新田部皇子
にいたべのみこ
- 生没年 ?〜735(天平7)
- 系譜など 天武第10皇子(末男)。母は鎌足の女、五百重娘(万葉08/1465脚注に大原大刀自とあるのと同一人)。異父弟に藤原麻呂がいる。子に塩焼王・道祖王がいる。
- 略伝 700(文武4)年1.7、浄広弐(大宝令の四品にほぼ相当するか)。704(大宝4)年1.11、増封100戸。この時三品。707(慶雲4)年10月、文武天皇大葬の際、造御竈司。この時二品。714(和銅7)年1.3、封200戸を加増。719(養老3)年10.17、舎人親王・新田部親王に対し、「年歯猶稚くして未だ政道に閑(なら)は」ぬ皇太子首の補佐を命ずる詔が出される。同時に両親王の内舎人・大舎人・衛士を増員する。当時、天武の皇子として両親王のみが存命しており、両親王に対しその重要な立場を「慎む」旨促している。720(養老4)年8月、右大臣藤原不比等が薨じた直後、知五衛及授刀舎人人事に任命される(禁衛軍を掌握)。721(養老5)年12.7、元明上皇が崩ずると、同月29日、新田部親王のもと、授刀寮と五衛府に動員態勢を敷く。724(神亀1)年2.4、首皇子が即位し(聖武天皇)、同日一品に叙せられる。ところが神亀5年7.21の続紀には「三品大将軍新田部親王に勅して明一品を授く」旨あり、叙一品の記事が重複している(「明一品」も旧冠名であり不審)。あるいは神亀元年以後何らかの事件を起こし、三品に降格される経歴があったか。神亀6年2.11、知太政官事舎人親王・藤原武智麻呂らと共に長屋王邸に派遣され、王を訊問。この時の官職名は大将軍。731(天平3)年11.22、畿内大惣官。天平7年9.30、疫病流行の平城京で薨ず。薨年は50歳代か。旧邸は763(天平宝字7)年鑑真に与えられ唐招提寺となった。
万葉に自作の歌は伝わらないが、人麻呂が新田部皇子に献ったという歌(03/0261)があり、藤原京時代、矢釣山(奈良県高市郡明日香村八釣)の近くに宮を営んだことが窺える。またある婦人から「髭無き」ことをからかわれる歌がある(16/3835)。
関連サイト:勝間田の池(万葉集の中の岡山)
系図へ