メニューを飛ばして本文へジャンプ

四国・和歌山の遺跡探索 07.10.28〜30

ここ数年、全国各地の多くの古代史愛好家さんのご支援のもとで、渡来人研究会の管理人として探索を重ねてきました。そして、管理人の個人的な探索歴として、全国でいまだ探索していない県が、四国は高知と愛媛、紀伊の和歌山、そして九州の佐賀・長崎、沖縄を残すのみとなりました。

そこで、今回、いつもお世話になっているオオタさんが徳島に引っ越されたことを機会に、オオタさんに四国をご案内いただきながら四国を巡り、徳島からフェリーにて和歌山に渡るという、四国・和歌山探索を行うこととしました。

当初はオフ会として計画を立てていたのですが、いろいろみなさんの都合が会わず、結局オオタさんと私の2人で探索することになりました。

26日夜、フェリーにて東京から徳島へ向かう予定でしたが、台風が発生し、ちょうど太平洋上の航路上でぶつかる計算になりましたので、急遽翌日の新幹線に変更しました。

27日10時の新幹線に乗り、一路新大阪に向かい、そこから大阪駅へ出て、阿波エクスプレス号にて、鳴門大橋を渡って徳島へ。

徳島駅にてオオタさんと合流し、オオタさん宅にて宿泊。夜は海鮮料理屋にて、ブリの塩焼きから、マツタケ入りのアナゴ汁、徳島の名産すだちをかけながら、おいしいご馳走をいただき感謝でした。

翌28日(管理人の33回目の誕生日!)、朝からまず徳島考古博物館に向かい、そばの矢野古墳を探索しました。ちょうど四国のお遍路さんが通る道沿いで、お遍路さんの撮影をしようと思いながらもタイミング悪く失敗。とりあえずは博物館へ。裏山の矢野古墳は、徳島独特の細かく重ねた積石によって構成される石室構造をでした。

その後、まだ開館時間ではなかったものの、博物館が早めに開いていたのでご挨拶伺うと、ちょうど青銅器関連のフォーラムがこれからあるとのことでした。親切な博物館員の方に、内部の展示についてご案内いただきました。四国の銅矛・銅鐸分布についても興味深いものがありましたが、個人的におもしろかったのは、ミニチュア模型の専門家が博物館におり、かなり精度の住居や古代兵士の人形が展示していたことでした。ガンダムのプラモデルみたいな鎧と兜をつけた古代兵士がいたんですが、博物館員の方に言わせると、ずいぶん足が長いとのことで、これは模型をつくった彼が実際の出土人骨の長さから割り出したからとのことで、意外な徳島古代人の体形を理解できました。ここでも銅鐸を鳴らすことができたのですが、その銅鐸の穴についてオオタさんが問答。銅鐸の穴は製造の際にあける空気穴なのか、音を鳴らすための穴なのか・・、謎が深まるばかりでした。

さて、博物館を出て、吉野川沿いに上流へと西進し、吉野川市内の山川忌部地域にある忌部神社と忌部式古墳を見にいきました。吉野川沿いからやや左折・南下し、丘陵に向かって、そこからUの字型に曲がっていった山腹部分にて、忌部神社が現れます。忌部神社はここ山川と山崎の二箇所にあり、どちらが本来の忌部神社かという論議があるそうですが、今回はこちら山川に伺うことにしました。

神社の裏山をすこし車でのぼり、そこから登山道に入ります。登山道入り口に神仏混合の際の磨崖仏があり、その祠から500メートルほど登ると、石の鳥居が見えてきます。この鳥居は、先のとがった石の柱をふたつ立てただけの簡素なもので、古代神社形式の起源を示すものではないかと感じがしました。後に聞いたところでは、旧社殿はこの鳥居のさらに奥にあったそうで、まさにこれが鳥居だったのでしょう。

そこからすこし登ると、いよいよ忌部式古墳群が現れます。非常に小さい5メートル前後の6世紀後半の円墳で、石室内部は積石の角が丸くなっており、天井部分もドーム型をしているという、どこか百済の武寧王陵を見た際の丸さみたいな類似性を感じました。2号墳は崩壊しており、1号分と3号墳が原型をとどめています。

