リサリサ先生が大雨スタックの二時間待ちで教え子ヤバイ  一人だけ家が遠いのをうっかり忘れて、本降りになるまで補習をしてしまった。 「水谷、はやくはやく!」 「っせーな、傘ねーの?」 「ない、ごめん。でもあったら相合傘だけど?」 「うっわ、ないわ。リサリサと相合傘とか」  アスファルトの水たまりを走るサンダルとスニーカー。頭の上にかざしたトートバッグとランドセル。学校の駐車場はもう薄暗くてライトがともっている。ほかに児童はいないし教師の車もまばらだ。 「そっち乗って! 助手席!」  ワゴンRのロックをキーレスで開けて、桜庭理砂は運転席に駆け込んだ。後ろをついてきた水谷塔夜が、たたらを踏んで反対側へ回った。  バタン、バタン! とドアを閉じて、ふう、と一息つく。 「わあー、濡れたなあ!」  理砂は白ワイシャツの袖をつまんで叫ぶ。肩も二の腕も、濡れて白い肌に張り付いている。グレイのタイトスカートにまではさすがに染みていないが、サンダル履きの足はくるぶしまでぐっしょりだ。 「タオルとって、ダッシュボードにあるから」と指差しながら、シニョンの髪に触れる。「うわあ、頭までびっしょびしょ……」と眼鏡の下の目をしかめた。  二十六歳。四大卒で教師になって、この緑淵小学校に赴任した。もう四年目だからすっかりなれた。児童の扱いもお手の物だ。  それでも苦手な生徒はいた。 「タオル、これか」  取り出したリラックマのタオルで塔夜はごしごしと無造作に頭を拭いた。普段パイナップルじみて広がっている色の薄いサラサラ髪が、いくぶん重い房になって揺れる。野暮ったさのないくっきりした目鼻立ちで、目つきは少し冷たいほど鋭いが、あごは小さくてまだ幼さが残る。  つややかな頬をすべる水滴をぐい、ぐい、とふき取った。だぶだぶのパーカーとハーフパンツまでざっと拭くが、それで水気を吸いきれないのは多分わかってやっている。 「ほら、やるよ」  すっかり水を吸ってしまったタオルを、無造作に放り出した。  6−A、理砂の担当するクラスでもっとも算数ができて、もっとも国語ができなくて、もっともやっかいな男の子。  それが水谷塔夜だった。  理砂はあーっと声を上げる。 「取ってって言ったのに! なんで使うの?」 「児童に使わせてよ、リサせんせ★」 「せんせ★ じゃないよ、笑顔黒いよ。だいたいあんたが早く言わないからいけないんでしょう、うち遠いって。そのうえ傘も忘れてるし」 「リサリサ去年、家庭訪問来たじゃんか」 「行ったよ。あたしも忘れてたよ。ほかのみんなは家近いからいいと思ってたんだよ。あんた一人だけ川向こうって……」  テスト前の補習授業。田舎とはいえこれでも進学校なので、国語の苦手な子たちを、理砂の命令で五時過ぎまで残した。男女十人はいたのだが、みんな近隣の集落の子なので、さっき歩いて帰っていった。  だが塔夜は大橋を越えた川向こうの集落の子で、歩けば三十分はかかる。傘もないのに夕立で暗くなった道を歩かせるわけにも行かず、理砂の車で送ることにしたのだった。 「あーっ、もう、ごめん! ちくしょ! はいはい、先生が悪かった」  喚きながらドアを薄く開けて、すでに濡れたタオルをギュッと絞った。パンと開いて眼鏡を外し、おしぼりのように顔を拭く。  男の子の汗の匂いがツンと香って、一瞬どきんと胸が高鳴った。  ――いやな匂いじゃない。むしろ――。 「……ま、さっさと帰ろっか。お父さん、心配されてるでしょ」  こみあげた思いをかき消すように言って、わざと乱暴に顔や髪を拭いた。 「オヤジ、ざんぎょー」塔夜はだらんとかったるそうにシートに体を伸ばす。「最近ずーっと一人メシだよ。帰っても誰もいねーから」 「あ、そう……」  母親は五歳のときからいない。さすがにそれは覚えていた。  拭いたタオルをもう一度絞って、後席へ放り出す。乗ったばかりなのに窓ガラスはもう曇りかけだ。湿気が凄い。エンジンをかけてエアコンをつける。 「そういえば、梅雨入りしたって言ってたな……」  冷たい風がみるみるフロントグラスを透明にしていく。湿ったブラのぺたっとした感触を我慢しながら、胸の上にかけたシートベルトをギュッと締め付けて、ついでに「あんたもベルト」と隣へ促し、理砂はワゴンRを発進させた。  窓ガラスにあたる雨粒が大きすぎてぼとぼと音がする。県道に伸びたヘッドライトの光芒がぼやけている。ワイパーで拭いきれていない。  でかい態度で座席をリクライニングさせた塔夜が言う。 「キョウにしろよキョウにー」 「えっ、キョウ?」 「ワイパーを」 「あ、キョウって、強い、ね。はいはい」  何度レバーをぺこぺこ動かしても変わらない。すると「ハイビームにしてどうすんだよ……」と言われた。  振り向くと猫めいた鋭い目を細めて、少年がにやにやと笑っていた。理砂は顔を赤らめた。 「ち、ちょっと調節しただけだし」  左のレバーで、ガッガッガッガッとワイパーが元気になった。塔夜が勝ち誇ったように言う。 「リサリサはほんとどんくせーよなー」 「うるさいよ」 「忘れんぼだし足おせーしよー。走るともったらもったらして牛みたいだし」 「黙れ小僧。ちょっとクラス一足が速いからっていばんな」 「連立方程式とけねーとかありえねーし。小学校出てんの?」 「教師なめんなコラ! あんたね、徒然草暗誦してみろよ!」 「しらねーよ、ツレヅレグサでシューショクできるかよ。基本はITだろ。ウェンズデイアップデートだろ? ウェンズデイアップデート」 「あ、あれはちょっと勘違いしただけで……」パソコン授業のときに児童の前で噛んでしまったのは痛恨のミスだった。小学生はそういうのを絶対に忘れない。「ウィンドウズでしょ? わかってるって、もう!」 「はい、モー出ました。ウシ登場ー、リサリサホルスタイン説証明完了ー」 「……」 「はっは、ちょれーよリサリサ」  はらわたが煮えくり返る。そもそも、教師の理砂をリサリサとあだな呼び捨てにし始めたのもこいつだった。JOJOに出てくる美人だよーとにこやかに言われて、ちょっと喜んで読んだら、実は中身は婆さんだった。  理砂はハンドルにしがみついて黙り込む。  ――このクソガキほんっと性格悪いんだから……。  そのとき、前方の真っ暗な上り坂に赤灯が見えた。ちょうど大橋に差し掛かるところだ。 「お?」  車を止めると、雨合羽のお巡りさんがやってきて、窓の外で叫んだ。 「大雨でー! だめだから! 国道へねー、回ってもらえる?」  そう言って、棒ライトで川の下流を指し示した。そういえばここの橋は降水量何ミリで通行止めだって看板あったな、と理砂は思い出した。 「はあい、どうもー」  返事をして堤防道路に入り込んだ。 「え、なに」  塔夜が少し体を起こす。成り行きをよく聞いていなかったらしい。理砂はぶっきらぼうに教えてやる。 「遠回り。下の橋まで」 「あ、そう……ごめん」 「え?」 「遠回り」 「いや、あんたのせいじゃないし」 「ん」  フッ、と彼が少し笑ったような気がした。その横顔に目をやって、理砂は小さくため息をつく。  ――たまに、たまーにいい子になるんだよなあ、この子。  五年生と六年生の塔夜を担任した。へそ曲がりで言うことを聞かないやっかいな子だけれど、周りで弱い者いじめや無視があると、敏感に反応して立ち向かっていた。  その場合、相手を殴るという形で向かっていくので、ケンカということになってしまうのが常だったが。  そうなるのはまだ幼いからだと理砂は見込んでいる。でも他の教師や児童たちには、キレるきっかけの分からない、付き合いづらい子と思われているみたいだった。  ――あの正義感に、偏らない知識と、オトナの分別が合体したら、この子きっとイケメンになるだろうなあ。  堤防道路を走らせつつ、理砂はそんなことを思う一方、視界のすみに入る塔夜の細っこい膝を見て、別のことも思ったりした。  ――今のままでいい子になってくれたら、もっといいのにな。  桜庭理砂、二十六歳。  実は少し性癖がやばかった。  学生時代に何度か男とまともな付き合いをして、そういうのは無理だと逆に開き直った。好きなのは年上よりも同い年よりも、年下の異性。骨太で暑苦しい男よりも、線の細い優しい美形。自宅PCでその種のイラストを見漁っているし、押入れには薄い本が年々溜まってきた。  もちろん徹底的に秘密にしているし、一度も誰にも明かしていない。教師になったのもきれいなほうの心が命じたからで、暗黒面を表に出す気は毛頭なかった。  それは今、塔夜と隣り合っていてもそうだった。水谷塔夜、十二歳。風の精霊みたいに身軽な体つきで、大きな瞳と細い顎の、男の子版小悪魔という感じの引き込まれそうな容姿だけれど、血迷ったりは絶対しない。妄想と現実は取り違えない。  ――うん、その辺はちゃんとわかってるからな、自分。  さばさばした、ある種の悟りにいたっているつもりで、理砂は一人でうなずいた。  渋滞した国道に一度入って、鉄橋をわたって、対岸の堤防に折れる。相変わらず雨は激しく、時折すれ違う対向車のヘッドライトしかよく見えない。すると塔夜が「次、右」と出し抜けに言った。「えっ?」と理砂は振り返る。 「降りる道あるから。そこ、そこそこっ」 「え、どれ、これっ?」  塔夜の指差す先で路肩のキャッツアイが切れて、細い闇が伸びていた。とっさに理砂はハンドルを切った。  堤防の陰の暗いところへ降りていく――が、初めての道だから、先がどうなっているのか分からない。ワイパーの向こうへ舗装が延び、その先に灰茶色の広場があるように、一瞬見えた。 「わっ、ちょ、リサリサー!」「え?」  広場に入っていくつもりで――それが水を張った水田であることに、いきなり理砂は気づいた。 「キャーッ!」  悲鳴とともにブレーキを踏む。ガガガッとアンチスキッドが車体を揺らし、それでも間に合わなかったらしく、ガン・ガン! と下から叩き上げられるような衝撃が襲った。ひっくり返る――! と恐怖に襲われて、とっさに理砂は動いていた。 「水谷!」  シートベルトから右肩を抜いて、隣の少年を抱きしめる。  ふっとエンジン音が止まって、振動が消え――。  何も起きなかった。 「は……れ……?」  車は水平に静止している。ガッガッガッとワイパーの音だけがする。理砂は閉じていた目を開けた。腕の中で固まっていた彼を離して、計器を見る。ショックのせいか、電源オンのままでエンストしていた。ひとまずそのままで窓の外を見回す。  前方は目の下から田んぼだった。  運転席の右と左は――。 「お、おお……?」  真っ黒な水の流れる溝だった。暗くてほとんど見えないので、ドアをちょっと開けて携帯電話のライトで照らしてみると、幅四十センチほどの用水路だった。足元の水面まで二メートル近い高さがあって、こわくなってドアを閉めた。 「えーっとなんだこれ、つまり……」  塔夜もようやくそろそろと動き出し、二人して首を突き出したりして周りを見回して、やっと車の状態がわかった。  溝をまたいでいるのだ。  堤防から降りる道は、下までつくと田んぼに突き当たり、直角に右へ曲がっていた。理砂はそれを知らずに突っこんだ。田んぼの手前に用水路があって、勢い余ってそれを乗り越えて、田んぼのあぜに前輪をぶつけて、かろうじて止まったのだった。  理砂はどきどきする胸を、ほっとなでおろした。 「ふあー、すごいことになったな。とりま、田んぼに落ちなくてよかった……水谷、けがはないよね?」 「え? う、うん」  塔夜が戸惑ったようにうなずくのを確かめて、えーとえーと、と理砂は考え込んだ。 「このままバックしたら、今度こそはまるよね。だからバックはしない。あわてないこと、あわてないことだ、よーし……」  つぶやいてから、理砂はとびきりの名案を思いついた。 「JAFを呼ぼう!」 「じゃふ?」 「こういうときはJAFなんだ。前にバッテリー上がりで呼んだことある。番号ちゃんと覚えてるぞ、シャープハイサンキュー、と……」  よしよし私冷静だぞと自画自賛しながら、理砂は携帯電話をかけて、場所と事情を説明した。  しかし期待通りには行かなかった。 「二時間待ちですか?」  うつむいていた塔夜が不安そうに顔を上げる。はい、はい、とうなずいていた理砂は、お願いしますと頭を下げて電話を切り、ため息をついた。 「車が出払ってて二時間待ちだってさ。あたしたちより先に、別のお間抜けさんがハマったみたい」 「そっか……」 「だから」腕時計を見る。「帰るの、八時過ぎちゃうな。九時かも。ごっめーん、もう」  塔夜を居残りにしたことから今まで、ミスの連続だった。がっかりしてしまい、理砂は上を向いて手で顔を覆った。 「先生、今日はダメダメだわ。マジごめん……」  ガッガッガッとワイパーが動いている。はっと気づいて、電源を切った。つけっ放しだったヘッドライトも消した。バッテリーまで上げてしまうところだった。  すると本当に真っ暗で静かになって、鉄板を叩くばらばらという雨音と、ときおり堤防の上を行く車が、ザーッと水を切る音だけが残った。  すっかりへこんで目を塞いでいた理砂は、やがてまた窓の外を見た。近くに家の明かりもあるようだが、よく見えない。用水路沿いに立つ木が邪魔をしているのだ。車は道路から飛び出しているから後ろの交通を塞いでいるわけでもない。こんな天気だし、よほどの物好きでなければ、こっちに気づきもしないだろう。 「ちょっとした、陸の孤島になっちゃったな……」  つぶやいた理砂は、ふとおかしなことに気づいた。  さっきから塔夜がいやに静かだ。お得意の毒舌も吐かずにうつむいている。  横顔を覗き込んで、「水谷……?」と指先で髪をかきあげたら、ぶるぶるっと首を振ってむこうを向いてしまった。すっかりこちらに愛想を尽かしたらしい。 「はは、すまんね」   理砂はちょっとさびしい思いで身を引き、自宅に電話して、だいぶ遅くなるから、と理由を話した。 「うちはこれでよし、と……水谷んちもかけておこうか? 留守電あるでしょ」 「いいよ」 「でも九時近くなりそうだし」 「いいっつってんだろ!」  そっぽを向いたままの塔夜のいきなりの怒声に、びくっと理砂は固まってしまった。