2001.02.28 Up Date / 2005.11.05Ver.05

物語本文は角川文庫の段数を示す。

解説は『源氏物語必携事典』のために書かれた草稿に全面的な増補を加えたものである。

 は『源氏物語必携事典』に項目がなく、新たに増補したものであることを示す。

 

上原作和 編『源氏物語音楽用語事典』 

東遊 (あずまあそび)

古来東国地方の歌舞。「東舞」とも。平安時代前期には都に入り、宮廷や神社でおこなわれるようになった。仏会・競馬( くらべうま)・賭弓(のりゆみ)の還( かえり)饗な(あるじ)どで舞われ、春日・賀茂・石清水の臨時祭では神楽(かぐら)ともに奉納された。延喜二〇年(九一〇)に勅によって成立した鍋島家本『東遊歌神楽歌』(別名『延(えん)()(ぼく)()』)によって、楽式は現在もほぼ同様の形式で継承されていることが知られる。伴奏は、和琴・高()()笛・笙・(しょう)篳篥(ひちりき)・拍子でおこなわれ、打楽器は使用しない。一歌・二歌・駿河歌・求子歌( もとめごのうた)・大(おお)比礼(ひれ)歌(加太於(かたお)呂之(ろし))の五つから成り、駿河歌と求子歌を番と(つがい)して舞がつけられる。神歌と同じく、楽人は陪従、舞人は近衛の武官が担当する。「若菜下」巻の住吉詣の場面に、「ことぐしき高麗唐土の楽よりも、東遊の耳なれたるは、なつかしく面白く」(若菜下一四)とあるように、日本古来の歌舞として親しまれた。

 

按ず (あんず)

(きん)の琴や当時の筝の琴の左手の運指法で、奏法の基本となる。唐代から継承される現代中国民族音楽に伝わる奏法に照らして、現在と呼称も同様であることが知られる。『河海抄』に「由、按(アンズ)押をす也 手仕也」と見え、『細流抄』に「由はゆる也。あんずるは押す也」とするのが正しく、「案ず」から「考える」と説く古注はいずれも誤り。琴の十三の徽を目印に、左手の名指(薬指)、中指、食指(人指指)、大指(親指)の四本いずれかで絃を押さえつつ、右手の指でさまざまにその絃を弾く奏法を言う。この奏法が上達すると「由す」の技を加えて音に変化を持たせられるようになる。「(源氏)昼はいと人しげく、なほ一度もゆしあんずるいとまも、心あはたたしければ、夜夜なむ静かに、事の心もしめ奉るべき」(若菜下一八)とあるように、「ゆしあんずる」ことそのものが琴の基本練習であったことが知られる。左手の親指で五、六絃をこするように弾く「摩」との連続技を「按摩」と言う。おそらく肩をなどを揉む「按摩」の語源であろう。

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 (◆=鹿+章 おうじょう)

左方唐楽の平調の( ひょうじょう)曲。「海()老葛(びかずら)」とも。祝賀や仏事の際に用いられた童舞。兜を着け、白楚(先端を曲げて白毛をつけた舞具)を持って舞う。皇<◆=鹿+章 >は中国の谷の名(黄<◆=鹿+章 >)で、ここで敗死した王孝傑(こうけつ)を追悼するための曲とされるが、仏事に管絃の曲のみが奏された例(胡蝶二)や、賀の楽として舞われた例もある(若菜上四一、若菜下六八)。

 

 

海仙楽(かいせんらく)

 左方唐楽の黄鐘(おうしき)調の曲。「海青楽(かいせいらく)」「清(せい)()楽」とも。承和年間(八三四〜四八)に、仁明天皇の南池院行幸に際して笛師の大戸(おおとの)(きよ)(かみ)と篳篥(ひちりき)師の尿麿(くそまろ)が船上で作って演奏した船楽。『教訓抄』には、舞の廃絶した曲として収められている。「総角」巻では、匂宮の宇治川での紅葉狩の遊びの折に「もみぢを薄く濃くかざして、海仙楽といふものを吹きて」と笛で演奏されている(総角六八)。

 

()王恩(おうおん)

 左方唐楽の大食(たいしき)調の曲。「感皇(かんおう)恩」とも。唐の太宗作とも、嵯峨朝の大石峯良(みねよし)の作とも伝えられている。太上天皇の御賀などで舞われた。曲名は皇恩を賀ぶ(よろこ)の意で、保元の乱で流されていた藤原師長が召還された時に、後白河天皇の御前でこの曲を奏したといわれる。「藤裏葉」巻の冷泉院の六条院行幸や、「若菜上」巻の源氏の四十賀で舞われている(藤裏葉二六・若菜上四五)。

 

迦陵頻(かりょうびん)

 左方唐楽の壱越(いちこつ)調の曲。「鳥の楽」とも。四人の童舞。天竺(てんじく)の祇()(おん)()供養の日に迦陵頻(かりょうびん)()(極楽に住むという想像上の鳥)が舞い降り、妙音天(みようおんてん)がこの曲を奏し、阿難陀(あなんだ)が広めたと伝えられている。鳥の羽をつけ、桜の花を冠に挿し、銅拍子を両手に持つ。この銅拍子が迦陵頻伽の鳴き声を表現する。「胡蝶(こちょう)」と番(つが)え、法会などで舞われた。『源氏物語』では、「胡蝶」巻の季の御読経でも胡蝶とともに舞われている(胡蝶六)。