さて、その後、忌部神社から一度北上し、近道を経由して、193号線を通って徳島から高知方面へと山越えに向かいます。

あろうことに、オオタさんの車のカーナビが近道として、とんでもない山道(おそらく旧道)を選択、それにしたがい行ってしまったおかげで、いきなり一車線の連続カーブが永遠と続く峠道へ。だんだん落ち葉が深くなってきて、こちらも車酔いが始まり、かなり焦ってきました。しばしば対向車があらわれ、一車線を譲り合う例の行事の連続で、バイクでこなくて正解だったと感じるとともに、また長野の峠道で慣れているオオタさんの運転でなければ日が暮れるまでに抜けれないだろうとも感じました。古代から徳島から高知へ抜ける山道は、奈良時代に入っても成立せず、その後できた山道もはるか西方愛媛経由であり、紀貫之ほか、みな畿内から高知へは主に海路であり、まさに徳島から高知へ抜けるこの山道は、獣道だったわけであります。現在もなお高速が走らないのはそのせいでしょう。

ともかく、それでも第2目的地である忌部住宅へは、苦労のかいあって無事たどりつきました。正確には室町建築の三木家住宅というんですが、忌部の神主さんと関係ある家で、忌部氏と儀式関連の資料が展示してあります。ちょうど訪れたときは、神主さんが電話中で、しばらく待った後に、ご案内いただきました。神主さんは忌部氏第・・・代の由緒ある方で、大阪方面からこちらにやってくるとのことで、山道のことを考えると本当にお疲れ様ですという感じでした。とても気さくな方で、大嘗祭儀式に必ず必要とされる忌部氏の麻布について、いろいろお教えいただきました。古代はこの忌部の麻布なしでは大嘗祭は成立しなかったそうであり、明治期に復元され、大嘗祭の際にはお迎えの装束使ならぬお使いがやってきたそうです。神主さんの話では忌部の発祥はこちら阿波が古いのではないかとのことで、先の忌部神社の古式の鳥居といい、この地忌部氏と古代神殿建築の起源に迫る思いがしました。

ここで忌部氏とはどういう氏族なのかを説明せなばなりませんね。忌部氏は天日鷲命などを始祖とし、この始祖は、天の磐戸神話では、中臣氏の祖先天児屋根命とともに、アマテラス大神を洞窟から引っ張り出すのに貢献したことがあります。後代まで中臣氏の託宣方面の祭祀とともに、忌部氏は神殿構築などの儀式を主体に、出雲・阿波・伊勢・紀伊・山城・千葉の安房などに展開した氏族集団であります。平安初期に「古語拾遺」という書物を忌部広成が貢納し、中臣氏の専横をもっぱら批判することを目的に、忌部氏の儀式の由来とその正当性を訴えています。その「古語拾遺」は原本は忌部氏の家伝で奈良初期には成立していたであろうと考えられており、忌部氏の配下に秦・漢氏がおり、神殿構築に携わったこと、それら忌部氏の配下での仕事の関係で、天武朝にその秦・漢氏等が忌寸のカバネを賜ったことなどは、渡来人研究でも注目すべき点であります。なお、紀酒人忌寸というそのとき忌寸を賜った氏族があるのですが、これは後述する紀伊忌部の本拠鳴神神社とその地域にて確認される氏族であります。

さて、そこから山間部を西に剣山方面へ492号へと進路を変えて白人神社へと向かいました。なんでもこの白人神社と先の忌部住宅が、四国のテレビで最近とりあげられたそうで、イスラエルの学者が来ていろいろ忌部について調べ、この白人神社のそばにある磐境神明社の神殿遺跡の構造が、そのイスラエルの神殿に似ているとかいう話だったそうです。研究会としても、飛鳥のペルシア系トカラ人をはじめ、中東関連の文化流入は常に視野に入れているのでとかく興味深い感じがしたので、さっそく行ってみることにしました。

神主さんの話だと神社のそばの二股の道のそばに駐車場があるとのことでしたが、ずいぶん西進してもたどり着かず、途中で白人神社を通り過ぎてしまったのかと思い、一度そばの民家へ問い合わせたところ、まださらに西で、今日はちょうどお祭りでさっき行ってきたところだとのこと。着いてみるとちょうど子供を乗せた神輿が神社に入るところで、かなり勇壮なお祭りが行われておりました。

