今回は飛行機乗って行きます。
![](image/001.jpg)
毎度毎度早朝のフライトな訳ですが、そろそろ無理が利かない身体になってきています。イトウ君なんざ何か止ん事無き理由で殆ど寝ていない模様。旅行行く前ぐらいゆっくりできるようにスケジュール調整せいよ。
![](image/002.jpg)
普段のバカニホンキコウは大抵船には乗ってるんですが、今回はあまりに乗るので流石に怖くなったジョージ君が日程表を作ってきました。まぁ確かに乗りそびれると他に移動手段がないのでその気持ちはわからではないですな。しかし後程判明するのですがその苦心の賜物であるこの日程表、イトウ君は飛行機の中に置いてきてしまってました。人の気持ちを慮らない姿に涙を禁じ得ません。
![](image/003.jpg)
ということで今回到着した先は広島です。四国、九州は行ってましたが中国地方には初見参です。待ってろよぉ。
![](image/004.jpg)
と意気込みつつリムジンバスからJR西日本呉線に乗り換えます。
![](image/005.jpg)
そして向かう先はこちら忠海駅。といってもここが目的地ではなく、まだ乗り物に乗らなきゃいけません。早朝羽田出たのに、この時点でもうお昼です。
![](image/006.jpg)
ここから向かう先は察しのいい方(って誰だ?)なら気が付いてるかと思いますが、そうです、大久野島へ向かいます。最近じゃウサギの島として有名なそうな。
![](image/007.jpg)
まずここで切符を購入。料金は210円。ホント地元の足ですな。
![](image/008.jpg)
忠海港から出る船で大久野島には向かいますがこの港、ホント小さな港です。まだ船までは時間ありますが、日射しがポカポカして真冬だというのに気持ちいいです… ![](image/009.jpg)
ちょwwww おまwwww
駅寝ならぬ港寝かよ。ホント見知らぬ人の視線は全く気にならず、大胆な行動に出られるその胆力に感服します。
![](image/010.jpg)
そんなこんなで船も着きました。瀬戸内は縦横無尽に航路が駆けめぐっており日常の足として船が利用されてます。なのでこの程度の大きさの船が一日に何往復もするというのがスタンダードのようです。この船で総トン数19tだそうです。
イトウ君は置いていくことも真剣に検討しましたが、一応連れて行くことにしました。
![](image/011.jpg)
ちょwwww また寝てるwwww
一体どれだけ寝れば気が済むんでしょうか。 それにしてもところ構わず靴脱ぐのヤメレ。
![](image/012.jpg)
水面に日光が反射して実にのどかな風景です。
![](image/013.jpg)
まぁ、この人はそんなのお構いなしのようですけどね。
![](image/014.jpg)
そんなこんなで15分ほどで到着。国民休暇村でスポーツを楽しむ人や釣り客なんかもいますが、我々の関心とは真逆の人たちです。
![](image/015.jpg)
そして向かう先がこちら。島内に点在する旧日本軍の化学兵器工場跡を見て回ります。 ![](image/016.jpg)
なんとなく立ち入り禁止の表示があったような気がしましたが、急に日本語が読めなくなってしまいましたので気にせず進むことにします。
![](image/017.jpg)
まず最初が発電所跡です。
![](image/018.jpg)
![](image/019.jpg)
![](image/020.jpg)
![](image/021.jpg)
内部はこんな感じ。現在もそうですが発電所の建物は非常に天井が高く、ともすれば体育館みたいな印象になりがちです。でも戦後すぐに廃墟となりましたが60年経ってもまだ随分と綺麗に残っています。
![](image/022.jpg)
窓からは遠く海も見えます。当時の職員達は海を見ながら何を思っていたのか。
![](image/023.jpg)
「暴走天使」の落書きが涙を誘います。こんな小さな島のどこで暴走なんかできるのかと。で、この中にあちこちある落書きには多くに日付が付いてたんですが、結構の数が昭和40年代というのもこの建物の古さを感じさせます。俺らが生まれた頃じゃん。
![](image/024.jpg)
ホント落書きはその時代のものばっかりです。その頃は結構楽に入れたんでしょうね。
![](image/025.jpg)
蔦が絡まり、徐々に風化する様は諸行無常という言葉を考えさせてくれます(棒読み)。 ![](image/026.jpg)
