ブラウン神父の童心

G・K・チェスタトン作/中村保男 訳/創元推理文庫


 本の紹介と収録作品

小柄で浮世離れした、まるで子どものように愛らしいブラウン神父が遭遇する、
数々の奇妙な事件(決して殺人に留まらない)を綴った短編集。

収録作品:「青い十字架」「秘密の庭」「奇妙な足音」「飛ぶ星」
「見えない男」「イズレイル・ガウの誉れ」「狂った形」「サラディン公の罪」
「神の鉄槌」「アポロの眼」「折れた剣」「三つの凶器」
ちなみに、この時代では心の病についての知識がなく、病は遺伝で伝わるとされてました。
また、知的障害者についての知識もなかったため、差別的表現が出てきます。
現代では遺伝説は退けられていますし、そういうことを前提に読んでくださいね。
 感想 


“現実的”なものを好む(犯人やトリック暴きが好きな)人は読まない方が無難です。
なぜなら、ブラウン神父の名台詞や皮肉に満ちた物語の数々は、
時に人生経験を積んではじめて理解できる類いのものも多いので・・・。
(私も人に指摘されて初めて理解できた事のほうが多い)

また、解説は続編の謎を明かしている上に、ブラウン神父ものに対して批判的なので、
まず自分で本文を読んで、いろいろ考えてみてから読む事をおすすめします。
(確かに続編と最終巻は面白くないのですが、この巻はやはり名作だと思います)

この本の中で描かれる神学者は「迷信家」ではありません。
科学者(法律家)や探偵(警察)と同様、「理性」を重んじる「理論家」です。
そういう観点から考えると、宗教闘争から多数の人を殺戮する昨今の出来事も、
誰かの都合のために歪められた科学的根拠を妄信する人間たちが行った、
過去の大戦での大規模な殺戮と同じであるような気がしてくるから不思議です。


「イズレイル・ガウの誉れ」の中には、
犯罪捜査の段階で出てくるどんな証拠品も、それだけでは何の目的で使われたか、
なぜ現場に残されたのかについて全くわからないという話が出てきます。
同じ証拠品でも、解釈によって全く異なった事件の証拠品になりうる。
だから間違った結論を導き出せば、冤罪を引き起こすことになるというわけです。

また、人間は一度自分の作り上げた説が正しいと思うと、
なかなか自分が唱えた説を曲げられないものだということも出てきます。
ブラウン神父は睡眠(休息)をとることで冷静になって検討し直し、
誤った解釈を捨て、事件の真相に辿り着くことができたわけですね。


ところで、「トレント最後の事件」の作品の作者ベントリーと、
チェスタトンは古くからの学友です。

チェスタトンが著作でベントリーに献辞を書いたため、
稀代の名作「トレント最後の事件」が生まれたというわけです。
一度、嶋中文庫の「トレント最後の事件」もお読みになるとよいと思います。
名探偵を誉め讃えるタイプの推理小説に飽きた人には持ってこいの痛快な作品ですし、
一般的な常識にとらわれない発想はこの本にも通じる所が多いので・・

 本文の引用と感想

以下は、神父さんの名言を紹介したり、友人との議論の中から出た考察を書いてみます。
まだこの本を読んだ事ない人は、読まない方がよいかもしれません。

神父 「他人のほんとの罪を聞くよりほかに、することがなにもないような男が、
人間悪についてなんにも知らずにいるなんてことがありますかね?」
(「青い十字架」より)


“はずれ者”に対する人々の冷酷な物言いや非情な仕打ちを考えると、
人間は周囲のものごとに影響されながら生きていると深く感じさせられます。
容姿や職業、行動や言動の一端だけを見て、「この人はこういう人」と決めつけて、
馬鹿にしたり、自分達の集団から排除するやり方には閉口するばかりです。
(無論、私も同様のことをしたことがあります。今ではそれを悔やんでいますが…)

小柄で善良そうな丸顔であるブラウン神父もそういう目にあうことが多いのでしょう。

でも、一番問題があるのは、決めつけと差別を平然と行う人々は、
自分の考えが唯一絶対に正しいと思い込む傲慢な人たちばかりではなく、
むしろ、自分に自信のない普通の人たちであることが多いということです。

そしてそれらの人々の多くは、周囲の意見をうのみにして行動しているだけなのに、
自分では理性的・客観的に考えて判断を下していると思い込んでいるのです。

この問題を解決するためには、せめて完璧に正しい思想や意見はないと思って、
どんな物事でも懐疑的に見る習慣をつけるべく努力するしかないと思います。

クルック 「社会主義者(略)は、
 煙突掃除夫と談笑しながら一夜をすごしたいと思っている男のことじゃないんだ。
 (略)どこの家の煙突もみな同じように掃除され、
 どこの煙突掃除夫もみなその報酬を受ける(略)ことを望む人間なのだ」
神父 「すると、社会主義者というのは、人が自分の煤を所有することを許さぬというわけで」
(「飛ぶ星」より)


過激な社会主義者クルックにたいして、
「社会主義は、人に意思決定の自由を与えないのか?」と問うています。

私は、ブラウン神父はどちらかの立場に立って相手方を非難したいのではないと思います。
〜主義という名前ではなく、その主張する内容が大事だと言いたいのではないでしょうか?

