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鳥取・韓国の遺跡探索 11.10.01〜10

今回は、鳥取と韓国の遺跡探索を行ってきました。ちょうど9月30日〜10月2日にかけて、鳥取市にある梶原八角墳の壁画が公開されるとのことを聴き、春に発行した研究会報第3号でこの古墳とそばにある岡益石堂のことを記載したばかりでしたので、訪問しにいきたく感じていたのですが、はてまた10月1日に邪馬台国サミットが鳥取県米子市で開催されるという情報が、邪馬台国の専門家Wさんからおりよく入ってきたものですから、思い切って鳥取に足を運ぶこととなりました。

加えて、10月2日〜10日まで韓国ソウル市近郊で福祉施設の実習体験イベントが開催されるとのこともありましたので、韓国の遺跡取材も兼ねて米子空港から、一路ソウルまで飛ぶことも企画して、今回の遺跡探索計画が出来上がった次第です。

さてまず9月30日に東京八重洲口から鳥取・米子市行きの夜行バスで向かうことになったわけですが、バス乗り場でどこかでみかけた顔をみたなーと感じていたら、やはり古代史仲間のKさんだったこともあり、いろいろその後彼にお世話になることとなります。

鳥取市で私だけ先におりて、バスで梶原古墳方面へ向かいました。岡益橋というバス停で降りて、500メートルほど歩くと、道の左右に梶原古墳と岡益廃寺が見えてきます。梶原古墳の壁画公開は10時からでまだ時間がありましたので、まずは岡益廃寺のある小高い丘の上へと上りました。

この石堂は安徳天皇陵関連の参考地として宮内庁の管轄下にあることもあり、よく整備されているのですが、石堂そのものに触れることができないのはいささか残念でした。とりあえず望遠レンズつきの業務用カメラでじっくりと1時間ほどかけて撮影します。

この石堂にたつ石搭はエンタシス形式のふくらみをもっており、傘の部分などは関東各地の碑文に見られるような大陸様式のそれと同類のものであります。そして石堂を囲む石壁には、謎のS字紋様が刻まれており、管理人的には会報で記したとおり外来系の宗教文字ではないかと考えている次第です。

  

それから撮影しているうちに10時をはるかにすぎてしまったので、さっそく続いて梶原古墳へと向かいました。こちらも、よく整備されていて、高句麗の積石塚を思わせるような多段築製の変形八角墳で大変珍しいものでした。

石室内部には大きな魚の絵や、三角・同心円・六角形などの幾何学文様が描かれており、九州系の壁画横穴墓の系譜を見出すとともに、また高句麗・大陸系の壁画古墳との関連も想起させるものであります。また八角墳であることについては、白鳳時代に流罪になった皇子がこの地で亡くなった記録と関係するとの論説もあり、管理人もその説を支持している一人です。

しばらく撮影をした後、またバスで鳥取駅に戻って、米子市の市民文化ホールへ向かい、邪馬台国サミットへと向かいました。今回のテーマは、山陰の邪馬台国説について考えるとのことで、j地元の田中氏、安本氏、北条氏等がそれぞれ自説を展開し、討議を行い、管理人もビデオ撮影を行いました。

その後の懇親会で米子当地で遺跡案内のボランティアをしている方と同席する機会があり、先のK氏とともに翌日、米子市周辺にある妻木晩田遺跡と、上淀廃寺へと向かうことになりました。実のところ管理人は両遺跡ともに知らなかったわけですが、その後それが大変貴重な機会となるのでありました。

翌2日は朝ホテルでK氏と待ち合わせして彼の運転するレンタカーで、一路妻木晩田遺跡へと向かいます。遺跡では弥生時代の集落が復元されており、そこを撮影をしたのちに、そばの資料館で昨晩お会いしたボランティアの方と合流して、彼の案内で上淀廃寺へと向かいます。

上淀廃寺には最近出来たばかりの資料館があり、そこで出土遺物を見て、館長さんからその案内をしていただきました。この廃寺からは、ほとんど完全な形で形像埴輪が出土しているのですが、その盾型の胴体部分は、九州の石人と類似するものがあり、ちょうど会報で石人に触れたばかりだったので、グッドタイミングでした。

その他、羽人と船の線刻画が描かれた壷なども、中国南方からの文化の流れを想起させる点で、大変貴重です。

また廃寺からは、仏教関連の絵画等が出土しており復元されています。さらに法隆寺と同類の構造だったことも確認されており、あわせて建物ごと復元されているのですが、なぜ奈良飛鳥からはるか離れたこの地に、これほど見事な仏教建築が残されたのかが研究課題だとのことでした。

