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諏訪・府中〜鹿島(研究会オフ会)・御岳山 05.8〜9

 今年の夏は、仕事の関係で諏訪・蓼科方面へ二度ほど滞在することがありました。8月5日からの最初の滞在では、上司とともに、諏訪上社本宮へ行きました。まずそばの諏訪市博物館へ。博物館では、御柱祭の写真や展示、ビデオを見ました。森の巨木を削って柱にしてそこへ綱を四方に張って、坂からその柱を数千人が綱を引いて、すべり落とす行事が有名です。その柱の上に乗れる人は地元でも限られた人たちであり、時に死人もでるという、まさに生贄を思わせるような勇猛な祀りのようです。また、その御柱を引く綱さばきによって、柱がうまくカーブしながらすべり落ちるかどうかが決まるそうで、その綱をどのように引くかを命令する人の技量も試されるそうです。どこか柱自身がまるで船のように舵をとりながら滑っていく、山の海人を感じさせますが、またそれは現代の工学にもなたような高度な技術を感じます。ちょうど車椅子の上司を境内に入れてもらうのに、神社の方にお手伝いいただき、スロープ用の板を探してきてくれたり、境内まで案内してくださり、まことにお世話になりました。神社の方のお話では、諏訪神社は本来山を祀る信仰があったそうで、今でも山は禁則地で山に向かった祭殿もあるそうです。この諏訪の地からははるか天竜川へと流れがあり、昔は天竜川の海沿いの人々と、諏訪の人々との間で行き来があったそうです。そして諏訪の水源が汚れると、海のほうも汚れることを知っており、すでに公害や流域同士の保護・共存の意識があったそうです。現代人がやっと気づいた感覚をすでに古代人が持っていたことに驚きを感じました。

その後7日に東京に高速でもどってそのまま横浜で渡来人研究会の常連とみたさん、かわかつさんと合流。一にかわかつさんとホテル東横INで待ち合わせして合流し、そのままかわかつさんの案内で飲み屋に。飲み屋でとみたさんの到来を待ちながらかわかつさんとお話を。かわかつさんの印象、だいたい掲示板のとおりのイメージで次から次へと話の出てくる気さくな方でした。思ったより気持ちは若く繊細、食事などへのこだわりはただならぬわがままぶりなど、会ってみてなるほどと合点がいくところも多くありました。そこでとみたさん来ないので、迷っているのではと思い、私は駅までかさを差して迎えに行きました。するとかわかつさんからとみたさんがすでに到達との報告。あわてて戻ってみると、迷うことなく直接お店を探してこられたとのことでした。とみたさん、掲示板での慎重地道な文体のとおり、がっしりとした体格の方で、ついには3時まで飲みつづけられても平気、とてもお年を感じさせない豪傑ぶりでした。そしていろいろ歴史講座での資料を見せていただきましたが、びっしりメモを取られている様子は、まさに掲示板どおりの確実な知識の積み重ねを感じさせてくれました。そして、気さくでかわかつさんとの気さくな論議合戦はなかなか聞いていておもしろかったです。その後はみな横浜のホテルで泊まり、次の日は私は自宅へバイクをおいて、後府中のちかくの大国魂神社前の図書館で待ち合わせ。その後、かわかつさんが東京にきたらそばを食べたいというので、地元の方にいろいろたずねて歩き、まよいにまよってやっとそば屋で昼食を取りました。その蕎麦屋の近くの曲がり角で遺跡の発掘跡があり、それだけがせめてもの救いでした。ちょうど府中のそのあたりは、東山道が北方向へ国府跡へ向けて走っているあたりで、いろいろ遺跡も出てきているようでした。そこで別の歴史講座に出るとみたさんとは別れて、かわかつさんとの行動になります。そのとみたさんが講座で習ったという府中の資料にも上円下方墳のことが記させていたのですが、かわかつさんがこれに妙に興味をもたれてどうしてもそこを見てきたいとのことでした。そこで、まずタクシーで府中市郷土の森博物館へ行き、その上円下方墳の模型と位置等を確認し、いろいろそのほか見てから、タクシーでその古墳のある熊野神社へと向かいました。あいにく古墳の上は青のビニールシートがかぶっており、墳形などはわかりませんでしたが、石積みの跡はすこし拝見できました。この全国的にも珍しい7世紀中葉の古墳の主はだれだったのか、なぞが深まるばかりです。その後、かわかつさんがカメラをなくしていたことに気づき大騒ぎ。とりあえず博物館のトイレか、その前のタクシーの中あたりで落としたのではないかということになり、幸い同じ会社運転手さんが熊野神社まで案内してくれていたので、その運転手さんの記憶と配慮で同僚のタクシーの方に無線で連絡していただき、いろいろ博物館に戻ったあたりで無線が入って、やはりその同僚の方のタクシーの中にあったとの報告で一安心。その方がまだそばで走っていたらしく、すぐにカメラを届けてくれて助かりました。その後そのまま分倍河原駅にもどって、いよいよ鹿島神宮へ。私の独断でなんとなく海人族を研究されるかわかつさんには、やはり海人族の拠点であった鹿島神宮へと参るのが一番いいのではと感じたので、そこから電車で鹿島までご案内することになりました。中央線に乗り、東京まで行き、そこから総武線快速で千葉方面へ。