過激な社会主義者の行き着く共産主義は、過激な資本主義者の行き着く帝国主義のように、
反体制派の虐殺、スパイ、監視社会などを造ったという歴史的な経緯がありますしね。

神父 「人間という物は、(略)悪事の一定水準を保つなんて事はどだいむりな相談なんだよ。」
神父 「しんせつな男が酒飲みになると、とたんに残酷になる。
 正直な男でも、人殺しをすれば、嘘つきになってしまう」
(「飛ぶ星」より)


義族の物語を続けるには、時を止めるしかなくなる、とは友人の談ですが・・

また、義族が最後には探偵となってブラウン神父の親友として活躍する一方で、
そんな義族の優れたアイディアを横取りする模倣犯の話もあります。

正義を気取る義族が自己満足に浸るその裏で、卑劣な犯罪が行われるのです。

神父 「妙なことですなあ(略)盗人や宿なしが悔い改めるというのに、(略)
 金があって心配ごとのない大勢の連中が(略)
 かたくなで浮薄な生活をやめず、(略)償いをしようとしない」
神父 「紳士になるのはちょっとやそっとのことではできません。だが、(略)
 給仕になるのもまた同じくらい骨の折れることではないでしょうかな」
(「奇妙な足音」より)


「奇妙な足音」等と「神の鉄槌」を読む限り、
イギリスの神父は貧民や外国人労働者階級の間で活動しているようです。
神父は低い階級に属し、牧師は高い階級に属しているようですね。

ところで、給仕は相手の話に相づちをうちつつ政治の話は聞き流すし、
音も無く相手の食事のスピードに合わせて走り回らねばならない。
給仕に限らず、配達夫、掃除夫、修理工と言われる人々は、
人間としての存在を無視されがちです。

でも彼らだって、怒りや憎しみの感情を持つ“人間”です。
ブラウン神父はそんな彼らを人間扱いしている。
だから彼らの秘密を守り、終止非暴力を貫き、相手を断罪することもない。
殺人犯が心を許し、すべてを告白するのも当然かもしれませんね。

神父 「あんたの話は清らかだ。(略)狂気と絶望だけなら罪はない。
 世の中には、それよりもっとひどいことがあるんだよ、フランボウ」
(「折れた剣」より)


当時は精神的な病を抱えた人たちが異常な犯罪を犯すと信じられていました。
しかし、紹介した神父さんの台詞を見る限りでは、
作者の思想がそのような偏見に染まりきっているわけではないことがわかります。

マートン 「でもあのにこにこ宗教は・・・・・・」
神父 「あれは残酷な宗教でな(略)世間の人はなぜ、
 あの人に、すこしは涙を流させてあげられなかったのだろうか?」
(「三つの凶器」より)


楽天主義というのは、残酷な宗教だと私も思います。
なぜなら、涙は、心が悲鳴を上げているという警告だからです。
(涙は同情と共感を他人に示すため、相手の心を癒すこともできる。)

涙を流さないと、抑圧された精神が悲鳴を上げても気づかない。
無感動な状態となり、自分は辛い事を振り切ったんだと思い込む。
でも心は相変わらず崩壊寸前だから、少しの事でも精神的に破綻してしまう。

ともかく、(他人事だとしても)辛い事があっても笑顔でいられるのは、
同情心の欠落した人間か、精神的に無理をしている人間だけだと思います。
同情心の欠落した人間はいずれ周りの人に見捨てられるだけだし、
精神的に無理をしている人はやがては心の病気に苛まれる事になってしまう。

それなのになぜ、楽天主義こそが素晴らしいとされるのか。
その理由は、“涙=女々しさ”という差別的観念と切り離す事ができない。
泣けない男性たちはアルコール中毒、泣く女性は差別に苦しむわけですから。

フランボウ 「たった一つの魂の病とはなんです?」
神父 「自分がまったく健康だと考えることですよ」
(「アポロの眼」より)


自分は全く健康だ、と言う人は、
「魂(精神、心)」が傲慢という名の病にかかっている、と言いたいのだと思います。

傲慢の病にかかった人は、他の人間を見下すようになり、
その結果、この世の地獄(大量虐殺)を作り出すのではないでしょうか。
第二次大戦下の人々は、「健康」と(血や民族の)「清浄」を狂ったように追い求めた。
(それらは映像記録として残っていますが、皆、自分がそのようになる危険性を考えない。)

だからこそ、この言葉は非常な重みを持って私たちに問いかけてくるのです。
この世に「まったく健康な」人間など、存在するものでしょうか?・・・と。

神父 「むろん、彼は新約聖書より旧約を読んだ。(略)
 自分の求めているものがすべて、
 肉欲も専制も反逆も、みんな旧約にのっていたからさ」
(「折れた剣」より)


自分の欲望から何百人もの兵隊を死に追いやった犯人の人となりを評した言葉です。
日本人が仏典や神道関係の書物を読む事を推奨されることがあるように、
西洋では聖書を読むことが推奨されています。

でも、人は聖典(聖書、仏典等)をなんのために読むのでしょうか?

欧州に限らずアメリカでも、聖書が魔女狩りの根拠とされたことを考えてみて下さい。

とはいえ、聖書に限らず、人は書物(新聞等の記事)を自分の都合の良いように読むものです。

犯罪を犯したい臆病者がいたら、
本や記事は自分の犯罪を正当化してくれるものになります。

また、自分の嫌いな人物(国や民族も同じ)がいる場合、どんな本や記事を読んでも、
その行為や性質がいかに悪どいかを根拠にいじめたり殺し(虐殺)たりできるものです。

それに、権力者(軍隊でも政治でも)が、自らの地位と名声を護るためにする残虐行為も、
読み取り方一つで美談となる事もありえます。
「真実」だの「現実的な事柄」だのも、所詮は誰かが創り出した虚構なのかもしれませんね。


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