バートラム・ホテルにて

作/アガサ・クリスティ/ 乾信一郎 訳/早川書房

ストーリー紹介


おいとその妻の好意から、老齢の独身夫人ミス・マープルは
ロンドンにあるバートラム・ホテルに滞在する。

バートラム・ホテルは「ほんとにしてはあまりにもけっこうすぎる」ほど、
彼女が少女時代を過ごしたヴィクトリア朝時代そのままだった。

美しい想い出の虜になり楽しい時間を過ごすマープルだったが、
牧師失踪事件とともに、ホテルは大きな犯罪と殺人の中に巻き込まれていく・・


感想

物語において、推理より過去が重要な鍵になっています。
昔は良かったと言い切れるものでしょうか。

たしかに昔はそのシステムが時代に合っていたかもしれない。

しかし、現在はすでに過去の状態から変化してしまっているとして、
それをそのまま現在に適用することは、歪みを生むだけなのではないでしょうか?

この物語を幾度か読んだ今、過去の美談を持ち出すことは無意味なことだと私は思うのです。

以下は本文を引用しつつその感想も書きます。
お話の内容を少しバラしていますので、予めご了承ください。

マープル 「このごろの、若い人たちはかわいそうなものだ。
(略)じぶんの娘をつまらない情事や私生児や早すぎる不幸な結婚から
守ってやれないようなお母さんたちばかりだ。ほんとに悲しむべきことである」
(P28:過去を回想しながら)
マープル 「はじめ、ここはすばらしいところだと思いました・・・(略)
 まるで過去へ舞いもどったようで・・・(略)
 でも、もちろんほんとはこんなんじゃありませんでした。
 私は(略)あらためて悟りましたー
 人は過去にもどることも、また過去へもどろうとしてもいけないことー
 人生の姿は前へ進むことだということ。ほんとに、人生って“一方通行”なんですね?」
(P249、250:主任警部との会話)


はじめ、マープルは過去を懐かしみ現在を否定することばかりしていました。
しかし、想い出はいつも美しい物です。話が進むにつれ、彼女もそれに気づき始めます。

バートラム・ホテルは過去そっくりでいて、今の人の要求にも合うように作られている。

だからそれが過去そのものだ、過去は良かった、というのは、
まるで優れた劇作が過去の歴史そのものだというようなものです。

・・過去に現実にあったこととはあまりにもかけ離れている・・


ホームズ物を読み、そして当時の歴史をちょっとでも調べたことのある人なら、
ヴィクトリア朝の当時犯罪がいかに多かったか、知っていることでしょう。

だから、過去がよかったなどとは一概には言えない。

しかし、それが現代日本の何十年か前のことになると、
突然、過去が良かったと大合唱するのです。


無論、過去がただ野蛮で無知の大海に没していたなどと考えることも無意味です。
過去にも良かった所はある。

その証拠に、ミス・マープルのような理知的な老婦人の存在があげられます。
(ミス・マープルにはモデルがいるんだから本当に実在したんです)

彼女達は運がよかったのです。過去の教育の良い面を享受できたのだから。


しかし、そんな過去の良さ、悪さを良く分析した上で現在を見据えなければ、
過去にすがって同じ失敗を繰り返すか、
新しいやり方にこだわって身を滅ぼすかの二通りの道しかありません。

私が、それが(次にくわしく紹介しますが)大冒険家ベス・セジウィックと、
その娘エルヴァイラ・ブレイクによく現れているような気がしてならないのです。

ベス 「(略)あたしは法律に忠実な人間でもなければ、また月並みな人間でもありません。
ですからエルヴァイラには本当の英国流のしきたりに従った
しつけ養育を受けさせたほうが幸せだと思ったんです。」
(P276より)


若い頃、束縛された人生から逃げ出すために、馬丁と駆け落ちし、
裏切られた過去を持つベス・セジウィックは、危険と冒険が大好き。

物語中では過去なら活かされたタイプの人間として扱われていますが、
その時代の理想に合った『当世流』の人生を歩むことの出来ない人のように私には見えます。

戦争中にはレジスタンス運動員をしたり、大西洋単独横断飛行、自動車競争をしたり・・
いつも「新しいことをしていなければ気が済まない」人間なのです。

そんなベスですが結婚運はないと見えて、何度も離婚を繰り返しています。
というわけで、娘が自分のような人間にならないように、
社会の理想とされる幸せな人生を歩めるように、『昔ながらの』教育を受けさせた訳です。


ところが娘にとって、『昔ながらの』教育は必ずしも幸せな物ではありませんでした。
養育者の監督の眼が光っているから自分の自由意志で何かをすることができない。

莫大な財産を持ちながら自分ではその額を知らず、法律のこともわからない。
それらの使い方を教えられていないからです。

ちょっとアイルランドへ旅行に行きたくても自分でお金を引き出すことができない。
だから貴金属を窃盗して工面するしかない。

そんな拘束された人生の中で、彼女が求める男性は母親と同じでした。
そしてその結果、母と同じ末路を辿ろうとすらする・・


エルヴァイラには母がいない。だからこうなったんだと言う人がいると思います。
しかし、少しうるさいくらいの母を持つエルヴァイラの友達ブリジットの場合もやはり同じ。
ブリジットは母を煙たがっています。
そして母の眼をかすめて自分のしたいことをしています。エルヴァイラと同じように・・

過去がどんなに良く思えても、現実はそうでないことが多い。
人間はいつも、自分の手の届かないものに憧れ、今もっている幸せを軽視しがちです。
しかし、もし過去に戻れたら、今の方が幸せだったと思うのではないでしょうか?

今自分の周りにある幸せに感謝できることこそ、幸福の秘訣なのかもしれません。


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