 

酣酔楽(かんすいらく)

 右方高麗(こま)楽の高麗壱越(いちこつ)調の曲。村上朝の応和元年(九六一)の藤の宴の船楽では四人の舞として舞われ、康保二年(九六五)の七夕の詩宴では藤原兼家たちが演奏している。舞は、院政期以後廃絶した。「椎本」巻で、宇治川に立ち寄った匂宮とそれを出迎えた薫の一行が八の宮邸に舟で向かう際に演奏された(椎本七)。

 

喜春楽(きしゅんらく)

 左方唐楽の黄鐘(おうしき)調の曲。「寿心楽(じゅしんらく)」とも。四人舞。海彼より陳書興公(ちんじょこうこう)が作ったとも、奈良の大安寺(百済大寺)の安操法師が作ったとも、清和朝に同寺の伝教法師が石清水八幡の遷宮の際の夢告によって作ったとも伝えられている。春を喜ぶ楽で、東宮元服の際にも奏せられる。途中右肩を脱いで舞う。「胡蝶」巻で、三月の六条院の春の町での管絃の遊びで奏され(胡蝶三)、「若菜下」巻の朱雀院の五十賀の試楽では、夕霧の子供たちが太平楽とともに舞っている(若菜下六九)。

 

(きん)

 七絃の琴(こと)。「琴(きん)の琴(こと)」とも。桐製で、箏(そう)と比べると小さい。琴(こと)()がない代わりに、一三の徽()を目印に左手で絃をおさえ、右手で弾(はじ)くように奏す。琴(きん)は、古来、徳義性を備えた絃楽器として重要な役割を持ち、桐壺帝以来の皇統の血を伝える証となった。物語の中で琴(きん)を弾いているのは、光源氏・蛍宮・八の宮・明石の君・末摘花・女三の宮・小野の妹尼・薫の八人である。薫が宇治で琴を弾いている(東屋六四)ことは見落とされがちなので注意したい。光源氏の琴(きん)に関連する物語を通して見ると、北山での弾琴(若紫六)や、須磨における白楽天的生活世界(須磨六)、明石での広陵散弾琴(明石八)に見られるように、竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)のような都での雅とは一線を画した文人趣味的傾向が色濃く投影されているのに対し、光源氏の栄華が絶頂期にあった女楽では、紫上の和()(ごん)や明石の中宮の箏(そう)、明石の君の琵琶よりも、光源氏から奏法を伝授された女三の宮の琴(きん)の音に「優になりにける」絃楽器における優越性と、光源氏に選ばれた被伝授者の尊貴性とが認められる(若菜下二三)。その音色も、夕霧との琴論で、源氏が「ものを整へ知るしるべ」と言っているように、各絃が音律の基準であるという絃楽器の中心的存在であることが確認できる。『河海抄』の若紫の琴の施注に「此の器曲上古渡来、本朝之条勿論也。允恭天武以下令弾給之由、見日本紀。其後延喜の比までも間(絃 ?)弾スル人在之期歟。中古以来楽曲断絶云々。此器干今相残当家者也」と記され、光源氏の琴論でも「世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りを、あまねく見合はせて、のちのちは師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほあがりての人には、あたるべくもあらじをや。ましてこの後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」(若菜下二八)ともあることから、琴は一条朝までに廃れた < 山田孝雄『源氏物語之音楽』(1934>となかば定説化されてきたが、『御堂関白記』でも、長和02(1013)0109日、皇太后が枇杷第に饗餞した折の記事に「参皇太后宮、人々被参、有酒饌事、其次御琴等改絃、試笛等声」と饗宴の席で御琴の絃を張り替え、笛などで調絃して弾奏した事実が見えるし、同じ長和020413日には中宮・藤原斉信よりの贈り物を皇太后宮に献じた一等の美術品の中に、「貫之書『古今』、文正書『後撰』進、入紫檀地螺鈿筥、裏末濃象眼、付藤枝、作琴一張・和琴一張入錦袋」と「琴一張」が見え、これらは春宮大夫や太皇太后大夫らを通じて贈られている史実も判明していることから、一条朝にも弾琴や贈与の対象であったことが確認できる。何より、『源氏物語』には、「由す」「按ず」「輪の手」「胡笳の調べ」など、七絃琴の奏法に関するかなり具体的かつ専門的な音楽用語が認められ、これらの奏法と奏でられる音はおよそ伝聞では表現し得ない的確な形容詞語彙の使用が見られるのであって< 中川正美『源氏物語と音楽』(1991)>、作者も同時代音楽として琴の奏法や音を聴いていたものと考えなければ説明が付けられまい。現存する七絃琴は法隆寺宝物館(唐・開元14年<724>製)、正倉院北倉の「金銀平文琴(きんぎんひょうもんのきん)」(唐・開元23年<735>製)が著名だが、時代がくだる名家の宝器としては、池田亀鑑『全講枕草子/図録編』(1957)に、野坂家伝来の平重衡(115785)所用の「法花」を模した七絃琴の図(中村義雄・画)が添えられていることを確認するに留めたい。なお、本邦でこの楽器が復活するのは、明の亡命僧で琴士の東皐心越が、水戸藩の庇護下となった延宝年間(1673年)頃からである。

