4.富士山頂の冬の気圧 ―小説「芙蓉の人」―

著者:近藤純正      
	4.1 小説  「芙蓉の人」(抜粋)
	4.2 水銀気圧計の原理
	4.3 気圧と高度の関係(山頂気圧の推定法)
	4.4 気象学・技術の発展
	4.5 富士山レーダーの引退
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ある高さにおける気圧とは、それより上にある空気の重さの ことである。

静岡における地上気圧について冬と夏を比較してみると、 2月は1015hPa(ヘクトパスカル)、8月は1010hPaで、冬のほうが 5hPa高い。冬の気圧が高いという傾向は、日本じゅう同じである。 ところが、富士山頂(気圧計の設置高度=3773m)では逆となり、 2月は627hPa、8月は648hPaで、夏の気圧が21hPaも高い。

この章では、気圧と高さの関係を学ぶ前に、新田次郎(1912−1980) の小説「芙蓉の人」、文集文庫112-6(全254ページ、1975年、 文藝春秋社発行)から抜粋した部分を5〜10分間読んでみよう。

この小説の主な登場人物
野中到・千代子夫妻:明治28(1895)年富士山頂ではじめて 冬期気象観測
和田雄治:中央気象台技師、フランス留学から帰国、当面の責任者
岡田武松:昭和7(1932)年に登場。東北大学・東京大学教授(兼任)、 のち中央気象台第四代台長(現在の気象庁長官に相当)



4.1 小説「芙蓉の人」(抜粋)

この抜粋文の掲載は著作者(新田次郎)の遺族、および
出版社(文藝春秋)の許諾を受けたものである。

千代子は道灌山の頂きに立って富士山を見ていた。 純白な富士山と青空との対照を美しいと思った。見つめていると、 そのまま吸い寄せられて行きそうであった。

到が東京を出発したのは一昨日の二月十四日だった。

富士山はあまりにも高いがために、冬期は容易に近づき難い ところであり、いままで一人として、冬期、富士山の頂上に 立った人はいないというのに、到はたった一人でその富士山 の頂上に向ったのである。到が、なぜそんな危険を冒して 富士山頂に登らなければならないかということは、到の口から 何度か聞き、その折には納得できたけれど、いざ到が、 その危険な山へ行く段になると、千代子は、到を引き止めたい 気持になった。

「天気予報が当らないのは、高層気象観測所がないからなのだ。 天気は高い空から変ってくるだろう。その高い空の気象が わからないで天気予報が出せるわけがない。富士山は 三七七六メートルある。その頂に気象観測所を設置して、 そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当る ようになる。」

「だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てる ことはできない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測 をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である」 千代子 は夫が日ごろ口にしているその言葉を暗記していた。

野中到は、明治二十八年(1895年)二月冬期富士登山に成功した 経験によって、富士山頂の冬期滞在が不可能ではないという確信を 得て、この夏、私費を投じ野中観測所を設立した。

千代子はしなければならないことがいっぱいあった。夫の到が富士山頂に こもって、気象観測を始めるのは十月一日の予定だから、そのころまでには、 すっかり登山の支度を整えて御殿場へ行かねばならない。

明治二十八年十月十二日の朝は薄もやに覆われていた。 千代子を中に挟んで、四人は中畑の佐藤与平治の家を出ると、 真直ぐに登山道に入って行った。すぐ村人に会った。お揃いで、 どこへ行くのだと、村人は与平治に訊いた。与平治は困ったような 顔をした。

干代子はその村人の前に歩み寄って、 「重三郎さんと五郎さんに案内して貰って、富士山へ登ります。 今日の夕方には、うちの人がいる剣が峰の野中観測所に行きつく 予定です。そして、私がお山から降りて来るのは来年の春になる でしょう。みなさまによろしくね」 村人は、ひどく びっくりしたようだった。

観測が軌道に乗ってしばらく経ったある日、嵐がやって来た。 気圧はぐんぐん下って行った。 千代子は十二時の観測のとき、いつものように観測野帳を左手に持ち、 右手に小型提灯をさげて、北側の器械室に入って行った。 野中観測所は、四方を石垣で包んで、わずかに銃眼のような 窓しかなかったから、水銀晴雨計の示度を読み取るには、 燈火が必要であった。

