVシリーズの『機動戦士ガンダム』にも増して好きだったりするんだけれど大昔に勝ったCDケースサイズのDVDボックスも埋もれて出てこない中で久々に第1話を見たら、案外にふわっとあの異世界に溶け込んでいて驚いた。今だと異世界転生だの異世界転移だのってジャンルが定着していてそういうこともあるもんだって理解の上でさてどうするかって行動を取る主人公も多かったりする。逆にヒイヒイと慌てたりしたら空気読めないなあと誹られる。

 でも「聖戦士ダンバイン」は本放送が1983年で異世界転生というジャンルも小説や漫画ならともかくアニメーションではほとんどなかった。小説だってそんなになくて異世界に行ったらここどこだ俺はどうしたお前ら誰だ何するんだと大暴れして大騒ぎして狼狽えるものなのに、ショウ・ザマはふわっとバイストンウェルに降りたってバーン・バニングスによる出迎えを受け殴られもしつつ朝になってトッド・ギネスやトカマクといった者たちと一緒にオーラバトラー見物をして、連れてこられたんならしょうが無いとそこに居座り何か役に立とうとかいったことと考える。

 本放送でそれを見てどう思ったのかって記憶があんまりないんで驚いたかどうか分からないけれど、今見るとその突然の転移に対するテンプレート的な言動がないところに不思議な味を感じる。誰かの支持だったのか。そういう納得づくの中から物語を始めることで冒頭のイライラと端折ったか。分からないけど考えられるならバーン・バニングスたちが紳士的でショット・ウェポンが地球の人間でオーラマシンには地球の技術が使われていてそして来ることになった者たちも、異世界にさらわれたとうより異世界に招かれたといった自尊に働きかけるものがあったのかもしれない。そういうのがあるからこそ呼ばれたとか。

 ただまだ3人だけでトカマクはあっという間に消えてしまってショウ・ザマの異世界での冒険はどっちつかずの手探り状態。ここからマーベル・フローズンによる説得があって寝返りもあってといった感じになて話は大きく転がっていく。そういう展開にショウ・ザマの理解の早さってのはあるいは役だったのかもしれない。そうすることで話を進めたという可能性もあるのかな。ガンダムとかZガンダムとか分からず屋が多くてお前らもっとオトナになれよと思った反動とか。

 第1話を見返してマーベルはやっぱり美人だなあ。湖川さんでも屈指の美人だと思うしガラリヤだってリムルだってチャム・ファフだってとても可愛い顔をしているし、僕なんかは「伝説巨神イデオン」「戦闘メカザブングル」の流れから湖川キャラを格好いいし可愛いと思っていたから良いけれど、今の「ガンダム」であり安彦顔でありほかの人気キャラクターデザイナーの顔になれた人だと放送される「聖戦士ダンバイン」のキャラをどう思うのか。マーベルをすっげえ美人と思いチャム・ファフの胴体をぎゅっと握ったショウ・ザマを羨ましいと思うのか。胴体わしづかみのあれは本当に感触良さそうで。でも噛みつかれていたけれど。すぐに続きが見たくなったんで家に帰ったらBOX探そう。見出すと止まらなくなるかなあ。

 「煌夜祭」が素晴らしかった多崎礼さんがほぼほぼ初めてファンの前に姿を現すと聞いて新宿にあるイベント会場へと行ってお話を伺いつつ「血と霧2」も購入。これで第1部が終わる幹事だけれども続く2部3部といった構想はありそうで、最新刊が売れればそれも世に出るから読みたい人はみんな買うのだ。そうでなくても厳しい出版環境で、どこまでもユニークな作品が多かった中公論新社のC・NOVELSファンタジアが軒並み存在感を希薄化させている状況なだけに、過去の作品すら読みづらくなっている感じ。そうした状況を打破したハヤカワ文庫JA初登場の「血と霧」がシリーズ化されることで、過去の作品も本として刊行され直すこともあるかもしれない。新シリーズで見知って過去作を読みたくてもネット版以外では読めないのも辛いんで、ここはハヤカワが頑張って全集を作る積もりで作品を再刊して欲しいものだけれど、果たして。


  【7月14日】 夜になったあたりから翌朝発売の週刊文春にあの能年玲奈さんが事務所を辞めて独立をしてから初めての仕事として阿川佐和子さんと対談しているといった話が広まり、さすがは一連の騒動でも事務所側ではなく能年さんの側に与して記事を書いてきた週刊文春だけのことはあるを喝采。とはいえ今をときめくセンテンススプリングが、ずっと応援してきながらも仕事の激減を止められず、事務所の仕打ちを諫められないまま結局は辞めさせられてしまったところに、芸能界という奴がもつとてつもない闇ってやつを感じざるを得ない。

