笠朝臣麻呂
かさのあそみまろ
- 生没年 未詳
- 系譜など 父母等は未詳。笠氏については笠女郎参照。出家後は沙弥満誓と称した。
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笠麻呂社 岐阜県養老郡 |
- 略伝 704(大宝4)年1月、正六位下より従五位下に越階昇叙。706(慶雲3)年7月、美濃守。708(和銅1)年3月、美濃守再任(この時従五位上)。翌年、国司としての業績により田10町、穀200斛を授かる。これは東海・東山道巡察使藤原房前の報告に基づくものであった。711(和銅4)年4月、正五位上。713(和銅6)年1月、従四位下。714(和銅7)年閏2月、木曽路を開通させた功により封戸70戸、功田6町を賜わる。716(霊亀2)年6月、美濃守に尾張守を兼任。717(養老1)年12月、元正天皇が美濃国に行幸し、当伎郡多度山の美泉(現在の養老の滝付近)を嘉して年号を養老に改元。笠麻呂はこの際従四位上に昇叙される。719(養老3)年7月、尾張・参河・信濃の三国を管する按察使を兼ねる。
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筑紫観世音寺 福岡県太宰府市 |
720(養老4)年10月、右大弁として中央に復帰。翌年5月、元明太上天皇の病を理由に出家入道を請い、勅許される。以後、満誓と号した。723(養老7)年2月、造筑紫観世音寺別当となり、大宰府に下向。727(神亀4)年頃、大伴旅人が大宰帥として府に赴任すると、いわゆる筑紫歌壇の一員となり、短歌7首を残す(03/0336・0351・0391・0393、04/0572・0573、05/821)。730(天平2)年1月の梅花宴にも「笠沙弥」の名で歌を残している。なお865(貞観7)年3月、観世音寺の寺家人清貞ら3人が、自らを笠麻呂が造寺使であった時寺家の女赤須に生ませた子の子孫であると訴え、良民として認められるという事件が『日本三代実録』に記されている。
関連サイト:沙弥満誓の歌(やまとうた)
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