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広陵 (こうりょう)

最も代表的な琴曲名。「広陵散」とも。「散」は曲の意で、中国の広陵で流行したことからこの名がある。この曲の主題は、我が国にも平安朝には伝来していた楽曲の由来書『琴操(きんそう)』に見える。すなわち、父の仇討ちのために修行に励む刺客の悲憤がテーマであるが、とすれば、明石の浜で都を追われた光源氏によってこの曲が弾かれたことの意味は、やはり朱雀帝への反叛の志であったということになるだろう(明石八)。

後漢・蔡(さいよう・=水+邑)の『琴操』には「聶政刺韓王曲」《平津館叢書本》として「広陵散」の物語が見える。これは明代の琴譜『神奇秘譜』の四五章の楽章に合致する。「『聶政刺韓王曲』者、聶政之所作也。政父為王治剱、過期不成、王殺之、時政未生、及壮、問其母曰『父何在』母告之、政欲殺韓王、乃学塗入王宮、抜剱刺王、不得、踰城而出、去入太山。遇仙人、学鼓琴、漆身為氏A呑炭変其音。七年而琴成、欲入韓、道逢其妻、従置櫛。対妻而笑、妻対之泣下、政曰『夫人何故泣』妻曰『聶政出遊、七年不帰、吾嘗夢想思見之、君対妾笑、歯似政歯、故悲而泣』政曰『天下人歯、尽政若耳、胡為泣乎』即別去、復入山中、仰天而嘆曰、『嗟乎、変容易声、欲為父報仇、而為妻所知、父仇当何時復報』援石撃落其歯、留山中三年習操、持入韓国、人莫知政、政鼓琴闕下、観者成行、馬牛止聴、以聞韓王。王召政而見之、使之弾琴、政即授琴而歌之、内刀在琴中。政於是左手持衣、右手出刀、以韓王刺、殺之曰『烏有使者生不見其父、可得使乎』政殺国君、知当及母、即自犂?面皮、断其形体、人莫能識。乃梟磔政形体市、懸念其側有知此人者、賜金千斤。遂有一婦人往而哭曰、『嗟乎、為父報仇邪』顧市人曰『此所謂聶政也。為父報仇、知当及母、乃自犂?面、何愛一女之身、而不揚吾子之名哉』乃抱政尸而哭、結陷塞、遂絶行脈而死、故曰『聶政刺韓王』」詳しくは拙著『光源氏物語の思想史的変貌』参照。

 

胡笳の調べ(こかのしらべ)

代表的な琴曲の調べ。本文に「琴は胡笳の調べ、あまたの手のなかに心とどめてかならず弾きたまふべき五六の溌剌(はら)を、いとおもしろくすまして弾きたまふ、さらにかたはならず、いとよく澄みて聞こゆ」(若菜下二八)とある。 「五六の溌剌(はら)」七絃目の「五徽の六部」を左手親指でビブラートさ刺せつつ、右手三指で内に弾ずる「溌」と三指を外に弾ずる「剌」の複合技。「魚の撥ねる様を模せ」と教則本にある。「龍翔操 旧名昭君怨」の第三楽章にこの奏法がある。

 参考 上原作和「『源氏物語』の本文批判 河内本系本文の音楽描写をめぐって」「解釈と鑑賞」(至文堂、2006.01)。

 

 

 

胡蝶(こちょう) 

右方高麗(こま)楽の高麗壱越(いちこつ)調の曲。「蝶」とも。四人の童舞。延喜六年(九〇六)宇多法皇が童相撲御覧(わらわずもうぎょらん)の時に作ったとも、藤原忠房が前栽合の(せんざいあわせ)時に作ったとも伝えられている。蝶の羽を背負い、山吹を持ち、これを冠にも挿して舞う。迦陵頻(かりょうびん)(鳥の楽)と番(つが)えられ、法会などで舞われた。「胡蝶」巻の秋好中宮の季の御読経の際、紫の上が鳥と蝶の装いをした童たちに桜と山吹を持たせて舞わせている(胡蝶六)。

 

(こと)

中国琴箏類、日本固有の絃楽器の総称。「弾き物」ともいう。七絃琴(=古琴(こきん))を琴(きん)の琴(こと)、四絃四柱の楽(がく)琵琶(びわ)を琵琶の琴、十三絃を箏(そう)の琴、六絃の琴を和()(ごん)(「あづまごと」「やまとごと」とも)などがある。平安当時は琴(きん)を、現在では箏を一般に「琴(こと)」と呼んでいる。

 

高麗(こま) 

