開拓時代のアメリカ、ヴァージニア州(アメリカ南東部の州)。 名探偵・アブナーに関係する様々な事件を、そのおいマーティンが回想する異色作。 収録作品:「天の使い」「悪魔の道具」「私刑」「地の掟」「不可抗力」 「ナボテの果樹園」「海賊の宝物」「養女」「藁人形」「偶然の恩恵」 「悪魔の足跡」「アベルの血」「闇夜の光」「<ヒルハウス>の謎(中編)」 |
主人公アブナーは強烈なプロテスタント信者で、腕力体力知力ともに優れたヒーロー。
とはいえ、このヒーローは正義の国には珍しく、慈悲深い面も持ちあわせています。
真実を明かしても誰の幸福のためにもならないと判断した等には、
見て見ぬふりをしてくれることもあるのですから。
なんでも真実を公開すればいいというものではない。
それで傷ついたり、苦しむ人が出てくるんですから・・
個人的には、アメリカ推理物随一の傑作だとひそかに思っています。
私には、アブナーが傲慢な人間になるのを恐れるが故に、
神という絶対者を信仰しているように見えます。
(それによって彼は、独断を避け謙虚に物事を見ることができる)
ブラウン神父のように無力で人から軽蔑されがちな人間とは違い、
力も頭脳も兼ね備えた英雄は、気をつけないと蛮勇になりますから。
といっても、聖書も読み取る人によって良くも悪くもなりますが・・・
謙譲の態度と言えば、アブナーは、動物にも尊敬の心を忘れません。
馬や牛、小動物の、生きることに必死なればこその賢さへの尊敬の心です。
この辺は「闇夜の光」「<ヒルハウス>の謎」にあります。
動物への尊敬の感情は、推理物では滅多に出てこないので新鮮でした。
脳が人間並みに大きくなくとも、アブナーは、その賢さを讃えているからです。
これは、ウエストバージニアの厳しい土地柄をパレスチナの不毛な土地と重ねあわせ、
(旧約聖書にあるように)土地や自然を敬うという考え方からきているのです。
「地の掟」でも、地力を全て吸い取ってはならないというのがあります。
(採れるだけとってはいけない。余裕をのこさないといけない)
ところで、アブナーは聖職者ではないので、
自衛の為に暴力を振るっても良いのでしょうね。(なるべく暴力を避けてはいますが)
ここが同時代のブラウン神父ともっとも異なる点ですね。神父は暴力を振るわない。
「地の掟」には、魔女狩りについての忌まわしい物事が出てきます。
聖書も法も、道徳すら誤る事はある。大切なのは、そこから何を読み取るかなのです。
本文でも紹介されているのですが、スコットランド王ジェイムズ一世の魔女裁判の仕方に、
「魔女裁判にかけられた人の身体中を針で刺して痛みを感じない箇所を探せ」とあります。
が、魔女裁判は徹底的にやるのが普通だし、鍼治療で使うツボを見つけたとしたら、
被告が有罪になったことは間違いない。(別の本によると、男も魔女にされたとか)
ところで、魔女は靴屋の使うろうを両手に塗り付けていたという話が出てきますが、
民話では、蜜蝋が悪魔、魔女がミツバチと敵対関係になっているので、
ある意味で『蜜ろうをくっつけた』女性は魔女ではない訳です。
でも大した違いなんかないし、何とでも言いがかりはつけられるんですが。
「養女」は、美しい奴隷の娘をめぐって忌まわしい殺人が起きる話で、
当時の奴隷制の歪んだ姿を眼に見えて浮き彫りにしています。
奴隷を買い受けて養女として引き取っても、
引き取り主が死ねば遺言で財産として譲渡される、というように、
人身売買が犯罪ではなかった時代があった。
しかし、今も、法の目をごまかして同じ犯罪が行われている。
(アブナーによれば、法が支配している土地で犯罪が行われない所はないとのことですが)
卑劣な人間が、貧乏な少女に職業を与えるという口実で買春宿に売り飛ばす。
それを買う「先進国」の卑劣な金持ち男がいるから!(怒)
さて、「藁人形」では、被害者と全く無関係な人間が犯人である場合と、
被害者と大いに関係がある人間が犯人である場合とを、
探偵が論理的に見分けてゆくさまが詳細に語られています。
また、犯罪者の行動パターンと予感の性質について語る所もあります。
予感は思考を経ずに人を結論へと導くものであり、
根気よく結論から元を辿ると、予感を理性的に説明できるのです。
(度々出てくるアダム牧師は、予感から一気に結論を導きだすタイプの人ですね)
また、「不可抗力」では、身体障害者だから必ずや善良な人間だ、
というわけではないという逆説が出てきます。
(つまり障害があろうがなかろうが他の人となんら変わらない、ということ)
耳も口も不自由でも、目が見えれば手紙を書いて商売する事もできる。
それに、犯罪を犯したり、自分より弱い立場の人間を苦しめる事も・・
しかし、彼らがなぜ放蕩に明け暮れたり犯罪を犯したりするかと言えば、
無論、生まれてからずっと差別と偏見にさらされ、暴力や嘲笑の的になったために、
自分や他人を大事にする事を知らずに育ったためなんでしょうが・・・
「藁人形」でも、身体障害者が普通に暮らしていけることが示されます。
(映画「暗くなるまで待って」のごとく、彼らには暗闇が普通なのです。)
しかし、障害には個人差があります。企業が彼らに支払う賃金は安いことが多いらしいし。
もし福祉が充実していない世の中になれば、抱えている障害の度合いによっては、
生活費を稼ぐ為に犯罪を犯すしかなくなってしまう人が出てくることも確かです。
でも、一番大切なのは、どんな境遇にあっても同じ人間なんだという意識であって、