「あっ、くっ……」とさらに塔夜が肩を縮めたので、半分泣きかけでハンドルにもたれた。  ――はー、あたしって、だっさ。児童一人慰められないとか、ほんと零点教師……。  今から二時間反省タイムだ、と理砂は自分に言い聞かせた。  だから、五分ほどたったときに声がしても、最初は聞き間違いだと思った。 「……せい……先生」 「ん」  目だけで横を向く。シルエットしか見えない。が、多分塔夜がこっちを向いている。 「なに」 「……めん」 「?」 「ごめっ……ん」  顔を向けた。塔夜は怒ったような顔をしていた。 「どしたの」 「だから……っ」喉にものがつかえているように、口をぱくぱくさせて、塔夜は切れ切れに言った。「ごめん、ってこと! 補習、とか、悪口とか、さっきの、道……とかっ……!」 「はあ?」よくわからない。「怒ってたんじゃないの? なに?」 「怒ってねえよ!」と言ってから、またぎゅっと目を閉じて、単語の練習のように、一言ずつ言う。「怒って、ない、謝ってる。でもおれ、すぐ、怒鳴っちまう、から……!」 「あ」脈絡もなく理砂は気づく。というよりも、ずいぶん遅れて。「あんたまさか、泣いて……た?」 「泣いてねへっし!」  後ろ半分しゃくりあげてしまい、否定の叫びは台無しになった。  あはー……と、理砂はゆるゆると、柔らかな気分になる。 「そっか……そーだったか。あんた全部自分のせいだと思ったのか」 「そうだろ? これ」手を広げて周りを示す。「おれがいろいろごちゃごちゃ言ったから、車突っこんでんじゃん。死ぬところだったし! それにぶつけて、車も壊れてそうだし……」 「大丈夫、助かったよ。車なんかいいさ」 「それなのに先生さあ……」塔夜は鼻と目を手でぐいぐいとこすりだす。「あんとき、おれのこと、抱いて、助けてくれて……先生……」 「えー、あー、あれ?」正直、よく覚えていない。照れくさくて顔が火照る。「よくわかんない、反射的に動いちゃった」 「だからおれ……」ぎゅっと涙を拭って、塔夜は一生懸命な口調で言った。「うれしい、んだ。ありがとう」  ――おおー……か、可愛い。  そんな塔夜は初めて見た。理砂の胸がきゅっとうずいて、息が苦しくなった。  すると、心にしっかり根を張っている教師根性が働いて、教えさとすような言葉が、自然に出た。 「水谷、素直に謝れるんじゃない。あんたはいい子だよ。クラスでもそうやってれば、他の子とももっと仲良くなれるよ」  それを聞くと塔夜は微妙に顔を歪めた。「別にクラスとか……」と目を落とす。 「ん? みんなと仲良くなりたくない?」 「そういうことじゃなくてさ……」 「うん、どういうこと?」 「じゃなくって……くっ」  せっかく素直になったのに、また何か言葉にできなくなったのか、うつむこうとする。それを引き止めたくて、理砂は懸命に塔夜の肩をつかんで、顔を覗きこんだ。 「なに、教えて? 先生、水谷が言いたいことあるなら、聞いておきたい」 「ある……けど」 「言って? 誰にも言わない。あたしとあんただけの話にしておく」 「じゃあ、言うけど!」声を上げて、塔夜は、すう、はあ、すう、と大きく息をした。  そしてかすれた声で、「せんせいが……好き……っ」と下を向いて言った。  理砂は固まった。  ――えっ。  手のひらに、塔夜のかちんこちんに硬くなった肩が当たっている。息を止めている。そっとあごに手を当てて、上向かせると、白っぽい顔色で、ぎゅっと目を閉じていた。  全身を耳にして、返事を待っている。  それがわかったとき、二つの正反対の気持ちが爆発して、理砂は静止したままパニックになった。  ――りっ両思いマジ告白きたあああああああああああ!  と同時に、  ――やっべこれ逃げ場ないド直球ストレートすぎ……!  塔夜が目を開ける。長いまつげの下の瞳がぞっとするほど美しい。幼い、真剣な思いがみなぎっている。理砂の腋の下に冷や汗が流れる。  ――これ、話そらして、ごまかしたら……関係、崩壊するだろうな。壁立っちゃうだろうな。ウォール・水谷。絶対水谷フィールド。いやいや、何考えてるあたし。  一秒一秒、時間がたつにつれ、少しずつ塔夜の眼差しが下がる。落胆していく。  ――あああどうする、水谷がしぼんじゃう逃げちゃう、死にそうな顔してる今ちょっとでも笑ったらこの子一生壊れる、可愛い素敵抱きしめたい、いやダメだし教師だし、好きとかありえないし、なんとか乗り切れ明るくカラッと軽やか華麗に! 「好き」  結局するりと本音がこぼれた。  ぽかんと見詰め合う。  お互い、何が起こったのかわからない。  次の瞬間、理砂は両手でぱっと口を押さえたが、もう間に合わない。「あっ、ちょ、せ」と少しどもった塔夜が、「先生、リサリサ……?」と信じられないように言った。 「本当? マジで本当? リサリサも好きなの? 先生なのに?」 「あ、っ、と」  最後に一瞬だけ、ためらった。でも胸のどきどきが最高潮になって、もう止まれなかった。行くしかない。 「先生でもだよ――」こくんとうなずく。「先生だからずっと言えなかったし、絶対言わないつもりだったよ。でも水谷が。水谷がそんな顔するから。見過ごせない、無視できない、嘘つけない」  言えば言うほど、火がついた。 「我慢できないよ。水谷……好き」  真顔で、両肩つかんでかがみこんで、言ってしまった。 「り……リサリサ……」塔夜は唖然とする。みるみるその頬に、ぽうっと血が上る。 「マジかよ……」 「マジ」 「うっそ……」 「じゃない」  そのまま引き寄せると、肩にすっぽりとあごが乗った。首に首をこすりつける。湿っていて、でも心地よい。理砂の記憶にある同年代の男よりも、ずっと肩が細い。 「水谷も、好き?」と聞く。  塔夜がごくっと唾を飲んで、描いたようにくっきりした眉の下の瞳を向ける。 「好きだ」ときっぱり言った。  堤防の陰に止めたちっぽけな軽自動車。雨と闇の中に溶け込んでしまっている。後ろをザアッとタクシーが曲がっていったが、こっちの存在にすら気づかなかっただろう。向こうの工場の明かりがかすかに届いているが、車内の様子はまったく見えない。そこに大きさの違う二つの人影があると気づく人は誰もいない。  だからこれは今だけの奇跡なんだ、と理砂は痛いほど意識していた。  十二歳の男子と、二十六歳の教師の自分。  本当なら絶対に触れ合ってはいけない二人。 「リサ……」 「水谷」 「んっ……んん、リサ」 「うん、水谷……」  ワゴンRは型がちょっと古くて、二人のあいだのATレバーが邪魔をしている。腰を左右のシートに残したまま、首をこすりつけてささやきあい、互いの背中を撫でさする。肌のふれあいは、そら恐ろしいほど心地よい。草の葉みたいでかすかに苦い、男の子特有の澄んだ汗くささが、理砂の鼻をくすぐり頭をくらくらさせる。かすかに記憶にある大学時代の恋人のそれとはぜんぜん違う。  ――まだ大人じゃない子の、いい匂いがする……。  溺れてしまいそうになる一方で、塔夜のほうも夢中みたいだった。大人の理砂の胴にけんめいに腕を回し、ぎゅっと抱きついてくんくん、くんくん、と首筋を嗅ぎ、ワイシャツの襟の中へすりすり鼻を突っこんでいる。