千代子は器械室の西側の壁から五寸ほど離れたところに 建ててある三寸角の柱に取付けられた水銀晴雨計の前に来て 腰をかがめた。提灯の火を当てると、水銀槽の中に、 象牙の針が入っていた。二時間の間に気圧は急激に下ったのである。 彼女は水銀槽の下部のねじを静かに回した。ねじを回転すれば 水銀槽の水銀面を上下することができるような構造になっていた。

水銀槽の水銀面と、水銀槽の壁に固定してある象牙の針の先端が 接触するようにねじを調節しておいて、水銀柱の高さの示度を 読みとることになっていた。つまり、ねじは、水銀柱の高さの 原点を調整するものと考えればよかった。 千代子はゆっくりとねじを回した。ねじを戻しても、 水銀槽は下降しなかった。逆に回すと、水銀槽は上り、 象牙の針はいよいよ深く水銀の中に呑みこまれた。 何度やっても同じことだった。

千代子は眠っている到を起しに行った。到が起きてやってみても、 やはり水銀槽に浸かった象牙と水銀槽とを離すことができない のがわかると、彼は首をひねって云った。 「気圧が下りすぎて、この水銀晴雨計では計れなくなったのだ」 到は気落ちした顔をした。四六〇ミリメートルで、 その水銀晴雨計は機能を失ったのであった。

水銀晴雨計は前年の夏、頂上の石室小屋で気象台の職員が 使用したものを、そのまま、野中観測所に移したのであった。 取り付けには和田雄治が参加していた。フランス帰りの気象学者、 和田雄治ほどの者がついていて、なぜ、そのような器械を野中到に 貸与したのであろうか。それにはフランスから輸入した、 山岳用晴雨計であることを示す銘板がついていた。

しかし、この問題が解決するには、更に多年の歳月を要した。 後日建てられた富士山観測所の観測記録によると、富士山の 全年平均気圧は四七八ミリメートルで、一般に夏は気圧が高く 冬は気圧が低い特性を示している。この、夏が高くて、冬が低いという 気圧傾向は、平地の気圧傾向に比較すると逆であった。平地では、 一般的に気圧は、夏低く冬高かった。

おそらく、当時一流の気象学者和田雄治にしても、この高地に おける気圧傾向を予測できなかったのではなかろうか。 つまりそれほど富士山の冬期気象観測は物理的に、意味が あるものであった。

十一月の末に強い西風と共に寒波がやって来た。 ストーブをいくら焚いても、耐えられそうもないような寒さだった。 居室の天井や壁の氷は厚さを増した。二人は、着られるだけの物は 全部身につけた。寝るときは、毛布を数枚重ねて敷き、 七、八枚も掛けて寝たが、寒くて眠れなかった。

ある朝、ピストルでも射ったような音がした。千代子が、 午前四時の観測のため到を起そうかと思っていたときであった。 ストーブの傍に並べて置いてあった電池の素焼の筒が割れた。 到は急いでストープに薪をくべて電池を暖めようとした。

だが薪が燃え上ってストーブが暖まる前に、素焼の筒は次々と割れた。 五個の電池のうち、三個の素焼の筒が、内部の反応溶液が 凍ったために割れたのであった。それまで電池は、机の下に置いたが、 二、三日前の寒さで、三個が破損したから予備品を組立てた 矢先であった。もう予備品はなかった。

到は、うなだれたまま声も出さなかった。電池が破損したら、 風力計の電気盤を動かすことはできなかった。さきに、 水銀晴雨計が破損し、こんどは風力計が使えなくなったのだから、 あとは、ただ気温を観測することが、野中観測所の観測要目の すべてであった。

到の病状はむくみに発熱を伴っていた。全身にむくみが 現われたところは千代子と同じであったが、発熟を伴っている点は 全然違っていた。千代子は蜂に刺されたように顔がむくんだが、 到のむくみは足に集中したようであった。

千代子は到にかわって観測に従事した。一日十二回の観測が始まった。 今度は目覚ましの役は到であった。観測時間が来ると、 下に寝ている千代子を起した。 千代子は昼間ずっと起きていて、到の身の回りの世話をしたり、 氷を取ったり、食事をこしらえたりするかたわら、観測をしていた。 その千代子を夜はゆっくり休めたいと到は思うのだが、 それはできなかった。