 何しろ「のん」なんて名前への改名も明らかになったにも関わらず、朝のスポーツ新聞がことごとくその話題に触れずにスルー。テレビのワイドショーも天皇陛下の退位という今世紀でも最大級の話題があったとあいえ、それに次ぐような話題とも言えそうな能年さんの復帰と改名をスルーしている感じで、取り上げたらどうなってしまうなって恐れに新聞もテレビも染まっているんじゃないかって憶測が浮かぶ。だったら文藝春秋社はどうなのって話だけれど、ジャニーズ事務所と対立したって無事に出版活動を続けていられるんだから気にしないのか。立場は新潮社だって似たようなものだけれど、そこは同じ流れに乗るより対立した方が共に稼げるって感じか。

 それにしても「のん」とはなあ、本名なんだから使って良いような気がするし、事務所がその名前を商標登録なんてしていようものならそれこそ無法の所業な訳で、戦わなくても取り戻せるとは思うんだけれど、そこまで戦火を交えてはこれからの復帰もおぼつかなくなると、今は騒がず下手に出るような気分で名前をひとまず預けておいたってことなのかも。というか「のん」なあ、「杏」とかいった名前で活動をしている人もいるんだから悪くはないけど「杏」や「波瑠」ほど目立っていないというか、平凡というか。とはいえ当てられそうな感じはなく、アルファベットの「NON」では否定の意味性が出そう。「ノン」だとメルヘンが過ぎるってことで、やっぱり「のん」に落ち着くか。うーん。どこまで定着するかを今は観察。

 一夜が明けて天皇陛下の退位による譲位の意向は本物だったみたいで、夜の間は宮内庁の次長もまだ聞いていないと話していたけど、それも引っ込み全面否定する人がいなくなった感じ。あとはだから具体的に法律をどういう風に改正していくか、そして譲位が今の国民の気分に馴染むかどうかってあたりが取りざたされていくんだろうけれど、現状の82歳という年齢で公務に忙しい日々を送っている姿を見れば誰だって、早く譲ってもうちょっと身体をいたわってって思うだろう。そういう面からの納得は得られそう。

 ただやっぱり政治日程に乗せるとなるとそれは相当な議論が必要となる。未だ改正されていない皇室典範をどう改めるのか、それを誰が主導してどういう風に書き換えるのか、天皇陛下の政治利用にはならずかといって天皇陛下の主権主張めいたものを認めてしまうような流れに乗らず象徴として、そして日本人の“憧れ”としてその地を保ち譲り続けられる仕組みを高齢化という状況も踏まえつつ手直ししていくには覚悟もいるし倫理もいる。時間もかかるだろう。それで今の総理大臣の熱望する改憲が滞ったりしたら、怒りも心頭に達しそうだけれど相手が天皇陛下では強くは言えない。そうこうしているうちに総理大臣の任期も過ぎて、改憲の雰囲気は雲散霧消となればそれは僥倖だけれど、皇室典範も皇室の規定もまとめてくるりと変えてしまう機会だからと、一気呵成に改憲に走ったりする可能性もあるんだろうか。あったらそれは面倒だけれど。どうなるんだろうこの先。

 滅多に使わない言葉を敢えて使って言うなら季が違ってるとしか言い様がない自称全国紙。東京都知事選に出馬を表明していた人物にインタビューを敢行したけれど、裁判でも差別主義者であると指弾され、一般的な倫理観から大きく逸脱している人物であるにも関わらず、そうした避難をする感じでもなく普通にその主張を話させては何の注釈も付けずに垂れ流している。例えば京都での裁判の件で、「裁判の件は?と聞かれて「メディアを騒がせる形となりましたが、悪いことをやったとは思っていません」と言った言葉をそのまま載せる。

 「負けて賠償金を払ったが、日本の司法によって裁かれたのだから、それに従って賠償金は払っています」という以上は負けたということで、それは悪かったということなのに悪いと認めないのは何なのか。司法が悪いってことなんだろうか。そういう言説に批判を加えずそのまま乗せる媒体もつまりは差別的な言説に荷担して拡散していると言われても当然なんだけれど、そういう自覚はなんだろうなあ。そして批判勢力に囲まれた時の気分として「目の前も後ろも敵だらけ。でもそれは男の夢でしょう。問題提起にはなったと思います」と言う言葉をそのまま載せる。

