港に近い丘の上にある展望台から見た市街の一部。 (2006年8月撮影)
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この港と稚内との間を定期的に行き来するフェリーの便がある。港の背後の小高い丘から撮った。 (下段左・中:2006年8月,上段及び下段右:2019年8月撮影)
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戦前から戦中にかけての間、日本は多数の朝鮮の人々を徴用して国内各地で過酷な労働に従事させたが、ここサハリン(当時の樺太)に連れてこられた人達も少なくなかった。日本の敗戦に伴い、当地にいた日本人の多くは内地に戻ったけれど、朝鮮出身の人々はそのまま現地に捨て置かれた。ところが、戦後、ソ連と韓国との間には長く国交が無かったので、朝鮮半島に帰国することもかなわず、「サハリンスキー・カレーエツ」と呼ばれて、当地に根付くことになった。国交が回復した今、港を見下ろす丘の上に、帰国をはたせぬまま当地で亡くなった人の霊を慰める碑が立っている。 (2019年8月撮影)
ユジノ・サハリンスクからコルサコフとは逆に北方向に40km余り行ったところにある地方都市。写真は、そのドリンスクの鉄道駅。日本でなら無人駅にされそうなほど閑散とした雰囲気だったが、駅舎そのものは新しい感じがする。もしかすると、広軌への切り換えに伴って建て替えたのかもしれない。 (2019年8月撮影)
ドリンスク市内の街角の風景。冬の長い街だから、意識的にカラフルにしているのだと思う。 (2019年8月撮影)
戦前には「栄浜」という名前だった寒村。妹とし子が亡くなった後の傷心の宮沢賢治が1923年8月にこの海岸を逍遙したと言われる。上段の写真は、島の東岸を南北に走る幹線道路とそれよりも内陸側の風景。当時、豊原(現在のユジノ・サハリンスク)から北へ伸びる鉄道の支線がこの栄浜まで通じていたそうで、中段左の写真のようにこのあたりの地面をよく見ると枕木が残っているのが認められる。海岸に近いので、強風にさらされるからか、植物は地面を這うようにして花を咲かせたり実をつけたりしていた。 (2019年8月撮影)
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直訳すると「白鳥の湖」となるのかもしれない(おそらく)浅く広い水面。スタロドゥヴスコーエよりも数km北西方向の位置にある。右の写真は、幹線道路からその湖の見える場所に入る道路の一部。ウィキペディアによると、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』の中に「白鳥の停車場」が登場することから、賢治研究者の中にはこのあたりが『銀河鉄道の夜』のモチーフとなったという説を唱える者もいるとか。 (2019年8月撮影)
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ユジノ・サハリンスクから北へ行く鉄道の途中にある小さな駅。駅舎は新しく塗り直されているようだったが、プラットホームはなく列車からいきなり地上に降りるというロシアで一般的な方式だった。右端の写真は駅前を鉄道と平行に走る道路。おそらく村のメイン・ストリートだろう。 (2006年8月撮影)
それから13年後に再訪した時の写真が、下段。駅舎のデザインは変わってないように思えたが、プラットホームがあるのが上段の写真とは違う。右端の写真が鉄道と平行に走る道路なのは、上段と同じ。 (2019年8月撮影)
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駅からは少し離れているが、オホーツク海に面した集落の風景。 (左・中:2006年8月,右:2019年8月撮影)
その村に残されていた神社の鳥居。皇紀2600年記念だそうだから、1940年に建てられたものか。右端の写真の二人は、我々のグループとは関係ない人で、おそらくロシア人。彼らにとって鳥居は一緒に記念写真を撮りたくなるほど珍しいものなのかもしれない。 (左:2006年8月,中・右:2019年8月撮影)
日本統治時代には「真岡」と呼ばれたサハリン西岸の町。その街角の風景。次ページの港からの写真を見るとわかるように海岸の崖にへばりつくようにして出来ていった街なので、市内を歩くと高低差が目につく。 (2019年8月撮影)
私達が訪ねた時は、それほど賑わっている感じは無い港だったが、大陸との間に定期旅客航路もあると地図上には示されている。目の前の海は間宮海峡。 (2019年8月撮影)
ホルムスクを見下ろす丘の上にある戦没者慰霊碑。そばの碑文には、ここがホルムスク解放をめぐっての激戦の場所だったと書かれていた。ソ連が対独戦に勝利したのは1945年の5月のことで、ソ連国民は長い戦争もその時に終わったと思っただろうから、それから三ヶ月も後にこんな東の果てで戦死するとは当の兵士自身もその家族もまったく思ってもみなかったことだろうに。 (2019年8月撮影)