阿閉皇女
あへのひめみこ
- 生没年 661(斉明7)〜721(養老5)
- 系譜など 天智天皇の第四皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘(めいのいらつめ。宗我嬪とも)。草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)・吉備皇女をもうけた。漢風諡号は元明天皇、和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇。万葉には阿閉皇女(01/0022左注・0035題詞)・天皇(01/0076)とある。
- 略伝 707(慶雲4)年、文武天皇崩御の後、遺詔により即位(47歳)。文武の遺子首(当時7歳)を将来即位させるための中継的な天皇であった。同年7.21、授刀舎人寮を新設。12.27、諸司の礼儀を正す詔を発する。
708(和銅1)年2.15、平城遷都の詔。同年3.13、石上麻呂を左大臣に、藤原不比等を右大臣に任命する。5.11、和銅銀銭を発行する(翌年8月には廃止)。7.15、議政官を御前に召して善政の努力を継続せよとの勅を出す。8.10、和銅銅銭を発行する。銀銭と併せ、いわゆる「和同開珎」。9.14、菅原(現奈良市菅原町。平城宮の西)行幸。9.20、平城巡幸。9.22、山背国相楽郡木津川畔の岡田離宮に行幸。9.27、春日離宮に至る。11.21、即位大嘗祭。11.25、県犬養三千代に橘宿禰の姓を賜う。
709(和銅2)年2.2、筑紫観世音寺造営の促進を命ずる。同年8月、平城行幸。12月、再度平城行幸。
710(和銅3)年3.10、平城京遷都。
711(和銅4)年7.1、律令を正しく行うよう諸司に精勤を命ずる。9.18、太安万侶をして稗田阿礼誦む所の旧辞を撰録して献上させる詔(古事記序)。10.23、蓄銭叙位令の詔。12.6、王臣の山野占有を禁ずる。
712(和銅5)年1.28、『古事記』三巻、太安万侶により撰上される。5.17、律令が行き渡らないため、弾正台に月別三度諸司を巡察させ非違を正させることとする。また巡察使を毎年派遣することを決める。
713(和銅6)年5.2、風土記編纂の詔。同年6月、甕原離宮(後の恭仁京の付近)行幸。10.8、諸寺の田野占有を禁ず。11.5、文武天皇の嬪石川刀子娘・紀竈門娘の名を貶し、嬪を廃す。首皇子即位の障害を除去するための措置と思われる。11.16、親王・太政大臣に対し、五位以上の官人は起立礼(床下に降り立っての拝礼)を、六位以下は跪伏礼(座より避け蹄ずく)をするよう命ずる。
714(和銅7)年2.10、紀清人・三宅藤麻呂に国史撰修を命ずる。一説に『日本書紀』編纂事業がこの時着手されたとするが、書紀とは無関係と見る説もある。閏2.22、甕原離宮行幸。5.1、大納言兼大将軍正三位大伴安麻呂が薨ずると、深く哀惜して従二位を追贈する。この年までに首皇子の立太子を実現する。
715(和銅8)年2.25、吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の子。長屋王の室)の男女を皇孫(二世王)の扱いとする。3.1、甕原離宮行幸。7.10、再び甕原離宮行幸。9.2、退位(55歳)。皇太子首皇子は年歯幼弱で深宮を離れ得ないため、娘の氷高内親王を中継ぎとして即位させる(元正天皇)。
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元明天皇陵(奈保山東陵) |
721(養老5)年5.3、不豫。同年10.13、病床に長屋王と藤原房前を召して後事を託す。また房前を元正天皇の内臣に任命する。12.7、崩御(61歳)。大伴旅人が陵墓の造営にあたり、12.13、奈保山東陵に葬られる(火葬)。遺詔により喪の儀を用いず(殯宮などは行わないということ)。
在位はわずか8年であったが、この間不比等らを重用して律令官制の整備を大いに進めるなど、随所に卓越した政治力を窺わせる。
万葉には3首、01/0035・0076・0078(一書云太上天皇御製)。
関連サイト:元明天皇の歌(やまとうた)
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