千葉に行く途中、二回も総武線の終点折り返し運転に出くわし、乗り換えるはめに。そのまま乗っていたら折り返し運転でそのまま東京へ。かわかつさんこれにはびっくり。その後その折り返し地点で、電車を乗り違えて、鹿島へ行く予定が、銚子方面へ。途中で気づくもすでに遅く、そのまま銚子のビジネスホテルを予約して泊まることにしました。銚子についてホテルに荷物をおいてから、夜の銚子市街へ広い駅前通りをあるきながら、とおり沿いの海鮮料理屋へ入りました。そこで出てきた大きなあわびのうまいこと、加工していないうにのやわらかいこと、ほんとに絶品でした。いろいろ自称料理人のかわかつさんにその辺のことをお教えいただきながら、かわかつさん的にも、ここにこれたのは正解とのことでした。電車の乗り間違いはかなりわたしのミスだったので、いささかもうしわけなかったので、なんとかよろこんでいただけて一安心。でもその銚子へ向かう電車が通った「蘇我」・・・という意味深な駅名の数々はきっとかわかつさんの海人族研究に貢献するはずとかげながら考えております。

そこで一泊してあくる日は、朝からタクシーに乗り、銚子港方面へ向かいました。日本三大漁港のひとつ銚子港は、やはりかなり広い敷地で、中の市場も大きなあわびひとつ200円とか、とんでもない破格な値段で、さっそく札幌の実家へ宅急便で送りました。さて、漁港の近くには、渡海神社というところがあります。祭神は綿津見大神で709年に創建されたが津波被害のために1674年に現在の場所に移ったと伝えられるそうです。かわかつさんと話していたのは、大陸系渡来人は渡来人、海人系渡来人は今後渡海人にしたほうがいいということで、実際そうなので、今後その用語を使うことにしましょう。なお渡海人研究会はかわかつさんのほうでよろしくお願いします。その後犬の鳴くような音がするという犬吼崎に向かい、その灯台から銚子周辺を一望しました。その辺での海人の信仰や実態など、結局海人族研究をなさるかわかつさんには、鹿島に行ってしまうより、間違って古来からの大漁港銚子についたほうが、きっと研究の足しになったことは間違いないでしょう。不幸中の幸いというより、神のお計らいというべきでありまことに感謝です。その後も奇跡的な神のお計らいは続きます。

