392−2.アパルトヘイトの終焉



1994年2月 得丸久文
第一部 アパルトヘイトの歴史的意味
第一回 アパルトヘイトの日常 
 まだ大学に入学する前に日本で出会った南アフリカ(以下「南ア
」と略)の白人中学生が「アパルトヘイトはよくないこと。だけど
黒人には能力がないし、黒人だけだと混乱に陥るから、私たちが指
導してあげなくてはならない。」といたいけな顔でしかし毅然とし
て言った時に人種差別の根の深さを垣間見た。それは、白人にとっ
ては子供でもわかる真理、常識だったのだ。

 その後僕は大学で国連・反アパルトヘイトセンターの発行する資
料を読むゼミに参加し、反アパルトヘイトの市民運動に通うことに
なる。一度実際に南アに行ってアパルトヘイトの現実に触れてみた
いと思っていた。

静かな南アの日常
 ヨハネスブルグのヤン・スマッツ空港に降り立った時に、そして
町にはいっても「静かだ」と思った。一九八〇年八月、ANCのゲ
リラによる破壊活動が活性化し、日本でも石油タンクが炎上してい
る写真が大きく報道されたばかりだったので、緊張した雰囲気を期
待していたのだが。

 アパルトヘイトという非人間的な所業が、ごくあたりまえに平然
と行われていることが驚きだった。世界でも珍しい法律による人種
差別に人々がどんな気持ちで向き合っているのか興味があったのだ
が、少なくとも差別する側にとってはそれが当然なのだからきわめ
て平穏。差別される側だって、一旦それが日常になってしまえば慣
れるのか。反体制が即逮捕や拷問につながる警察国家では、表面上
は静かにするしかないのだ。

 僕のように「さあ、見てやるぞ」という気構えでいてもあれほど
平穏に感じたのだから、普通に訪問しただけだったら特に注意しな
いかぎりアパルトヘイトの現実など目に入らず、南アは何の問題も
ない国に見えたことだろう。

パラレルワールド
 「お前さん、日本人ならば白人車両にも乗れるけど、どっちにす
る?」とケープタウンに向かう夜行列車の切符を買う時に、非白人
向けの切符売り場でカラードの国鉄職員に聞かれた。

 結局、行きは非白人用、帰りは白人用に乗った。一本の列車の前
後に白人用と非白人用の車両がついており料金は同じだったが、客
室の装飾や食堂車の有無などで白人車両のほうが格段に乗り心地が
よかった。

 列車でプレトリアにも行った。このときは往復とも非白人用の切
符を買っていったのだが、帰りは夜なのに非白人用の客車には電灯
がなく真っ暗、貨物車両のようだった。さすがに恐くなって白人用
の客車に乗り移って戻ってきた。

 二度とも非白人用の薄暗いヨハネスブルグ駅、盲目の乞食が唄う
美しいゴスペルの響くむき出しコンクリートのコンコースから入っ
て、白人用の明るいが冷たい近代的なヨハネスブルグ駅に戻ってき
た。

 名誉白人も悪くない。普通の人はどちらか一方の世界しか見るこ
とができないところを、両方の世界を行き来できる。

黒人居住区の秩序
 ふらりと黒人居住区を訪ねると、そこで出会った誰かが僕を案内
してくれた。
 ベッドがなく狭い家の中の土間に毛布一枚敷いて寝る生活、子供
たちが差別的な教育に反発して破壊し廃墟と化した学校、酒に溺れ
たおとなたちがたむろしていたシェビーン(闇バー)を子供たちが
襲撃した残骸、夜間の職業訓練センター、アフリカ人の貧しい住居
の中に教会だけが目立って美しかったことなどが記憶に残っている
。バス運賃の値上げに反対して通勤バスのボイコットを呼び掛ける
葉書大のタイプ打ちビラを拾った。

 ケープタウンでは市の清掃局のアフリカ人がストライキを続けて
いたために、街中にゴミの山がたまっていく光景を見た。「白人た
ちは俺達がいなくなれば何もできないのだということを思い知るべ
きだ」とカラード(混血)の老人は言っていた。