そして我々は島の反対側へと向かいます。その途中で見つけた看板がこちら。確かに狭い道ではありますが、そこまでヒステリックに禁止するほどではないような…
![](image/027.jpg)
そして辿り着いた先は北部砲台跡。この島が化学兵器工場として使われる前、日露戦争時の芸予要塞として利用されてた頃に作られたものです。太平洋戦争時にはとっくに砲台は外され、毒ガスやその原料が貯蔵されてました。
![](image/028.jpg)
流石に砲台の辺りは見晴らしもいいです。
![](image/029.jpg)
こういうところにくると記念写真を撮りたくなるのは人間の常らしく、イトウ君もカッコつけポーズを人に撮らせて悦に入っています。
![](image/030.jpg)
次にやってきたところは化学兵器の貯蔵庫跡です。 ![](image/031.jpg)
![](image/032.jpg)
![](image/033.jpg)
結構天井が高い倉庫です。
![](image/034.jpg)
壁が黒いのはペンキで塗ったわけではなく、戦後化学兵器を処分する際に火炎放射器で焼いたために焦げた後とのこと。煤が60年残るなんてどんだけがっしりこびり付いてるのかと。
![](image/035.jpg)
![](image/036.jpg)
更に一行は進みまして今度は砲弾貯蔵庫跡へやってきました。なかなか質のいい煉瓦で作られたものです。
![](image/037.jpg)
![](image/039.jpg)
中はこんな感じ。地中海だか中東の建物をなんとなく彷彿とさせます。
![](image/038.jpg)
と思いきや床にはまだ砲弾の後が生々しく残っています。
![](image/040.jpg)
でもこの島は現在は国民休暇村ですからトレッキングするには格好のシチュエーションとなるようにきっちり整備されてます。
![](image/041.jpg)
ですからホント島をくまなく回ろうとすると登ったり下りたり大忙しです。ほぼ海面の高さから最大標高100mまで何往復もしますからヘトヘトですわ。
![](image/042.jpg)
山道の途中には何の説明もなくタンクの保管所跡が忽然と姿を現したりします。
![](image/043.jpg)
そしていよいよ最後は資料館を見て回ろうと思いましたが途中可愛いお出迎えを受けました。
![](image/044.jpg)
もうウサギだらけ。毒ガス検知のために飼っていたウサギが野生化して増えたとのことですが、数多すぎ。
![](image/045.jpg)
野生なのに人間に慣れすぎ。人と見ると一斉に寄ってきます。エサくれ。
![](image/046.jpg)
指さし出すとはむはむしてきます。可愛いよぉ。
![](image/047.jpg)
![](image/048.jpg)
![](image/049.jpg)
いろんな色のウサギがいて飽きません。
![](image/050.jpg)
あんまり可愛いので売ってる餌を買ってあげることにしました。
![](image/051.jpg)
餌蒔くと一斉に寄ってきます。これまで愛想振りまいてた彼らですが、もう餌に夢中。ボクのことは完全無視です。
![](image/052.jpg)
小学校の時の飼育当番の時ですらこんなにウサギに囲まれたことはありません。至福のひととき。でもこんなことして時間潰してる暇はありません。次行きましょう次。
![](image/054.jpg)
一応毒ガス資料館にも行きました。
![](image/053.jpg)
現存する当時の防護服。よくもまぁこんなもので作業してたものです。無知というのは恐ろしいものだとぞっとします。
毒ガスとウサギ、なんか変な取り合わせの島でした。
![](image/055.jpg)
そして次の目的地の島に向かいます。段々と雲が出てきました。
![](image/056.jpg)
次の島へは高速艇で向かうのですが、遠くにその船が見えてきました。
![](image/057.jpg)
と思ったらあっというまに接岸、しかも乗降時間はほんの30秒くらい。あっという間に来て、あっという間に去っていきます。この手際の良さが「巧み」です。
![](image/058.jpg)
シーズンオフのせいか全然お客さんいません。もうガラガラ。
![](image/059.jpg)
![](image/060.jpg)