唇で、肌をこすっている。  雨に濡れて汗ばんでいるから、顔から火が出るほど恥ずかしい。「水谷、ちょっと……」と引き剥がそうとすると、「あっ」と拒否の声を漏らして強く抱きつき、飢えたようにすうすうと理砂の喉首をかいだ。吐息の熱さにぞくぞくと背筋が震える。恥ずかしさを、塔夜に求められているという喜びが上回った。 「ちょっと、水谷ぃ……」 「リサ、リサの匂い」かすれ声で、塔夜がつぶやく。「花みたいで、甘酸っぱくて、すげーいい……」  鼓動がすごい。胸元からどくどくと心臓の音が聞こえてきそうだ。きっと塔夜もそうだろう。濁流みたいな強い欲求に、押し流されそうになる。  理砂には、これ以上進んではいけない理由がいくらでもあった。でも、降って湧いたようなこの告白を棒に振る気にはとてもなれなかった。  ――こんなこと、きっとこの先の人生でもう二度ととない。 「水谷、待って、ね、お願い」  無我夢中で抱きつく塔夜をなんとかなだめようとすると、彼は途中で「あっ……」と我に返って、身を引いた。 「ご……ごめん、つい!」  本気で焦っているようだった。理砂は微笑んで取りつくろった。 「ううん、いいよ。こういうのって、突っ走っちゃうからね」  言いながら、シャツの胸元をかき合わせる。強く引かれて鎖骨があらわになっていた。ブラのストラップも見えていたかもしれない。 「でも、ちょっと話そう? あたしたち、話さなきゃいけない」 「うん……」 「あたしたち、両思い……なんだよね?」  ちらりと見上げた塔夜が、少し嬉しそうに、こくんとうなずいた。 「でもあたしは教師だし、もう二十六なんだよ。水谷はまだ十二歳……」 「知ってるし、リサ来月二十七になるけど、どうでもいい」  ――た、誕生日覚えてるし、こいつ。  また一撃、弱いところを突かれて胸がきゅんとなった。だが懸命にこらえて続ける。 「あんたは良くても世間はそうなってないから。こういう組み合わせだとね、おめでとうって言ってくれる人は、残念だけどいない。ていうか、悪いこと、ってなってるから……」 「リサはおれのこと、ガキだと思ってる?」  思っているし、だからこそいいのだけど、それを言っても絶対うまく通じない。「ううん」とっさに首を振る。 「十二歳の彼氏なんて……普通イヤだろ? 無理に合わせてくれてねー?」 「無理じゃない、絶対ない」ここは力強く詰め寄る。「あたし水谷好きだよ、本心で。恋人として」 「う……っく」  これは効いたみたいで、塔夜は唾を飲んで目を逸らした。「そっか」と小さくうなずく。 「好きだけど、普通のお付き合いはできないよ、ってこと。人前でラブラブとか、デートとかは、できない。やると……どうなると思う?」 「……どうなんの」 「クビかな、多分」へらっ、とあえて軽く理砂は笑った。「インコー教師、って新聞に書かれてね。あ、その前に逮捕かも。教師は、児童とラブしちゃいけないんだ」 「なんでいけねーんだよ、両思いなのに!」 「両思いでも、教師が児童をだましたってことになるんだよ」 「くっそ……イミわかんねー、おれ全然だまされたりしてねーのに」 「そういう法律になってんの。仕方ない」  塔夜は舌打ちして、「っやろークソだな、ブチ壊してやりてー……」と拳で手のひらを叩いた。  理砂は微笑んで、その肩を軽くぽんぽんと叩いた。 「だから、ね。これは絶対秘密にしないといけない。思うように会えなかったり話せなかったり、きっとつらい。でもあたしは大人だから、耐えるよ。水谷……あんた、耐えられるかな」 「耐える、それぐらい」  据わった目で、塔夜は言い切った。「絶対秘密?」と理砂は首をかしげて訊く。 「うん、秘密」 「じゃ、指きり。水谷も出して」  理砂が小指を差し出すと、塔夜も「え、うん……」と不思議そうにまねをした。たぶんやったことないんだろうな、と思いながら理砂は指をキュッとからめた。 「ゆーびきーりげんまん、嘘ついたら針せんぼんのーます。ゆび切った!」  ぺっ、と指を離すと塔夜はまじまじと小指を見つめて、「へえ……」と言った。やっぱり初めてだったんだろう。 「じゃ、こっち来て」  理砂はなんだか腹をくくった気分になり、背もたれを倒して後席へと移った。前席から体を抜いて、立てひざで脚を後席へ入れ替えた一瞬、見ていた塔夜がさっと顔を背けた。  ――あ、スカートの中、か……。  タイトスカートの下はベージュのストッキングだけど、今の角度だとショーツまで見えたかもしれない。もうちょっとおしとかやにすればよかった、と理砂は軽く反省した。  後から塔夜も移ってきた。二人で並び、背もたれを元に戻す。後席はフラットで邪魔なレバーもない。前席よりもさらに閉ざされた、親密な空間だ。  そこで、ぴったりと肩をくっつけて座った。お互い背中に手を回して、前で手を握り合った。塔夜はおとなしく合わせてくれた。手のひらが理砂より一センチぐらい小さい。  理砂は幸福感で溶けそうになる。  ――うわー、結婚式の新郎新婦みたい。これ一生覚えとこう……。 「ね、水谷。こういうの、いや?」 「別に」と言ってから、一度ぶるっと首を振って言い直した。「いいよ。イヤじゃない」 「そっか」  お互いの鼓動と体温を感じながら、静かに寄り添い続ける時間。ずっとこのままでもいい――と理砂は思った。薄い本みたいなことは、本の中だけのことだ。こういうプラトニックなお付き合いで十分だ……。 「リサ」  塔夜が唇をかすかに開けて、待っていた。長いまつ毛で瞳を陰らせて、訴えている。  ――あ、だめだ。  とても拒めなかった。理砂は「ん」と答えて、顔を寄せた。  唇を重ねる。最初は、つ、つ、とついばむように。塔夜の唇は少し薄いけれど、耳たぶみたいに柔らかい。  それからそっと、強く押し当てた。唇で唇を包むように。 「ん……ん……む」「くふ」  塔夜はまた告白したときみたいに体をこわばらせ、じっとしていた。動きのないキスを少しして終えると、「初めて?」と理砂は聞いた。 「うん……初めて」  女の子のように小さく、塔夜がうなずいた。 「よかった?」 「桜庭先生とキスしてる……って、思った」ぎゅっと目を閉じる。「信じらんね……」  リサリサというあだ名をつける前の呼び方で、彼は言った。胸の奥がぞわぞわして、理砂はいたずらっぽく唇を突き出した。 「よかったかどうか言えよぉ。ん……」  すかさず塔夜がもう一度顔を寄せてきた。唇を交わし、より長く、深くキスした。  吸い付くように唇を動してやると、少年はすぐ真似をした。舌先でくすぐり、つつき、探ると、新しい遊びでも覚えたみたいに、同じようにやり返してきた。  ん、ん、くふ、ちゅく、と小さな音が密室に満ちる。  いつしか、握り合っていた片手も相手の背に回し、すっかり抱き合っていた。体を正面からあわせると、いやでも体格の違いを意識せずにいられなかった。  塔夜は細い。それに背丈もクラスの真ん中ぐらいだ。大人の男のように理砂を包もうとする感じじゃない。むしろ、理砂の腕の中にすっぽり収まってしまう。