いのちの本質を問いかけるno6

廃棄物(ゴミ)の行方 皆で質そう 
ゴミ処分場を丘陵地に集める不謹慎


石井



 平塚市遠藤原一般廃棄物最終処分場建設計画案に対し住民が、「水が汚れる。」と反対の意を表している中、平塚市の建設に向けての動きが伝わる。私は、平塚市総面積の約8%の面積中の清水を保つ地にゴミ(一般廃棄物最終処分場)を集めるのだろうと下水上一般廃棄物最終処分場についでの処分場建設計画構想にこの地に住む者と、行政サイドにある人との丘陵緑地帯に対する価値観の相違に暗然とする。ゴミの実情を学ばねばと思う。
 自治会役員、顔役にゴミの事を、学ぶ役割を申し出(家事雑務業の責の大半を終えた期にあって。)動き始めたが、何故、水源の地を処分場適地とするのかとの謎を解きたくて、先ずはと広報課に行った。
 応対した広報課のI職員に、一般廃棄物最終処分場を再び土屋地域にしたことと、次期分の用地確保について問うが答えなく、地域状況、生態環境等の調査についても答えなし。
 「土屋って地下水(清水)の宝庫なんですよね。」という私に、それを示すデータを持ってきたのか。」「持って来ない。」と答えた私に、「データも持たずによく言うよ。」との声が追う。その後の一問一答調の運びの中で、住民が公へ問題提起することは、精神面、時間面、金銭面等々に大きく負担を背負うことの始まりであることを痛感した。
 住民が処分場建設に反対する前提にあるものは、清水を汚してはならないにある。私も同感の中で、「処分場が出来たら井戸水使えなくなるよね。」と言うと、「処分場設置地点から、どの位の所に住んでるの。」と聞かれ、「東へ1.2km位かな。一寸南によるかも。」と言う。「設置地点から半径500m圏外の居住者は、物を言う権利はないんだよ。」「…どうして。」「法律に随って」と、以下、法律信奉遵守で進む。
 先の下水上処分場関連で起きた内容事態を伝えると、「遠藤原は管理型だから心配ないよ、大丈夫。」と
 昭和56年(1981年6月)、地域住民10数人で市に行き見直しを願う陳情を口述でしたが、答えはない。
 その後、度々水源上への処分場設置の不合理を問いかけたが何の回答もない中で、処分場地点で伐採作業が行われている様を見る。
 昭和56年(1981年)4月の石川市長の直言に期待して、昭和57年(1982年)11月市長に会うことを願って地域の人と秘書課に行ったが答えがない。其の後、何回も秘書課に行くや、時には文書提出もするのだが、なしのつぶてで時は過ぐる。
 昭和58年(1983年)1月14日地域の人10名で署名簿を添えて陳情書の提出を行った。しかし市長から沙汰なし。他部署からも。
 昭和58年(1983年)10月4日 市長への手紙を広報課へ渡した後、助役に会う日が設けられた。
 日時 昭和58年(1983年)11月15日午後4時 設定時間に遅れまじと、所要時間を大幅に見ての庁舎着後、庁舎三階エレベーター付近で待ち続け、助役と同室したのは、4時30分。
 「土屋地域を一般廃棄物最終処分場設置適地と定めた理由は?」の質問に対して、 A助役「社会通念上から言って、平塚市を一軒の家に見立てれば、平塚駅近辺が平塚市の玄関に当たる所。そのそばに奥の間・客室、続いて座敷・居間・台所等あり、どこの家でも便所は陰の方の目立たない所にあるだろ。それと同じなんだよ。土屋はその位置にあるんだよ。だからだよ。」私は、「井戸の真上に便所が造られている家ってあるのかなー。」との思いを声には出さず次の質問をしようとした時、職員の声に助役退席。就業終了時間(5時と聞く)約10分前。
 帰り路は銀杏並木の葉ずれの音に、明日はゴミ問題に取り組むボランティアの方々にゴミのことを学びつつ得る安らぎ感に浸ろうと、50才後半齢の私の健脚に願い、益々ゴミ問題注視せねばと思った。
 海・山を経済成長の糧とするが如、身近な自然からが消失される形態に、命に不可欠なものへの価値観が変容しつつあると思える中で、健全な命(平均寿命は伸びたが)への道が狭められつつある世相が見えてならない。
 前後不覚に進んだ経済成長に、それに伴う廃棄物(ゴミ)の分野が見落とされつつの先に、国民に手数という負担をかけぬよう?にと、税金"多額投入"での廃棄物処理構想でゴミ(廃棄物)を一括焼却しての灰を受け入れる処分場を管理型だから大丈夫とするが、処分場施設造りを具に見ている私は、処分場の長年設置地域に住んでいて、ゴミ問題から離れることは出来ない。
 背に浴びる侮辱感、圧制感払いのけてと。健全な命をと願う地域内外の温和で堅緻な方達に謝意しつつ。水(大気)健やかにと。

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