405−1.志士は溝壑にあるを忘れず



                                         得丸久文
 志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を
喪(うしな)うを忘れず
(志士は道義のためなら、窮死してその屍を溝や谷に棄てられても
よいと覚悟しており、勇士は君国のためならば、いつ首をとられて
もよいと思っている)

ヒロさんは『孟子』勝文公・下首章にある上の言葉がつらくて読み
進められなかったと言っておられましたか。でも、孔子や孟子や
松陰にとって、節操や道義は命をかけても守るべきとても大切なこ
とだったのです。 

それはおそらく僕たちにとっても同じことではないでしょうか。 
現代に住む私たちは、命より以上に大切なものはないと教育されて
きたから、命よりも大切なものがあるとか、命をかけて守るものが
あると言われると、それだけで途方もなく時代錯誤なことのように
受け取ってしまうのかもしれません。そこから先、いかなる議論も
受け付けなくなるのかもしれません。 

でもね、人間にとって、肉体的な生存と、精神的な生存のどっちが
大切でしょうか。 
精神が死んで肉体だけがゾンビのように生きながらえている状態と
、肉体は滅びて消えてしまっていても精神だけが光り輝いている
状態と、どっちを選びたいですか。 

僕だったら、肉体より精神を選びたいですね。肉体はどんなに生き
延びてもたかだか100年ですが、精神は永遠です。孔子や孟子の
場合ですでに2000年以上、吉田松陰の場合で没後140年以上
、曇ったり朽ちることなく光り輝き続けているのですから。 

松陰は、死を恐れなかった。自分の肉体の死は、自分の精神の死に
比べると、取るに足りないものであるということを、歴史を学ぶこ
とによって知っていたのです。 

なぜならば、歴史をふりかえると、肉体の欲望に負けたり、精神よ
りも肉体をかばった人間たちは、恥ずかしい人間や弱い人間として
記録されるか、あるいはまったく記録に残っていない。 
(ここでいう歴史とは、たとえば、人々が口伝えにたたえ続けてき
た民族の英雄たちの叙事詩です。歴史学者たちが主観を交えて作り
上げたり、政府がプロパガンダの一貫として民衆に押し付ける歴史
でもありません。) 

一方で、心をまっすぐにして生きた人間は、道義を捨てず節操を曲
げなかった人間は、どんなに若くして死んでも、どんなに非業の死
を遂げても、歴史に残っている、人々の記憶の片隅に生きつづけて
いる。 

孔子が説き、吉田松陰も説いた「仁」はいくつもの意味をもつ言葉
です。自分の良心を偽らないこと(忠)、他人への思いやり(恕)
、そして自分のことを顧みないこと(無私)。この仁の境地に自分
をもっていくと、俄然自分が輝き始めるのだと思います。 

そして仁の心をもって一生懸命勉強して何をすればいいかを探り、
時機がきたなら迷わずそれを実行に移す。 
自分のことを顧みていたらタイミングを失うかもしれない。いざと
いう時にサッと行動に移せる状態に自分をおいておくために、いつ
も「志士は溝壑にあるを忘れず、勇士はその元を喪うを忘れず」と
いう言葉をくり返し思い、心に刻みこんでおかなくてはならない、
と松陰はいうのです。 

この言葉は、あくまでも心構えです。おそれず、ひるまず、前に前
に進むから、勝つのです。後ろを振り返ったり、悩んでいたら、勝
つ勝負にも負けてしまいます。僕たちの日々の生活の中でも、役立
つ心構えではないかと思います。 


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