本当なら、守ってやらなければならない年ごろだ。  ――それなのに、あたし、こんな逃げ場のない状況で、体で誘惑して、エッチなこと全開で教えてて。  一瞬、罪悪感と自己嫌悪が泡のように湧き上がって、勢いよく顔を背けた。 「くっ……」 「リサリサ?」  ドッドッドッ、と心臓が鳴っている。男の子の一生懸命で熱い舌使いと、濃い汗の匂いのせいで、鼻の奥がぼんやりして、眉間にジーンと微痛が走っている。そろそろ下半身のうずきも無視できなくなってきた。  六年生の男の子の肌が、底なしに心地いい。かなうなら食べてしまいたい。途中のブレーキなんかききそうもない。このまま一気に一線を越えてしまいそうだった。  ――やば……これ、シャレにならない。 「リサ……おれ、なんかよくなかった?」  塔夜が不安そうに見ていた。濡れた唇を光らせて。 「リサはよかったよ。すごくいいよ。おれ、こんなに気持ちいいこと初めてで……舌って、入れないほうがいい?」  みなまで言わせずもう一度強く強く抱きしめて、こちらから舌を入れてやった。  んんっ、くっくふっ、と塔夜が暴れる。二十六歳の大人が、手加減なしで思い切り抱きしめて、唇を奪っているのだから、必死になって当たり前だ。理砂の腕の中で、その細いからだが折れそうにたわむ――。  と思ったら、グッと強い芯が入った。理砂のウエストの細いところを腕で抱きしめて、ぐぐっと上体を起こして逆に押し返してくる。忍び込んでいた理砂の舌が、押し戻される。ぬるぬる、てろてろ、と硬い舌がしゃにむに理砂の舌と口内をかき回す。  それとともに、今度は理砂が押し負け始めた。塔夜がのしかかってくる。すごい力だ。片足をフロアに突っ張って、全力を出しているみたいだ。理砂は後席の背もたれに押し当てられ、ずるずるとずり落ち、ドッと後席ドアに頭を押し付けられた。塔夜は完全に理砂を組み敷いていた。  めまいがするほどの興奮が襲う。じくじくしていた股の奥が一気に潤んであふれだし、ショーツがじわりと熱くなった。  ――お、男の子だぁ……!  ふぐ、んむ、くちゅ、つぷ、と口の端から泡が立つほど理砂の唇を求めぬいた塔夜は、「ぷはぁっ!」と顔を上げると、「リサ、リサリサ……っ!」と胸元に額を押し当てて、ごりごりと猛々しくひねった。彼が、得体の知れない初めての衝動に戸惑っているのが、ありありとわかった。  母性と欲情のないまぜになったどろどろした感情が、理砂の胸で渦巻く。はぁ、はぁ、と熱い吐息がこぼれて湯気が立つ。この子に初めての行為を教えてやれるのが、嬉しくてたまらない。理性の糸は心のほんの片隅に押しやられ、キリキリと切れかけている。 「水谷……」とその頭を抱きしめると、彼の片手が胸に触れた。五本の指が機械じかけのように、ぎゅっとブラジャーの上から乳房を握り締めた。「んふっ」と理砂は鼻を鳴らす。はっと塔夜が手を離す。 「リサ……ごめ……」 「水谷、おっぱいさわりたい?」  塔夜が動きを止める。それでよくわかった。牛だのなんだのはやし立てるぐらいだから、きっとほんとは興味があるんだろう。  いま、体の手入れは大丈夫だったかな、とちょっとだけ考えたが、大丈夫だろうと片付けた。暗いし、多少のことなら気づかれないはず。 「もしよかったら、さわる? 水谷」 「い、いいの?」 「今だけ、さ。特別で」 「う……んう、う……」  なんだかうめき始めてしまった。どうしたの? と顔を覗き込む。  塔夜は困った顔をしているようだった。ささやくような声で、「さわっていいの? リサのおっ……ぱい」と聞く。 「いつも牛牛言ってるくせに」 「言ってるだけならいいんだよ」 「よくないよ、同じだよ。いつもはだめなの」そう言って、また頬にキスしてやった。「今はいいの」 「うん……じゃあ、今だけ」 「今だけね、ふふ」  理砂はワイシャツの前を開けて、背中のホックを外し、ブラをゆるめた。暗い中でも塔夜の突き刺さるような視線を感じる。服を脱ぐ羞恥を、好きな相手への奉仕心で乗り越えていくのが、えも言われず快い。  それでも裸になるのはちょっと抵抗があったので、カップをぐいと上にずらしただけで、「ん……」と胸を突き出した。  真っ暗な車内に、うっすらと光る生肌とほの赤い先端が露出した。耳の奥でうるさいほど鼓動が響く。夢の中のように現実感がなかった。 「うわ……」  塔夜は呆けたように口を薄く開けて見ていた。おずおずと寄ってきて、手の甲でさらっと撫でる。  それが最初から乳首だったので、ピクンと震えて理砂は声を漏らした。 「やっ。……爪はだめだよ。引っかいたりは」 「しねーよ! ――するわけねーよ、こんなにきれいなのに……」  捧げものをするように両手の平を広げて、下から乳房の丸みを包み、やわやわと何度も持ち上げて、餅でも丸めるように包み込んでいった。 「うっわ、やわらけー、なっにこれ……リサのって、こんなんだったんだ。すげー……」 「いいよ、水谷。その感じ……」  扱いがすごく優しい。塔夜の手つきには、生まれたばかりの雛や大事な宝物に触れるような敬虔さがあった。さっきの力強さとは打って変わって、とても丁寧にまさぐり、撫で回し、握り締める。素朴なのに、下手な技巧を凝らされるよりずっと心地いい。 「リサ……リサぁ……」 「続けて……すごくいい、水谷、ずっとさわっててよ……」  理砂は満たされた気持ちになって、うっとりとささやいた。  興奮して血が巡っているからだろう、塔夜の手も指も熱くなっている。むにゅ、むにゅ……と肉を握り締められると、熱が染みとおってくる。乳首はこわがってほんの軽くしか触れてこず、それがもどかしい。手のひら全体でふわりと包むか、親指でごく優しく、ふにっ……と挟むだけ。  じわじわとそこがうずいて、叫びたくなる。 「水谷、水谷、そこ……」  いっそギュッとつねられたいような気がしてくる。でも、言ってやってもらうのでは意味がない。快楽プレイをしているのじゃないんだから。愛が高まって触れ合っているのだから。  息を荒くして真っ赤な顔で乳房を揉んでいた塔夜が、たまらなくなったように、左の乳首に吸い付いた。 「リサ……っ」 「ひゃっ」  ざらざらした舌が乳首の先端をこすり、ちゅうちゅう、と強く吸い上げる。ぞくぞくんっ、と理砂は跳ね上がってしまった。単に快感が来たというのではない。塔夜の求めの激しさに反応したのだ。 「くっう……リサリサぁ……くそ……」  とうとう塔夜は、理砂の胸にすっかり顔をうずめてしまった。鼻面でふにふにとふくらみを押し上げる。「んっ、んっ」と左右の頬を交互にこすりつける。胸の谷間に耳を押し付けて、ふーっと長い息を吐く。 「聞こえる……どきどきしてる」つむ、と乳房の側面にキスして、胸骨の谷間にすんすんと鼻の頭を這わせた。「すごくいい匂い……リサリサっ……」  ――かわいいっ……! こいつ、もうっ……!  理砂は塔夜の髪の毛ごとくしゃくしゃと頭を撫でて、しっかりと抱き寄せる。頭の中に、いつまででも好きなだけ甘えさせてあげたい、という蜜のような情動がどっぷりとあふれ返る。