「おい、千代子起きてくれ、千代子」 到はかすれた声で千代子を呼んだ。疲れて眠っている千代子は なかなか起きなかった。 「ねえ、あなた、今度私を起すときにはこれで突いてください」 千代子は物置の隅にあった杖を持ってきて到にわたした。夏のころ、 荷揚げ人夫が置き忘れていった杖であった。

到が病の床に伏したその日から、千代子は彼女がこの観測所の 主役であることを自覚していた。到が一番心配していることは 観測を中断することであつた。一日十二回の連続気象観測が、 一回でも欠けるとしたら、富士山頂における連続気象観測という 鎖が断ち切られてしまうことを彼女はよく知っていた。

そして、いま彼女は到が十月一日以来、次第にその重さを増して きた冬期連続観測の記録の鎖に、彼女の手で一環一環を加えて 行くことに、どれほどの意味があるかも充分知っていた。 すべては未知の記録への挑戦であった。

寒さは急に増した。日中の一番気温の高いときでも、 零下十二度、明け方の最低気温は零下十八度以下であつた。

  富士山頂で厳寒と病魔と戦いながら気象観測を続けている野中夫妻が 重態に陥っていることが全国の新聞紙上に報道された。野中夫妻を 見殺しにするなという声が起った。中央気象台は、国民の声の 矢おもてに立たされた。野中到を気象台の嘱託として富士山頂に 送りこんで気象観測をさせておきながら、放って置くのかと、 直接気象台へねじこんで来る者がいた。

中央気象台の電話は 東京市民の怒りの声に占領されて、業務に支障が出るほどであった。 当面の責任者和田雄治に面会を求める人も多かった。しかし、 そのころ和田雄治は野中夫妻救援のため御殿場にいたのである。

富士山頂東安の河原に、ようやく第二の野中観測所が設立されたのは、 大正の初めのころであった。高山用の気象器械の研究も発達して、 その器械購入の見通しもついた。野中夫妻は再挙を計画して慎重に 準備にかかった。今度こそ失敗のないようにと誓い合った。

だが天は野中夫妻に味方をしなかった。いよいよ決行という 大正十二年の二月、悪性インフルエンザが大流行した。 この風那に罹って肺炎を併発して死亡する人が多かった。

不幸にも野中一家はこのインフルエンザに襲われ、家中が病の 床に伏した。千代子は病をおして家族たちの看病に当り、 家族たちがようやく危機を脱して快方に向かったころ、 突然彼女は倒れた。彼女の死はしばしの間に訪れた。

大正十二年(1923年)二月二十二日。享年五十二歳であった。 野中到は、千代子の死後は富士山頂の越冬気象観測については 二度と口にしなかった。

時は更に流れた。

昭和七年は第二極年に当っていた。極年とは五十年毎に一度、 全世界の気象機関が協力して極地及び高山の気象観測を行う年であった。 中央気象台長岡田武松は富士山頂において通年観測をすることによって、 第二極年観測の日本の責任を果たそうとした。

  野中到は岡田武松のすすめによって、三女恭子を伴って、 この年の八月に富士山頂に登って、新築なった富士山観測所に 十日あまり滞在した。恭子は五人の兄妹のうちでもつとも千代子 に似ていた。

富士山頂剣が峰には、野中観測所の形骸がまだ残っていた。 ほんの一坪ばかりの建物が風雪にさらされたままになっていた。 到は恭子を伴って剣が峰に登って、三十七年前に千代子と共に 命を賭けた場所に立った。床は無く、板壁はぼろぼろになって いるその廃墟の跡に一本の柱だけが毅然として直立していた。

到はその柱の一部に眼を止めた。到の眼が光った。到は迫って 来る感慨にむせぶように、右手を延ばしてその柱の一部に触れた。 そこに錆びた釘が一本打ちこんであつた。到は両手の指をその釘に かけて揺すぶった。釘はゆるんで、到が力を入れて引くと 抜き取れた。

「この釘は千代子が、あのラシャの外套を掛けるために、 自分で打った釘だよ」 到はそれをハンカチに丁寧に包んで、恭子に渡した。到の眼に なにかが光ったようだったが、到はそれ以上なにも云わずに、 恭子をうながしてその場を去った。

野中到は八十九歳まで長寿を保って、昭和三十年(1955年) 二月二十八日、永遠の眠りについた。 その日、芙蓉の峰は一点の曇りもなく晴れていた。

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楽曲「芙蓉の峰」(演奏)


