愛国殺人

作・アガサ・クリスティ/加島祥三 訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

ストーリー紹介

クイーン・シャーロット街58番地の歯科医ヘンリイ・モーリイが殺された。
彼の患者であったエルキュール・ポワロは事件解明の謎に乗り出す。

ところが国家的要人アリステア・ブラントを狙った別の犯罪や、
ミス・セインズバリイ・シールの失踪などが次々に起きて、捜査は混乱。

はたして、ミス・シールはどこへ消えたのか?
マザー・グースの唄とともに、ポワロの捜査が開始される・・


注・ここでは本文にあるような『ポアロ』ではなく、『ポワロ』と表記しています。
 ちなみに、この時代では心の病(被害妄想)についての知識がなく、
 心の病を持つ人はむやみに殺人すると信じられていました。

 また、登場人物の台詞に時代背景に依る差別的表現(黒人差別、ユダヤ人差別等)があります。
 それらのことを前提に読んでくださいね。


感想
世の中に要る人、要らない人というのは本当にあるのでしょうか?
また、要る人がいたとしたら、その人は他の人間をゴミ屑みたいに扱ってもいいのでしょうか?

ミス・シールのような慈善活動家や、モーリイ氏のような善良な歯科医を、
要らないと切り捨てることが、果たしてできるのでしょうか・・

ところで、この物語で重要な役を演ずる『バックル』について、
知識の深い方は少ないんじゃないかと思われます。
(ファッションに敏感な女性には分かるかもしれませんが。)

バックルとは、革帯などを締める金具のことです。(広辞苑 第四版より)
派手な装飾品として、流行っていた時期もあったようですね。
(この本の表紙絵の絵とは違う絵を下に描いてみました。)


また、この物語には聖書の『サムエル記』(前書)第十五章がよく出てきますが、
この本には注釈がありません。
詳しくはウィキペディア(Wikipedia)のサウルの項を参照の事。


(矢印のついてる金具がバックル。上の絵はk自作のもの。)
 以下は、この本を読んだ友人との議論の中から出た考察を書いてみます。

 犯人がわかってしまう可能性があるので、
 まず本を一度読んでから下をよむことをお勧めします。


犯人
「しかし彼らのことを考えてごらんなさい!
 ーメイベル・セインズバリイ・シールー(略)あれはめん鳥程度の頭脳を持った婦人!
 アムバライオティスー詐欺師で恐喝者!(略)(モーリイについて)他にも歯医者はいます。
(略)(被疑者になった人について)彼はよくない。まったく腐った人間です。」
ポワロ
「(略)われわれはみんな人間です。これをあなたは忘れていらっしゃる。」
犯人
「全国民の安寧と幸福が一つに、
 この私の上にかかっているのをおわかりにならないんですか(略)?」
ポワロ
「私は国家のことなどに従っているのではありません。
 私のたずさわっているのは自分の命を他人から奪われない、
 という権利を持っている個々の人間に関することです。」
(P304〜:9章の1、犯人の弁明とポワロの反論)


上のように、ポワロは犯人が如何に残虐な犯行を行っても、
犯人の独善的な論理に異を唱えることができない。

自分の経歴に傷がつくのを恐れて被害者の顔を滅茶苦茶に潰すなどの、
卑劣な行為に対してですら、そうなのです!

それどころか、犯人の「愛国心」の強さを讃えてしまっています。

この犯人はタイトル通りの「愛国者」かもしれませんが、
犯人の愛国心というのは、自分を国家と同一視した上での「愛国心」であって、
国に住んでいる、誰にも注目されない人々への愛ではありえない。

しかし、それでも国家の名の下に命をもてあそぶことが許されていいはずがない、
と主張するポワロは、確かに英雄・ヘラクレスなのですね・・

ポワロ
「あなたは天来の廉潔公正な方です。あなたはただ一歩だけ脇道にふみこんだのです。
 ーそれで表面はまだその影響はなに一つあらわれておりません。
 おおやけの面では(略)高潔であり、信頼しうる、正直な人物(略)
 しかしあなたの内部には権力への執着がどうしようもない高さにまで成長しているのです。
 ですからあなたは四人の生命を犠牲にしたにかかわらずそれを取るにたらぬものと考えたのです。」
(P305:9章の1、ポワロの反論)