 ヨハネスブルグにあるウイットウオーターズランド大学の構内で
出会った黒人学生は、アングロアメリカン社(世界のダイヤモンド
市場を支配している南ア最大の企業)の奨学金で勉強していた。
ア社はポストアパルトヘイト時代を安定した社会にするために黒人
中間層の創出を急いでいるのだという。黒人の中に所得・階級格差
を持ち込めば、現在の白人用・非白人用を一等・二等にしてそのま
まアパルトヘイトの日常を引き継げるというわけだ。

 アパルトヘイトがまもなく終わることはみんな確信していた。
あと一〇年から長くて三〇年くらいだろうと言っていた。

 当時はまだ黒人同士の流血事件は起きていなかった。一度も危険
な目に会わなかったし、人からとくに注意しろともいわれなかった
。黒人居住区には秩序が感じられた。

(写真 白人用と非白人用と分かれた施設(駅、歩道橋、バス、
レストラン、海岸など。)キャプション:「あなたはどっちにする
?」)

第二回  南ア「エセ」共和国の終焉
 人口の一五%を占める白人が国の富を独占し、多数を占める黒人
は土地も参政権も奪われて低賃金で非熟練労働を提供する役目を担
わされていたアパルトヘイト体制が終わる。全人種が一人一票とい
う原理に基づいて平等に政治参加する選挙が四月に行われ、黒人多
数支配の政権ができる予定である。

 この変化は単なる政権交替ではないし、また人種隔離政策(アパ
ルトヘイト)の終焉が人種差別の終わりというわけでもない。新生
国家が抱える国家建設の重責とアフリカ大陸の歴史に照らしてみる
と、これは「植民地解放」或は「独立」と呼ぶのがもっとも的を得
ておりわかりやすいのではないか。

 一九六〇年前後のアフリカ諸国独立に続いて、七五年のアンゴラ
、モザンビーク、八〇年のジンバブエ、九〇年のナミビアと続いた
植民地解放の波がやっとアフリカ大陸の南端にまで達したというこ
とだ。

オランダ東インド会社時代
 南アの植民地化は、一六五二年にオランダ東インド会社がインド
やインドネシアにむけての航海の補給基地をケープタウンに設けた
ことが発端である。

 一七〇七年の人口が二千人(奴隷除く)であり、イギリスがケー
プ植民地をオランダから受け継ぐ一七九五年には約一万四千人(同)
。東インド会社は補給基地以上のものをケープには求めておらず、
結果として規模の小さい植民活動であった。

 入植者には新教徒が多かった。ユグノーやオランダ改革派などカ
ルヴァン派は選民思想を持ち、教義中の運命予定説は人種差別を神
学的に裏付けた。すなわち、神は黒人を白人の奴隷として作り賜う
たという世界理解である。

 白人は先住民のコイコイ人(ブッシュマン)を奴隷化することは
できなかったが、近代的火器とコイコイ人社会を内部分裂に導く奸
計によって、徐々に土地を奪い領土を広げていった。一方、サン人
(ホッテントット)は殺戮の対象とされ、南アでは絶滅した。

 ネルソン・マンデラも収容されていたことで名高いケープタウン
の沖合いにあるロベン島はこの時代からすでに監獄として利用され
ており、反抗的なコイコイ人が捕らえられて送りこまれていた。

  一七ー一八世紀には植民地の労働力の確保のため、マダガスカル
、インド、セイロン、インドネシアなどから奴隷が輸入された。
白人男性と女奴隷との婚外交渉によってたくさんの子供が生まれ通
常は奴隷となったが、女の子の中には白人男性の妻となるものもい
た。そのため、アフリカーナ(オランダ系白人は自分たちをこう呼
ぶ)の血には非白人の先祖の血が混じっており、現在でもアフリカ
ーナの両親から色黒で髪の毛の縮れた子供が生まれることがある。

