恭仁京 その1

天平12年(西暦740年)12月15日、聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手されました。翌13年正月には恭仁で朝賀の式が行われ、既に出来上がっていたらしい内裏の仮殿で宴が催されています。和銅3年から30年余り続いた平城の都からの、唐突な遷都でした。

泉川
泉川と鹿背(かせ)

遷都の背景はさまざまに論議されていますが、大仏造立のための適地を求められた天皇のご意志と、自らの勢力圏に都を移したい右大臣橘諸兄の思惑とが一致した末の決断であったことは間違いないでしょう。諸兄の井手別業は、新宮の北西約5キロという至近の距離にありました。

この年9月に左右京が設定され、10月には行基の協力のもと大橋の建設が完了しています。当初の計画では、平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたようです。京の南北を分断するように大河泉川が蛇行する、「水の都」とでも呼ぶべき新都でした。11月には「大養徳恭仁大宮(やまとくにのおおみや)」と正式名称が定められました。天皇と諸兄の新京にかける意気込みが推し量られる名称ではありませんか。家持もまた、この頃新京の造作に一身を捧げていたに違いありません。

恭仁京概略図
恭仁京概略図(宮域は'97年度京都府教委の調査結果に拠る)

翌14年2月には、近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成が始められています。紫香楽(しがらき)の地での大仏造立がこの頃までに決定されたものと思われます。適地を求めるうち近江国の山間僻遠の地にまで至ってしまったのでしょうか。あるいは、敢えて俗界を遠く離れ、深山幽邃の地を求めたのでしょうか。

宮都・交通図
古代の宮都と交通(概念図)

この後、聖武天皇はしだいに新京建設より大仏造立を優先させる方針を採られたようです。8月に最初の紫香楽行幸を果たされると、年も押し詰まった12月末、再び紫香楽へ向かわれ、天平15年正月の恭仁京に天皇はご不在という有様となりました。

ところで万葉集に恭仁京と難波京の讃歌はいくつか見えるものの、紫香楽を詠んだ歌は一首として見当たりません。これは、諸兄を中心とする一派が紫香楽を快く思っていなかったことの何よりの証拠でしょう。

天皇は魅入られたように紫香楽離宮への行幸を繰り返され、天平15年10月には、ついにこの地において大仏造立の詔を発布されました。同年末、恭仁京の大極殿がようやく完成しますが、同時に新京の建設は中止に追い込まれてしまいます。

恭仁宮址
山背国分寺址(恭仁宮址)

十五年癸未、秋八月十六日に、内舎人大伴宿禰家持の久迩京(くにのみやこ)を讃めて作る歌一首
 今造る久迩の都は山河のさやけき見ればうべ知らすらし(巻六 1037)
(訳)新たに造る恭仁の王都は、山河の明媚なことを見れば、ここを都と定められたのも尤もだと思われる。
大伴宿禰家持、安倍女郎に贈る歌一首
 今造る久迩の都に秋の夜の長きに独り寝(ぬ)るが苦しさ(巻八 1631)
(訳)新たに造るこの恭仁の都で、秋の夜長にたった独りで寝るのは、辛いことです。
泉川

家持は恭仁京で40首ほどの歌を残しています。内舎人として多忙な生活を送る一方で、歌作りにも励んでいたようです。

妻や恋人を旧京に残してきたためか、独り寝をかこつ歌がめだちます。そんな家持の恭仁京時代を彩るのは、何といっても紀小鹿女郎(きのおしかのいらつめ)の存在でしょう。女郎が新京に移り住んだことは、黒木で家を新築する旨の歌(巻四 779)から察せられます。

かなり年上だったらしい臈たけた女郎との交渉は、撫子の花程度の儚さで終わりを告げたようですが(巻八 1510)、二人の相聞は、丁々発止のやり取りのうちに、天平人の洗練されたエスプリ・エロチシズムをさりげなく忍ばせて、なかなかの出来映えです。

紀女郎の大伴家持に贈る歌
 戯奴(わけ)がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ召して肥えませ(巻八 1460)
(訳)わざわざ若い奴(やっこ)のおまえさんのために、我が手を休めず春の野で抜いた茅花(注)なのですよ、さあ召し上がってお肥りなさい。
大伴家持の贈り和ふる歌
 (あ)が君に戯奴(わけ)は恋ふらし給(たば)りたる茅花を喫(は)めどいや痩せにやす(巻八 1462)
(訳)ご主人様に対して、奴の私は恋しているらしい。くださった茅花をいくら噛んでも、余計痩せてゆくばかりです。
(注)茅花はチバナとも訓み、噛むと白く甘い汁が出ることから、チは乳に通じると言われています。春、蕾の時に摘み、乾燥させて食用に蓄えておきました。強壮剤としても用いられたようです。


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