ジョン・グリア孤児院で育ったジルーシャ・アボット(愛称ジュディ)は、 小柄で想像力豊かで聡明な、不撓不屈の根性を持った快活な少女。(当初17歳) 彼女の将来について議論するための評議委員会で、 ある評議員が(今までは男の孤児のみ援助して大学へ行かせていたのだが)、 ジュディの書いた『憂鬱な水曜日』という作文の出来が素晴らしかったため、 彼女を特別に大学へ行かせること決める。 ジュディの想像力を助長し作家にするためにその評議員が考えだしたのが、 自分の素性を一切知らせないでおいて、自分に宛てて彼女に手紙を書かせる事だった。 ジュディはその申し出を受け、大学に通いはじめる。 そしてそこで学んだ様々なことを「あしながおじさん」に向けて手紙に綴る。 やがてジュディは成長し、あしながおじさんの反対を押し切り、 家庭教師として身銭を稼ぎつつ小説家としても成功し、自立を果たす。 そこへ14歳年上のペンデルトン氏が出現。ジュディとの仲は急速に深まっていくが・・ |
感想
全て主人公からあしながおじさんに送られた手紙で物語が構成されているところが凄い。
世の中で「あしながおじさん」といえば、ロリコンで変態の代名詞のように使われていますが、
そういう漫画や文章を書く人は、この本をお読みでない事と思われます。
一度お読みになってほしいと切に思います。
源氏物語は良くて、「あしながおじさん」がロリコンの代名詞のように言われるのは、
社会主義者(穏健派)が主人公だからなんでしょうね。
でも、産業革命時代のイギリスでは、子供たちが炭坑夫として働かされていました。
そんな時代に一人で生きて行かねばならなかった孤児たちが、
彼らを使い捨ての道具のように扱っていた資本主義に傾倒するものでしょうか?
現代の資本主義と、当時の資本主義とは違います。
現代のそれは、過去の失敗を反省し社会主義から学び、新たに誕生したものだと思います。
この本にはジョークが満載です。
なので、真面目に読もうとしてもおもわず吹き出してしまうこと請け合いです。
例えば、まったく顔も見えなければ名前も知らないあしながおじさんに対して、
ジュディは様々な想像を巡らし、ついには壮年の男性像を作り上げるのですが、
頭髪までは想像できず、何度も手紙に髪の毛の有無を教えてくれるようにと書いています。
(しまいには、頭髪の有無について電報で知らせてくれとまで頼む)
「あしながおじさん」と源氏物語等の一般的な少女育成物語とが異なる最大の点は、
育成される対象であるジュディが自立した女性に成長する点です。
あしながおじさんが彼女を一流の淑女に育てようとしてパリ留学を申し出ても断るし、
最後には小説を書いて千ドルも稼ぎだして、援助してもらった学費を一部返還しています。
(無論、あしながおじさんの期待を裏切って)
それにしても、あしながおじさんは字が下手だから手紙を書かなかったんでしょうね。
「後ろにそり返った肩上がりの妙な字」でジュディへの贈り物カードを書いている所からして。
ジュディ | 「何かを望んだ場合に、それを熱心に求め、努力を続けていれば、 最後には必ずその望みが遂げられるものです。」 |
これこそまさにウェブスターの人生哲学そのものです。
巻末の解説に書いてあるように、彼女は小説家になるまでに、
何度も自作の小説を出版社から送り返されています。
それでもあきらめないことが、彼女に成功をもたらしたのですね。
巻頭の言葉に「あなたへ」と全ての女性へこの物語を捧げたウェブスターですが、
それは少女にシンデレラのようになる夢を抱いて欲しいという意味ではなく、
自分の力で生きていける逞しい人になってほしいという願いが込められているのでしょう。
ジュディ | 「おじ様、私は幸福になるほんとうの秘訣を発見しました。 (略)いつまでも過去のことを悔やんだり、未来を思いわずらったりしていないで、 今のこの瞬間から最大限度の喜びを探し出すことです。 (略)たいていの人は(略)地平線の遥か彼方の決勝点に一刻も早く着くことばかり熱中して、 (略)自分の通っている美しい静かな田園風景など眼にも入らないでいるのです。 そのあげくにまず気がつくことは自分がもう老年になり、 疲れ果ててしまい決勝点に入ろうが入るまいがどうでもいいことになっているのです。」 |
(名著「道は開ける」(D・カーネギー著)にもある内容ですが)現在(いま)を生きること。
これこそ幸福な人生を生きる為の秘訣なのではないでしょうか。
今の世の中だけのことではないのでしょうけれど、
成功哲学だの恋愛(受験)マニュアルだの『生きるための指南書』があまりにも多すぎます。
(そしてそれは大概、過去を理想化して過去に戻れと示唆する)
だけど指南書通りに完璧な人生を生きようとするのは、
まさに「生活しているのではなく競争している」のではないでしょうか?