 その犯罪的な行為をどこか英雄視するような書きっぷり。すべての候補を公平に取り上げるとか、話題の人だから取り上げるとかっていう意見もあるだろうけれど、差別的主張を公然と行うための立候補だという可能性を鑑みるなら、その言説の取り扱いには公器として慎重を期する必要があって、そして犯罪的な言説ならばそのまま乗せるのは遠慮するのが真っ当な判断だろう。でもそれができない。アクセスが稼げるならは公器だとか倫理だなんて脇に追いやりほいほいと乗せていささかも恥じない。16人いるという候補者のすべてに同じ分量だけ、紙面を割いて公平に取り上げるなら認められなくもないけれど、アクセスが稼げる相手だから、そして書き手の気分にマッチする相手だから行ったんだろうなあ。そんな下心もあって媚態もたっぷりの記事が載った媒体を、真っ当な人は避けるようになるだろう。結果は。やれやれだなあ。

 文化庁メディア芸術祭の取材には2回目から行っているけど、どうして行こうかと思ったかとうと「serial experiments lain」がアニメーション部門の優秀賞をとったからで、あの深夜の難解なアニメーションに賞を与えるだなんて、それも文化庁だなてお上が賞を与えるだなんていったいどういう了見だと思い、初台の会場まで様子を見に行ったという感じ。あと「愛があれば大丈夫」っていう会社が作った「クジラの跳躍」って作品がアニメーション部門の大賞に輝いていたこともあるのかな。妙な名前の会社だけれど作る物はユニークで、何度か取材に行ったっけ。

 それから18年。第1回目から数えれば19年が経っていよいよ20周年を迎える文化庁メディア芸術祭の20周年を記念する展覧会が10月にアーツ千代田3331で開かれるってんでその発表会見に。ちょうど秋葉原でナムコの「アニON STATION」もオープンするんでその前にのぞいた感じだけれど、氷川竜介さんがアニメーション部門を監修して伊藤剛さんがマンガ部門監修といった具合に、見知った人が良い仕事をしているのを見て嬉しくなる。同時に20年近く取材していながらずっと平記者という我が身を省みてため息も。現場から遠くなるんで偉くなりたい訳じゃないけど現場で偉くなる道もないでもなく、そこに至れない我が身のふがいなさをちょっぴり嘆く。

 展覧会は過去の受賞作とか審査委員会推薦作なんかが並ぶ予定で、いつかの文化庁メディア芸術祭でミッドタウンに作品を持ち込み上に乗った人たちが左右に揺さぶられながら歌を歌ったりする作品が、また見られるのかも知れないと思うとちょっと興味が出てきたけれどあれをアーツ千代田3331に奥のも大変そうなんで、場所を変えてどこかに展示をするのかな。

 アニメーション部門も「ほしのこえ」とか「マイブリッジの糸」とか「つみきのいえ」なんかが出展されそうだけれど、上映は3331では無理だからUDX THEATERなんかを使いそう。商業作品とか映画なんかの上映はあるんだろうか。あと短編アニメーション。見たい作品もあるだけにスケジュールをチェックしよう。しかし20年、眺めてきたけどやっぱり隔世の感があるというか、まず注目度が上がって見物に来る人が増えた。初台の時も草月会館の時も来場者なんてそれほどなく、東京都写真美術館に移ってようやく展覧会っぽさが出てきたけれど、それでもほんわかとした展示だった。

 時の総理大臣が見物に来るとか言い出したあたりから混み始めたんだっけ、取材の手間もかかるようになったけどそれは逆にいうならメディア芸術への関心が上がったということ。作り手への敬意も高まってそして今にいたる“クールジャパン”称揚の土台になっている。今後20年、どうなっていくか分からないけれどもエンターテインメント的なものが社会に入って誰もが何かを楽しみながらするようなると、それがメディア芸術という理解に入って来る。今よりもさらに訳が分からない、そして面白い作品が出てきて驚かせてくれるだろう。それを見て楽しむんだ。平記者として。それが限界。それが運命。しゃあなしだ。


【7月13日】 それで富士崎高校の桜沢翠先生が結婚する相手は、いったいぜんたい誰なんだという問題を引きずりながら巻を進めた「ちはやふる」の第32巻でも真相は未だ判然とせず。団体戦の優勝は北央学園に持っていかれて2年連続準優勝となって、花道も飾れないままで顧問を退くということはなさそうで、というより辞めないとは行っていたから山城理音が寂しがる必要はないんだけれど、それでもやっぱり決勝で敗れたことが響いたようで泣いて桜沢せんせいからアイアンクローをかけられ泣き止むかと思ったらやっぱり泣き続けてる。