一説としては、朝鮮からリマン海流に乗って、ダイレクトにこの地に入り込んだ可能性も考えうるとのことで、この鳥取の地が貿易や流通の拠点であったことも裏付けられる日もそう遠くないような気がしました。そして実に多くの古墳がこの周辺に残っており、豊かな土地であったことも確かで、当地の人に言わせれば、出雲神話の源流は実はここにあるとのことでした。

きっとそれらのことは九州・近畿系の遺物や、大陸系の遺物が、鳥取や米子に見られることからも明らかにされてくることでしょう。

その後そばの向田遺跡を案内してもらって、K氏の運転で一路米子空港へと向かいます。管理人は仕事柄40キロにも上る撮影機材を抱えており、K氏の運転なしではとても遺跡見学はできなかったと感謝する次第です。

そこから私一人で15時発のソウル便に乗りこんで、韓国に到着してからは、4日まで韓国のキリスト教系の巨大福祉施設の取材を行い、ソウル駅でのホームレス支援のボランティア体験を取材して、そこで一人別れてソウルのホテルに泊まり、翌5日から韓国東部にある栄州の浮石寺を目指して旅することになります。

5日朝にソウル駅から清涼里駅に向かい、そこから栄州行きの特急電車の乗り込んで、2時間半かけて夕方に栄州駅に到着しました。タクシーで栄州バスターミナルまで行き、55番の浮石寺行きのバスを探したのですが、結局見つからなかったのと、日が暮れてきたので、料理屋で近くのホテルを案内してもらってそこで泊ることにしました。韓国ではモーテルが安いのでいつも2000円前後でそこに泊るようにしてます。

ちょうどその際に、韓国に着いてからすぐに「ボン」と爆発して壊れてしまった電源変圧器とバッテリーチャージャーを、ターミナル近くの道具屋に紹介された電気屋で修理してもらったのですが、新しい変圧器もつけてもらって25000ウォン(2000円)でやってくれたのには感謝感激でした。これがなければ、業務用カメラでの仕事レベルのビデオ撮影は不可能だったわけです。

それで翌朝バスターミナルから55番バスにのり、40分ほどかけて浮石寺へと向かいました。浮石寺についてからは、徒歩で10分ほど山道を上っていくと、正門が見えてきます。この寺はまた先の会報で記したとおり、7世紀後半に新羅僧・義湘が唐に留学し、観音信仰を携えて朝鮮に戻り開山した場所で、またギリシア・ローマ風のエンタシス形式の柱を持つ本殿や、多段石塔・八角柱石搭など、日本の観音信仰および関連の宗教構築遺物を考える上で、重要な場として紹介したところです。

  

またその観音信仰のひとつに、極楽浄土のボダラク山という八角形の山の上に観音が住むという話があり、浮石寺の石搭にもみられます。管理人的には、会報に記したとおり、日本の八角形構造物とそれらの信仰とは深い関係があると考えているわけですが、それらはまた中東のアナーヒータ信仰をはじめ、はるかキリスト教にいたるまでシルクリード・石窟寺院・高句麗を経由して、朝鮮日本へともたされていったと考えています。

さて、浮石寺を下山した後は、またソウルにもどり一泊したのち、先の福祉施設へ戻るバスが出ている東ソウルバスターミナルへ向かい、バスの出発時刻までしばらく時間があったので、そこからソウル市内を流れる漢江を挟んで南岸に位置している夢村土城に向かうことにしました。現在はオリンピック公園になっている百済時代初期の遺跡です。

ちょうど小高い丘陵状になっており、漢江一体を見渡すことができました。またそばに資料館が付属しており、そこで土城はもとより、周辺の山城や韓国各地の遺跡についての案内がなされているので、ぜひ立ち寄ることをお勧めです。

  

その後はバスで先の福祉施設に戻り10日まで滞在した後、また東ソウルバスターミナルに向かい、そこからさらにタクシーで、施設でネットで調べなおした二聖山城へと向かいました。この山城は韓国のネットで調べてもあまり出てこないくらいマイナーな遺跡で、やはり地元のタクシー運転手でも知らないくらいの場所だったらしく、あれこれタクシー会社の人に調べてもらい、15分ほど走ってたどりつきました。

着いてから山を登ることになったわけですが、タクシーの運転手さんも10キロ以上ある業務用カメラの荷物を運ぶのを手伝ってくれたこともあり、15分ほど登ると山城の城壁が見えてきました。そして溜池を超えると、以前論文で読んだ12角形状の建築物跡にたどりつきました。さらに奥にいくと八角形状の構築物跡もあります。