母親になるってこんな感じなのかな、と思う。  ――こいつ、ずっとお母さんいなかったからなあ。  それを考えるとちょっと涙までこぼれそうになり、ミントみたいな匂いのする頭に何度もキスした。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……んっく」 「ん……んむ……くふ……むぅ……」  だんだん、言葉も名前も消えた。互いの動きと吐息だけが続く。塔夜は壁際に追い詰めた理砂のはだけた乳房を、一心にこね回し、舐め回している。それは理砂にとっても心地よくて嬉しいことだったが、姿勢にちょっと無理があった。押し付けられた後頭部が痛い。 「水谷、ちょっと……」  促して少し下がらせると、思い切って自分の上半身をすっかりシートに横たえた。「靴脱いで、一緒に寝よ」とうながす。塔夜は言われたとおり理砂の隣に添い寝しようとしたが、膝とつま先が、ドアや前席につかえてしまった。軽自動車の後席はそんなことができるほど広くない。  ぴったりと抱き合える態勢を探して、ごそごそと動く。 「なんか、ちょっと」 「うん、狭いね……」  足を曲げて、互いにまたいで、抱き合ったりした。そのとき塔夜の股間の熱く硬いものが、理砂の太ももにぐりっと当たった。 「んふっ……」  塔夜がぴくんと震えて、なまめかしい声を漏らす。はっと理砂は気づいた。  ――た、たってる、水谷……。  目が合っている。塔夜がはっはっと速い息遣いで見つめている。何も言ってこないのは、恥ずかしいからか、何も知らないからか。とにかく、これからどうしたらいいかわからないんだろう。  でも下半身はきちんと男の子の反応をしている。  ――いや当たり前だけど、これだけ刺激しまくったんだから、たってないほうがおかしいけど!  それでも、毎日教室で顔を合わせる少年が、自分の肌に触れながら性器をありありと勃起させているというのは、教師の理砂にとって、衝撃的な図だった。  ――こうなったら、このままじゃあ……終わらない、よな……。  にわかに目の前のリアルがひしひしと押し寄せて、理砂は緊張した。男の子がこうなったら、ああするまで、収まらない。ありとあらゆる薄い本にそう書いてある。いや薄い本はリアルではないが、たつところまでは現に目の前で薄い本の通りになっているのだから、その先だってそうに違いなかった。  ――どうする、最後までさせてあげる?  自問したとたんに下腹がきゅーっとうずいて、このまま何もかも忘れてこの可愛い少年に至高の体験をさせてあげたくなったけれど、いくらなんでもそれは無理だった。いきなりすぎるし、何の準備もない。  となれば――代替手段を取るしかない。  そういうのなら、いくらでも知っている。  ――薄い本読んどいて、よかった……!  心の準備をしながら、理砂はまず、不自然な態勢のまま、そっと塔夜の股間に自分の太腿を差し込んだ。わざとらしくないように注意しながら、体ごと何度も、ぎゅ、ぎゅ、と抱きしめる。 「んっ……くぅ……」  反応はびっくりするほどストレートだった。塔夜の目が急に泳いで、自分からぐっ、ぐっと腰を押し付けてきたのだ。  小柄な体を抱きしめながら、そっと股間を刺激し続けてやる。少年は「くぅ……かふぅ……」とうめいて徐々にとろんとした顔になっていき、乳房をまさぐる手も止めてしまった。  ――うっわー、めちゃくちゃ効いてる。男の子って、ここそんなに弱いんだ……。  ころあいを見て手を伸ばし、服の上から探った。ナイロンのショートパンツの中に、はっきりした硬いものがそそり立っていた。大きさも硬さも、理砂の親指と同じぐらいだ。  さわさわと少し触ってから、きゅう……と握りこむと、塔夜は「リサ、ちょっ」と焦りまくって身を離そうとした。 「あわてないで、水谷」 「で、でも」 「恥ずかしい?」 「うん……くうぅぅ……」  体を起こそうとしつつも、塔夜は起こし切れない。理砂の手指に一瞬で捉えられ、抜け出せなくなったみたいだ。やわやわやわ、と軽く揉んでいるだけなのに、じわじわと手の中へ硬い筒を押し込んでくる。背中を優しくさすりながら、「いいんだよ、水谷」とじんわり握り締めてやると、「ひぁ」と腰が抜けたようにドサリと戻ってきた。  あまり簡単すぎて逆に驚いた。 「み、水谷……?」とささやいて、もう隠さずに逆手でこすこすとこすってみる。「んっ、んう、ん」と塔夜はあごを上げて鼻を鳴らすだけで、逃げようともしない。 「水谷、かたいよ」とささやきかける。小さくうなずくだけで返事はない。 「きもちいいの?」と聞くと何度もこくこくとうなずく。 「ここ、きもちいい? 先生おちんちん触ってても、いいの?」と聞くと、むぐむぐと乳房に顔を押し付けて、「わかんねぇよ……」と悲鳴のような細い声で言った。  ぱ、と手を離してみた。塔夜はしばらく体をこわばらせたまま、ふるふると震えていた。  少したつとゆっくりと力を抜いて、は、は、と息継ぎをした。理砂はなんとなく、様子を見てしまう。おねだりしてくれるかもしれない、という気がしたのだ。  だが、彼が口にしたのは正反対の一言だった。 「リサ……今の、やばい。やらないで……」 「え、どうして?」 「気持ち、よすぎ」恥ずかしいのか、少し言葉に詰まる。「なんか、死ぬほどジンジンしてすごいのがきて、止まらなくなって……なんかになりそうになる。やばい」  あ……と理砂は気づく。  ――まだ、出たことないんだ……。  再び湧き出す罪悪感。それと表裏一体の、ぞくぞくとした愉悦。この子、ほんとにまだきれいな子なんだ。それなのにあたしが、今ここで……。 「されるの、イヤ?」 「いやっていうか……やばいんだって」 「イヤじゃないなら、いいよね」  理砂は手を伸ばして、もう一度股間に触れた。はう……と空気が抜けるような声を漏らして、塔夜はまた不自然に動きを止める。 「リサリサ、だめだって、それ……っ」 「先生ね、これから水谷がどうなるか、知ってる」  指の股でコリコリと挟み込んでやる。「ふぅんんっ」と苦しげにうめいて体を縮める。根元のほうまでカバーするように手の平で包んでやわやわと揉むと、もどかしそうに「んっ……んう」と体をよじらせる。 「大丈夫なの。水谷がどうなっても、世話してあげる。だから恥ずかしいの、我慢してほしいな」 「リ、リサぁ……」ひっきりなしにつま先をもぞつかせ、理砂のワイシャツにしがみつき、胸の上で小さく暴れながら、塔夜が熱に浮かされたような目でにらむ。 「し、シャレになんねーんだっ、て! それ、それっ……」顔を真っ赤にして訴えた。「出ちゃうから! そこからなんか、んうっ、くくっ」 「知ってるって」  猛烈にいとしく感じながら塔夜の額にキスをして、理砂は思い切って体を起こした。 「うわっ?」と驚く塔夜を抱き寄せて、体ごと場所を入れ替えさせる。それまでお尻の下に踏んづけていたキャラタオルを拾いつつ、彼をシートの右側に仰向けにさせて、理砂自身はシートの左側に深く腰掛けた。赤ん坊に授乳するときのように、左手で頭を抱きかかえる。そして右手を彼の股間にやった。 