いのちの本質を問いかける no2

昭和40年後半−土沢中学校に異臭が!


石井


    
  かつての村役場所在地に立つ土沢中学校へ、当時の親達は地元で役場道と呼ぶ急傾斜な山道を通った。自然のままに表土が流され深く抉れた足場の悪い所では、両腕を広げて、道の両端の木枝に掴まって上がる。三ちゃん農者の私は、体力だけはあると自負してつい手を貸したくなる。「大丈夫よ、自力で上がるよ。」などとはしゃぎ笑い合う中で、「手を貸してー。」と声がかかる。上がった先に坂は続くが、屈託なく話が弾む。他のなだらかな道があるのにいつもこの道を選ぶ。山間の道は気温が柔らぎ、彩られる四季に万機を得、騒音から離れての長閑か。
 急坂を登りきった場所に一番乗りした御仁が、「臭うわねー。矢っ張り。」とゴミとの関連をつぶやく。数ヶ月後、再び同所に立ち、「臭いねー。」「子供達毎日なんだよね。」と異口同音。後は虚ろに人家の前まで。中学校がそこに見える。「ウワーっ臭い。」息を止めて駆け出す。中学校舎内で一寸でも臭さが少ない所を探しあって所定の時までを待つ。中学生達、日々をどう処し、多感期の子等、親を社会を、大人をどう捉えての成長か。6年前の長子の頃は清らかだったのに、次女はゴミの臭いが立ちこめる中学校で勉強とは。
 私の尊敬する(中学生を持つ)方が、ごみの様相、環境への思い、意見等を懇々と切々と話された。同感同意にして指示を仰ぎ待つ時御入院。健康そのものに見うけていた私は、すぐに退院と思いいる中にの訃報。また、中学校PTA会長の訃報。私の子供達の同級生お父さん方数人の訃報。中学校がある地区内に住まわれる、三十軒足らずの世帯数の中での癌との病名に呆然としていたママ儘にあった。(平均年齢70才時代)
 昭和52年(1977)ゴミ搬入所入口に〔下水上一般廃棄物最終処分場〕との掲示。処分場下方(三笠川縁)に、水浄化施設が造られ、管口から三笠川へ水が流れ出ている。素置きのゴミ搬入場からどれ程の浸出水を浄化施設に集めることが出来るのだろうか?環境に心置く方々と、流れ出る水に目を凝らした。
 昭和55(1980)遠藤原に処分場が来るとの噂に自治会長の意を仰いだ。自治会長は、三笠川に魚が居なくなったことを言い、水の汚れを懸念して市に問題提起をしている処であり、遠藤原の処分場についても水を守るために反対だと言われ、昭和56(1981)4月土屋地域内で石川市長に直接に、この貴重な地下水を汚さない為に遠藤原の処分場の建設は絶対反対と意見提出をなされた。その時の市長の言葉が脳裏から離れない。「処分場で弊害などありえないはずだけど、もし、そういう問題が起きて皆さんにご迷惑な事態が起きた時には、それに対してきちんと償わしていただきます。」しかし、その後問題が起き市役所に何回も実態を訴えたが、形式的な対応だった。
 行政使命とは、命とは、命にかけがえのない素は?と問いかけたくなる。



 *神奈川大学平塚キャンパスは、今年4月1日から神奈川大学湘南ひらつかキャンパスに改称しました。
 *下水上一般廃棄物最終処分場 昭和47年2月〜昭和59年3月の12年間使用された。民有地を借り埋めたてた後、地主に返却。現在はトラック協会になっている。当時の「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」に準じて建設された。市の説明では、中身は焼却灰と不燃物とのことだが、地元の証言と一致しない。
 * 三ちゃん農者戦争中、男手を兵隊に取られ残った老夫婦と嫁が行った農業。戦後も男はサラリーマンとなったため、その後も三ちゃん農業は続いた。
 * 素置きのゴミ搬入場現在の処分場は遮水シートが敷かれているが、当時は直接ゴミと土を交互に埋めた。ではなぜ、悪臭がするのだろうか?
                                       (*コメント:小林)

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