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滋賀・高槻の遺跡探索(オフ会) 09.07.18〜19

今回は、継体・漢人関連の遺跡に焦点を当てて、琵琶湖・高槻方面の遺跡を巡ってきました。

まず管理人は17日の夜に東京から深夜バスに乗り、18日朝に京都に到着しました。夜行バスは久しぶりで、4列のスタンダードシート車を選んでしまったのですが、やはり狭くてよく眠れませんでした。帰りの3列シートの最新バスは、かなり快適だったのでこちらがお勧めです。

それから朝到着してのち、琵琶湖線で山科駅で地下鉄に乗り換え御陵駅で降り天智天皇陵を見てから、それから草津駅にて研究会の4人のみなさんと合流し、車で琵琶湖東岸へ向かいました。そこで栗東博物館に向かいました。

周辺には、新開1号墳があり、そこから出土した甲冑などが、五胡十六国時代の北燕のものと類似していることが指摘されています。

北燕の流民は匈奴やおそらく東欧系の技術者を配下にしており、高句麗、百済、新羅へと5世紀代に流れ込んで散らばり、各国でも対応に苦慮したことが文献に記載されています。そしてその流民の一部が、漢人として奈良南部や琵琶湖周辺に流れ込み、北燕の騎馬民族的な武具や、東欧風の金銀ガラス装飾技術をもたらしたというのが、管理人の主張です。

後で気付いたのですが、その新開古墳から真北にラインを伸ばしていくと、白鬚神社の横を掠めて、高島市の継体天皇の父親の大きな円墳?がある田中古墳群にぶつかります。
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/
data/2239/index.html

継体天皇と漢人系渡来人との間には、かなり深い結びつきがあり、琵琶湖を挟んで南北の拠点を行き来していた可能性を感じます。

また高島市の鴨稲荷山古墳では、金銀で装飾された靴や冠が出土しているのですが、資料館の人の話だとかならずしも金銀が朝鮮から輸入されたものではなく、琵琶湖周辺で取れた可能性もあるということでした。とするといよいよ漢人等の技術者が流入した可能性が高くなってきます。

その他、高島の水尾神社には、継体生誕伝承が残り、磐座を思わせる庭園が境内に残されていました。

夕方京都へ戻り散会した後、まだ日が暮れていなかったので、管理人は六地蔵駅まで行き、そこからタクシーで藤原鎌足の息子定恵が住んだという小栗栖の遺跡跡に寄り、醍醐周辺の小野小町の井戸などを見てきました。

定恵については、鎌足の息子で遣唐使で派遣された後に、帰国後に百済人に毒殺されたとされています。ただこの小栗栖寺(法淋寺)など定恵が生き残っていたという伝承も残っており、その真偽が問われるところです。

翌19日は、高槻のキリシタン大名・高山右近由来の高槻教会に行って朝ミサに出て、それからそばの資料館と高槻城跡に向かいました。

その資料館で高山右近がロクロ師に作らせたという陶製の灰色のロザリオを見たのですが、これは日本風で画期的な品物です。

その後、中臣鎌足の八角墳を見るために、摂津富田駅からバスに乗り大阪薬科大学前で降りて、徒歩で山を登っていきました。この墓からは、高位者の装飾品が出ており、また遺骨の腰に骨折の跡があるのは、中臣鎌足は馬から落ちてそれが死因につながったという記載と一致しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AD%A6%
E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

その後、継体天皇陵と、実際の継体の墓だとされる今城塚古墳とを見てきたのですが、天皇陵は相変わらず宮内庁の管轄下にあるので立ち入ることはできず、今城塚も工事中で入れませんでした。工事中というだけではなく、中をまったく見れないように白い壁で囲ってしまっており、よほど中から出てくる遺物を世間の目に触れさせたくないのだろうと感じましたね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%9F%8E%E5%
A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

継体は先の琵琶湖北岸で育ち、武列天皇と子孫が滅んだ後に、畿内へ入ったとされ、新王朝説も根強くあります。先のとおり漢人等の渡来人とも深くつながっており、皇室としてもあまり探りを入れて欲しくない最たる人物なのです。

皇室が天皇の遺骨や遺物、DNA鑑定を行いたくないのは、天孫降臨以来の神の子孫という前提が、どこの骨ともしれぬ大陸系の渡来人のものだったとされるのを防ぐことが、一番理由だと考えています。

ただ実質的には弥生時代からずっと大陸からのDNAは流れ込み続けており、それ以前の縄文人もはるばる中東からやってきたわけですから、特に日本独自で天皇のDNAが形成されなければならないという理由はないのではないでしょうか。

あと、その夜は探索を終えて大阪駅で、教会の友人に久しぶりに会って食事をしたのですが、夜行バスに乗る前にどこかで風呂に入れないかと尋ねたら、ちょうど大阪駅からバスで少し行ったところに「なにわの湯」というスーパー銭湯風の温泉があるというので、そこへ連れていってもらいました。

こちら「なにわの湯」、大阪出張の方にはおすすめです♪
http://www.naniwanoyu.com/

今回の探索は、奈良のヒメさんの運転のもと、京都の考古研究家TAKAさんの詳しい解説もとで、関東人の管理人とトミタさんはかなり得をして帰ってきたわけですが、管理人のレイライン論にも発展があり、大きな収穫でした。

下記の図は先に記載した琵琶湖東岸の新開古墳から、西岸の田中古墳群へと伸ばした南北ラインです。加えて継体陵とされる今城塚古墳と、仲哀天皇陵との南北ラインも引いてみました。

また、以前から知られている天武・天智・藤原京の南北ラインと、その中間地点にある小栗栖寺のライン図はこちらです。

このような方位ラインと古墳や遺跡との間には密接な相関性があり、そのことを知ることにより、古墳同志の血縁関係や領域支配、年代まで知ることが出来ますが、まだ古代史学会では公に認識されていないので、その方位ラインの有効性を新たに学会に提出するためにも、今度出版予定の会報「渡来人研究会」第2号にて詳細を記載いたします。ご期待ください。そして、出版に協力くださる方を募集しています。