英領ケープ植民地時代
 一九世紀前半の英国では奴隷貿易や奴隷制が禁止され、それが植
民地にも多少は影響を及ぼしたが十分とはいえなかった。実質的に
はオランダ支配時の植民地的人種関係(人種差別)が継続していた。

 英国も最初はケープ植民地を重要視してはいなかったが、トラン
スバール地方で一八六七年にダイヤモンドが、一八八六年に金の鉱
脈が発見されると南部アフリカ地域での利権が脚光を浴びる。

 白人種の優位を信じ野心に燃えるセシル・ローヅは一八七〇年
一七才で南アに渡り、ダイヤモンド鉱区の独占に成功し、それをば
ねに大英帝国の版図を拡大していく。英国がケープ植民地を引き継
いだ後、アフリカーナは自治を求めて東に向かい一九世紀半ばに
トランスヴァールとオレンジ自由国という白人共和国を作っていた
。英国はこの両共和国をも手に入れるべく、ボーア戦争(一八九九
年から一九〇二年)を仕掛けアフリカーナを制圧する。

植民地のままで「独立」
 一九〇九年に英国議会でほぼ植民地の原案通りに成立した南アフ
リカ法は、一九一〇年に南ア連邦を誕生させる。これが現在の南ア
共和国の前身であり、南アはこの時をもって植民地から「独立」し
たことになっている。

 南ア連邦は、英国流の議会内閣制に基づいてはいたが、憲法に
人権規定を持たず、国会議員は白人に限定されており、白人以外の
人種の政治参加を排除した、小数派が多数派を支配するための国家
であった。

 この「独立」は現代では通用しない。一九一〇年当時は植民地と
人種差別があたりまえだったから、国際社会が認知しただけのこと
だ。同じ発想で一九六五年に南ローデシア(現在のジンバブエ)が
白人国家として一方的独立宣言したときは、国際社会はもはや認め
なかった。

 一九六一年に南ア共和国となっても依然として人権規定のない
憲法のままでアフリカ人は無権利状態であり、今日にいたるまで
実質的には植民地の状態が続いていた。この四月が真の独立である
と考えることにより、南アでこれから起きる変化が理解しやすくな
る筈である。

第三回 アパルトヘイトと人種差別
 アパルトヘイトはナチスの強制収容所と同じく「人類に対する犯
罪」として国連から断罪され続けてきた。アフリカ人に鞭をふるい
或は発砲する白人警官、白人専用と大書された砂浜、ベンチ、歩道
橋などの写真を通じて、南アは常識を逸脱した狂気の世界として紹
介されてきた。

 しばしば「狂信的なオランダ系白人=アフリカーナが一九四八年
に政権を取ったことにより人種隔離政策が始まった」という説明が
なされるが、それは正確な歴史理解ではない。

アパルトヘイトは差別でない?
 アパルトヘイト自体は「隔離」という意味のアフリカーンス語で
ある。アメリカの最高裁が「分離すれども平等(separate but equal
)」という判決によって人種差別を擁護したのは一八九六年にさか
のぼる。第二次大戦直後のアメリカでは公民権運動も始っておらず
、まだこの考えが通用していた。

 南ア白人はこのアメリカ製の修辞(レトリック)を用いて、「これ
は人種差別ではない。分離してはいるが平等なのだ」といって安い
黒人労働力の確保と小数白人による国家支配を図ったのだった。
南アの実践の結果として、「隔離(アパルトヘイト)」=人種差別
という世界常識ができあがってしまったというわけだ。言葉の内実
がレトリックを凌駕したというべきか。

植民地体制からの継続性
 アパルトヘイトをスローガンとした人種隔離政策が実施されるの
は一九四八年に国民党が政権をとってからのことだが、人種差別自
体はヨーロッパによる植民地化の歴史そのものであり、一六世紀以
来綿々と続いてきた。国民党は世界が植民地解放に向かっている第
二次世界大戦後の社会でそれを継続するために新たなレトリックと
さらなる人種差別立法を通じて制度化しただけのこと(これとて十
分罪深いが)だ。