「笛」の一つ。「狛(こま)笛」とも。竹製で、横笛とほぼ同じ作りだが、やや細くて短いために高音が可能。六つの孔はそれぞれ、筒音、吹口に遠い孔から、干、五、上、夕、中、六という。朝鮮から伝来し、雅楽では右方の高麗楽や催馬楽で使用され、高麗楽ではこの笛の合奏から始められた。中世以降は、東遊の際に歌笛(中管)に代わって使用された。『源氏物語』では、特に光源氏がこれを贈与の品として重んじて、蛍宮や太政大臣(頭中将)に贈っている(梅枝一三、若菜上四五)。また、「若菜下」巻の女楽終了後に源氏が女三の宮から贈られた高麗笛を吹き鳴らした時には、退出しようとしていた夕霧が立ちどまって子息の持っていた笛を取り、すばらしい音色で合わせている(若菜下三〇)。物語の第二部・第三部では、横笛とともに、吹き物そのものが左大臣家の嫡流の楽器として設定されている。

 

 

()(がく) 

内裏などでの舞楽の予行演習。「試み」とも。女房の視点で語られるこの物語では、女性の立場そのものによる制約が大きく、見聞できない本番の儀礼や行幸、賀の舞楽よりも、比較的見物が可能であるという現実的な背景も手伝って、試楽に多く筆が費やされている。たとえば、第一部では、桐壺帝の朱雀院行幸に二度の試楽が語られているが、(末摘花一一・紅葉賀一)、とりわけ後者の試楽は、帝が藤壺のために内裏でおこなった、桐壺聖代の威容をあますところなく伝えるものである。光源氏と頭中将の青海波の舞は、神さびた美しさで人々を魅了し、後の主人公たちに、ありし青春の日の甘美な陶酔と、罪の記憶を甦らせる機能を果たしている。また、第二部では、朱雀院五十賀に当たって準備された、六条院に集う女たちでおこなわれた女楽(若菜下二一〜三一)が、数ある試楽の名場面中にあって、最も優雅で美しい場面描写と心理描写の多層的な語りで際立つ。さらに、女三の宮との密通露見後、光源氏の刺すような視線に柏木が死の病を得たのも、朱雀院の御賀の試楽の酒宴であった(若菜下六六〜七一)。

 

秋風楽 (しゅうふうらく)

左方唐楽の盤渉(ばんしき)調の曲。「長殿楽( ちょうでんらく)」「弄春楽」(ろうしゅんらく)とも。童舞もあり、袍の両肩を脱いで舞う。嵯峨天皇の南池院行幸の際に、勅命によって、常世乙魚(つねよのおとうお)が舞を、大戸清上(おおとのきよかみ)が曲を作ったと伝えられているが、唐からの伝来したとする説もある。朱雀院行幸の際、青海波の舞に次いで承香殿女御腹の四の皇子の秋風楽が見物とされ(紅葉賀三)、内大臣(頭中将)家の秋の管絃の夕べには、曲のみが奏されている(少女一四)。

 

春鶯囀 (しゅんのうでん)

左方唐楽の壱越(いちこつ)調の曲。「天長宝(てんぽうほう)寿楽(じゅらく)」「和風長寿楽(わふうちょうじゅらく)」とも。唐の太宗が作ったとも、鶯の音を聞いた高宗が自明達に命じて作らせたとも伝えられている。襲( かさね)装束に鳥兜を着け、両肩を脱いで、四人、六人または十人で舞う。紫宸殿の桜の宴で、光源氏が舞った(花宴一)が、後に冷泉院の朱雀院行幸でも、かつての舞姿の記憶の中でこれが舞われている(乙女三六)。

 

(しょう)

「笛」の一つ。「笙の笛」「鳳凰とも」。吹き口の付いた木製の匏(つぼ)に十七本の竹管を差し、帯金具で締めて固定した管楽器。約五〇センチほどで、竹管の下部に簧(した)と呼ぶリード、その上に音を出す指孔、さらにその上部に簧の振動と共鳴する屏上と( びょうじょう)いう孔がある。口の手前で引き寄せるように構え、指孔を押さえたり離したりしながら、吹き口を吹いたり吸ったりして演奏する。内部は湿りがちで乾燥させなければよい音がでないため、匏の下方を炭火であぶって調整しておく。唐楽や催馬楽などさまざまに使用され、「合竹(あいたけ)」という五六音の和音を奏でた。『源氏物語』では、北山(若紫六)や、女楽(若菜下二二)、藤壺での藤の宴(宿木八一)で吹かれている。

 

青海(せいがい)() 

