ホームに入ってきた電車は、今日も満員だった。昨日は、朝から思いもかけない目に遭った。さらに担任している雄哉を口で慰め、夕方には武史とのデート。それでいて、和恵は飽くことがなかった。今になって思えば、なぜこんなことになったのか分からない。昨日はどうかしていたのだ。今朝起きてから、後悔の念と身体的な疲労で身体が重い。無理矢理に自分を励まして、駅まで辿り着いたのだ。また痴漢に遭ったらどうしよう。昨日の男が待構えているかもしれない。辺りを注意深く見回したが、大丈夫なようだ。

 ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られていると、胸や尻を強く押される。昨日の事があったせいか、妙に気になる。一度、快感を知ってしまった身体は、もとに戻らないのかもしれない。和恵は、いままで性的な経験が少ない。初めてが大学一年の時先輩に。ただ痛いだけで、何がいいのか分からなかった。処女だと知って、その男は離れて行った。武史は二人目の男だ。浮気することもなく、もう二年もつきあっている。もっとも製薬会社の研究室にいる武史は研究に夢中で、なかなか会うことができない。それに彼は性的にはもっぱら受け身で、あれこれと和恵に注文を出してくるばかりで、悦びを与えてくれなかった。一応気持ちはいいのだが、何かが足りない感じだった。それが、昨日、あの男に究極の快楽を教えられて、急に感覚が鋭くなってしまったのだ。駅の階段で下から見上げる視線を感じてさえ、胸がどきどきと高鳴る。H駅までの四十分がいつにもまして長く思われた。 職員室に入ると、教師達が集まってひそひそと話をしている。和恵の顔を見ると、ちょっと戸惑うように視線を泳がせた。嫌な予感がする。

 「先生、ちょっと」

 校長が、和恵を見とめると呼び寄せた。校長室に入って行くと、校長は鍵をかけ切り出した。

 「実は、昨日の事ですが……」

 目の前が暗くなる。

 「先生は知らないかもしれませんが、昨日、三年C組の本田宏美が自殺をしました」

 自分の事ではないらしいとほっとしながら、和恵は事の重大さに言葉を返せない。

 「原因はわかりません。成績も良く、まじめな生徒でしたからね。しかし、お母さんが彼女の手帳を見ていて、妙なものを見つけたんです。」そこで校長は、手元の紙を読みはじめた。「四月十日、江田雅弘、二万円。四月十一日、林道明、一万円。藤本正夫、一万円。井上由紀夫、一万円。四月十五日、江田雅弘、一万円。……」

 「何ですの、それ」江田と藤本は和恵が担任しているA組の生徒だ。なぜ一年生の名前が書かれているのか。それに金額は何を示しているのか。

 「推測の域を出ませんが、売上げの記録じゃあないでしょうか。少なくとも、御両親はそう思っています。本田宏美のうちは、さほど裕福じゃあない。父親の借金もあり、贅沢はできなかった。それなのに買い与えたことのないブランドもののスカートやら財布を見つけたと言うんです。その財布には、五万円の現金も入っていた」

 校長の言わんとするところが、分かってきた。つまり、本田宏美は売春をしていたというのだ。言い換えれば、江田や藤本は、金で彼女を買っていたことになる。彼らは、確かに彼女を知っていた。以前、三年生と揉めたのはこの二人だ。彼女が誘ったか、彼らが金で強要したか。どちらにしても、信じられない。ついこの間まで、中学生だった彼らが……。

 「このことは誰にも話さないよう、御両親には頼んであります。しかし、警察には教えておかねばならないでしょう。その時には、彼らも取り調べを受けることがあるかもしれません。慌てずに、冷静でいてください。よろしくお願いしますよ」

 校長は、勝手にそれだけ話すと、和恵を解放した。和恵は、もっと聞いて見たい事があったが、それは校長にも答えられそうになかった。死者の心の内や、秘密は生きているものには窺い知れない。友達だろうと、両親だろうと、ましてや教師には。自分が性の悦びに溺れていた頃、本田宏美は自分の売春を悔いて自殺したというのか。そんなことは考えられない。いや、考えたくなかった。

 職員会議でも、自殺の事だけを知らせ、その他の事は伏せることになった。しかし、知れてしまうのも時間の問題だ。それまでに学校として真相を究明するのか、それとも警察に委ねてしまうか。どちらにせよ、簡単なことではない。高校に入ってくる時点では、一部の生徒はまだ中学生同然だし、一方、一部の生徒は十分に大人なのだ。体格も意識も経験も大きく隔たった生徒達に一様の方法で対処することなどできない。生徒に干渉するのも、放任するのもどちらも危険なことなのだ。和恵は、こんな煩わしいことから逃れるためにも、武史の求婚を受け入れようかと思いはじめた。

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