 それらの人種差別立法には、アフリカ人の土地所有・占有を制限
する法律、熟練が必要な職場や高給の職場から有色人を排除し白人
が独占する法律、アフリカ人の居住・移動を制限する法律、各種治
安法、遺伝子の混交を防ぐために白人と有色人の結婚や性交渉を禁
止する法律などがあった。

 上記の全ての分野において一九四八年の前にも重要な法律が作ら
れており、立法史上この前後には量的変化はあっても質的変化はな
い。南アの人種差別法は三百以上あると言われているが、あまりに
複雑すぎて当局ですらその数字を把握できなかったという。

 主なものには、雇用先の確認サインを毎月もらったレファレンス
ブックという身分証明書を常時携帯しなければ逮捕されるとする「
パス法」、アフリカ人の土地所有を国土の十三%に限定する「原住
民土地法」、人種別に居住地域を定めた「集団地域法」(この法律
によって都市近郊に住んでいた多くのアフリカ人・カラードが強制
立ち退きさせられた)、アフリカ人に独自の教育(非熟練の単純労
働者以上にならないため)を与える「バンツー教育法」、逮捕状な
しで九十日(のちに無期限となる)拘禁できる法律、白人と非白人
の性交渉を禁ずる「背徳法」、白人と非白人の結婚を禁止する「雑
婚禁止法」、公衆トイレやバスを人種別に利用させる「分離施設法
」などなど。

人種差別は確信犯?
「われわれはもっとも優秀な人種であり、われわれの住む地域が広
がれば広がるほど人類にとっていいことです。現在この地には下等
な人種が住んでおりますが、彼らもアングロ・サクソンの支配下に
はいれば大きな変化を遂げるでしょう。」

 これはセシル・ローヅの言葉であるが第一回で紹介した南アの白
人中学生の言葉を連想する。アフリカーナが始めたアパルトヘイト
が犯罪なのではなく、白人優位の信念に基づく人種差別が犯罪なの
だ。信ずるものは強い。南アに限らず世界中で植民地の形で人種差
別は発現した。白人にとっては有色人種は人間ではないのだから、
騙そうが殺そうが自由であったため、植民地は容易に広がった。

 昨年夏細川首相が日本の大東亜戦争が侵略であったと謝罪したが
、西欧諸国はまだ植民地化と植民地経営について謝罪していない。
むしろ植民地に鉄道や近代的行政制度を導入してあげてよいことを
したと思っている程だ。そして独立後も旧宗主国は新興国家に政治
的経済的軍事的影響を及ぼして思いのままに動かしてきたのだった。

 現在南アでは、白人政権のうちに国家の富を取り尽くすべく、公
務員の年金額の引き上げに通じる給与改定、国庫からの駆け込み支
払い行為、いくつかの主要国営企業の民営化が性急に行われている
。また白人財界は、新植民地主義により、つまりアフリカ人解放組
織を取り込むことにより、アパルトヘイト後の南アフリカを経済権
益を確保すべく工作を続けている。

アメリカ公民権運動の写真「アメリカの人種差別がアパルトヘイト
のレトリックを提供した。公民権運動は黒人意識の思想を提供した。」

第四回   究極のアパルトヘイト
イカサマな「故郷(ホームランド)」
 一九六〇年代になると「分離しているが平等」という論理は通用
しなくなる。南ア政府が考えた次の理論は「それぞれの発展」
(separate development)であった。アフリカ人はヨーロッパ人に混
じって生きていくよりも、独自の国家を作りそこで自分たちなりの
自由と文化を享受すればいい、というタテマエだった。

 南アでは法律によりアフリカ人は国土の一三%の不毛の土地しか
所有できないことになっていたが、一九五九年のバンツー自治政府
促進法・一九七一年のバンツーホームランド憲法法は、それらの土
地を一〇のアフリカ人民族ごとに割り振って、民族ごとの国家
(ホームランド、バンツースタン、ナショナル・ステイトなどと呼
ばれた)として独立させる権限を南ア政府に与えた。

 結局トランスカイが一九七六年、ボプタツワナが七七年、ヴェン
ダが七九年、シスカイが八一年にそれぞれ「独立」したことになっ
ているが、南ア以外にこれらの「国」を承認した国はない。