「はい、あんたの大好きなの」  顔の上にたぷんと乳房を乗せてやり、右手でショートパンツのボタンを外した。「なっ、これっ……」と動揺する塔夜に、そっと言い聞かせる。 「エッチなことは、どこでも、誰でもしていいわけじゃないけど、恋人同士ならいいんだよ、水谷。先生はちょっとだけそういうの知ってるから、信用して、任せてくれない?」 「恋人……」 「恥ずかしかったり、不安なのは、わかるよ。でもあたしはオトナだから。笑ったりしないし、だいじょぶ。……ね?」  乳房の陰になっていた少年の顔を抱き上げて、微笑みかけた。不安そうに見上げていた塔夜は、目の前に硬くなった乳首があることに気づくと、くやしそうに叫んだ。 「どうせおれ、ガキだから……っ!」 「そんなことない。今これから、オトコになる」  つんつん、と乳首を唇に押し当てて、塔夜に吸わせてやりながら、一生に一回だけの体験だよ、と理砂は胸の中でつぶやいた。  目を閉じて乳房に甘え始めた塔夜の、パンツのファスナーを下げて前をはだける。下は白のブリーフだった。手を入れて腰骨のほうへ滑らせ、パンツごと脱がせる。塔夜はわからないなりに覚悟したのか、腰を浮かせて自発的に脱いでくれた。  膝までくしゃくしゃとパンツと下着をおろした塔夜の、下腹部が目に入った。  女の子とは異質の、直線的でくっきりした輪郭の中に筋肉が張り詰めた、男の子の腰まわり。去年のプールの時間に見たときよりも、ずっと腹筋がはっきりしたような気がする。  形のいい縦長のへそに向かって、股間のものがピンと伸び上がっていた。いびつさのない素直な筒の形で、きれいな弓形に反っている。まだかなり包皮に覆われていたが、切れ込みの周りは、小指の腹ぐらいの広さに地肌がのぞいていた。  そこは濃い赤で、見ている前で、トクンと露を一粒吐いた。しずくは光る糸をツッと引いて、シートに垂れおちた。  ――う……っわ……。  理砂は息を呑む。鼓動がどくどくと高まりすぎて頭が壊れそうだった。  ――そ……想像よりもさらにエロ可愛い……やばすぎ……。  さっき塔夜が乳房に手を伸ばしたときのような、おそれに満ちた気持ちで、おずおずと手を伸ばして、握った。  とても熱かった。「ふ……っ!」と塔夜が乳房に口を押し付けて声を殺した。 「水……谷」  コリコリ、とまさぐると、薄皮の下に筋肉じみた硬い芯があって、小さな生き物みたいにぴくぴくと跳ねる。「ふぅっ、くううっ」と激しく塔夜が固めた体を震わせる。「水谷のちんちん」うわごとが漏れる。理性が跡形もなく消えていく。「かわいい。熱い。きもちいい。手がきもちいいよ。触ってるだけでいけそう……」  手元に目を落とす。教えたとおりに理砂を信じきって、身を任せることにした少年。目に涙をためてちゅくちゅくと乳房を吸っている。体をゆっくりと眺めて視姦する。ほんのかすかに明るい自分の車の中。あいつなんて足速いんだと思ったことのある教え子が、へそより上と、膝から下を隠しただけで、青白い下腹と股間を、黒塗りの消し一つもなく見せている。  かちかちに勃起した性器が指に触れている。いじればいじるだけ喜んでくれるし、不思議の塊だったその下の袋も、文字通り手に通るようにわかる。つまんでくりくりすると中に堅柔らかい小さな玉がある。少年がパンツをばさばささせて足を暴れさせる。  もう、あと少しで、イく。  ――夢かな、これ。  理砂はスカートの中の太腿をぎゅっと強く閉じ合わせ、自分の肉の奥にある秘所に感覚を集中した。直接そこにさわらなくても、塔夜が激しく胸を愛撫してくれている。右手の中に本物のあれの硬さがある。心も神経もとっくに高ぶりきっている。  ――あ、イける。これ、あたしもイける。  もうあとすぐで自分が本能に塗りつぶされてしまうのがわかって、とっさに右手にタオルをかけた。  それから閉じ合わせた両足をぐっと前へ突っ張り、乳房に抱きつぶした塔夜を見つめ、右手の微細な感触に意識を釘付けにしたまま、理砂は一足先にトランス状態に突っこんだ。濃厚な多幸感がどっと噴き出して脳内をねっとりと白く満たす。視界がすーっと狭くなる。 「みずたに だしてっ……」  それが伝わったわけではないと思う。でもその瞬間には、理砂の汗ばんだ右手が、最高のいやらしさで塔夜の硬いものをしごき立てていた。あるいは、絶頂し始めた理砂の震えや匂いが、塔夜にも伝わって、興奮を押し上げたのかもしれない。 「ふっんっんっくっ……くぅぅぅぅん、ん! ん! んっ……!」  不自然な姿勢のまま、声を殺して体を硬直させていった塔夜が、海底から盛り上がる火山みたいにぐううっ、と腰を突き出してから、ついに暴発した。たっぷりとしたしぶきをびゅっびゅっ、びゅっと弾丸のように勢いよく撃ちだす。  理砂の右手はその痙攣をはっきりと理解した。どくどくと脈打つ硬直の感触を、頭の中の、自分の体の芯で受け止める。 「みず たに……っ!」   浴びせられる、浴びせられる、撃ちこまれる。愛しい教え子の初めての精を、一滴も逃さずに自分の腹に種つけてもらう。そういう想像は普段から大好きだったし、今はその想像通りのシチュエーションだった。本物なのに妊娠の心配がない、というところまで想像と同じ。 「だい……すきっ……!」  激しく右手のものを搾りながら、ぐぐぐっと背中を丸めて恋人を乳房に抱き埋めて、理砂は思うさま自慰の快感をむさぼった。  爆発した体内の白い蜜が、ゆっくり、ゆっくりと色あせて、毛穴から流れていく。汗びっしょりの自分が、次第に浮上する。 「サ……リサリサ、っ……!」  腕の中でもがいていた。理砂は顔をあげ、どさりと背もたれに身を預ける。つま先から額までジンジンとして重い。汗で尻にべったりとスカートが張り付いている。家でもめったにいけないほど、激しい絶頂だった。 「リサリサ……ねえっ……」  泣いているような声がする。左腕の中で塔夜がしゃくりあげていた。やっぱり汗びっしょりになった彼の額に触れながら、「なに、水谷……」と理砂は荒い息のまま声をかける。 「いま、今のさあっ……! なんだよ、あれ!」 「苦しかった? ごめん……」 「じゃなくってっ!」  シートにひじをついてしゃにむに身を起こした塔夜が、襲いかかるように理砂の首に腕を回して、「このぉっ……!」と口付けした。息も止まるほど長く激しいキスをして、顔を見つめる。 「今おれ、リサとひとつになったみたいな気がした……!」 「――水谷」 「リサの、甘いおっぱいでぎゅっとされて、息が止まって死にそうなときに……あ、あそこから精子がすごく出て。その途端にリサがびくびくっ……てして。わかったんだよ。あれ、リサに当たったんだろ? リサにおれの精子当たったんだろ?」  理砂は途中から目を見張り、聞き終わると今度はこちらから塔夜にキスをして、互いに唾液をたっぷりと混ぜ合わせてから、口を離して輝くように微笑んだ。 「精子って、知ってるんじゃん。水谷」 「思い出したんだよ、五年の体育の授業の……」ちょっと口ごもってから、また言った。「リサに当たってたよな、あれ」 「そう、あたしに当たったよ、あれ。