左方唐楽の盤渉(ばんしき)調の曲。最もポピュラーな雅楽曲であり、今日のメディアにおいても、雅楽といえばこの曲が流されることが多く、一般にも深く浸透している。輪台(りんだい)を「序」、青海波を「破」として一組曲を編成する。ただし、「急」にあたる曲はない。二人舞で、鳥兜を被り、紅葉や菊を挿頭(かざし)にして、太刀を帯び、青海波の模様(大海賦)のついた袍の片肩を脱いで、袖の振りで波の寄せ返す様子を表す。中国伝来だが、仁明天皇の勅命で和邇(わに)(べの)(おお)()麿(まろ)が編曲し、良岑安世(よしみねのやすよ)が舞、小野篁が詠(えい)を作ったとも伝わる。『第二次 奥入』には、多保行の定家宛書簡として小野篁「青海波詠之」が添付の形で補入され、「桂殿迎初歳 相楼媚早年 剪花梅樹下 蝶<◆=燕(したごころ・なし)+鳥 >画梁辺」の韻が加えられている。定家は、『第一次 奥入』執筆の後にも、音楽関係を多保行に教示を仰いだものと思われる。詠は、舞いながらこの漢詩句の字音を四度朗唱し、この間、奏楽は止めている。さらに、詠が終わると垣代(かいしろ)とよばれる舞人とともに庭に侍して垣のように居並んで演奏する楽人と、楽屋裏で演奏する楽人たちとが交互に演奏する。古代の「歌垣」の平安的な再編成でもある。朱雀院行幸の試楽でもこのあたりの舞台裏が、「詠はてて、袖うちなほし給へるに、待ちとりたる楽のにぎははしさに」と見える(紅葉賀一)。そもそも巻名の由来ともなったこの舞は、「(光源氏)詠などし給へるは、これや仏の御迦陵(かりょう)(びん)()の声ならむ、と聞ゆ。……顔の色あひまさりて、常よりも光ると見え給ふ」とあって、この世のものとも思えぬ神さびた幻想の空間が現出したことを最大の讃辞で評して、光源氏の栄華の人生を象徴する舞姿となった。後に、准太上天皇となった光源氏の威光のもと、冷泉帝が朱雀院に行幸した際に、朱雀帝がかつての紅葉の賀宴を回想し、深い感慨を覚えている(藤裏葉二六)。また、紫の上主催の光源氏四十賀の薬師仏供養の祝宴で、夕霧と柏木が落蹲を舞うフィナーレの「入綾をほのかに舞ひて紅葉の蔭に入りぬる名残り」姿に、人々は往時の紅葉賀の宴を想起するとともに、時の推移を実感した(若菜上四一)。 『源氏物語』以降、『源氏』を先例とする朝觀行幸と青海波の舞の組み合わせは、院政期にしばしば見出すことが出来る。とりわけ、平維盛による青海波は、平家一門の最後の光芒を放ったものとして人々に記憶され、藤原隆房による『安元御賀記』『平家公達草紙』にその優雅な舞いの描写が見られる。これはさらに『建礼門院右京大夫集』にも影響を及ぼし、ここにも『源氏』文化の転生が確認できる。

参考・松井健児『源氏物語の生活世界』(翰林書房.2000)の「青波海」関連諸論。

参考・三田村雅子「青波海再演−『記憶』の中の青波海」『源氏研究/05』(翰林書房.2000.04)、「中世王権の青波海−『記憶』の中の青波海A」「玉藻」(36/2000.05)などの関連諸論。

参考・上原作和「音楽・芸能」『中世王朝物語・御伽草子事典』(勉誠出版.2001)所収

仙遊(せんゆう)() 

左方唐楽の大食(たいしき)調の曲。「仙人河」「仙神歌」とも。隋の煬帝(ようだい)が作らせたとも伝えられる。斎宮が伊勢に下向する際には、その途中、琵琶湖岸の瀬田橋で、楽人によって演奏された。「若菜下」巻の朱雀院の五十賀の試楽では、六条院の「辰巳の方の釣殿につゞきたる廊」を楽(がく)()として演奏されている(若菜下六八)。『狭衣物語』巻三には、狭衣大将が源氏の宮を前にこの曲を琴(きん)で弾いた時、「狭衣を帝位に就けよ」と劇的な賀茂の神託を呼び起こすこととなり、人臣が帝位を獲得する契機を創造した。

 

(そう) 

「琴」の一つ。十三絃。「箏の琴(こと)」「しょうのこと」とも。奈良時代、伝来直後は長方形の桐の箱作りであったが、以後は細目で華奢になっていた。琴(こと)()を立て、右手の爪で頭部近くの絃を弾きながら演奏するので、爪音(つまおと)という。絃は、向こう側から数えて一〜五絃が太(ふと)()、六〜一〇絃が中緒(なかのお)、一一〜一三絃が細緒(ほそお)で、一一〜一三絃を斗為巾(といきん)ともいう。中国から伝来し、平安後期以降、琴(きん)に代わって、中心的な絃楽器となった。奏法は静(しず)(がき)と早掻(はやがき)の二種類があり、それらを混用したものを輪手(りんのて)という。また、左手で絃を揺する取(とり)()という奏法があり、光源氏から習い始めた紫の上がこの奏法でかわいらしく弾くさまが語られており(紅葉賀一二)、「若菜下」巻の六条院の女楽では、和()(ごん)を奏した後、明石の女御から箏を譲られると由()の音や輪手のテクニックを披露している(若菜下二九)。また明石入道が延喜(醍醐)帝から伝授された奏法を継承している光源氏に語っている(明石巻八)。

           

(そう)() 