その後、銚子駅からバスに乗り鹿島神宮方面へ向かいました。北上途中、利根川を渡ってから私のお勧めで息栖神社へ寄りました。息栖神社へは私の知り合いがちょうどそのちかくに実家がありいろいろ聞いていたので、、ぜひかわかつさんにも知っていただきたい神社でした。なぜかというと、利根川沿いに面しており、かつては息栖は港としてもさかえていたそうで、今でも神社からすこしあるいて利根川沿いに3本の鳥居と伝説の二つの井戸があります。航海神である天鳥船を祀り、神功皇后の伝説の残る息栖神社、海人と神功皇后の伝承を九州で追求なさるかわかつさんにとってもとても重要な神社だと感じご案内しました。その後神社から鹿島神宮へタクシーで向ったのですが、途中で息栖神社の背後にあたる鎮守の森の中にある、八龍神社をタクシーの運転手さんのお計らいでご案内いただきました。この神社の位置が三叉路つまり岐にあることも、かわかつさんからご指摘いただき、おもしろい点だったのですが、祀神も独特でした。後で家に帰る途中、息栖神社でもらったパンフを見てみると、美青年と美少女の恋愛話が載っており、なんとその美青年の名前はかわかつさんのミヨジだったんですね。なんともご縁の深い神社でした。そして鹿島神宮へ。

鹿島神宮へ着くと、まず神宮前の食堂で昼食を取りました。ここ巨大なえびのから揚げの乗ったお蕎麦をいただき。いかにもその大きさが鹿島の大剣を物語っているように感じられたのですが、ここでもかわかつ節が炸裂し、お店のお姉さま?方ととても気さくな会話がありました。お店に荷物をおかせていただき、その後境内を探索しました。神宮内の資料館で、近くの鎌足神社の位置をお尋ねしたところ、またいろいろ地図を広げて神宮近くの横穴墓についてなどいろいろお教えいただいて感謝でした。神宮近くの猿田の地名などはとてもおもしろいと感じます。その後、タクシーで鎌足神社へ向かいました。タクシーのおじさんの話ではこの辺は昔砂地だったとのことで、いろいろ地域の過去の歴史を知っている方にお話を聞くのは意外な解明のヒントを与えてくれるものです。藤原鎌足誕生の地とされる鎌足神社について、中に入って本殿をのぞいているうちに、本殿の床の下に、なぞの大きな石があることに気づきました。ふたりでなんだろうと話していたんですが、後日かわかつさんが調べた結果、それは白蛇の石だということでした。鎌足が本当にそこにいたのかどうか、いろいろ意見がわかれるところだそうですが、今後の研究に期待です。その後その足で香取神宮まで行き、最後の体力を振り絞って神宮本殿、奥宮、要石を駆け足でめぐって、成田空港に向かい九州へ向かうかわかつさんを見送りました。きっと今回の探索は、かわかつさんにとっても関東の海人を知る上でいろいろヒントを与えてくれたことでしょう。私も研究会はじめてのオフ会が無事実りある形で終えることができ、貴重な体験を積ませていただいたことに感謝しています。今度はもうすこし計画を立てて、すくなくとも電車の乗り違いがないようにやってみようと思います。

さて、その後8月は19日からふたたび諏訪蓼科方面へ仕事があり、その関係で21日まで滞在しました。そして21日仕事を終えて、午後諏訪上社前宮へと向かいました。まず前社に行く前に、前社から西方数キロのところにある神長官守屋史料館によりました。史料館に入るとまず部屋が大きな洞窟を模して造られており、壁面に鹿の頭が十数頭掲げられているのに圧倒されました。それは前宮十間廊で行われる御頭祭を模したものだそうで、いろいろな生贄やニエの様子がリアルに再現されており、かつてのこの地の信仰のあり方をまざまざと実感させてくれました。それを見てから、中庭にあるミシャグチ神を祀った社に向かいました。この社の四方には、柱が4本たっており、その柱の頂部分には、薙鎌が打たれており不思議な形をしていました。薙鎌を打つということにいろいろ重要な意味があるようです。そこから裏地にあたる古墳へ。7世紀代のものらしく、石室の石の積み方が特徴的であったので、後日すこし調査してみたいと思います。鹿の生贄などを見た後だったので、なんとも神妙な恐れみたいなものを感じました。そして雨のふらぬうちに、そのまま前社のほうに向かいました。以前夜に来たときとはまた違い、三月酉の日に祭りを行う十間廊や、守屋山を背後に斜面上に荘厳にたたずんでいる神殿はまた不思議な威圧感を持っておりました。神域のそばに小川が流れており、かつての禊などの原型をイメージさせてくれるのですが、山を信仰するという形態がよくわかる神社です。その酉の祭り関連では、パンフに掲載されていたので以下抜粋転載します。