どんな人でもそれぞれの好きな職業に就けることや、
医療の恩恵を受けられることだと思うのですが。
マーティン (ナレーター) |
「(略)まるでプラスティックでできているかのように、 顔がねじれ、歪み、汗が吹き出ていた。 しかもなお、その間じゅう、彼は寒さに身をよじっている。(略) その恐ろしい出来事がようやく終わった!(略) しかし、私は、(略)恐怖心にかられた。 これまで、彼の中で押さえ込まれていたもの、(略) その何者かが全面に現れ出て、あの男の顔立ちを変えてしまったのだ。」 |
まるで恐怖映画の1シーンのように見えますが、
これから犯行を犯そうとしている男が決意を固めようとしている所です。
この物語を読むと、復讐は無意味なのだということがひしひしと感じられます・・
なぜなら、うまく犯罪をやり遂げても、感づかれて脅されたり、
災害等でなにもかも失うこともある。
その場合、犯人は無力感に苛まれ、「天の使い」の犯人のように、
生き地獄に苛まれる事になるのではないのでしょうか。
それに、これは「道は開ける」Dカーネギー著に書いてあったことですが、
被害を受けた人が復讐を誓うことによって、その過去の出来事に苛まれることになってしまうことがある。
すると彼らに危害を加えた人間は、彼らの人生を支配したかのように感じ、
犯罪を成功させた彼自身を誇りにすら思うことがあり得るんだそうです。
しかし「人は自分のまいた種を自分で刈り取る」とか、
「因果応報」とかのことわざの意味を正確に分かっている人は、
そのような苦しみに苛まれる事がないため、
危害を加えた人間の支配欲を満足させたり誇りを持たせる事がない。
そういうことも考えさせられる短篇ですね。
アブナー |
「(状況証拠を道路標識に例えて)道路標識というものは、 どれも人が行かんとしているしている方角を指し示す(略) 引き返し始めると、驚いたことに、標識もまた向きを変えているのを知る。」 |
事件というのは如何様にでも解釈できるが、人間は常に、自分の決めつけた結論に従い、
やがては私刑(リンチ)などで無実の人間を殺す可能性もあるということですよね。
審議する事がなくなったら、誰でも犯人をでっち上げて殺せばいいことになる、
という、私刑の恐るべき悪影響について語る部分もあります。
「私刑」の文中には、先住民を殺しまくった牛飼いたちを擁護するかに見える箇所があります。
これは、「人道的な戦いを説いた愚か者」が、
「非情な男達が築いた安全な文明社会の中でぬくぬくと暮らし」ている・・
つまり、自分も殺し屋の子孫だということを忘れて尊大に振る舞う姿を告発しているのです。
人間って、平気で自分(祖先も含めて)の罪を忘れ、他人を告発できる生き物なんですよ。
この「人道的な戦いを説いた愚か者」が「非情な男達」を告発したように・・
マーティン (ナレーション) |
「法廷には、騒々しい連中や向こう見ずな連中もいた。 政治集会でわめきたてたり、徒党を組んで騒ぎまわる連中である。 しかし、市民の権限の発動を求めてアブナーが呼びかけた時に 立ち上がった彼らは、まったくの別人であった。 いつもは無視されている人たちー鍛冶屋、馬具屋、(略)ーが立ち上がった。」 |
この時、神父やカルヴァン(長老会)派、メゾジストの牧師等も立ち上がりました。
ところで普段偉そうな事を言っている人間程、自らの立場を失うのを恐れるものだし、
いざという時に何もしないものですよね・・(私だって人の事は言えませんが)
とはいえ、その民主主義も完全ではないことが、
「アベルの血」のグレイハウスに関する記述の中に出てきます。
お金と扇動的な演説さえあれば・・という箇所等、昔も今も変わらないなと思いました。
(演説の後に、家柄も加える必要があるとは思いますが)
アブナー |
「古い諺は、時には、誤りをもとにして作られている場合がある。 たとえば、(略)<死人に口なし>古くからある諺だが、(略) 完全な誤りなのだ。死人に口はあるのだ!」 |
人を殺してうまく隠蔽できると思っている「悪魔」は、
何の心配もなく「地を行き巡り、そこを歩き回」ることができるのです。
この系列の作品には「偶然の恩恵」「アベルの血」もあります。
「偶然」を信ずる者は、それを頼みに法の目をごまかせる。しかし真実は隠せない。
誰か彼かその罪をかぎつけるものなのです。
ランドルフ |
「これは、(略)復讐の念に燃えた犯罪者の仕業にちがいない。(略) わしは、彼らが刑の宣告を受けるところを見ているが、 みんな、判事をにらみつけて、出所したら必ず復讐してやるぞ、と呟いている。」 |
実際は、元受刑者の犯罪ではありませんでした。
しかし、こういう考え方は、今でもまかり通っているような気がします。
(私も、服役したことのある人を怖がってしまうので人の事は言えませんが)
無論、刑の宣告を受けた時に復讐を誓う人は幾らもいるでしょう。
中には、(貧しさと差別に耐えかねて)再犯してしまう人も出てくるでしょう。
しかし、刑務所内の人々がその人が更生するために手を尽くしてやり、
その結果、犯罪を犯した人が罪を心から悔いて、
償いのために世のため人のために尽くすことだってある。
昔は貧富の差や差別が今より激しく、
犯罪を犯さないと生活できない事もあったでしょう。
でも、21世紀にもなって同じ事を繰り返すのはどうかと私は思うのです。
だから、この台詞を引用したわけです。
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