楽器の譜を楽器によらず口で歌うこと。「しょうが」とも。歌いやすいように、タチツト、ハヒフホ、ラリルロなどの音をメロディーを乗せて歌う。現在の楽器の演奏にコーラスを加えた形態に近いものと思われるが、平安時代の唱歌の実態の詳細は未詳。「乙女」巻では、内大臣(頭中将)が秋風楽( しゅうふうらく)の和()(ごん)に合わせて歌い(乙女一四)、「藤裏葉」巻の冷泉帝の六条院行幸では、弁少将(紅梅)の唱歌の声が賞賛されている(藤裏葉二九)。また、「若菜上」巻の光源氏の四十賀に玉鬘が若菜を献じた折り、人々が、「すぐれたる声の限りいだして」唱歌を熱唱する場面がある(若菜上二五)。くわえて、「手習」巻に、小野の母尼が和琴のメロデイーに合わせて、「『たけふ、ちちりく、たりたんな』など」(手習一八)と、かきかえしたとある。これは一説に笛の譜とも解されるが、古来、これを唱歌であるとして、メロディーにコーラスをつけたとする説もおこなわれてきた。

 

()夫恋(そうれん) 

左方唐楽の平調の( ひょうじょう)曲。「相府蓮」「想夫隣」、仏事では「想仏蓮」とも。『平家物語』で、小()(ごう)が嵯峨野で箏で(しょう)弾く場面では、「『楽は何ぞ』と聞きければ、『夫を想うて恋ふ』と詠む想夫恋といふ楽なり」と見えるが、『徒然草』二一四段に、「想夫恋といふ楽は、女、男を恋ふるゆゑの名にはあらず。もとは相府蓮、文字の通へるなり。晋(しん)の王倹(おうけん)、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり」とあって対立している。『源氏物語』では、「常夏」巻に、光源氏が玉鬘に和()(ごん)で想夫恋を弾くことを要請して、「いで弾き給へ。才は人になむ恥ぢぬ。想夫恋ばかりこそ、心の中に思ひて、紛らはす人もありけめ」と見えるし(常夏四)、「横笛」巻でも、落葉の宮と夕霧が箏(そう)と琵琶(びわ)で合奏する場面もあるが(横笛五)、ともに「夫を想ふる」曲である。

 

 

太平楽(たいへいらく) 

左方唐楽の大食(たいしき)調の曲。「武昌楽」「武将(昌)太平楽」「武将破陣楽(ぶしょうはじんがく)」「小破陣楽(しょうはじんがく)」「項荘鴻門曲(こうそうこうもんのきょく)」とも。四人舞。鴻門の会の際に楚()の項荘と項伯が武具を身をまとい、剣を抜いて舞ったさまをかたどるという。狛鉾(こまぼこ)・陪(ばい)()と番(つが)えられる。即位の礼や法会、相撲の節会などに、太平を寿いで舞われる。「若菜下」巻の朱雀院の五十賀の試楽でも喜春楽(きしゅんらく)とともに舞われている(若菜下六八)。

 

打毬楽(だぎゅうらく) 

左方唐楽の大食(たいしき)調の曲。「打球楽」「万利宇知(まりうち)」とも。四人舞。中国の黄帝(おうてい)作とされる。裲襠( りょうとう)装束をまとい、球子(まり)を毬杖で打ちながら舞う。競馬( くらべうま)・競射・相撲(すまい)などで舞われた。狛鉾(こまぼこ)・林(りん)()などと番(つが)えられる。五月の節会では、武徳殿で、四十人もしくは八十人の騎馬装束の舞人が打毬するのに合わせてこの楽が奏せられ、勝負の乱声が付された。『西宮記』にも五月の節句の項に詳細な記述が見え、これと『うつほ物語』「祭の使」巻の記述から、本来は打毬の競技に舞われる楽であったこと、左大臣が球子を投げる役割であることなどがわかる。「蛍」巻の六条院の馬場での競射の際、「未の時に……打毬楽、落蹲など遊びて、勝負の乱声どものゝしるも、夜に入りはてて」とあり、遊技の合間に何度も舞われていることがわかる(蛍九)。

 

 

溌剌( はら=河内本/はち=青表紙本)

(きん)の琴や当時の筝の琴の右手の運指法で、応用的奏法のひとつ。本文には「琴は胡笳の調べ、あまたの手のなかに心とどめてかならず弾きたまふべき五六の溌剌(はら=河内本/はち=青表紙本)を、いとおもしろくすまして弾きたまふ、さらにかたはならず、いとよく澄みて聞こゆ」(若菜下二八)とある。魚が跳ねる様に弾くことが理想とされた。おそらく「元気溌剌」の語源となった奏法であろう。

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万春楽 (ばんすらく)

()(しん)殿(でん)南庭の男踏歌で奏せられた曲の詞章。『朝野群載(ちょうやぐんさい)』「踏歌章曲」に、「我皇延祚億千齢万春楽……」とある七言四句末の「万春楽」を、三度庭前を踏歌する際、「ばんすらく」と漢音で朗唱した。「初音」巻の男踏歌では光源氏が、「竹河」巻では冷泉院が口ずさんでいる(初音一四・竹河三四)。女踏歌では、「千(せん)()(らく)」と朗唱した。

 

篳篥(ひちりき) 

「笛」の一つ。竹製で、全長一八センチメートルほど。指孔は表に七つ、裏に二つあり、上端に「廬()(ぜつ)」と呼ばれるリードを差して吹奏する。大篳篥と小篳篥の二種類があるが、小篳篥が主流。西域で作られ、わが国には中国から伝来して、神楽や高麗楽の主旋律を奏でる。「若紫」巻では、北山の光源氏を出迎えに行った頭中将の随身が篳篥と笙とを吹き、僧都との別れを惜しんだ(若紫六)。