これらは後の時代の九州の朝鮮式山城・菊地城にある八角形構造物とも同系とされているのでありますが、管理人的には、畿内の難波宮等にみられる八角形構造物へと系譜的につながっていくものだろうと考えている件も会報に記したとおりです。

  

そもそもこの山城の構築は高句麗が百済の漢城を占領したことによってもたらされたもので、高句麗式の山城や古墳・搭碑には八角形状の構築物が多くあるので、その系統と看做すべきでしょう。それらの多角形構築物は宗教施設だったとも言われておりますが、果たして何であったかはこれからの課題です。

その辺も、管理人的にははるかササン朝を越えてローマ皇帝廟やキリスト教寺院にみられる八角祈念堂にルーツがあり、そしてそれらははるか日本に至って法隆寺の八角円堂や八角墳へとつながっていったと会報で論じたわけであります。

ともあれ山城の構築物を見終えて、帰りは入ってきたルートとは別のルートで、山城を一周して戻ろうとしたわけなのですが、途中で道が二手に別れていて、長いこと歩いたあげく下に降りると、タクシーを停めたはずのとぜんぜん違う場所に出てしまい、それから運転手さんとタクシーをさがすのに、かなりの時間を要してしまいました。

そのうちに夕方になって、このままでは18時50分発のソウル発・東京便に間に合わなくなることに気付き、かなり焦りはじめたわけですが、なんとか近所の人に聞いて、元の入口に向かいタクシーを見つけて、東ソウルバスターミナルへと向かいました。

結局先に迷っていた時間中もタクシーメーターが回り続けていたこともあって、70000ウォン(5000円)に跳ね上がってしまったわけですが、ちょうど財布の持ち金が紙幣で80000ウォンくらいしかなかったものですから、さらに焦ることとなります。

それで運転手さんに案内された東ソウルバスターミナル前にある仁川空港行きのバス乗り場でチケットを買おうとしたのですが、15000ウォンで、4000ウォン足りないことに気付かされたわけでした。

なんども店員さんに最後に財布に残った1枚の日本の1000円札を見せて、「15000ウォン相当になる」と言ってもとりあってくれないので、いよいよ青ざめてきたわけですが、最後の手段で思いついたのが、財布の残りの硬貨を数えてみることで、かき集めて数えてみると、ちょうど4000ウォンぴったり残っていたので、それを渡して15000ウォンのチケットを無事買うことができました。

実に最後に財布に残っていたのは50ウォン硬貨4枚(15円)だけだったのには、さすがに神に感謝であります(・_・;) (写真は50ウォン硬貨4枚と日本の500円玉1枚)

それで、その後すぐさまやってきた空港行きバスに乗り込んだわけですが、ちょうど夕方のラッシュ時とのことで、渋滞でバスがほとんど動かなくなったのでした。空港まで1時間10分というバスアナウンスに従えば、出たのが17時すぎだったので、出発ギリギリに到着する羽目になるわけで、「これはもう間に合わない」とあきらめ始めたわけですが、なんとか渋滞をすりぬけてからは、ほとんど車もなく、結局は予定より10分以上も早く着いたわけでした。

そこで先の施設研修で一緒だった仲間たちに会って、なんとか20分前までには入国審査を終えて飛行機に乗り込んだ次第でしたが、その際も40キロ以上あった撮影機材のせいでオーバーチャージになり、結局7000円ちかく友人に貸してもらうことに・・・。そもそも当初は彼らとは違う便で予約していたのですが、彼らの一人の助言にしたがって同じ便にしたのが、結局は幸いしたこととなったわけです。

帰国後彼らと別れて、空港から京急の成田エクスプレスに乗り込むに当たって、最後の持ち金1500円では帰りの切符がかえないので、ATMでお金を下ろそうとしたものの、いつも使っている2つのキャッシュカードがすでに営業時間外になっており、これまたあわくってしまったのですが、最後の手段でたまにしか使わないカードを入れたら、管理人の製品を購入したお客さんが、最近5000円分を、珍しくたまたまその口座に入金していたくれたので、なんとかそれを降ろして終電に乗り込んで埼玉の奥地まで40キロの機材を運んで戻ったわけでした・・・(・_・;)

こういうこともあるので、海外の遺跡探索の際は、綱渡りすることのないように、あらかじめ余裕をもって計画なされることを最後に付け加えておきますが、ともあれ「神頼みでなんとかなる!」ということも確かなので、ぜひ勇気を出してすぐお隣の韓国への遺跡探索にチャレンジしてみてください。

(記:研究会の管理人)