そこから標識だとすぐ100Mで磐境神明神社があるとのことなんですが、なかなか見つからず地元の人も知らないとのことで、かなり疑問を感じたのですが、ようやく知っている人に出会い、神社の正面反対側の小高い丘の上にその神殿遺構を見つけました。縦10メートル・横4メートルほどの縦長の敷地を、石積が囲んでおり、その石積の側面壁の中に三つ入り口があいており、石板をその側面口の上にかぶせた形になっています。その中に5つの小さい祠があり、確かに古墳の石室にしては大きすぎ、特殊な遺跡であることは間違いないようです。もともとはこちらに旧社があったそうであり、これはいわゆる神社の「磐境」の原型であろうという説も出されているそうです。確かに石積をもって、外部との境をなしており、そのとおりのように感じます。類似の遺構が四国に数箇所あるそうです。

さて、それから、南国高知へとさらに南進しました。こちらもかなりの峠道で正直車酔いで参りそうな上に、だんだん夕暮れがちかづいてくるという焦りの行程でしたが、幸いにも日が暮れるまでには1車線から2車線の山道にかわり、オオタさんもかなり運転が楽になったようでした。物部川沿いを下流へと高知方面へ抜けていく路中に「べふ峡温泉」があり、そこに18時までに到着しなければなりませんでした。というのもその「べふ峡温泉」にて、イザナギ流神楽を地元の保存会のみなさんが舞っていただくための予約を18時にしてしまっていたものですから。

べふ峡温泉に夜の山道を越えてついたのが、17時48分ごろでしたので、ぎりぎりセーフでした。着いてからとりあえず宿に空きがあるとことで、2名分の宿泊予約をし、イザナギ流保存会のみなさんの神楽の準備が出来上がるのを待つことに。それから奥のロッジ風の建物にご案内いただき、和室にて神楽を拝見させていただきました。

イザナギ流神楽というのは、この高知と徳島の境に位置する物部村に古代から伝わる神楽や儀式・祝詞・占い・・・などを、地元の保存会のみなさんが伝えておられるもので、起源については平安末期に平氏の落人が始めたとか、いろいろ諸伝や流派があるそうです。伝説ではこの地の巫女さんが病人を治せなかったことを機に天竺(インド)のイザナギ大王のところで修行を積み、秘術を授かって帰国し、この地に伝えたのが始まりとか。祝詞には「ハカッセ」(博士)など、鍛冶や諸技術系の由来についての言葉があり、安部晴明の陰陽道関連など、興味をひく人も多いようです。

今回は神楽に絞ってお願いし、3人の女性と1人の男性とで舞っていただきました。男性が主に太鼓で拍子をとり、女性3人が剣舞やお盆を持っての舞を、6畳ほどの狭い空間にて華麗に激しく舞う儀式でありました。もともと宅神祭、つまり各民衆のお宅にてその信仰の流派(八幡・・・など)にあわせて、神楽や祓い、病気祈祷を行うのが目的だそうで、狭い空間で舞えるようになっているとのことでした。1時間ほど舞っていただき撮影を終え、質問コーナーへ。オオタさんいわく「インド舞踊と韓国仮面劇の要素があるように思う」とのことでした。個人的にはやはり剣舞といい男性的な要素を含んだ迫力の舞で、なぜこの物部村に生じたのかいろいろ興味が沸くところです。

その後、舞妓さんが作っているので食べてくださいとお知らせいただいた特性カレーをいただきながら(オオタさんいわくなんでここまできてカレーなのか?((管理人)女性のお願いに弱いので・・(汗)))、その後温泉へ。かなり塩分を含んだいい温泉につかり、疲れを癒し、ロッジ風のお部屋にて秋の静かなひと時をすごしました。そばの物部川の流れの音の中で、物部流祭文を読みながら過ごすのも格別でありました。さすがのオオタさんも、お疲れのせいかぐっすり寝入ってしまわれたようです。

翌朝、窓を開くと、一面別府峡谷の山々に囲まれた壮大な風景が広がっており、オオタさんも苦労の甲斐あってとても満足気でありました。今度は長野の奥さんとともに来られることでしょう。

それから、一路物部川を下って高知方面へ向かいます。この物部川沿いには、夜読んだ物部村の本によれば、上流に鴨氏が入り、中・下流に物部氏が入ったとのこと、物部氏は最初下流の河口域に本拠をすえ、その後上流へと遡っていったそうです。

