沖縄決戦

 

昭和20年4月1日、アメリカ太平洋艦隊の艦艇1,500隻が宜野湾に集結、16,000人の将兵が上陸を

開始した。アメリカ軍の総兵力は 548,000人。対する日本軍沖縄守備隊は、牛島中将率いる陸軍三二

軍と大田少将率いる海軍根拠地隊の合計100,000人。戦闘の結果は火を見るより明らかで、四日後に

は沖縄本島の中部一帯をアメリカ軍に制圧された。

 

集結したアメリカ太平洋艦隊

 

昭和20年4月6日、「菊水一号作戦」が発動。日本が誇る浮沈戦艦「大和」が軽巡洋艦一隻、駆逐艦八隻を率いて

出撃した。日本の連合艦隊はミッドウエイ、マリアナ沖、レイテ沖の海戦で壊滅的な打撃を受け、可動艦10隻余り

の状態での無け無しの出撃計画であった。この作戦は上空援護の戦闘機も伴わず、「一億特攻の魁」として生還を

期さない特攻作戦であった。

翌7日、九州・坊ノ岬沖で380機におよぶ敵戦闘機群に3時間に 亘る攻撃を受けた「大和」は伊藤中将、有賀艦長

以下1,500人の将兵とともに碧の海に没した。

日本陸海軍の航空部隊は「菊水一号作戦」に呼応して陸海共同の「航空総攻撃」を発動。約三ヶ月に 亘る死闘で

36隻を撃沈、368隻に損傷を与えたが、特攻機1,900機を含む3,300機を失った。同時期に人間魚雷・回天

特攻隊も10基が出撃、少なくとも4隻を撃沈・撃破したと

思われる。

居住地自体が戦場になった沖縄は軍民入り乱れての修羅場と化し、児童が飛行場建設などの軍務に動員され、

司令部から前線へ砲弾が飛び交う中の伝令として動員され戦死した 児童もいた。沖縄師範学校などの教師・男子

生徒1,700人は実線部隊「鉄血勤皇隊」、女子生徒300人は看護要員「ひめゆり学徒隊」として組織され、半数

以上が戦死。阿嘉島では国民学校の13才から14才の生徒80人が斬込隊として武装・突撃し、全員が非業の最

後を遂げた。婦女子や老人にも「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍律が強要され、避難民の集団自決や軍による

住民虐殺も多発した。

大本営の方針は帝都防衛の準備ための時間稼ぎであり、沖縄は「郷土防衛」の合言葉で民間人を根こそぎ動員し、

持久戦に持ちこむための「捨石」だったのである。

陸軍部隊は5月初旬の総攻撃に失敗し非戦闘地帯に後退、海軍部隊は前線で力闘を続けた が圧倒的多数の米軍

の前に6月11日に玉砕。大田少将は13日に自決、牛島中将も23日に自決し日本軍の組織的戦闘は終了した。

 

        

牛島陸軍中将                   大田海軍少将

 

大田  実海軍少将

昭和20年 6月 6日付け電文

(前略)本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□、一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支ふるのみと謂ふ。

沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを。

 

辞世

身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも 守り遂ぐべし大和島根は  

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

 

牛島  満陸軍中将

訣別の辞

(前略)最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、

全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる

所存なり。

戦雲碧々たる洋上なお小官統括下の離島各隊あり。何卒よろしく御指導賜りたく、切にお願い申上ぐ。

ここに平素の御懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任じられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、

遥かに微衷を披瀝し以て訣別の辞とする。

 

辞世

矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん

秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ     

 

6月23日、沖縄は一方的な敗戦のまま陥落した。

 

戦死

戦死者 約19万人(うち10万人は民間人)。

沖縄出身の軍人と、陥落後に病・餓死した民間人を含めると、沖縄県民の死者は15万人にのぼり全県民の25%、

4人に1人がこの戦いで没した。

沖縄県では6月23日を独自の祭日とし県内各地で慰霊祭が行われる。

 

 

青山霊園

東京都港区

  

牛島陸軍中将墓碑

 

靖國神社

東京都千代田区

八九式十五糎加農

碑文

砲身の弾痕花の雨に泣く

この砲は、沖縄で玉砕した独立重砲兵第百大隊が所有し、戦後洞窟内から発掘されたもので、現存する唯一の

重砲である。砲身を削り、砲脚を穿った数多の弾痕が、熾烈な戦いの後を生々しく物語っている。

(中略)

この度、砲を沖縄から移送して、靖國神社に奉置し、戦没された重砲兵の奮戦を偲び、殉国の神霊を奉慰する

と共に、重砲兵の記念碑として永く保存し、国家の安泰と繁栄を祈念するもの

である。

 

  

八九式十五糎加農 砲身の弾痕

 

九六式十五糎榴弾砲

碑文

沖縄県糸満市真壁の陣地にたてこもりて善戦し 最後は全弾打ち尽くし迫り来る戦車群に肉弾攻撃を

敢行玉砕す

 

京都霊山護國神社

京都府京都市東山区

    

石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦没勇士慰霊碑

銘文

昭和二十年六月二十日 沖縄南部に於いて玉砕

 

高野山奥の院

和歌山県伊都郡高野町

沖縄戦戦没者供養塔

碑文

この塔は、第二次世界大戦の末期(昭和二十年)に沖縄とその周辺で戦没した学徒を含む十八曼万余柱の

英霊を供養するため、全国の遺族会、沖縄県人会、財界、一般学生、報道関係者及び元戦友らの協力によ

って昭和三十九年八月十五日に建立さりました。

形式は日本最古の宝篋印塔を大きくしたもので、現地から運んだ石材をもってその下に沖縄の本島と海をか

たどってあります。

塔の下部には高野山大学講演部の学生らが沖縄本島摩文仁の丘で収集した遺骨百二十柱の分骨をはじめ

各部隊戦没者の分骨や霊石などがおさめられ、全国から寄せられた英霊の過去帳が合祀せられていて、毎

月二十三日と毎年の記念日に法要を行い供養が続けられています。

昭和三十九年八月十五日終戦記念日  沖縄戦戦没者高野山供養塔奉賛会

 

海軍司令部壕

沖縄県豊見城市

海軍戦没者慰霊之塔

 

海軍司令部壕  大田 實海軍中将と幕僚が自決した壕

 

海軍司令部壕 壕の壁面に残る手榴弾の破片による傷

 

海軍司令部壕 内の通路

 

海軍司令部壕 平和祈念 至心合掌

 

鹿児島縣護國神社

鹿児島県鹿児島市

牛島 満陸軍中将の軍服

 

江辻山

福岡県糟屋郡粕屋町

長 勇陸軍中将之碑 …沖縄防衛の第三十二軍参謀長、昭和20年6月23日、魔文仁丘の陸軍司令部壕にて割腹自決

 

長 勇陸軍中将 胸像

 

沖縄戦犠牲者慰霊塔

 

沖縄決戦    玉砕の島    本土決戦

更新日:2012/09/01