平成9年度指定
旧暦6月1日の「サナボリ」の祭り(田植え終了後の祭り、現7月の早苗祭)で、近世には神官が明治維新後には田島神楽社(明治4年創設)が氏神田島八幡宮に奉納してきた福岡市唯一の神楽です。
旱魃予防のため、毎年樋井川沿いの薦ヶ渕に捧げた人身御供に代えて神楽を奉納し、万年願として今日まで伝えられています。
口碑によれば、明治3年迄は旧藩主黒田家から、神楽費として年々米五俵が下賜されていたそうです。
明治維新後、神官世襲制の廃止とともに社家(神官)神楽が中止になったため、代わって万年願の途絶を恐れた氏子が神楽奉納を継承し、明治4年、田島八幡宮を勧請した船越家十一代の孫、武四郎氏を中心に神楽社が結成され、今日に至っています。
神楽社結成当初、飯盛神社(西区)、輝雲神社(中央区)、及び黒田家から譲り受けたという神楽面や装束を始めとした諸道具、楽具、装束、文書類のほとんどは昭和20年の戦災で焼失しています。
明治6年、舞、太鼓、笛、その他神楽全般の事を、一本木稲荷(現中央区大宮、宇賀神社)の梅崎春重氏より伝授されました。
なお、明治14年、輝雲神社神官の勧めに従い穂波郡椿村秀村永信氏他から「湯塩式」の伝授を受けた際、輝雲神社神官及び黒田家家職の合議によって、「筑紫舞」と命名されました。
神楽の系統にあてはめようとすると、「筑前岩戸神楽」と汎称される出雲系神楽です。
かつては鳥飼八幡、紅葉八幡、住吉神社、櫛田神社、警固神社、筥崎宮等々の市内各社を始め、旧早良郡・糸島郡、さらには粕屋・宗像・筑紫郡方面にわたる約40カ所の神社に奉納され、1896(明治29)年5月までには700余回、1975(昭和50)年頃までにはその累計奉納回数2.350余回に達したということです(『田島沿革史』1897.明治30年刊)。
楽具 太鼓・笛・銅拍子 |
拡大 128k 128K |
採物 大榊、榊、御幣、 鈴、太刀、弓、矢、 折敷 |
192K 192k 176K |
諸道具 御神鏡、杖、炬 火、船、櫓、桶 |
神楽は神座(かむくら)に神を迎え、その前で行われる鎮魂(たましずめ)の神事といわれ、宮廷の「御神楽(みかぐら)」と平安京の内裏外にあった石清水・賀茂などの諸社に奉納された「里神楽」に二分類されています。
民間の神楽である里神楽は、大別して巫女神楽、出雲系神楽、伊勢系神楽、獅子神楽に分類され、内容面からは採物神楽、湯立神楽、獅子神楽に分類されます。また様式上、採物のみで面を着けない舞神楽と、神楽面を着ける面神楽に分けられています。
ところで田島神楽の他に本市周辺には、宇美神楽(宇美町・宇美八幡宮)、太祖神楽(篠栗町・太祖神社)、岩戸神楽(那珂川町・伏見神社)、山家岩戸神楽(筑紫野市・山家宝満宮)、福井神楽(二丈町・白山神社)が伝承されています。福井神楽は田島神楽から伝授を受けたということですが、いずれも上記各系統・各分類の神楽要素が混合したもので、総じて出雲系神楽に属し、「筑前神楽」あるいは「筑前岩戸神楽」と総称されます。
田島神楽はその中でも、全体的にゆったりとした時間と静謐さとを感じさせる点、とりわけ採物の舞神楽に於いては周辺地域の同一曲目と比較して著しく静謐であり、曲芸的・アクロバティック要素・変容が際だって稀薄である点で異色で、本神楽の特色になっています。
明治4年創設以来、戦争を始めとしたとした社会情勢の変動、神楽社々員の増減にも拘わらず、江戸時代以来の社家(神官)神楽の芸態を連綿として継承する本市に残る唯一の貴重な神楽です。