 ホームランドの地図を見るとわかるが、ほとんどの国の国土が極
端な場合は数十もの飛び地に分かれている。これは白人の勝手な都
合で不要な土地を寄せ集めた結果だが、これもホームランド国家の
不自然さを物語っている。その国土は農業すらマトモにできないや
せた不毛の土地であり、何の産業もなく、「国民」は生活のために
は「隣国」南アに外国人労働者として出稼ぎせざるをえなかったの
だった。

 外国人が働いてよいかどうかは、滞在資格とはまた別に受け入れ
国当局の自由裁量というのが世界の常識である。当局が不適当だと
判断すればいつでも在留資格・労働資格を奪える。外人には自国民
と同じ権利を与えなくてもよいのだ。結局は最終目標に到達せずに
終わったが、自国民の国籍を奪い外国人にするホームランド計画は
、この世界常識を逆手にとったアイデア賞ものだった。アフリカー
ナは国際法に強いオランダ人の末裔だけのことはある。

南ア国籍の剥奪
 ホームランドが「独立」すると、その民族に属しているすべての
人は、たとえホームランドの外で生まれ育っても自動的に南ア国籍
を喪失しホームランドの国民になり、今までにもまして権利が少な
く立場の不安定な外国人労働者になる。

 また都市域に居住していたり失業中のアフリカ人を強制的に立ち
退かせてホームランドに送り込むことも大々的に行われた。一九六〇
年以来三五〇万人が強制移住の憂き目を見たが、その多くはホーム
ランドの中でも最も条件の悪い再定住キャンプに送り込まれた。

 住み慣れた土地を追い立てて、荒れ果てた土地のバラックに強制
的に住まわせる。しかし移住先は農地も工場も衛生施設も文化施設
もない、絶望的な場所。

 働きざかりのおとなたちは都市域に出稼ぎに行かざるをえないた
め、まだ白人のために働けない子供たちともう白人の役にたたない
老人がホームランドに残った。多くの子供たちが両親と会えるのは
一年に一度クリスマスの時だけ。

 ホームランドでの飢餓は極めて深刻であり、子供たちは栄養失調
で苦しんでいた。乳幼児死亡率も極めて高く、そこで生まれた赤ん
坊のうち四人に一人は一才を待たずに死んで行った。飢え死にする
くらいなら逮捕されたほうがましということで、都市近郊に逃げ出
してくる人も多かった。
 南アの「豊かさ」は、同じ国の中に絶望的な貧困世界を作り出す
ことによって成り立っていたのだった。

ポルノとカジノの故郷 
 「ボプタツワナのサン・シティで演奏すると破格のギャラがもら
えるが、アパルトヘイトに反対する俺達は絶対そこでプレイしない
、でっち上げの「ホームランド」への強制移住には納得できない!
」という歌「サン・シティ」が「ウィ・アー・ザ・ワールド」と同
じころ出された。

 南ア政府がホームランドの独立の承認を外国から得るためにこの
歓楽都市を作ったいう「鹿鳴館」的説明もなされるが、実際には南
ア白人の遊興地になっている。南アではポルノ、カジノ、異人種間
性交が禁止だが、ホームランドは外国だからオーケーというわけで
、大量の観光客が訪れる。

 ホームランドでアフリカ人は精神的にも物質的にも飢餓状態に追
いやられていた時に、白人はそれを賭博欲と性欲のはけ口にしてい
たのだった。

新政権の最重要課題
 ホームランドは新生国家において解消され歴史から姿を消す。し
かしそこに住む一〇〇〇万人を超える人々の雇用や福祉をどのよう
にして保証するかは新政権にとっては最重要課題となるだろう。

(ホームランドの地図、飛び地がわかりやすいもの:キャプション
 「ホームランドのいかがわしさは、ほぼ全ての領土が多数の飛び
地から成り立っていることからもわかる。白人の都合でいらない土
地を寄せ集めたからだ。」)


コラム目次に戻る
トップページに戻る