この当時大活躍してたアフロ君(今命名しました)も遠くを見つめてます。
![](image/061.jpg)
人が一所懸命写真撮ってても彼は爆睡。今回の旅は楽しくないんでしょうか。
![](image/062.jpg)
そんなこんなで船も到着。我々が降りるとあっという間に去っていきました。流石高速艇。
ということで今度は大崎下島にやってきました。次の目的地は江戸後期から昭和初期の建物が数多く残り重要伝統的建造物群保存地区に指定されている御手洗地区です。
![](image/063.jpg)
御手洗地区は港からやや離れたところにあります。港周辺は大長地区でここは船で農場に向かうというチト変わった慣習をもった地域です。
![](image/064.jpg)
一番栄えていた当時の船も展示されてますが…
![](image/065.jpg)
現役の船との区別が付きません。違いは木造かFRP製かどうかということらしいです。
![](image/067.jpg)
そしてここらの特産はみかんだそうです。この蜜柑が後々我々を苦しめることになるとはこの時は想像だにしなかった…
![](image/068.jpg)
そして港から歩くこと15分ほどで御手洗地区に到着です。御手洗地区は沖乗り航路を採る船の潮待ちの際に船乗りが立ち寄った港として栄えたところで、江戸期には日本海から大阪へ向かう北前船なんかも数多く寄港しかなりの活況を呈していたということです。
そして明治から大正、昭和と時代が下るに連れ海運も帆船から汽船へと変わり、潮待ちの必要が無くなったためこの町は役目を終えました。しかし、沖合の島で陸路での交通が遮断されていること、海路においても近隣の諸島のみの航路しか無かったことなどから、古い町並みが開発の波に晒されずそのまま保存されるというある意味怪我の功名とも言える残り方をし、現在の重要伝統的建造物群保存地区指定へと繋がっています。
![](image/069.jpg)
![](image/070.jpg)
そして街中には古い建物が数多く残っています。細めの路地と相まって結構趣のある風景を醸しだしています。 ![](image/071.jpg)
こちらは若胡子屋跡です。御手洗最大の遊郭の跡です。最盛期は100名もの遊女を抱えていたということですからこの町の盛況ぶりが伺えるというものです。
![](image/072.jpg)
そしてその内部。現在は改修されて集会所として使用されているとのこと。ホールの一部では当時の記録が展示されていました。
![](image/073.jpg)
そしてこちらが昭和初期築の芝居小屋乙女座です。でも建物が新しすぎるような気もするんですがどうなんでしょう。
中は未だ劇場として現役の模様。
![](image/074.jpg)
一般の民家もこのようにいい感じ。
後から知ったのですがこの御手洗にはメーカも匙を投げるような時計を修理することのできる名工がいる時計屋さんがあるとのことです。来訪したときには何気なく通ったのですが、あの時計屋がそうだとするともっとちゃんと見とけば良かったと激しく後悔。
![](image/075.jpg)
こちらは恐らく昭和初期の築と思われる洋館。もうホントいろんな時代の建物が混在していますが、それがまた絶妙なバランスで不思議といい雰囲気です。
病院の看板も右から左に読む仕様になってます。
![](image/076.jpg)
この辺りの路地はホントに狭くて大抵は軽自動車が1台通れるぐらいの細さで下手したらこんな感じで2輪ぐらいしか入れないようなところもあります。
とまぁこんな感じで見て回っていたら、地元のおばちゃんにとっつかまりました。どこから来ただの暫く世間話に華が咲いた後、おもむろにビニール袋をもらいました。してその中身はぎっしり入った蜜柑です。多分3〜40個入ってます。重いって。さらに大根とかくれようとしますが流石にそれはいらん。彼氏が優しすぎて怖いとかほざいて別れる女の子の気持ちが少し分かったような気がします。はい、嘘です。
![](image/077.jpg)
防災センター(多分消防車とかおいてある)もこんな蔵造りになっています。これは古いの?新しいの?
![](image/078.jpg)
船の待合所も昭和初期頃と思われ。でも今日はここから出る船には乗りません。
![](image/079.jpg)
とたっぷり歴史を満喫したのでそろそろ広島市内へと向かいます。で船着き場に着いたんですが…
あちゃー 、次の船まで1時間以上待たされます。さてどうしますかね。
|