また、犯人は現状の民主主義社会を維持できる唯一の人間だとされています。
だから、犯人が逮捕されれば国民を混乱に陥れる政治改革を招きかねない。

でも、清廉潔白な仮面をつけていても、心身ともに権力欲に取り憑かれていて、
人間の命をゴミのように扱う人間の支配する国と、
ファシズムによる独裁を公言する国との違いはどこにあるのでしょうか?

とはいえ、誰しもが過去は良かったと思うもの。
しかし、すでにそのやり方は時代遅れになっていやしないでしょうか?

でも、古い物を分析してその良かった点を活かそうとせずに、
ただ新しい物に手を出すのでは、古い物にしがみつくのと変わらないと思います。


ところで、過激な社会主義者レイクス(旧体制を破壊したがっている)が、
彼が、自分と思想的に対立するアリステア・ブラントの命を救うのは何故でしょうか?

多分、彼はブラントの姪のジェインが姪の持つ家柄や金、コネが目当てなんでしょう。

格好いいことを言うだけで、自分の利益しか考えてないのではないでしょうか。
それじゃあ、権力欲に取り憑かれた犯人となんら変わりはない。
レイクスの望む未来が、本当に人々のためになるものかどうか・・・

ブラントの姪のジェインはというと、保守的な時代の雰囲気への反発から、
当時のイギリスにおいて危険思想とされた社会主義に惹かれているだけ。

本当に社会主義を信仰している訳でもなく、
恋愛が自分の拘束された状態から救ってくれると信仰しているだけなのでしょう。

その証拠に、一分の隙もない高価な絹のドレスを着ているくせに、
ポワロに「血なまぐさいブルジョワ探偵!」なんて言っているのですから・・・

老牧師
「そは違逆は魔術の罪のごとく抗涙は虚しき物につかふるごとく偶像につかふるがごとし
 なんじエホバの言を棄たるによりエホバもまたなんじをすてて王たらざらしめたまふ」
(P226:6章の5、教会にて)


この物語にはサウル王の物語が何度も出てきます。

サウル王は、神の意に逆らってアマレク人を全て殺さなかったし、
アマレク人の財産を全て廃棄しなかった。

サウルは、神の言葉を拡大解釈したために、自分が預言者であるかのように振る舞った。
つまり、それは神学的には偶像崇拝に走ったと解釈されるらしいですね。

だから国家を自分と同一視した犯人は、サウル王と類似の関係にあるわけです。

でも、私には、いつも神は絶対に正義で間違ってないなんて信じられないし、
預言者が神の言葉を聞き違える可能性を疑ってはいけないという道理もわかりません。

どんな宗教を信じていようとも、どんな立場にあろうとも、人の命は平等だと思うからです。


宗教に限らずおよそ信仰というものは、本質的に同じ問題を抱えています。

この小説の場合で言えば、人の命は皆同じ尊さを持っていると言いながら、
サムエル記を持ち出してしまったために、
命(すなわち偶像崇拝者とキリスト教徒の命)に等級を設けてしまっている。

犯人の立場から見れば、キリスト教(=近代民主主義)の神(=国家)の命ずる通り、
アマレク人(=犯罪者や社会的に無用とされる人たち等)を皆殺しにしたにすぎない。

だから、クリスティーはサムエル記を持ち出すべきではなかったのかもしれない。

でも、ポワロの言う事全てが絶対に正しいと何故言えるのでしょうか?
それを吟味することが読者の私たちに求められているのではないでしょうか?

小説のみならず、娯楽作品は主人公を絶対正しい者、善の象徴にしてしまうことが多すぎる。
しかし、大人になってもそのような善悪二元論を鵜呑みにしているのでは、
物事の表面つらしか見えない人間となり、周りの雰囲気に流されるだけです。

大切なのは、読者自身が真面目に物事を考える事ではないでしょうか。


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