 それは勝って桜沢先生の笑顔を見たかったから。でも先輩の言によればその前に2連覇を果たした時でも桜沢先生はニコリともしなかったそうなんで、勝った負けたで笑わせるのは無理みたい。かといってエロムのようにエロいジョークを口にして吹き出させるのも違うしなあ。さすがに気になって洗面所で笑う練習をしていたのに、それを聞いて笑ってはいけないという気構えを抱いたみたいなんで逆効果。まあでも来る個人戦で優勝をかっさらえば笑顔も出るんじゃなかろーか。それはとても困難な道だけれど。綾瀬千早もベスト8で当たって敗れてしまったし。

 ただし差は7枚だからグッと迫っていった感じ。1年次での対戦では21枚差くらいだったっけ、もっとあったっけ、手も足も出なかったし2年次は千早が指を怪我していて勝負にならなかった。3年次も迫っても勝てず残るのは高校生時代に限ればクイーン戦くらい。そこに出る、って言ったものの今度は他に大勢の、大人も子供も含めた面々がぞろぞろと出てくるからなあ、桜沢先生だって出てくるかもしれないし、逢坂恵だって復活してくるかも知れない。猪熊遙は子供が生まれたばかりだけれど、そこから巻き返してクイーン戦の予選に参加してこられるか。ちょっと気になる。

 もちろん山城理音だって鍛えてくるだろうし、いつか出てきた子供だってグッと伸びてくるかも知れない。モメユミさnだっていたっけか。そんなそうそうたる面子の中で高校ナンバーワンにすらなれない千早が本当に勝ち抜いて、近江神宮のクイーン戦にまで自分を持って行けるのか。描く方も奇跡じゃなく実力を拠り所にしなくてはいけないだけに葛藤も多いだろう。実写映画の方では冒頭にそうしたシーンが流れてたし、続編でもどうもそっちへと持っていきそうなだけに、そうした展開に引っ張られていくのかそれとも。ますます続きが楽しみ。藤岡東で新の後輩で告白までした山本さんは可愛いなあ、もっと活躍してくれないかなあ。

 そんな「ちはやふる」第32巻を買った秋葉原は新譜が出たばかりの水樹奈々さんのポスターとかがいっぱい。カットジーンズ姿がアップとなってドンとくるとどうしても目がそちらへと吸い付けられてしまうんだけれど、どこに吸い付けられてしまうかは内緒だ。お年を考えるとそういう若々しい格好が果たしてとか言われてしまうんだろうけれども半世紀を生きている人間には一回り以上も下の人なんでもう若くてピチピチ。いつかお近づきになりたいと思いつつも機会はまだなく、可能ならそんなピチピチ感が漂ううちに間近に見てみたいものだけれど、そんなチャンスはあるかなあ。1度くらいはライブに行っておくかなあ。

 声優であり且つシンガーとしての地位を確立してトップに立ち続ける水樹奈々さんをきっと目指して声優の道を選ぼうとしている若い人たちが集い、大塚明夫さんの厳しい講評の元で学んだ記録が「大塚明夫の声優塾」(星海社新書)に。至道流星さんの本から抜粋された文章を読んで感情も分析してレポートにして提出した人の中から選ばれた20人が、たぶん徳島で開かれたマチアソビの会期中、集まって数時間にわたって受けた講義を受けたみたい。プロとしての厳しさを前の「声優魂」って本で書き綴っていた人だけに、喋る言葉も強烈な上にテクニカルな部分にも踏み込んであって読めばいろいろと勉強になりそう。

 とはいえそうしたすでに生き残った人が語る言葉が通じるくらいに業界が成熟しているという訳でもなく、学校は学校で声優さんに特化して声をチューニングしていくような教え方がメーンとなっているだろうし、現場も現場でそうしたハマる声を選んで若さと容姿で持ち上げてはさあ次となっていく。演技を学び表現を学び心理も学んで本当の演技、俳優であっても通じるくらいの演技の神髄に辿り着いたとしてもどこまで活躍できるのか。そういうところを見てくれる先輩がいて、選ぶ人がいて事務所があれば良いんだけれど。あるとは思いたいしそういうプロデューサーだっているけれど、お金を出すのは別口だからなあ。そういう人たちの観念を変えていかないと、演技力がすべてに勝って選ばれる基準になる日は来ないかな、どうなのかな。

 東京都知事も立候補者が出そろって公開討論なんかも行われて、明日はそれがどーんと1面で行くのかと思っていたらNHKが天皇陛下の生前譲位という話題を放り込んできて大騒ぎ。もう200年にわたってそうした生前での譲位はなく、光格天皇が1817年に仁孝天皇に譲って太上天皇となってから、200年近く行われていなかった。以後はだから薨去がそのまま譲位となっている形だけに皇室典範にも記載がなく、元号どかどういう扱いになるかも分からないままいろいろと混乱を来しそう。仮に元号が代わったとしたら来年が○○2年となって2020年が○○5年となってキリは良いけどそれを狙っての譲位ではなし。だとしたらやっぱり体調を考え来たる2020年の東京オリンピック/パラリンピックで国の代表として賓客を迎えるには、体力が伴わないという判断もあったのかも。いずれにしても得がたいご判断が以後、この国を平安へとみちびいてくれると信じてそのご意志を受けていこう。

