山上臣憶良
やまのうえのおみおくら
- 生没年 660(斉明6)〜733(天平5)?
- 系譜など 父母等は不詳。『新撰姓氏録』によれば山上氏は粟田氏の支族。粟田朝臣は孝昭天皇の皇子天押帯日子を始祖とする(古事記)。大和国添上郡山辺郷を本拠とし、この地名の訓みを氏の名にしたかという(佐伯有清)。一説に、近江甲賀郡居住の粟田従属の百済系渡来氏族かともいう(中西進)。『続日本紀』大宝元年の記事には山於億良とある。768(神護景雲2)年6月、船主が朝臣を賜姓される。
- 略伝 690(持統4)年9月、紀伊行幸の際の川嶋皇子の歌(01/0034)は注に「或云憶良作」とある。この小異歌が「山上歌」(09/1716)として載り、注に「或云川嶋皇子御作歌」とある。川島皇子と何らかの関係があったか(皇子の舎人であったとの説もある)。
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遣唐使船模型 高岡万葉歴史館 |
701(大宝1)年1.23、第7次遣唐使の少録に任命される。この時無位で、名は山於億良とある。執節使は粟田真人、大使は高橋笠間(渡唐せず)。同年9.18、文武天皇の紀伊国行幸の時の作と思われるものに長意吉麻呂の「結松を見て哀咽歌」(02/0143・0144)があり、これに追和した憶良の歌がある(02/0145)。
702(大宝2)年6.29、第7次遣唐使船出航(33年ぶりの遣唐使)。10月長安に入った旨『旧唐書』に見える。
704(大宝4)年頃、大唐にて本郷を憶う歌(01/0063。或いは707年作か)。同年7月、遣唐使粟田真人ら帰国(憶良も同船か。或いは707年帰国か)。一説にこの時、漢字の漢音が初めて齋されたという。また張文成の小説「遊仙窟」などもこの時初めて将来され、以後の日本の文芸に大きな影響を与えることになる。
714(和銅7)年1月、従五位下。
716(霊亀2)年4.27、伯耆守。
721(養老5)年1.23、首皇子(21歳)の侍講に任命され、退朝の後、東宮に侍す。一説に、この頃『類聚歌林』を編纂。
723(養老7)年7.7、七夕歌を詠む(08/1518)。左注に「養老八年七月七日、令(皇太子の命)に応ふ」とある。養老8年は2月に神亀に改元しているので7年の誤りか。
724(神亀1)年7.7、長屋王宅で七夕の歌を詠む(08/1519)。
725(神亀2)年、作歌(05/0903)。のちの「老身重病歌」の反歌に類想歌として載せる。
726(神亀3)年、筑前守に任命される。
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山上憶良歌碑 福岡県太宰府市 |
728(神亀5)年春までに大伴旅人が大宰府に着任。同年4月頃、大宰少弐小野老の赴任を祝う宴で「宴を罷る歌」を詠む(05/0337)。同年7.21、「日本挽歌」を旅人に奉る。同日、嘉摩三部作(05/0794〜0805)を選定(日本挽歌と共に旅人に奉るか)。
729(天平1)年7.7、七夕の歌を詠む(一云旅人邸での作。08/1520〜1522)。同年11か12月、鎮懐石の歌(08/0813・0814)。
730(天平2)年1.13、旅人邸の梅花宴に出席、歌を詠む(05/0818)。同年7.8、旅人邸で七夕歌を詠む(08/1523〜1526)。7.11、旅人に歌を謹上(06/0868〜0870)。同年秋か冬、松浦佐用姫の領布振りの歌(一説に旅人作。05/0871〜0875)。12.6、旅人に歌を謹上。大伴狭手彦・松浦佐用姫伝説の序文と歌(05/0871〜0875)。書殿に餞酒の日の倭歌(05/0867〜0879)。私懐を布べる歌(05/0880〜0882)。以上は憶良の邸(または筑前国府)で旅人送別の宴を開き、その時披露したうえ謹上したものか。但し松浦佐用姫の歌の作者については諸説あり、一説に「最最後人の追和二首」(0874・0875)のみ憶良作とする。
731(天平3)年6.17、肥後の人で相撲使の従人大伴君熊凝が上京途上病死。これに想を得た「大伴君熊凝の歌」(大宰大典麻田陽春の作)05/0884〜0885に敬和(05/0886〜0891)。年末、あるいは翌年上京か。
732(天平4)年、七夕歌三首(08/1527〜1529)。冬、「貧窮問答歌」(05/0892〜0893)。「謹上」とあり、高位の官人か皇族に捧げられたものと思われる。
733(天平5)年3.3、「好去好来歌」を遣唐大使多治比広成に贈る(05/0894)。左注に「良の宅に対面す」とあり、広成が憶良宅を訪れたことが判る。同年6.3、「老身重病歌」05/0897〜0902。序文として長大な「沈痾自哀文」を付す。十余年宿痾の病に苦しむとある。同じ頃、「沈痾の時の歌」(06/0978)。この時、藤原八束が河邊東人を派遣し憶良を見舞わせたと左注にある。この後程なくして卒したか(74歳)。
他に「男子名は古日に恋ふる歌三首」(05/0904〜0906)、「神亀年間筑前国志賀白水郎歌十首」(16/3860〜3869)なども憶良の作と考えられる。万葉収載歌は、数え方によってまちまちであるが、およそ80首前後。
憶良編の『類聚歌林』と万葉集の重出歌は巻1・2・9のみに見える。
なお748(天平20)年に「射水郡の駅館の屋柱に題著(しる)せる歌」として記録された作(18/4065)は、左注に「右一首は山上臣の作。名を審らかにせず。或は云はく、憶良大夫の男なりと。但し其の正名は詳らかならず」とある。
関連サイト:大宰府(大伴家持の世界)
憶良の歌(やまとうた)
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