4.2 水銀気圧計の原理

気圧計の原理
図4.1 水銀気圧計の原理図
 左図:水銀柱による圧力と大気の圧力が釣り合っていることを示す図。
 右図:水銀気圧計の模式図。水銀槽の部分は拡大してある。 赤は象牙の針を示し、水銀槽の水銀面と象牙の針の先端が接触するよう にねじを回して調節する。(「身近な気象の科学」 (東京大学出版会)、図3.1、より転載)

図4.1 の左図に示すように、一端を閉じた長さ約1mのガラス管に水銀を満たし、 開いた口を押さえたまま逆さにして、その口を水銀槽につけて指を離すと、 水銀は水銀槽に落ちるが、約76cmを残してとまる。ガラス管の上部には真空 の部分ができる。

これは水銀柱による圧力と大気の圧力が釣り合っていることを示している。 大気の圧力(大気圧、気圧)が高いときは水銀柱も高くなり、逆に 気圧が低いときは水銀柱も低くなる。したがって、水銀柱の高さを測れば 気圧がわかることになる。

右図は水銀柱の高さを測りやすく作った実際の気圧計の模式図である。 下端の調整ねじを回して、象牙の針の先端が水銀槽の水銀面にちょうど接触 するように調整する。そのときの象牙の針の先端が水銀柱の高さの 基準面となる。

次に、ガラス管の上のほうにある水銀柱の上端の高さを主目盛尺と副尺を 使って、水銀柱の高さを0.1mmの単位まで測る。水銀は温度によって 膨張・圧縮し密度が変わるので、温度補正を行なう。さらに重力も場所 によってちがうので重力補正も行なう。

水銀柱750mmは1,000hPaに相当し、また1mmのちがいは1.33hPaのちがいに 相当する。hPaはヘクトパスカルと読み、圧力の単位である。

富士山頂で野中到・千代子が使用した気圧計は水銀槽が小さく (逆に水銀の量が多く)、象牙の針の先端は水銀の中に埋没し、 調整ねじを回しても現れなかったのである。

4.3 気圧と高度の関係(山頂気圧の推定法)

静岡における月平均気温と月平均気圧(海面気圧)を調べてみると、
2月には6.7℃と1015hPa
8月には26.7℃と1010hPa
地上の気圧(海面気圧)は2月が5hPa高い。

富士山頂観測所(気圧計の設置高度=3773m)の気圧は、
2月には627hPa
8月には648hPa
2月のほうが21hPaも低い。

冬には夏に比べて地上の気圧が高くても、冬の富士山頂では気圧が低くなる ことは、観測のための計画書ができていれば、予想できたことである。 つまり、「ボイルーシャルルの法則」や「静力学平衡の式」など 気象学の基礎を学び、よく理解している必要があった。

一般に、私たちは実験・観測を行なう場合、観測準備 として器械の準備と並行して、どういう結果が得られるかの見積もりが できた「実験・観測計画書」を作成しなければならない。 計画書と異なる結果が観測されれば、新発見につながるからである。 その意味で、器械を購入したからといって直ちに観測に出かけるようでは いけない。

脇道にそれたので、話をもとにもどうそう。
図4.2 の左図は、A地点とB地点で地上の気圧が同じ場合に、上空の気圧が どのようになるかを示したものである。

気温と気圧の関係
図4.2 気温と気圧の関係
 左図:AとBの上空には同じ量の空気があったとしても(AとBの地上気圧 は同じとしても)、気温がちがえば上空の等圧面は傾斜し、同一レベルの 気圧は低温側が低くなる。
 右図:上空の気圧700hPa面の高度がAとBで同じ場合(AとBの700hPa面 より上空には同じ量の空気がある場合)でも、気温がちがえば等圧面は 傾斜し、地上の気圧は高温側で低くなる。


B地点のように気温が高いと、空気は膨張しており、A地点に比べて 例えば900hPa面の高度は高くなる。したがって、等圧面は傾斜する。 上空ほど等圧面の傾斜は大きくなる。

もう一つの応用例を図4.2 の右図に示した。この例は気圧700hPa面 の高度(約3000m)がA地点とB地点で同じ場合である。 しかし、B地点が高温であるとすれば、B地点の地上は 低気圧になっていることが理解できる。

