死んだ会社社長フォテスキュー氏のポケットには、 麦粒がいっぱい詰まっていた。 そして、イチイ荘に住む彼の関係者が次々と死んでいく。 それはまるで、童謡の文句をそのまま再現したかのような殺し方であった。 事件を担当したニール警部はあちこち話を聞いてまわる物の、 フォテスキューの過去がらみの復讐も絡んで来て、 どうしても事件を解決することができない。 そこへ、ミス・マープルという中年女性が乗り込んできた。 殺されて鼻を洗濯バサミで止めるという辱めを受けた女中、 グラディスを女中として教育したことのあるマープルは、 彼女の無念を晴らすため、捜査を開始するのだった・・ |
美醜や身分にまつわる不公平について深く考えさせられた。
普段は冷徹なまでに冷静沈着ぶりを発揮するマープルが、
最終シーンで憤りの余り涙する部分は特に感動します。
他の系列作品と比べてロマンテックな恋愛の話は存在しないが、
いまいち階級の低い人間が愚かに描かれすぎるのが難点。
たとえば、
マープル | 「ああいう娘たちは、映画なんかの影響で いつか自分の身の上にも幸運が訪れてくるという、突拍子もない夢を持っている物です。 夢を持つだけでも、あるいは幸運といえるかもしれませんが、 いつかは夢の覚めるとこがくるのを防ぐわけにはいきません。」 |
私に言わせれば、アイルランド貴族の出のパットだって、
中味は似たような物だと思うんですけど。
ただ、映画が恋愛物語か聖書に変わっただけじゃないですかね?
(やっていることがグラディスとあまりにも同じなので・・)
ちなみに、ドラマ版マープルではグラディスは太った女性として登場。
アデノイド(金持ちはすぐに治せるので後遺症は出ない)も、
肥満も、まあ似たようなものですから・・・・
あと、日本人の多くが、どうしてみんなが
放蕩息子のランスをみんながちやほやするのかわからないことでしょう。
それは、この物語が「放蕩息子のたとえ話」を下敷きにしているのです。
(しかもそれは、アメリカなどでは、禁酒にような形で未だに威力を誇っています。)
放蕩息子の物語は、以下のようなものです。
(新約聖書(ルカによる福音書第十五章11〜32節)由来)
ある父親に二人の息子がいた。兄はまじめな性格で、父の家に残り仕事を手伝っていた。 反対に弟はいい加減な性格で、父親がまだ生きているのに遺産を受け取り、(略)放蕩の限りを尽くす。 そして全財産を残らず使い果たしてしまう。 最後に、(雇われた先の農園から逃げ出し)謝罪して父のもとに戻る決心をする。 父は喜んで彼を出迎え、宴会を開く。 |
「図説 大聖堂物語」によると、父は神、娼婦は現世の誘惑を指すとのこと。
放蕩息子はユダヤ教を捨て、キリスト教となった信者、
兄はキリストを受け入れないユダヤ教徒であるという。
というわけで、いちど放蕩してキリスト教に帰依した者は、
そうでない者よりポイントが高いわけですね。
(まあ、そんな単純な問題じゃないかもしれませんが)
また、登場人物の名前には、アーサー王伝説に出てくる人物にまつわるものです。
例えば、ランスロット、パーシヴァル(聖杯の騎士ガラハドの昇天を見た高潔の士)など。
また、レックスは意味が王であることからアーサーに例えたものと思われますし、
ジェニファーはグゥネヴィアからじゃないかと思います。(あくまで憶測ですが)
ちなみに、マープル自身が非差別対象です。未婚のおばあさんですから。
しかもおしゃべりが好きで、ずけずけ物を言う、いわゆる「女の悪徳」の塊です。
(この辺はソクラテスとクサンティッペの逸話について少しでも知ってればわかる)
というわけで、マープルも軽蔑のまなざしで見られながら生きてきた訳です。
だからこそ、彼女はグラディスの死に怒りを覚えるんだと思います。
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