続あしながおじさん(DEAR ENEMY)

ジーン・ウェブスター 著/ 松本恵子 訳/新潮社


ストーリー紹介

前作「あしながおじさん」でペンデルトン氏と結婚した孤児ジュディは、
クリスマス・プレゼントとして、夫から、
かつて自分が住んでいたジョン・グリア孤児院の改革の仕事を与えられた。

ジュディは院長として、ジュディの大学時代の友人で、
赤毛の美人サリー・マクブライトを選んた。

サリーは負けん気が強く、弁舌も得意だったが、
世間一般の女性のするごとくウスターの社交界にこもってしまっていた。

彼女ははじめ断るものの、恋人のゴルドンにからかわれ、
持ち前の負けん気から侍女と犬をつれて孤児院に到着する。

はじめ、普通の主婦になるつもりだったサリーだったが、
波瀾万丈の物語の末に、院長として生涯を送ることを決意するのだった。

注:ジュディとは、ジルーシャ・アボットの愛称。


・・注意・・
ちなみに、この時代(二十世紀初頭)では心の病についての知識がなく、
心の病や犯罪を犯す性向が遺伝で伝わるというのが常識でした。(「カリカック一族」)
また、知的障害者についての知識もなかったため、多少は差別的表現が出てきます。
(言葉だけ変えれば良いというものではありませんが・・)

現代では心の病や犯罪を犯す性向は遺伝しないという説が一般的です。
それを前提に読んでくださいね。
(そういう[時代の風潮]を学び現在を振り返る事が大切な事ですから)

 感想 


前作と同じく、全て主人公から誰かに送られた手紙で物語が構成されているところが凄い。
また、さまざまな文学作品由来のウィットに富んだ文章は、作者の深い知識を感じる。
しかも、階級の低い人間への偏見が全然ない。

訳者本人による解説によれば、ウェブスターは(当時は珍しかった)大学出の才女で、
感化院や孤児院を視察した経験から、孤児に深い同情を抱くようになったらしい。


ちなみに、この作品は「アブナー伯父」とほぼ同時期に書かれていたりします。
(「アブナー伯父」は時代劇なので、時代が少々違っていますが)

「DEAR ENEMY」は原題です。私はこっちの題名を使って欲しかったです。
だってジュディ(ジルーシャ)が主人公じゃないんだもん。(笑)

にもかかわらずこの本を紹介するのは、訳がとっても良いからです。
サリー(愛称:サリーせんべい)のアイルランドなまりは京ことば。(確実)

マックレイ医師(愛称:敵、ドクトル肝油等)のスコットランドなまりは大阪弁。(ほぼ確実)

なんで京都、大阪かというと、アメリカ人にとってのイギリスの立場を、
東京にとっての上方(京都付近)の立場に置き換えて訳してあるからなんですね。
訳する人の技量の高さがよくあらわれていますね!

以下は、引用文の紹介とともに、友人との議論の中から出た考察を書いてみます。

サリー 「あなた方は余りに幸福で平和で仲よくしていらっしゃるから、
何の警戒心もない傍観者は、
誰でも自分の出会った最初の男の人にとび付いて結婚してしまわせます
−しかもその相手は、きまって悪い男ということになるのです」
(P336ジュディへの手紙より)


ちなみに、「あなた方」とは、ジュディとその夫のことです。 ここで、「悪い男」というのは、
前後の文脈から判断すると「性格の合わない男」ということになるでしょうか?

前作でのシンデレラ・ストーリーを根底から覆すようなヘレン・ブルークスの悲劇と、
浮気な夫に虐待される妻の独白などの様々な出来事からきたセリフです。

また、理想の恋に憧れた男性の物語も出てきます。

本文P129から登場するパーシイ・ド・フォーレスト・ウィザースプーンは、
軽薄なデトロイト娘と婚約し、ひどいやり方で別れを告げられます。

彼の場合も運悪く結婚していたらどんなことになっていたか、考えるのも嫌ですね〜・・・

サリー 「ここは恐ろしいところでございます。どんなに暗く、
さむざむとした臭い場所かは、言葉につくせません。
いくつもの長い廊下、むき出しの壁、青い制服を着た活気のない顔をした小さな子どもたち−」
(P18:ゴルドンへの手紙より)
サリー 「ここの体格検査の結果、ここの孤児の約半数は、貧血症だという事が明らかにされたのです
(略)それから多数の子どもが結核の素養を持っていますし、
大多数はアルコール中毒を親からうけております。」
(P45:ジュディへの手紙より)
サリー 「(窓から院の鉄柵をながめながら)私はまるで檻の中に閉じこめられているようで、
(略)丘のむこう側に何があるかみたくてたまらなく思っていたのです。可愛そうなジュディ!
 あなたの少女時代は、今私が感じていると同じ憧れに包まれていらしたんでしょうね。」
(P217:ジュディへの手紙より)