 思いを抱えながらも口にできないもどかしさに思い悩んでいる人たちに、ちょっとした勇気を与えてくれそうな物語が登場。鈴森丹子さんという人の「おかえりの神様」(メディアワークス文庫)はなぜか狸の姿をした山の神様が、一人暮らしをしていて会社勤めでそこに好きな人がいるけど言い出せないでいる若い女性の“神頼み”に答えて登場。古い神様だからなのか「ござる」言葉を使ってその神谷千尋という女性のアパートに居着いては、食事も作らずコンビニ弁当で済ます千尋を叱咤しつつしっかり食べもしながら好きだった男性に彼女がいるらしいといった噂に悶々とする千尋の話し相手になったりする。

 それで神様が恋の魔法でも使ってくれるかというとそうではなく、会社の中で好きだった人には確かに好きな人がいたけどそれは自分だったと分かり、また同期で中は良くて友人のように思っていた男子が自分のことを好きなんだとも知り、なおかと元カレからまたつきあって欲しいとも言われて誘われ迷うその行き先。どっちを選ぶか決断せよと神様は言うけれど、そこでひとまず選んだ道はずっと寂しかった自分の居場所に「ただいま」と言える相手がいることを喜ぶというもの。何もかなえてくれないけれどいるだけでホッとする狸の神様を傍らに、千尋は後ろ向きだった自分の気持ちを前へと向けて歩み出す。もう1つ別の誘いもあったのはご愛敬。気付かれないのって可哀相だなあ、彼。

 そこで終わりではなく物語は、千尋を実は好きだった同期の天野が悶々としはじめたのを、人間にも化けられる神様が銭湯へと赴いて話し相手になりつつ彼の心を解きほぐす。もちろん神様だとは信じないし狸が化けているとも分からない。何にでもマヨネーズをかける妙な男で千尋とも知り合いらしいとは感じるものの、そこで誤解して遠ざかるのではなく何となく押された気分で関係を取り戻していく。さらに別の神様も。こちらはビーバーの姿をして千尋の上司で彼女が好きだった崇司とは同期の信也という男性の所に現れ、「ござる」ではなく「ありんす」の花魁言葉で晩酌に付き合いながら、信也が小学生の頃にちょっとだけすれ違ってずっと思っていたレンちゃんとの思い出話に耳を傾ける。

 なぜかチョコレートを出した信也に最初はいやがってい川の神様だけれどだんだんとビールにチョコレートが乙なものになっていった感じ。チョコレートがないと分かった時は叫んで嘆いて大騒ぎ。味覚って神様でもアップデートされるらしい。そんなレンちゃんの意外な正体が分かって信也の過去が振り払われた、かと思ったら今度は別の女性が現れ信也への複雑な思いを呻いているところに、ゴスロリな格好へと変身した川の神様がつきまとうようにして彼女のモヤモヤを晴らしていく。ちょっぴり寂しいエピソードも挟みながら誰もが思いを整理して、結びついていった果てにさて、狸の神様を傍らにした千尋にも春は来るのかどうか。そんな重なり合って繋がっている人々を、神様たちが心でもつないで思いをぐるりと回す物語。幸せな空気に神様ってやっぱり凄いんだなあって思えて来る。うちにも神様来ないかなあ。できればビーバー。そして女性形で。


【7月12日】 フィルムがもらえるってんで新宿ピカデリーであった「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」の上映を観に行く。テレビシリーズは録画はしてあったけれども貯めたまんまだったんで、この総集編みたいな劇場版がほとんど初見。そして思った王道の青春部活物にして音楽物という内容。新1年生が入った部活で先輩との軋轢やら同級生との友情やらを育みながら顧問の強烈な指導によって引っ張られていくってストーリーだけれど、吹奏楽であり吹奏楽部といった対象の描写の細やかさでもって、吹奏楽を知っている人はもちろん知らない人もグッと引きつけ放さない。

 漫画とアニメーションで登場した「大きく振りかぶって」が野球の神髄をどこまでも細かく描いてそうだったのかと思わせるように、こちらは吹奏楽という世界の大層さを演奏者の葛藤やら感情やらに迫って、そういうものかと思わせる。結果としての音楽が聴衆を歓喜に包み込むような展開にはならず、過程としての音楽に演奏者が集中し耽溺し熱愛していく様を描く。それが音楽に限らず普遍の対象に大なり小なり関心を抱く者たちのやる気を誘い、意欲を引き出し怠惰を刺激して前を向かせる。そんな感じの映画になっている。