 

琵琶(びわ) 

「琴(こと)」の一つ。「琵琶の琴(こと)」とも。四絃四柱の楽琵琶と五絃五柱の盲僧琵琶とが伝わるが、物語に見えるのは楽琵琶である。甲(こう)は紫()(たん)、他は各種の木で作られる。撥(ばち)は黄楊(つげ)や象牙を用いる。琵琶の語源は、「琵(手前から外の方向へ弾く)」と「琶(手前から内の方向へ弾く)」で、箏(そう)や和()(ごん)の音が爪音(つまおと)というのに対して、琵琶は撥(ばち)(おと)という。『文選』や『白氏文集』などの漢詩文にも見えるが、『うつほ物語』では琴(きん)を際立たせる役割を担っていた。『源氏物語』で琵琶の第一の名手に挙げられるのは、父入道に手ほどきを受けた明石の君で、「琵琶こそ、女のしたるやうに、憎きやうなれど、らうくじきものに侍れ」(乙女一四)と評されている。他に、源典侍(げんのないし)(紅葉賀一四)や、薫に垣間見される中の君(橋姫二七)など、女の琵琶の撥音が印象的である。

 

(ふえ) 

管楽器の総称。「琴(こと)」に対していう。また、「弾き物」に対して、「吹き物」ともいう。横笛、高麗(こま)笛、神楽(かぐら)笛、歌笛、笙( しょう)の笛、尺八などがあるが、単に「笛」という場合には、横笛を指すことが多い。演奏に際しては主旋律を奏でる。男性貴族は笛を携帯していることが多く、また、贈与品としても貴重であった。

 

 

万歳楽(まんざいらく) 

左方唐楽の平調の( ひょうじょう)曲。「まざいらく」とも。六人の女舞から童舞となり、さらに四人舞となった。『教訓抄』は、隋の煬帝作と伝える。鳥兜に(とりかぶと)襲装(かさね)束で右肩を脱いで舞う。鳳凰が飛来して「賢王万歳万歳」と囀っ(さえず)たことに由来し、皇帝を寿ぐ曲となって、延喜楽と番(つが)えられて皇帝の祝賀で舞

われた。船楽や立楽でも奏せられる。「若菜上」巻の紫の上主催の源氏の四十賀の薬師仏供養の後の落忌(としみ)や(若菜上四一)、夕霧が主催した源氏の四十賀で舞われた(若菜上四五)。「若菜下」巻の朱雀院の五十賀の試楽では童舞である(若菜下六九)。

 

由す (ゆす)

(きん)の琴や当時の筝の琴の左手の運指法で、奏法の基本となる。左手の指で絃を揺すり、音をビブラートさせること。

横笛(よこぶえ) 

「笛」の一つ。「おうてき」「ようじょう」「龍笛( りゅうてき)」とも。竹製で、全長四〇センチメートルほど。指孔は七つで、吹き口や指孔の部分を除いて、樺皮の紐を巻いて漆を塗り、頭部は安定させるため鉛の重しをつける。中国から伝来したもので、雅楽では左方唐楽や催馬楽で吹かれる。笛の中でも最も尊重され、「絵合」巻での才芸論でも、琴(きん)に次ぐ技芸として位置づけられている(絵合一〇)。また、柏木遺愛の陽成院の横笛が、夕霧から光源氏の手を介して、女三の宮との不義の子薫の許に伝えられるという相承が、物語の第二部と第三部を貫流して、錯綜化する血脈のありようを照らし出している(横笛一二・宿木七七)。一方、光源氏と左大臣家流の笛の音双方を知る八の宮の耳を通して、薫の吹く音色に左大臣家=柏木の血脈を想起させ、柏木物語の論理を浮き彫りにする方法とも連動する(椎本七)。

参考・浅尾広良「柏木遺愛の笛とその相承」(「むらさき」1988.07)。

参考・小嶋菜温子「柏木の笛−光源氏主題の継承をめぐって」「六条院と女楽−光源氏主題の消長をめぐって」(『源氏物語批評』有精堂・1995、初出はともに1988年)。

 

落蹲(らくそん) 

右方高麗楽の高麗壱越(いちこつ)調の曲。「納()蘇利(そり)」「双龍舞」( そうりゅうのまい)とも。一人または二人の舞。裲襠( りょうとう)装束に桴(ばち)を持ち、吊りあごと銀歯が付けて龍を模した紺青色と緑青色の二種類面のいずれかで舞い、破()の終末部に蹲る( うずくまる)所作がある。陵王( りょうおう)と番(つが)えられ、競馬( くらべうま)・賭弓(のりゆみ)・相撲(すまい)などで舞われる。一人舞を落蹲、二人舞を納蘇利とする説があるが、『枕草子』に二人舞、『うつほ物語』の「俊蔭」巻に二人舞、「嵯峨の院」巻に一人舞として落蹲が舞われた例が見えるので、二つの名は異称であろう。「蛍」巻の六条院の馬場での競射で打毬楽(だきゅうらく)とともに舞われ(蛍九)、「若菜上」巻の紫の上主催の光源氏の四十賀の薬師仏供養の後の落忌(としみ)では、高麗楽の乱声とともに舞われた様子を、「なほ常の目なれぬ舞の様」と形容している(若菜上四一)。また、「若菜下」巻の朱雀院の五十賀の試楽では童舞として舞われている(若菜下六九)。

