愛と死との戯れ

ロマン・ロラン作/片山敏彦 訳
岩波文庫


ストーリー紹介

時はフランス革命直後の春、ロベスピエールの恐怖政治時代。
ダントンの処刑が議会で決まった頃である。
所はパリ、ジェローム・ド・クールヴォアジエの家。
ソフィー・クールヴォアジエは、夫と比べて30あまりも若い女性。

客間で友人と過ごしていた彼女の前に、
議会から追跡された末に死んだはずのジロンド党議員、
クロード・ヴァレーが現れる。

ソフィーは帰ってきたジェロームとともに、彼をかくまう。
その時、ジェロームは、愛するソフィーがヴァレーと相思相愛であることを知り、
妻とその愛人を逃がし自分は処刑されようと心を決める。

そんな時、ソフィーの友人が密告したために、家宅捜索が行われる。
ジェロームは自らを有罪とする証拠品をつかませ、捜索隊は去る。

結果、ヴァレーは命惜しさに逃げるが、
ソフィーはジェロームの勇気に感動し、彼とともに死ぬことを決意する。

感想
以下に本文を引用しつつ感想を書いていこうと思います。
お話の内容を少しバラしていますので、予めご了承ください。

著者



「私がこの悲劇を一個の「戯れ」un jeuと呼ぶとき、
 それは、「自分はすべてを賭ける!」という意味での「戯れ」なのである……
(略)嵐の雲が通り過ぎる……わが一生を一つの稲妻に賭ける!
 ー自分の命を失う。そして賭けに勝っている。」
(P11・序より)


上の文は、この作品を二、三行で端的に表しています。
賭けに勝ったか負けたか、それは確かに人の判断にゆだねるしかないことですが、
しかし、自分の弱さと立ち向かい、辛い人生に打ち勝ったという意味では、
確かに「賭けに勝った」と言えるのではないでしょうか。

カルノー


「人間が自由であるためには、
 まず人間を奴隷にする者に対して人間を護らなければならない。
 個人の権利は国家の権力がなければ無にひとしい」
ジェローム 「それが国家の権力の犠牲となってしまうなら、それは無にひとしいのだ。」
カルノー

「それは現在ありはしないのだ。やがてあるようになるだろう。
 現在を未来のために犠牲にしようじゃないか?」
ジェローム

「真理や愛や、あらゆる人間らしい徳性や自尊心を未来のために犠牲にするということは、
 とりも直さず未来そのものを犠牲にし亡ぼすことだ。」
(P90より)


カルノーのような意見は、今でも正しいこととされています。
でも、人間が国家の圧政に苦しんでいるから革命が行われたはずなのに、
なぜ国家のために人間を殺されねばならないのでしょうか?

革命政府も絶対王政もたいして変わらないなら、
なんのために革命を起こして血を流したのでしょうか?
葛藤やイライラのはけ口として誰かを血祭りに上げたかっただけなのでしょうか?

それに、自分に従わない者を血祭りに上げていくような現在から、
平和で平等な未来が訪れるものでしょうか?
一つの考え方を暴力で万人に押し通す未来が訪れないと言えるのでしょうか?

カルノー



「(略)自分の名前を連ねなければならない残忍な行為を思うと吐きたくなる。
 しかし、(略)それを拒絶して仕事から手を引く権利が自分にあるとは思わない。
 (略)人類が進歩するためなら実際少しばかりの汚点があってもいいー
 いや、やむを得ないなら少しは罪悪が行われてもいい。」
ジェローム




「(略)君と同様にわしもまたセンチメンタリズムには信用を持たない。
 だがわしは同様にイデオロギーにも信用を置かないのだ。(略)
 人類の進歩というのも仮説以上の何ものでもない。
 そうしてそれが(略)どれほど甘美なものであろうとも、(略)
犠牲者の血の匂いで肥えふとる神様にして祭壇に祀り上げたりはしない。」
(P91より)


人類は、時代を下るにつれ進歩する、という考え方が社会に蔓延していますね。
しかし、もしそれが本当ならば、なぜ、世界戦争を否定したはずの国連が、
「平和維持」のために軍隊をもたねばならないのでしょうか?
・・・人類は進歩などしていないと結論せざるをえません。

科学によって生活が安定し、
弱い立場の人たち(子供や女性、病弱だったり、障害を持っていたりする)が、
より安全に生きられる世の中になってきてはいます。
しかし、それもお金がある国の人々に対してだけですし、
保証を受けられない人たちも沢山いるのが現状です。
それに、差別が消えたわけではありません。
お金の保障は受けられても、心の保障は受けられないままなのが現状です。

だから、「人類の進歩」は時間が立てば自然と起こるものではないのです。
それは不断の努力なくしてはありえないものなのです。
ジェロームが言いたくて、カルノーが理解できないことはこの一点に尽きます。

不断の努力とは、過去の劣悪な状態に逆戻りしようとしたり、
現在や過去に行われた残虐な行為を忘れようとしたりする、
人間の<弱さ>との戦いなのです。
だからこそ、未来がよくなることを願って現在に大量虐殺しようなどという、
破綻した論理に騙されてはいけないのです。

カルノー




「このもくろみは僕が言い出したのだ。
だが、彼はなんにも知らないふりをしているが僕は彼が黙って賛成しているのを感じたのだ。
クールヴォアジエ、君が死ぬことは僕らにはたまらないことだ。
(略)君を掴まえさせることはやめてくれたまえ!
そんなことをさせると君は本当に罪の深い人間だ!」
(P95より)


「彼」とはロベスピエールのことです。
ロベスピエールに対する偏見がこの戯曲にはないことがよくわかります。
偏見のある作品は、読む人に悪影響を与えかねないので、
注意する必要があるので、これは大切なことなのです。


フランス革命にも、政権を得る目的で協力した者がいないとはいえません。
とはいえ、生まれながらの身分によって支配者と被支配者が決まり、
被支配者は支配者の気持ち一つで命も尊厳もないという、
絶対王政以前の世界を否定する高尚な理想から生じたのでした。

クールヴォアジエは、革命の理想の象徴でもあります。
だから彼を殺す事は、カルノーにもロベスピエールにも堪え難いことなのです。

しかし、いかに理想が高かろうとも、一度権力を握ると、
その権力を手放す事は堪え難くなってしまう。

自らが手に入れた権力の座を守るためなら、なんでもしてしまう。
だから、クールヴォアジエ自身に逃げてもらわなければ、
彼を殺すしか、選択肢はなくなるということでしょうね。

とはいえ、クールヴォアジエだけを特別視し、
悪い面を備えたダントンらは殺していいという理由はないと私は思います。

第一、物事に善悪などないのではないでしょうか?

他人に酷いことをしてはいけないのも、自分がされたら堪え難いことだからであって、
それが<悪いこと>だからではないと私は思います。


物事を善悪に切り分けて、良ければ残し悪ければ棄てるなどという考え方は、
道徳を振りかざし、自分の偏見や妄想を理由に弱者を痛めつける行動に人を駆り立てる。

それがいかに危険であることは、毎日起こる凶悪犯罪からもわかります。

特に真面目な女性や幼い子供達、力の弱い者ばかりを狙う犯罪において、
犯行の動機の多くは現実の事象ではなく、犯人自身の差別意識や偏見からくる、
妄想の産物であることがその証拠なのです。


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