自宅の欠陥住宅については、それなりにいろいろな出来事が埋まっている。養父について語ろう。
ダイフクを卒業して初めて社会に出ての就職は本土にしたいとの思いで、生地のナゴヤの中堅企業のタイル会社に決めた。その当時オキナワ人に
対して本土の人は植民地時代の認識が強く、オキナワ人は英語を日常語として使っていると思われていて、事実私は当然英語を話せると思われた
部署の貿易部門に配属された。入って直ぐには言えず、2か月後に会社の意向とこちらの話とのくい違いで辞表をだした。その後、トヨタの期間工をへて

オキナワに帰り、ヤクショの仕事をすることになった。その頃、経済は高度成長期で各企業にあっては人材不足気味で就職の門口は広かった。
親の意向で入ったヤクショはまだ無試験でヤクショに就職できる職場だった。自分が入った頃から4,5年後まで、臨時雇用の形で市議たちが
若者をつれてきては、就職させていた。今日とは違うふるき良き時代。定職として落ち着いたと思われた時に養父はトタン

屋根の木造住宅を取り壊しコンクリートの住宅を建てることにしたのだ。家を建てることはどこの家においても大仕事である。着工時期は海洋博の建設
ラッシュの時と重なり大工はどこも引く手あまた。それに、着工の前日に頼んだ棟梁が脳溢血で倒れてしまい、あとに任された副棟梁と他から人出不足で
入ってきた大工とのトラブルで、仕事が予定通り進まず、毎日仕事後に互のグチをいい合い、あげくに前借をして酒を飲み工事はトンザ。資材を提供する

材木屋は親戚が二件バックにいて心強かったが、棟梁が倒れたことと大工の人手不足はどうすることもできなかった。父はすこしでも建築を前にすすめ
ようと、一輪車で残った基礎工事の土を運んだり、使いやすいように材料を整理したり、後片付けを毎日行なっていた。戦争中出稼ぎのフィリッピンで
銃弾を受け負傷したと母から聞いていた、左足膝の持病が疲れから出たのか父はビッコをひいたりした。それを見て僕も仕事の後、日が暮れるまで、
日曜日には一日中、一緒にいわれるままに父の手伝いをした。そんななかでも工期は大幅に遅れたが、一階の設計図にない余計な柱2つのついた、
2階建ての鉄筋コンクリートの住宅が完成した。


養父母は若かりし頃フィリピンに20年間出稼ぎにでている。終戦になって、岡山で難民生活後、オキナワの久場崎に上陸そこで難民生活。その後
出生地の泡瀬近辺(泡瀬の地は米運に強制撤去されたため戦後は泡瀬人はその近辺(高原、桃原)で暮らしていた。フイリッピンから引き揚げオキナワ
のアワセに来てから海辺で海水の天日干しで塩を作る、製塩会社につとめた後知人の創業した酒造会社に夫婦で住み込みで朝早くから夜遅くまで

一日中働いたと聞いた。養父がフィリッピンに出稼ぎに行く前、祖父は、アワセではハナウチトウマと屋号で呼ばれフトン造りで知られ商売は繁盛していた
と伝え聞いている。長男は字も達筆で村長の書生も務めていた。祖母が亡くなり後長男も熱心に仕事をせず、家業は傾き兄弟は出稼ぎに
行かざるをえなくなったと言う。次男は病気がちで、成人の歳に亡くなったと言う。三男の養父はフィリッピンのミンダナオに麻の栽培をし、豚やヤギの家畜
も飼育しながら一年後に養母を呼び寄せたと言う。三男の父は一中に合格し校長も実家にみえて行かせるよう頼みにみえ、なんとか行かせることができた
ようだが、断念せざるをえず、警察に努めた後嫁を貰い本土に渡った。四男の叔父さんも本土に渡るが、10年もあとで、その間、家業でさんざんこき使わ
れたという。養父は五男一女の三男。相次いで昨年亡くなった実父は四男(享年97)、叔父さんは五男(享年95)であった。


オキナワ地図に示されたアワセは小指程度の突き出た小さな出島である。当時の先人達は部落を挙げて、堤防を築いたりして、土地を守って生活を営んで
きたそれゆえアワセの土地に対する愛着ははかり知れないほど強かったのではないか。現在米軍の通信施設の一部を残し返還後に埋め立てられ、区画
整理されて住宅地と運動公園になって、アワセ人以外の人々も多く住んでいる。戦争で祖父母の写真はすべて無くなってしまった中で、戦前、海中道路
を築いたアワセ有志の人々が袴姿で記念写真を撮っている。アワセフッコウ期成会の発行した写真集に掲載されているが、我が家にある祖父の写真も
それから写し取った唯一の写真である。