上空の気圧を推定してみよう。気温が高度とともに直線的に低くなる 簡単な場合について、具体的に富士山頂(気圧計高度=3773m) の気圧を推定してみよう。
高度 z(メートル)の気圧をpz、地上の海面気圧を ps 、地上の気温を Ts (絶対温度)とすれば、

pz=ps×(関数) k 、 関数=(Ts−気温減率×z)/Ts

k =0.03417/(気温減率)
   気温減率=気温が高度とともに低くなる割合
   平均的な値の0.0065℃/mを用いると、k=5.257になる
   z=3773m を代入する

2月としてTs=279.9K(=6.7℃)、ps=1015hPaとすれば、関数=0.9125、
したがって山頂の気圧は pz=627hPa と推定される。

8月としてTs=299.9K(=26.7℃)、ps=1010hPaとすれば、関数=0.9183、
したがって山頂の気圧は pz=645hPa と推定される。

山頂における実測の気圧に比べて、8月は 3hPa 低めに計算されたが、 2月の気圧は実測の通り、8月に比べて約20hPaも低く推定できた。 つまり地上では冬は夏に比べて気圧は高いが、富士山頂では冬の気圧 は夏よりも低くなることがわかった。

(注意1)上記の式で気温としたのは正確 には仮温度のことである。 仮温度とは、水蒸気の密度が空気の密度より軽いことを考慮した温度の である。水蒸気が多いとき、仮温度は気温より2〜3℃高温になる。
(注意2)山間部で、山のふもとで気圧を測った場合、山頂の気圧 pz を推定するには、上式で ps はふもとの現地気圧(海面補正を していない気圧)、z は山頂とふもとの標高差である。

4.4 気象学・技術の発展

16世紀から17世紀にかけては自然科学の夜明けの時代であった。物理学の 一分野である気象学も物理学とともに発展してきた。温度計や気圧計 などが発明され、そして天気図がつくられるようになった時代から 振り返ってみよう。

1564年−1642年 ガリレイ:ピサの斜塔で実験,気体温度計の発明
1642年−1727年 ニュートン:万有引力の原理,力学の基礎を確立
1643年 トリチェリー: 大気圧の実験
1648年 パスカル: 高度による気圧の変化を観測
1720年 ファーレンハイツ: 温度の華氏目盛を考案
1742年 セルシウス: 温度の摂氏目盛を考案
1820年 ブランデス: はじめての天気図を作成
1840年以降 電信機の発明・進歩
1854年11月14日 英・仏連合軍対ロシアの「クリミア半島の海戦」でフランス 軍艦アンリー4世が暴風雨で沈没し暴風雨の予報の必要性が出てきた
1858年 フランスで定期的に天気図を作成
1883年2月 日本で天気図の発行
1895年10月〜12月 野中 到・千代子: 富士山頂で冬期気象観測
1910年代の終り ノルウェー学派:温帯低気圧像の確立
1925年 日本でラジオによる天気予報開始
1949年 チャ−ニィ:数値予報の計算に成功
1953年 日本でテレビによる天気予報開始
1959年 気象庁に電子計算機が設置され、数値予報テスト開始
1965年−1999年 富士山頂剣ケ峰にレーダー
1974年 アメダス(地域気象観測システム)の運用開始
1977年 気象衛星「ひまわり」の運行開始
1988年 気象庁で週間天気予報の毎日発表開始

4.5 富士山レーダーの引退

富士山レーダーは標準的なレーダーの倍以上の800 km 先の 小笠原諸島近くまでの雲の動きを35年間監視し、台風の動きなどを 見張ってきた。

1999年に役目を終えた富士山レーダーは解体され、ふもとの 山梨県富士吉田市に譲渡された。 復元されたレーダーとそれを覆うドームは2004年4月から「道の駅」 の敷地内に体験学習施設としてオープンされる。

富士山レーダーにかわり、気象衛星が台風観測などに活躍している。 また、東海・甲信地区の降雨災害等の監視に静岡県牧之原台地と 長野県茅野市の車山にレーダーが設置された。

復元富士山レーダードーム
図4.3 富士吉田市の道の駅に復元された富士山レーダードーム

牧之原気象レーダー観測所
図4.4 静岡県牧之原台地に設置された牧之原気象レーダー観測所

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