私の経験から言わせていただければ、そのような人生はただ空虚で苦痛なだけです・・
ジュディ | 「男性を同意させる方法は二つよりありません。 ご機嫌を取るか、自分が機嫌をわるくして見せるかです。 私は自分の望みを遂げるために男性のご機嫌をとるなんていうことを軽蔑します。 だから私は不機嫌になることにいたします。」 |
ジュディはあしながおじさんに援助を受けてはいますが、従属しているわけではない。
男性に媚びて意に従わせることが女性の特権のように言われることが多いけれど、
この物語でははっきりとそのような特権を行使することを拒否しています。
ジュディ | 「この夏私をヨーロッパへお遣わしくださるというお申し出は、 本当にご親切でうれしい限りでございますー(略)けれども気を落ちつけてよく考えてみて、 これはお受けすべきでないと悟ったのでした。」 |
ジュディ | 「今教会から帰ってきたところですー(略) その人の言うには、私たちは天性の感情を犠牲にしてまで 知性を発達させるようなことをしないように気をつけなければいけないんですって (略)どういうわけであの人たちは男の大学へいって、あまり勉強に頭脳を使いすぎて 男らしい性質を台なしにしないようにと忠告しないのでしょう?」 |
当時は女性が大学へいくことは、花嫁学校へいくことの延長線上にありました。
今の日本でいえば(もう古いかもしれませんが)、有名大学(短期大学)を卒業し、
お見合い相手の条件をよくするためと言えましょうか?
だから、卒業間近に外国へ旅行へ行って淑女らしいたしなみを学ぶことは、
社交界にデビューするにしてもしないにしても、金持ちの娘には必須教養でした。
ジュディの同室の大学生でペンデルトン一族で何不自由無く育ったジュリアは、
そういう価値観に疑問すら抱いたことのない娘として描かれています。
しかし、ジュリアのように、自ら進んで勉学の機会を無駄にすべきではないのです。
他の働く女性達は劣悪な環境で身を粉にして働かなければならなかったのですから・・
ジュディ | 「(皆の話題についていけなくて孤独な時に) 私は自分の顔に『ジョン・グリア孤児院』と書いてあるような気がしました。 すると二、三人の慈悲深い連中が近づいてきて、何かしら、ていねいな言葉をかけるのでした。 私はあの人たちは誰も彼も憎らしく思いましたーことに慈悲深い連中はいちばんきらいでした。」 |
ジュディ | 「今朝のお説教に監督様がどんなことをいったとお思いになりまして? 『聖書の中に記されている最も恵み深いお言葉はー貧しき者、常に汝らと共にありー(略)、 貧しき者がこの世にあるのは我々をして常に慈善を行わしめんとする神のご意思なのであります』(略) これじゃあ、まるで貧乏人は役に立つ家畜同様ではございませんか!」 |
ジュディ | 「ここにひどく窮迫している一家がございます。 (略)父親は(略)肺結核に罹りましたーひどく健康に悪い職場にいたのですー (略)従って一家の生活は二十四歳になる長女の肩にかかっているのです。 (略)母親は(略)娘が過労と責任感と心配で身をすりへらしているのに、 (略)両手を組んでじっと座り込んでいるだけで何もしないのです。」 |
この時代、一部のお金持ちだけが物質的に満たされてしたい放題の生活を送り、
貧乏人は信仰にすがるか、賭博や麻薬に溺れて現実逃避するか、過労のために死ぬしかなかった。
ほとんどの金持ちには事態を改善しようとする気はありませんでした。
(自分たちには関係ないからなんでしょうね)
不幸な人たちの存在を正当化するために聖書の教えが引用され、
自分が幸福であることを再確認し、優越感に浸るために慈善活動が行われていたのです。
ジュディの中学校時代の慈善箱のエピソードをお読みになれば、
彼女が慈悲深い連中に嫌悪感を抱く理由がよくわかると思います。
(子供たちに同情心を期待する事は無理だと私は思っています)
ジュディ | 「それでね、おじ様、私も社会主義者になるつもりですの。 (略)無政府主義者なんかとは全然ちがいます。 爆弾を投げて人を吹きとばしたりするようなやり方には賛成しないのです。」 |
ジュディ | 「私は(略)気ながに機が熟するのを待つ社会主義者なのです。 この一派は明日社会革命を起こそうなどとは望んでいません。 そんな急激なことをすれば社会に混乱を来します。 (略)遠い将来をめざして革命をじわじわと進めていくのです。 目下のところは産業、教育、孤児院の改革に着手すること(略)です。」 |
当時は先進国と言われる国々では、身分(経済力)による不平等が満ちあふれていました。
お金持ちと普通の人(労働者)の間の経済格差が激しく、
それを改革しようとする社会主義者があちこちで出現しました。
しかし、社会主義者の中にもあまりにも急に改革しようとする達が多く、
本質を忘れて国家転覆をはかったり要人暗殺に走ったりと過激な行動に走ったため、
社会主義者への世間の目は総じて冷たいものであったと言わざるをえません。
それに、過激な活動家達の中には本当に社会を良くしようとしていたわけではなく、
単に自分の欲求不満、劣等感の解消を求めていた人間もいたというのは、
「大衆運動」(エリック・ホッファー著)にも出てくる話ですしね。
しかしウェブスター達、労働者階級の人間の過酷な環境を変えたいと願う人たちは、
過激な社会改革の思想にかぶれていた訳ではありませんでした。
P157には、ペンデルトン家に滞在したジュディが、
ジャーヴィス・ペンデルトン氏が社会主義者であることを知る場面があります。
ペンデルトン家の住民は、彼が乗馬や自動車やヨットに金を使わず、
社会的弱者への援助にお金を投資していることを嘆いているのです。
世の中には貧乏人が溢れていて生活に困っているのに・・です。
(このことは、この後に起こる大恐慌の時代の映画を見ればわかると思います)
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