村松剛「三島由紀夫の世界」と併せて、漸く三島由紀夫の虚像にとらわれず、ありのままに見ることができるようになった気がする。
村松剛氏の著作では、三島の破滅の美のカラクリ(と言うと言い過ぎだが)、その所以を知り得た。
三島文学がそれまではるか高い所にある様な気がしていたが、それにより身近なラインまで押し下げて眺めることができるようになった。
そういう意味では、本書は三島由紀夫自身にとっては、さらに過酷な著書だろう。
我々のレベルまで引き下げる以上に、我々以下の水準まで三島を押し下げている、とも言えるからである。
文学性については村松氏の著書のとおりである。
しかし、これは三島の側近くにいた作家、それもむしろハードボイルドな、スポーツマンタイプの作家だった。三島の人間性が、おそらく自分自身で知っていた以上に暴かれている。それは、生前三島が何よりも嫌い、恐れていたころだろう。
おそらくはそうであったろうと、三島文学を知っている者は感じていた筈だ。
ボクシングのスパーリングの相手に翻弄されていた姿、剣道の相手に苦笑いされていた姿、映画「からっ風野郎」で演技に匙を投げられていた姿。
現実のそうした場面をあげられることは、それまで思っていた以上に赤裸々な三島の姿を描き出す。
自分の運動能力を理解し得なかった男。スポーツの肉体とは運動性に他ならないのに、ボディビルの形式美と勘違いし、その違いを理解し得なかった男。
居合いさえ、腰がふらつき、鴨居に刃を切り込んでしまい、刃を欠いてしまう惨めさ。
三島由紀夫とは、そうした男だった。ピエロとも見える、その挙句が割腹自殺という喜劇まがいの行動となった。
それらのことは決して三島文学の価値を変えるものではない。しかし、石原は、漸く作品が作者のピエロに似た行動の影響を受けずに存在し得るようになったと言う。
三島自身の行動と三島作品は、全く切り離して考えるべきものだっただろう。
本書は、評論では全くなく、身近な人間が三島の本来の姿を、批判するということではなく事実を語るために書かれた書である。
この書には、石原氏と三島の3回にわたる対談の様子も収録されている。
対談の内容自体は、正直言って私にはよく判らない。難解な言葉でも出てくると、まずお手上げである。
ことに三島は、やたら難しい言葉を選んで使っているような様子がある。
そんなことはともかく、対談について読んで感じることは、3回目の対談の異様さである。それは際立っている。議論にも何もなっていない。三島はかまわず、一人自分勝手なことをしゃべっているだけ。石原氏が一生懸命それに合わせて体裁を整えようと奮闘している感じである。
にもかかわらず、自分が最後に守るべきものは“三種の神器”だと言ったり、真剣で石原氏を威嚇してみたり、「(笑)」なんて取り繕っているものの、実態は暴力で脅かす側の人間と、脅かされている側の人間の同席である。常識外にも程がある。
何が三島をして、ここまで狂わせたのか。
石原氏の言うとおり、ボクシング・剣道を通じて自分の運動神経の悪さを自覚して、ヘンなボディビルなど手を出さずに、女々しいままの三島でいてくれたら、文学的に三島由紀夫はもっと秀でた存在になっていただろうに、と思う。
全く、対談になんか、まるでなっていなかった。
要するに議論がまるでかみ合っていないのである。あんな考えをする位だから、自衛隊駐屯地への押し込み、演説後の割腹自殺のような奇怪な行動にまで至るのは、何の不思議でもない。
【三つの対談】/新人の季節/七年後の対話/守るべきものの価値−われわれは何を選択するか/あとがき
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