孤児院に暮らす孤児たちがどんな処遇を受けたかが察せられる部分です。
食事もまともなものは支給されず、貧血気味で身体の成長も阻害されています。

孤児は孤児院に入れてもらえるだけでも満足しなくちゃいけない、といった、
差別的観念が当時あったことを如実に表れています。

外にも自由に出してもらえないから外の世界を何も知らずに育ち、
一定年齢に達したと見るやいなや世間へ放り出されるわけです。

他の手紙には、以前の院長であるリペット女史が行った他の虐待も出てきます、
子どもたちに忍従の精神を無理矢理おしつけるという、精神的虐待です。
(忍耐を強要したり、院の経済を効率よくするために同じ仕事ばかりやらせたりする)

サリーは彼らに同情し、独創性や発明心などを育てたり、
世の中に出ても恥ずかしくない様々な技能や常識を身につけさせようと努力します。


そんな孤児生活の中でも個性を失わない子供も出てきます。
ポンチやサディ・ケイトなどは、ジルーシャの幼年期もかくやと思われます。

彼らはどんな境遇の出身であろうと、育て方さえ間違わなければ、
自分の能力を高め、成功することができるだろうと思います。
まあ、逆に言えば、なまじ頭がよくて気概もあるので、
教育が悪ければ、高度な犯罪をおかす人間になりかねないのですが。

一方、殆どの子たちは教えられた従順さと忍耐を覚えて、
(内向的であろうとそうでなかろうと)[受け身な人]に育ってしまいます。

[受け身な人]とは、劣等感を強く持ち、自分に自信を持つ事ができないために、
そのため(考え方の基準が他人にあるので)、自分で物事を判断できない人間です。

私も以前はそう言う人格の持ち主であり、何度か酷い目にもあってきました。
(こうしてサイトを運営できているだけ運がよかったのですが)

過去の私も含めて、[受け身な人]は口のうまい人に騙されやすい。
運が悪ければ犯罪者の手ごまにされてしまう事もなりかねない。

だから、子供には忍耐や従順を教え込むのではなく、
サリーの言うように自分で考えることと判断力をつけさせることが必要なのだと思うのです。


動物虐待の話では、動物を虐待したためにサリーにせっかんされた子どもに、
マックレイ医師が優しくバーンズの詩を読みきかせ、
そのためにその子が後悔して動物愛護を唱えるようになるという話が出てきます。
ただせっかんしただけでは、その子が悔い改めることはなかったでしょう。

また、サリーがゴルドンの好きな話をしてやろうと一夜漬けで勉強する手紙など、
人を動かすためには、そして人に好かれる為にはどうしたらいいか、
教えてくれる物語でもあります。
(名著「人を動かす」(D・カーネギー著)にも書いてある事ばかりです。)

また、マックレイ医師の過去の話は現代でも共通する部分が多く、
深く考えさせられます。(遺伝説さえなければなぁと思いますが)
カウンセリング先進国アメリカでも昔は精神の病についての偏見が深かったのだな、
だから今の日本でも偏見が深いけれども、いつかはその偏見が解消されないまでも、
少しは改善される可能性があるかもしれない、と私は思いました。

ところで、ジャガイモにこだわり続けるステリーの物語はとても滑稽でした。
サリーを言い負かせないとわかると、
婦人参政権(当時は女性に選挙権がなかった)に対する批判を始めるくだり等は、
現代日本でもさして変わっていないなあ、と考えさせられます。
また、20世紀前半のアメリカでは、私が思っていたよりも、
女性解放運動が盛んだったんだなぁと思わされました。
(翻って今を鑑みると・・=_=;)

また、ジュディは小説家として成功し,サリーは孤児院の院長(経営者)となりますが、
アメリカの他の女流作家の文学では、家庭に入って終わりという時代錯誤な物が多く、
結婚と仕事を両立させるジュディやサリーは先駆的な女主人公と言えます。

これは注意すべき事ですが、当時の西洋の物語に出てくる[主婦]は、今の主婦とは違い、
沢山の小間使いたちや執事を監督するのが仕事でした。

今の主婦のように、掃除洗濯等の家事を全てしなければならない苦労は、
物語の主人公たちの属する階級の[主婦]は背負っていなかった、
と言っておきましょう。
(ただし、貧しい人たちは別で、今の主婦と何ら変わりはありませんでした)


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