 それを文章や絵で描くのも大変だけれどこれはアニメーションで描いているのが凄いなあ。金管楽器なんてディテールも面倒な上に演奏という指使いが少し違えば専門家から突っ込みも入るシーン。加えて音楽が音として鳴り響くためそれが上手いか下手かも聞ける人が聞けばすぐに分かってしまう。これが実写だったら誰か俳優さん女優さんが練習して演じるなり上手い人を覆面的に演じさせれ良いけれど、それをアニメーションという絵を1枚1枚連ねていく手法でもって描いて動かしている。嘘がすぐバレる絵で嘘なく描ききってある。だから乗る音楽も真実を持って響いてくる。そこが凄い。京都アニメーション。やっぱり凄い。秋から登場する第2期が楽しみになって来た。今度はちゃんと見よう。その前に1期を見返そう。

 これは拙いだろうし、拙くないと思わないのだとしたらそう思う人の頭が拙い。東京都知事選に絡んで立候補を表明している小池百合子さんに対して、自由民主党の東京都支部連合会が石原伸晃会長の名前をトップにした連名でもって、「各級議員(親族等含む)が非推薦の候補を応援した場合は党則並びに都連規約、賞罰規定に基づき除名等の処分の対象となります」という文書を出していたことが露見した。自民党の推薦候補は増田寛也さんになって小池さんはいわば敵対勢力。それを応援するのは自民党の議員だったら都議区議国会議員等々を含めてやっぱりあって拙いんじゃない、っていう意見には納得できないこともない。独裁的ではあってもそれが政党って奴だから。

 でも親族は違うだろう。そりゃあ夫がそうなら妻は従い親がそうなら子は従いっていう旧態依然とした考え方の中では、親族も含めて逆らうのは言語道断って考え方があって不思議はない。でもそんな状況はこの21世紀の日本において存在を公言できるものではない。独裁国家で連座制でも適用されている国だとか、戦前の隣組が生きていたりさらに戦国の世の一族郎党獄門磔といった時代だったらいざ知らず、妻であろうと子であろうと1個の人間として人権が認められ、その思想信条を誰も強制はできないことになっている社会で、公党のそれも政権与党が親族の応援まかりならんと強制するなんでできるはずはない。

 もしもしようものなら人権に対する挑戦であ、り憲法に対する犯罪的行為と指弾され、その地位を罷免されて当然なのに石原伸晃会長はそうした可能性をまるで考えに入れなかったのか、考えには浮かんだけれども関係ないと思ったのか、公に出回るような文書に記述し自分の名前も堂々掲げて満天下に配布してのけた。頭の程度問題を云々したくなるくらいのポン酢な出来事。受けて大騒ぎしてその地位を退かせるくらいのことをやるのがマスコミだけれど、問題をどこまで分かっているんだろう。権力争いだの政争だのの文脈に絡めて引き締めだとか危機感って言葉に治めてしまうんだろうなあ。そして基本的事件は踏みにじられていく。やれやれだ。

 そんな東京都知事選で民進党が推してきたのがジャーナリストの鳥越俊太郎さん。ちょっと前まで古賀茂明さんの名前も挙がっていたけれど、反権力であるそのポジションだけがウリなところもあってちょっと遠慮願いたいと思っていた人も少なくなかっただろうから、とりあえず知名度もあって印象も良く落ち着くところに落ち着いた人選って言えそう。ただ76歳という年齢は4年後の東京オリンピック/パラリンピックの時には80歳で超高齢だし過去にガンで4度の手術をしてきた病歴もある。最近は落ち着いていたとはいってもやっぱり健康への不安は大きく残る。

 そうした不安を理由にオーマイニュースってネットニュースの編集長だかを降りた過去もある。組織の長として責任を果たせないと自他に認めた人がとてつもない責任を負う場所に復帰する。それは病歴を理由に安倍晋三総理を非難なんてできないし、病気の重さも安倍総理の比ではない。今はだからそうした残る健康をジャーナリストとして巨悪を暴き正義を成すようなことへと向けて欲しいんだけれど、そうした活動も最近とんと聞かないからなあ。それなら居場所を都政にして、都議会なり自民党政権なりといった巨悪に挑むことにした? それは東京都知事の仕事ではなしなあ。そうそう上杉隆さんも立候補を票目い。どんな経歴を出してくるかが目下の関心事。