大変な峡谷なのですが、しばらく西進して道行く途中で、夜本で読んだ鴨氏の神社の話をしていたら、オオタさんがさっきそれらしき神社を右手に見かけたというので、急遽引き返し、その美良布神社へ。この神社はオオタタネコの伝承を残す、まさに鴨系の神社なのですが、室町建築で重要文化財との事もあり、奥殿が透明ケースでガード保護されているように、かなり手の込んだ彫刻がなされておりました。オオタさん的にはオオタタネコにこんなところで出会えて驚きだったようです・・・。

そこから、河口部の南国市に入り、目的の物部氏の石船神社へ。河口部の高知空港の近くに物部の地名があり、そもそもの本拠はこの辺であるらしいのですが、その隣町の野市町に石船神社があるとのことでした。石船信仰は全国に展開した物部氏の代表的な信仰であり、全国各地の石船神社はほぼ物部氏に関係し、それは研究会報でも書いたとおり、方位ラインにてつながることがわかってきております。今回の高知の石船神社も例外ではなく、西都原古墳群から、東北にあたる枚方の物部の本拠磐船神社へとつながるラインの中間点に位置する地点なのであります。

しばらく野市町を探索した後、近くの高知県立歴史民族資料館へ向かいました。この資料館も、やはり丘の頂上にあり、いつもながら博物館は変なところに造るものだと話していたのですが、やはりそこは長曽我部氏の城跡だったそうです。資料館にて、四国の銅鐸分布やこの地岡豊町の6世紀後半と推定される舟岩古墳から出土した鉄鉋や馬具、多くの子持部を持つ須恵器を拝見。この舟岩遺跡の子持の高杯・壷、つまり須恵器の上にさらに3つくらいの小さな須恵器がくっついた形をしているのですが、これは後で読んでみつけた韓国の同類の土器との類似性を感じさせるものであります。高知は西半分をかつて幡多郡といい、秦氏が入り込んだことは、天武紀に病気の祈願のために秦忌寸が高知一宮に派遣されていることからも確認でき、高知東部の香美郡には物部鏡連などの物部氏が入り込んでいたことが確認されています。その四国の銅鐸については、讃岐・徳島方面に分布し、高知はこの物部川下流域から中流にかけて分布しているとのことです。近畿の銅鐸文化圏とも関係しているようですが、物部氏と銅鐸出土地との類似性を指摘する本もあり、確かにこの地の物部川へ物部氏が中・下流域に進出していることは、その一致を感じます。しかし、一方で物部氏の全国展開は6世紀以降であろうという通説を考慮すると、謎が深まるところであります。確かに西都原→高知→枚方ラインを考慮するならば、西都原の3世紀の古墳をどう捉えるかにもかかってくるし、いずれにせよ、西都原を基点にしてラインを枚方にひかないと順序的に整合性がでてこないわけですから、3世紀、もしくは6世紀に物部氏が西都原をまず基点として地図測量ラインを引き始める経緯で、この高知の物部地域が中間点として出てきた可能性があるわけです。

なお、忌部関連にて後述する宇佐神宮は、西都原遺跡の真北にあたり、その宇佐と今回の物部・石船神社は真東にあたるのであります。つまり西都原→宇佐神宮→高知・物部にて直角三角形を描くわけでして、宇佐を基点にしながら西都原と高知・物部とのラインを構築した可能性があるといえるでしょう。この辺も研究会の例会で今後も論議を重ねていくべきところでしょう。

そのほか、博物館の長曽我部氏の四国制服展開についてのテレビ映像に改めて驚かされ、坂本竜馬の有名な例の写真を拝見したりしてきました。

それから一路高速道路にて、曽我部からトンネルを抜けて、愛媛方面に抜け、そのまま三好市を抜け、途中のパーキングにて、「たらいうどん」を平らげました。この辺の三加茂町はうちの母方の祖母の実家であり、いつもみかんと半田そうめんを送ってきていたのですが、たらいうどんを食べながら、のんびりとしたその風景に、あの日のそうめんの故郷を実感した気がしたのでした。そして帰る途中、多くの伝説を携える剣山を右手にみながら、徳島に到着。そこから徳島県立博物館でオオタさんにおろしていただき、これから仕事のオオタさんとはお別れしました。ちょうど徳島の国民文化祭の最中で、徳島市の施設は無料になっていましたので、ちょっと得した気分で、博物館内の恐竜の遺骨から、徳島の古墳・遺跡分布などを拝見してきました。特にオオタさんから情報をいただいていた四国と紀伊にまたがる中央構造線の地層構造の展示については、やはり興味深いものがあり、その周辺部に広がる鉱山地層の分布と、古代史の遺跡分布との兼ね合いは、その後おもわぬところで思い知らされることになりました。