水谷、もう子供じゃないんだよ。オトコだ」 「オトコ……」  不思議そうな顔をする塔夜を目顔でうながして、理砂は右手に目をやった。それはまだ、塔夜の股間に置いたままだ。  可愛らしいキャラクター柄のタオルごと、右手を裏返す。  おびただしい白い粘りが、ほとんど布に吸われもしないまま、べっとりと溜まっていた。塔夜が「うげ……」と目をそらす。理砂はコツンと額をぶつける。 「うげ、じゃないよ。そこは、やったぜ! だ。初めてなんでしょ?」 「う、うん……」 「おめでと♪」笑みが抑えきれない。赤飯でも炊いてあげたい気分だ。タオルでゆっくりと手指を拭う。どの指もべたべたで、もう一枚ほしいぐらいだ。「すっごく出たね。ぷりぷりしてる。わあ、すごい匂い……」  鼻先へ近づけると、青臭いこってりとした花の匂いでせきこみそうになった。不快ではない。というよりも、甘くていい匂いだ、と感じる。  塔夜がびっくりして喚いた。 「やめろよ、きたねーって!」 「そんなことないよ、水谷のだから」  そうは言っても、それ以上のことをしたら、どん引きされてしまいそうだったから、指と塔夜の股間をなんとか拭うと、タオルは丸めて車内のゴミ箱に入れた。  塔夜がさっとブリーフごとショートパンツを引き上げる。見えていたものが見えなくなる。それは痛切に惜しかった、おそうじってやつをしたかったけれど、そんな自分をかたくかたく、理砂は戒めた。  ――今もう、十分、淫行だから! これ以上この子を汚しちゃいけないから! 「リサリサ……」体を起こした塔夜が、むこうを向いて、そっけなく言った。「服、着ろよ。それ……」 「も、もういいの?」言いながらも、またいらない知識が湧いてくる。男の子は、いったん出してしまうと、マックのポテトよりもすぐ冷める。仕方ないことなのだ。理砂はまだまだ抱き合っていたかったけれど。 「よくないけど」とそっぽを向いたまま塔夜。「もういっこ思い出した」 「なに?」 「セッ……あれ。エロいやつ」ちらりと振り向いて、半裸でゆであがっている理砂を見ると、ばっと目を背ける。「今までわけわかだったけど、いま、全部意味わかった。精子と女のあれで、あれになるんだろ」 「水谷……」 「着ろって。じゃないとおれ」ぐ、と肩を丸める。「今度は……リサリサに、セックスしそうだから」  冷めたんじゃなかった。まだ我慢してくれていた。 「水谷」  今すぐにでも全部脱いで好きにさせてあげたい、そんな衝動を押し殺して、理砂は手早く服装を整える。そうして、きちんとワイシャツの前も留めてから、塔夜の肩を引いて振り向かせた。 「ほら、これでいい?」 「……ん」  塔夜がほっとした顔になり、それから理砂の右手を取って、ちょっとためらったものの、ぎゅっと握ってくれた。 「ごめん、さっき、汚くして」 「ううん、いいよ」むしろ土下座で感謝したいよと思いながら、理砂は微笑んで手を握り返す。「あれはあたしが進んでやったの。気に病まないで」 「もうしねーから」 「いやないから!」  ぎょっとして目を見張る塔夜に、理砂は冷や汗をかいて、「ううん、違うの、そうじゃないの……」と首を振った。必死で取り繕う。 「水谷はさっきのいやだった? いやじゃなかったでしょ? あたしは素敵だと思ったよ?」うげ、と言った塔夜の表情を思い出す。「水谷がきたない……って思うなら、もうしないけど」 「ほんとに思わなかったの? 汚いって」  澄んだ瞳で見つめられると、何が正解なのかわからなくなるような気がしたが、そこはどうしても嘘がつけなかった。覚悟を決めて理砂は言った。 「思わない。――水谷のならなんでも、汚くないっ」  ふっ、とまた彼の顔に血が上ったような気がした。  上を向き、下を向く。 「あの……さ」 「うん」 「おれ、実は……ちょっと思ったんだけど……」 「なに?」 「えっと……引くなよ。イヤだったら、忘れてほしいんだけど……」 「うんうん、なに?」 「リサリサのおっぱいに、精子」言いかけでばっと顔を背けて、「ナシ、やっぱナシナシ、だめだこれ、ない」 「水谷……!」  理砂は心から顔を輝かせたものの、その気持ちを表す言葉をどうしても考え付けず、悶えるしかなかった。大歓迎ですなどとは言えたものではない。仮に言ったとしてそれで塔夜が喜ぶところも、見たくなかった。  いいんだ、と涙をぬぐって胸につぶやく。言えなくてもいい。この子、きっとすごくあたし好みになってくれる。それまで、この気持ちは取っておけばいいんだ。 「そういうのは、まだまだ早いと思うな☆」上滑りしているのを承知でそんなことを言って、それから本音で、理砂はそっと彼の肩を抱いた。 「ゆっくり、お付き合いしてこ。あたしたちもう、好き同士なんだから、ね」  塔夜はくるっと振り向いた。目元はしっかり赤かったが、ニヤッと笑って口にしたのは、この少年らしいことだった。 「彼氏できて嬉しい? リサリサ」 「あっ……あんたね」 「ヒマがない縁がない出会いないって言ってたよな。よかったじゃんアラサー独り身になんなくて」 「あんたね!」 「はい出ました妖怪アンタネー。三回アンタネーを繰り返してリサリサ牛に大変身ー」 「あんた――」  頬を両手でぎゅっと挟んで、無理やりちゅっとキスをしてやった。塔夜が笑って、同じようなキスを返す。 「リサリサ、好き」 「あたしも」  額を押し当てて、くすくすと笑いあった。  コンコン、と突然窓ガラスが外から叩かれた。「は、はいっ!?」とびっくりして振り向く。 「お、いた。JAFの者です! 電話くれましたよね!」  ざあっと頭の血が下がって凍りつきそうになったが、幸運にも窓は真っ白に曇っていた。胸元を確かめながら声のしたほうのガラスをキュッキュと磨くと、青い合羽姿のサービス員が懐中電灯をつけていた。 「お待たせしました! 今からレッカーするんで、いったん降りてもらえますか!」 「あっはいっ、いやちょっと待ってっ!」  窓の曇りのもとは、二人で熱心に発散した汗と吐息だ。開けたらきっとものすごく匂うに違いない。 「こ、子供が寝てるから! すぐ起こします!」 「わかりましたあ、じゃあ、車を回してきます!」  合羽姿が駆けていく。角のすぐ先に回転灯のレッカー車が来ていた。それも気がつかないほど夢中だった。振り向くと塔夜も目を見張っていた。 「見られた? 先生」 「いや、大丈夫! 水谷そっちのドアあけて! 空気入れ替えて!」  今のうちにとあわてて左右のドアを開ける。ぬるくて甘酸っぱい空気を、土の匂いのする冷たい風が追い出してくれた。  いつの間にか雨はやんでいた。流れる雲のあいだにきれいな星空が見える。明日はきっと晴れるだろう。  サンダルを履いて車を降りると、レッカー車がバックで寄って来た。理砂が脇へ下がって作業を眺めていると、ぶらぶらと隣に来た塔夜が後ろでぼそっと言った。 「今日はもう……お別れ?」  6−Aで一番やっかいな、一番可愛い男子に、理砂は明るくカラッと笑ってみせた。 「明日も会えるよ。明日も明後日も、先生はもう、あんたの彼女!」 (おわり) 2013/06/03