「十間廊になんと鹿の頭が七十五頭、真名板の上に並べられていた。その中に、耳の裂けた鹿がある。この鹿は神様が矛で獲ったものだという。・・・・・神官は銚子で御神酒をついで回っている。・・・・その時、長さ五尺あまり幅は五寸ほどで、先のとがった柱を押し立てる。これを御杖とも御贄柱ともいう・・・・御神といって、八歳ぐらいの子供が紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせてか竹の の上に押し上げて置いた。・・・藤刀というものを小さな錦の袋から取り出し・・・その藤刀を柱の上に置く。刀を柱のてっぺんに当て、刻みつけ、・・・三の枝を結ぶ。これにも矢を一本結びつける。・・・そして四つともこの御柱にさす。・・・例の子供達を桑の木の皮を縒り合せた縄で縛り上げる。・・・・木の下に行き、家を造った時屋根に差した小さな刃物を八本投げられた。・・・・例の御贄柱を肩にかついだ神官「御柱だ、御宝だ。」と言いながら・・・・神の前庭を大きく七回回って姿をけす。そして・・・子供達が解き放たれ、祭りは終わった。」

この祭りについては、旧約聖書のモリヤ山での子供イサクを生贄にするのとそっくりだという人もいますが、その辺祭祀や文化の比較などもしてみることも重要でしょう。その後そのまま雨の降らぬ前に東京へもどりました。

8月23日からは1週間鎌倉の修道院に行きカトリックの黙想会に行って自然の中で祈りのよいひと時をすごしました。その後帰ってきてから9月にはいり残暑の残る3日が休みで何もすることがなかったので、思い切っていまだにいったことのない青梅方面げバイクで出かけました。当初はあてもなく周囲の寺社仏閣を探索しようとおもっていたのですが、地図をみているうちに、御岳山と御獄神社というのが目に入り、どうも修験道の名所だということなので、さっそく登ってみることにしました。圏央道で青梅まで行き、そこから西方山中へ走って、御岳山ふもとのケーブルカー乗り場へ。

ケーブルカーから930メートルの山頂近くまでゆきます。そこからまず展望台までリフトで行き、展望台の食堂でお蕎麦を食べました。関東一円を見渡しながら、涼しい場所でおいしいお蕎麦をいただくのは、なんともいい気分でした。そこからリフトで一度下って、徒歩で御獄神社へと登ります。途中静かな森林の中をとおり、宿屋や商店街の中を通って御岳神社に着きました。御岳神社からは関東一円、晴れた日には栃木つくば山から、房総半島、江ノ島まで見渡せるそうで、関東第一の修験道の霊山としてはもっともふさわしい場所のように思えました。またここは倭武尊の東征神話でこの地で難を狼に救われた話に始まり、畠山重忠が兜を奉納するなど、刀などの宝物も多く、徳川時代に至るまで武士との縁も強かったもようです。関東を支配するという意味でも象徴的な場所だったのでしょう。祭神は櫛真智命、大己貴命、少彦名命、廣国押武金日命、奥宮、日本武尊、御眷族大口真神であり、かつての延喜式には大麻止乃豆乃天神社とされていたようです。伝承では崇神天皇七年の創建とあり、つまりこの七年条は、天皇が神々を招いて占いをして大物主を祀るように言われ、さらに大田田根子をして祀らせるようにお告げを受けた話なのですが、この神社の祭祀のひとつに、太占(ふとまに)祭があります。1月3日に行われるそうで、前方後円墳みたいな形をした鹿の肩骨を焼いてそのひび割れで神意を占いようです。群馬の貴前神社や長崎の雷神社にもあるそうで、詳細は神社に売っている「御獄神社の祭り」という本に掲載されています。崇神9年条に、大物主が櫛の箱に入ったとき、それをみて倭とと日百襲姫がびっくりして恥をかかせ、おこった神が姫をホトを自身で突いて死ぬように仕向ける話があります。この神社の祀神に櫛真智命や大穴貴命がみえます。その死んだ姫を大市に葬ったのですが、箸墓古墳の箸はその姫に由来する旨が紀に記されており、つまり前方後円墳なわけです。その崇神7年あたりは四道将軍の記載も多くそのなかから倭武尊が出てくるのでしょう。本殿の後ろの古い奥宮には倭武尊が祭られています。鹿の骨の祭りというと、前述した諏訪の鹿の生贄の祭りを思い出しますが、なにか関連がないか調べてみようと思います。その御獄神社に祭られる倭武尊については、蝦夷遠征の時に、日高見国の蝦夷を平定したのち、信濃と越の国だけがすこし従わないことから、甲斐から北方武蔵、上総を得て、西の碓日坂を越えて、青い「獄」が幾重にもかさなる信濃国に入っているのですが、信濃国に行きます。そこで山の神が皇子を苦しめようと白い鹿になって現れた話があります。この鹿を殺してからは、この山を越えるものは蒜を噛んで、人や牛馬に塗ると神気にあたらなくなったという記載があります。ここでも鹿が神の分身として現れてきます。御獄神社については以下HPにこういう言い伝えについて記されていました。 