 「機動戦士ガンダム」の新作が発表になるってんで田町へ。そうか青物横丁から引っ越してきていたのかバンダイナムコエンターテインメント。とはいえ新作と言っても「ガンダムビルドファイターズトライ」の特別編とそれからこれも発表になっている「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の第2期の発表で作品そのものに目新しさはなし。「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」にしても「機動戦士ガンダムサンダーボルト DECEMBER SKY」にしてもすでに動いているもので、今後の展開を占うような兆しはまだ見えなかった。とはいえやっぱり2019年に迎える40周年には、新しい何かを打ち出すってのが常套だからそれまでいろいろ仕込んでくれていると信じよう。まさか実写版とか? まあそれもありかなあ。


【7月11日】 「ガールズ&パンツァー劇場版」を幕張新都心で見てから戻ってのぞいてた選挙速報。東京選挙区で立候補していた元ビーチバレー日本代表の朝日健太郎さんが5番目で当選を決めて、小川敏夫さんを6番目に下げてそして田中康夫さんを落選へと追い込んでいた。力行を決めてから1カ月あるかないかといった選挙期間でよくもまあ、これだけの得票数になったと思わないでもないけれど、安倍晋三総理を始めとした自由民主党のお歴々が一緒に練り歩いて演説にも立ち、都心部で印象を広げていたことも功を奏したといったところか。知名度があったといったってバレーボールの選手なんて普通の人は知らないからねえ。

 だから知名度を借りるための公認といった意見も半ば正解だけれど半ば不正解。他と見比べた時にやっぱり自民党というひとつの核があり、スポーツ選手でビーチバレーの五輪代表といったプロフィルがあってこれなら良いんじゃないかなって印象を、広くアピールできたからだと思う。田中康夫さんも10年前ならそんな印象をふりまいて改革の旗手とかいった雰囲気の中で当選できたかもしれないけれど、雰囲気が保守に走る中でたとえおおさか維新からの出馬でも、権力に棹さしている雰囲気がある田中さんを敢えて押そうという空気は漂わなかった。三宅洋平さんは……誰それってものだろう。民進党で名前を売っていた小川敏夫さんはだから当選。そんな感じじゃないかなあ。

 朝日さんについては2012年のロンドン五輪後に引退を表明して後、企業に所属しながらもスポーツの振興に尽力したいと東京マラソンのチャリティランナーとして立ち寄付を募りながら自分が広告塔になってスポーツやバレーボールの盛り上げ役になろうとしていた。それを何年も続けてきたことも評価され、誰がどういう経路で口をきいたか分からないけれども自民党に存在が知れて、間際でも公認となりそして大漁の応援となった。その意味では筋は悪くないんであとは傀儡とか操り人形にならず、自分のできる範囲でやりたかったことを着々とやっていって欲しいもの。でもやっぱり改憲とか増税といった政策では、員数合わせになってしまう。個別の政策についてイエスノーを言える立場でもないし。政党政治ってそこがちょっと嫌い。

 残り何議席かとなって大勢も決した参議院議員選挙の速報を見ながら午前も4時くらいになったんで、ようやく久々に地上波で放送されたEURO2016の決勝「ポルトガル代表対フランス代表」の試合をつらつらと。ルイ・コスタもルイスフィーゴもパウレタもいないしテェリ・アンリもリベリーもナスリもベンゼマもいない両チームで見知った名前は、ポルトガルかクリスチアーノ・ロナウド、フランスがオリビエ・ジルーといったところ。そのうちのロナウドが激しいチェックで脚を痛めたか25分くらいで退場してしまい、勝利の絶対条件めいたものが崩れてフランスに風が吹き始める。

 攻撃もジルーをトップにして両サイドを攻め上がってポルトガルのゴールに迫るものの得点は奪えないまま延長へ。そして残りが10分くらいとなった延長後半にふわっと明いてしまった中央でリールに所属するエデルが鋭いシュートを放ってこれが決まって1点先取。脚をいためたロナウドもピッチのサイドに出てきて鼓舞して残りの時間をどうにか過ごしてポルトガル代表がEUROで初の優勝を成し遂げた。フィーゴにルイ・コスタにパウレタにデコにヌーノ・ゴメスまで擁しながら決勝でゴール前をガチガチに固めたギリシャにはじき返され涙をのんだEURO2004から12年。19歳だったロナウドもメンバーとしてその敗退を見ていただけに代表として初のタイトルは、きっと嬉しかっただろう。