博物館からバスで徳島駅に戻り、そこからタクシーにて徳島港へ近道で10分で抜けていただき16時発の和歌山行きフェリーになんとか乗り込みました。徳島から和歌山までは思ったより距離があるようで、和歌山方面は晴れていても見えてこない感じがありましたが、北面に淡路島がずっと見えており、おそらく淡路島を目印に、和歌山方面へ渡海したのであろうと感じました。

和歌山に着くとすでに日が暮れており、そこで大学時代からの友人に会い、車で彼の住処へと向かいました。こちらはカトリックの修道院、つまりアパートなんですが、こちらに彼は今年の夏から長野上田から移住し、修道士になるための共同生活をしているわけです。そちらで神父さんや、ベトナムからの修道士さんにお食事をごちそういただき、楽しいひと時をすごしました。夜、私がわずらう皮膚炎によく効く温泉があるとのことで、そちらに行くことに。和歌山市内なのですが湯舟を覗いてびっくり。薄ピンク色をした温泉で風呂もみなピンクにそまってしまっていました。つまり鉄を含む温泉でありまして、いかにこの和歌山市の地層、つまり先の中央構造線上の地層が鉄分を多く含んでいるかを示しているということであります。もちろん鉄の味がするのであります。さらに、その温泉のあるところは、風呂から出た後で気付いて驚いたのですが鳴神というのであります。

この鳴神には、紀伊忌部氏の本拠である鳴神神社があり、1キロほど市内に入ったところに紀伊国造祭祀で有名な日前懸神神社があります。なんとも予想外に翌日行く予定の鳴神にきてしまったものですから、さっそく友人に車でその地区を探索してもらい、鳴神神社をなんとか見つけてきました。

これで四国と紀伊の忌部の本拠を見てしまったことになるのですが、後で家で調べてみてわかったことは、忌部氏にも方位ラインがあるということです。つまり九州大分の宇佐神宮から四国徳島の山川忌部神社、そしてこの紀伊鳴神神社と、伊勢神宮とが、方位ラインでつながるのであります。さらに東方へその方位ライン伸ばしていくと、千葉房総半島の南部の「安房国」つまり安房忌部の本拠にぶつかるわけです。(現在の安房神社はややラインの南に位置し、なお慎重な考察を要する)かつて諏訪大社と鹿島神宮が東西ラインでつながることが指摘されたように、千葉房総への忌部氏の奈良時代移住伝承の背景には、これらのライン拠点の確保という目的もあったのかもしれません。そこに出てくるのは天日鷲命の名前にみられるごとく忌部氏・伊勢の儀式に出てくる太陽信仰であり、そのことはその方位ラインが日の出の季節変化角の23.4度の半分の12度角で形成されていることからも証明されてきます。しかし一方で、中央構造線をまたぐ鉱山との兼ね合いも幾分か考慮に入れておくべきことはオオタさんや研究会でも指摘にあがっているところであります。この辺も例会にて今後さらに論議を重ねていく課題でありましょう。

以上が今回の四国・和歌山探索の報告でありますが、オオタさんのご尽力によって多くの成果が上がりましたこと、まことにオオタさんに感謝申し上げますとともに、多くの情報を研究会の皆様から事前にいただいたことあっての探索と感じ感謝申しあげます。

今回の探索を通して、主に忌部氏、物部氏の拠点とその信仰について理解の促進を図ることができたことは大きな成果でありました。今後の課題としましては、これら忌部氏、物部氏の移動の背後にあった古代王朝の意図を調べていくことがあり、現在研究会では、物部氏と継体王朝と屯倉制展開、蘇我・忌部・秦氏と欽明王朝との連関を追及しており、その背後にある百済・新羅や中国、さらに西域の渡来人との兼ね合いについて研究を進めております。これらは追って例会や研究会報にて報告の予定でおりますが、またみなさんからのご意見やご参加をお待ちしております。

管理人(07.11.17筆)