 

蘭陵王 (らんりょうおう)

左方唐楽の壱越(いちこつ)調の曲。林邑八楽(りんゆうはちがく)の一つ。曲を「蘭陵王」、舞を「陵王」という。「羅陵王(らりょうおう)」「没日(ぼつじつ)(げん)()(らく)とも」。裲( りょう)(とう)装束に桴(ばち)を持ち、吊りあごのある金色の面を着けて舞う走舞( はしりまい)。落蹲(らくそん)と番(つが)えられ、競( くらべ)(うま)・相撲(すまい)・賀などに用いられる。中国の北斉の蘭陵の王長恭が容姿端麗だったので仮面をつけて戦ったという逸話から生まれた。「若菜下」巻の朱雀院五十賀の試楽では、落蹲とともに童舞として舞われている(若菜下六九)。また、「橋姫」巻で、薫が宇治の姫君たちを垣間見する場面に、中の君が琵琶の撥(ばち)で月を手招きすると、大君が、陵王の故事をふまえて、「入る日をかへすばちこそありけれ」と言い添えている(橋姫二七)。この舞には急が(きゅう)ないとされるが、「御法」巻の紫の上の法華経供養で急に言及された部分があり(御法四)、古来問題になっている。

 

柳花苑(りゅうかえん) 

左方唐楽の双(そう)調の曲。「柳花怨」が正しく、「柳花園」ともいう。四人の女舞。舞姿は吉祥天女(きちじょうてんにょ)とも形容されたが、舞は廃絶した。桓武天皇の代に遣唐使舞生(ぶしょう)の久()礼真茂(れのさねもち)が大食(たいしき)調で伝え、仁明天皇の勅で改めたことが、『教訓抄』に見える。「花宴」巻の南殿の桜の宴に、光源氏の「春鶯囀」に番(つが)えて、頭中将が一人で舞っている(花宴一)。

輪の手 (りんのて)

(きん)の琴や当時の筝の琴の右手の運指法で、応用的奏法のひとつ。

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陵王 (りょうおう)蘭陵王

 

()(ごん)

 絃楽器。「琴」の一つ。現在は桐製で形は箏に似る。六絃琴をさす場合と、中国琴箏類に対して、日本固有の絃楽器としての意味で用いられる場合とがある。「倭琴」「大和琴」とも書き、「やまとごと」「あづまごと」「あづま」「みこと」ともいう。『和名抄』(わみょうしょう)音楽具も、外来の絃楽器である琴(きん)、箏(そう)、琵琶(びわ)に対して、日本古来の伝統的楽器として区別している。神楽(かぐら)、久()()(まい)、東遊な( あずまあそび)どの和楽で、これを「みこと」と呼ぶのはその名残であると思われる。埴輪や古墳時代の出土品から、この楽器の起源は五絃であったと推定されるが、いつから六絃になったかは定かではない。絃は、箏とは逆に、手前から、一、二、……六と呼ぶ。皮つきの楓の柱()を目印に、右手に琴(こと)(さき)という撥(ばち)を持って弾く。物語では琴(きん)についで重視され、琴(きん)の音のさびしさに対して、紫の上や頭中将の和琴の今めかしさ、はなやかさが強調されている。「藤裏葉」巻には、『枕草子』のみならず、『拾芥抄』にも名器としてその存在が伝えられる「宇陀の法師」が、冷泉帝の六条院行幸に際して、一院(宇多院)−桐壺院−光源氏−冷泉帝という系譜意識を意味付ける楽器として登場する。

飛鳥井雅有の『嵯峨の通ひ路』(文永六年 1269)に「(十月)五日。「若菜」の残りより「柏木」にいたる。――女あるじのいはく、『源氏』には、ことさら和琴をなむ褒めたれど、今の世になりては、弾く人多からねば、いまださやかなる音を聞かず、とて責めらるる。病年積もりて、清掻をだに忘れぬる由を、たびたび反さひしかど、あまり拒はむも、なかなか上手のここちして、かたはらいたければ、取り寄せて、緒合せばかり掻きならすほどに、やがて琴より楽を弾き出だし侍しかば、耐へずして付けぬ。楽二、三の後、興ありとて陪艫の早弾き弾き出だす。この早弾きはなべてせぬことなれば、覚えずながら、ところどころ付く。暁になれば、帰りぬ。まだきびはなる音の、しかも打ち捨てて、行方知らずなりにしかば、さこそはありけめ」と見えて、雅有は和琴の名手であったことが分かり、また御子左家当主・藤原為家の側室・阿仏尼の『源氏物語』における和琴評が見える。

参考・浅尾広良「六条院行幸における朱雀院−『宇陀の法師』を視座として」(「王朝文学史稿」211997.03)。

『源氏物語必携事典』(角川書店.1999)草稿より Text By Sakukazu Uehara Copy right 2001CAllrights Reserved