 可能ならピッチに立っていたかっただろうけれど、それが叶わなくてもその場所まで連れて行ったのは間違いなくロナウドで、それが評価されればあるいは決勝を途中で退いていたとしても、チャンピオンズリーグをレアル・マドリードで獲得したことも含めて年間最優秀選手のバロンドールを、メッシ選手を退けて獲得するってことも大いにありそう。リーガエスパニョーラでは優勝は果たしても脱税の問題とかあったし、アルゼンチン代表での低迷とかもあってメッシ選手の2015年から2016年はちょっぴり良くなかったからなあ。とはいえこの2人に代わる選手がいないのも問題か。制度の組み替えはあったものの2008年からずっと2人で1位と2位を分け合ってきたから。いつか2人が同じチームに所属するなんてこともあるのかな。ないかなあ。

 千葉県民だから関係がないといえばないんだけれど、国の首都でもある東京の顔は日本の顔にもなって経済やら社会の動静を左右しかねないんでやっぱり気になる東京都知事選。懸案だった参院選が終わって政治の風向きなんかも見定めつつ、誰が出ればどういう感じ広まるかってあたりも勘案しながら、各党とも勝てる候補を出してくるのかと思いきや、自民党は岩手県知事の時にいろいろと失政をして総務大臣の時には東京都の税金が地方に回るような仕組みも作った都にとっては旧敵とも言えそうな増田寛也さんを引っ張り出して据えるつもり。先に手を挙げた小池百合子さんの立場もないけど判官贔屓をするには筋が思想心情的に気分じゃなくて、就任しても役人やら議会やらと軋轢を起こして行政を滞らせそう。

 そんな状況なら民進党が勝てる候補をもってくれば当選だってあり得るのに出してきたのが官僚批判の官僚としておなじみの古賀茂明さん。現役だった頃の経済政策やら産業政策にかける情熱と持てる知識は讃えるにやぶさかではないけれど、コースを外れて以降に歩んできた道と、それに伴う批判のための批判からは何か新しい知見は伺えず都の切羽詰まった状況を新規性のある施策でもって突破していくバイタリティーがあるかどうかがちょっと見えない。状況の批判と改善には長けていてもゼロから何かを生み出すのはまた別の才能で、石原慎太郎さんはあれでいろいろ目新しいことをやったんだよなあ。アニメフェアとかディーゼル制限とか。古賀さんもだから過去の官僚時代に気分を立ち返らせては何が足りていないかを見極め、未来のために今を変える提言ってのをしてくれれば良いんだけれど。そういうリハビリができているとも思えないだけにちょっと不安。かといって他に誰がいる? 明日が見えない.

 ゴジラの足がサンシャインシティの天井をぶちぬいて現れたってんで池袋まで見物に。噴水広場ではなく1階部分の吹き抜け横に天井から下がるようにゴジラの足があって何かいろいろと踏みにじっていた。通りがかりの人とか踏んでいてぺちゃんこになって血塗れになっていたら嫌だったけれどそういうことはなかったみたい。そしてゴジラも足を動かすことなく踏みとどまっていたんで近寄って記念撮影をしながらコチョコチョしたけど特に反応はなかった。まあ恐竜って神経が通うのが遅いから明日の朝あたりにキャハハと身もだえをしてサンシャインシティを蹂躙し、サンシャイン60を真っ二つにしていたりするかっも。ナンジャタウンにはゴジラと戦うARもあってこれがなかなか。腕を突き出せばビームが出る仕掛けで真剣にやったら腕が疲れた。50肩にゴジラはちょっと荷が重い。若者を行けよゴジラを退けよ。

 「ゴジラ」に並ぶ怪獣として名赤い「モスラ」に出演していたザ・ピーナッツの伊藤ユミさんが亡くなってすでに他界していた姉の伊藤エミさんも含めてひとつ、昭和を彩った花が枯れていってしまった感じ。そんなザ・ピーナッツが出演していた「シャボン玉ホリデー」と双璧のようにして昭和のテレビを賑わせた「夢で逢いましょう」を脚本の面から支えた永六輔さんも死去。2つの番組をつなぐ坂本九さんははるか以前に日航機墜落事故でこの世を去っていてどんどんと昭和の匂いが薄れていく。でもそんな中で「夢で逢いましょう」で司会を務めた黒柳徹子さんだけが現役バリバリ。なんかだんだんと一時の森繁久弥さんみたいな立ち位置になって来た。でも見送るばかりだと本人も辛くなるから気にせずひとり、2020年の東京オリンピックを見るくらいの心意気で暮らしていって欲しいものであります。うん。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


縮刷版一覧へ行く
リウイチのホームページへ戻る
riuichi@can.bekkoame.ne.jpが不安定でメールがリジェクトされる様ならwf9r-tngc@asahi-net.or.jpまたはkha02604@nifty.comまで。