大久野の三ツ沢から御嶽山の旧道を登っていくと、山の中腹あたりに高さが約二メートルで大小三個の岩が並んでいる。このうち、いちばん大きい岩をあごかけ(顎掛)岩と呼び、やまとたけるのみこと(日本武尊)がえぞせいばつ(蝦夷征伐)の帰りにこの岩に顎をかけて、はるか遠く関東平野を見わたしたと伝えられている。

 御嶽神社にある伝えにも「西南常陸(茨城県)を歴々、甲斐(山梨県)に至り、酒折宮に居る」、また「唯、信濃(長野県)越後(新潟県)は頗る未だ化に従わざれば、則ち甲斐より北転して武蔵(東京都・埼玉県)を歴て西碓日坂(碓氷峠)に向う」と記されている。

http://www.town.hinode.tokyo.jp/story/story11.html

御獄神社が倭武尊とかなり縁が深いことがわかるのですが、諏訪から鹿嶋にかけての神鹿信仰とも間接的にかかわっているように思います。倭武尊はその後伊吹山に向かいそこで、病気になるのですが、山の泉の水を飲むことで酔ったような気持ちから醒めたということから居醒井になったという話があります。この泉が昨年行った伊吹山のふもとの泉だったわけですが、伊吹山(席田郡)→諏訪→鹿嶋ラインは研究会報告で記したとおりの東西同緯度レイラインにあたります。席田郡はまた伊勢から真北にあたることも報告したとおりです。また席田郡(伊吹山)から諏訪へ直線を引き、さらにその延長線上をたどると、矢板市にいたります。ここも席田郡同様製鉄とかかわりが深く、井吹、泉の地名と渡来人の移住伝承が残っています。(席田郡東経136・41北緯35・27、→諏訪前宮138・08 35・58→矢板市 139・55 36・45)倭武尊の遠征にはそのほか焼津でも鹿の話がでており、鹿とのかかわりが深いといえるでしょう。これらのレイラインと鹿信仰と製鉄と神社と山岳信仰と蛇神の関連、倭武尊の征伐伝承(軍事拠点?)と中臣氏は表裏一体の関係にあるように感じます。倭武尊の死後、その墓穴を空けると衣だけが残っていて、尊が白鳥となって飛び立っていった伝承があるのですが、これは聖徳太子伝承の中で、やはり太子が出会った聖人が死後墓に衣だけ残していなくなった話と類似性をもっています。墓穴伝承は神宮皇后記載にもあり、同系の伝承と考えているのですが、衣を残して墓から消え去る聖人の伝承はきっと書紀製作当事に流行った聖人のたとえだったのかもしれません。その辺はまた景教のキリストの墓穴からの衣服だけを残して消え去った話などもあるいは比較対象として考慮してみるとおもしろいかもしれません。