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新潟・長野05.10.19〜21

 秋もいよいよ深まり、紅葉が待ち遠しい今日このごろです。先日の探索で、東北のレイラインについて、いろいろ明らかになってきました。そして、そのレイラインの交点に、重要拠点があることがわかってきたのですが、今回、冬になる前に、越の国新潟のレイライン拠点を探索することにしました。そのレイライン拠点にひとつに、新潟北部の岩舟町の岩舟神社があることが調べていてわかってきたのですが、ちょうど岩舟神社の年に一度の岩舟大祭が18、19日に開催されていることが前日わかりました。そこで、福島経由で米沢に立ち寄ってから、米坂線で新潟方面へ向かい、村上市のひとつ手前の駅岩船町で降りました。そこからタクシーで5分くらい走ると港を向かいにして岩船神社に着きます。海を見渡せる小高い丘の上に岩舟神社が建っているのですが、実にのどかないいところでした。数年ぶりの穏やかな気温と晴天だったそうです。この岩舟神社の創建は、物部氏がかかわっているようです。648年に阿部比羅夫が蝦夷遠征の際に磐舟柵を設けたことから、この岩舟の地名ができたらしいのですが、祭神はにぎはやひ、水波女命、高零神、闇零神の4神です。摂社に大己貴命、少彦名神が祭られていました。海の女性神が祭られている点が注目ですが、この辺は鹿島のそばの息栖神社の海と神功皇后との関連とを想起させます。その10月19日の祭りでは、だんじりのような車つきの御輿が町中を深夜から練り歩くそうです。あいにくその巡行は見れなかったのですが、同じような巡行が、すこし北に位置する村上市の羽黒神社の7月7日の例祭でもあり、近くの資料館に飾ってあるのでそちらを拝見してきました。この岩舟神社は、にぎはやひに関わる天の磐舟信仰に端を発しているそうで、全国各地に岩舟神社があるそうです。そして物部氏が関わっているそうです。その辺岩舟神社詳細についてはこちらのHPをご参照ください。
http://www.city.murakami.niigata.jp/kanko/maturi/iwafune/iwa_yurai.htm

さて、そこから新潟に向かい夜になったので、東横INで一泊することにしました。このホテル安いのに加え、ロビーに無料で使えるネットパソコンが数台、プリンタとともに設置してあったので、翌日の遺跡検索に多いに役立ってくれました。長野市の北部の中野市に岩船という地名があるそうなので、そこの検索を始めました。そして、翌日は越の国の中心長岡市を経由して、一度上越市に出て、そこから電車で長野市方面へ。そして中野市に向かいました。信州中野駅から300メートルくらい歩くと、岩船地区に着きます。そこには、岩水神社がありました。この神社は諏訪神社の御柱祭のときにも出てくる諏訪系の神社なのですが、諏訪大社同様、大きな柱とそこに薙鎌が入って注連縄で結ばれたようになっており、摂社にも同様なものが祭ってありました。この中野市岩船がやはり先日の東北レイラインの交点上に位置しているようですが、盆地に囲まれたところで、よく周囲の山並み見渡せる場所でした。そこで見終えて、近くの岩船地蔵尊や権現は時間がないので見るのをやめて帰ろうとおもったのですが、どうもなにか寄っていくべきという気がしてならないので、戻って近くの岩船地蔵尊を見てきました。どうもそこに説明があったのですが、この岩船地蔵尊と、先の新潟北部岩舟町の地蔵尊、そして栃木岩船町の地蔵尊をあわせて日本三大岩船地蔵尊と呼ばれて有名だとのことでした。そばの岩水神社とあわせて深くいわれのあるところのようです。そしてそこから駅に戻ってタクシーで近くの歴史民俗資料館に行きました。この中野市あたりは前方後方墳が主流だそうですが、ある時期から前方方円墳が入ってきたようで、その辺がなにか歴史の鍵を握るのかとも思いますが、この岩船地区からは特に古墳などは発掘されていないようで、古墳時代というよりは、物部氏の全国展開をした7世紀代に岩船の地名の根源があるのではないかと感じます。

こんな感じで、今回は前回のわかってきた東北レイラインから、発展させて越国のレイラインを探ってみたのですが、この岩船2大拠点を結ぶ南西→北東ラインを延長すると、どうも北は先日行った青森ヘブライの伝承が有名な戸来村の御獄神社へ、南は伊勢神宮へと見事に延びていることがわかりました。そして、その新潟北部岩船町岩舟神社から真南には日光男体山が、そしてそ男体山から真西に中野市岩船地区があることが判明します。レイライン上には船関連の地名、切田、烏帽子山などの特定の地名が多くみえることもわかります。天の岩船信仰とかかわりつつ、切田の地名が気になります。あと、鹿島と香取は別のレイラインの上にあり、息栖神社とその2社でつくる直角二等辺三角形はその誤差を示していることがわかりました。以下の地図のとおりです。これらのことを総合すると、伊勢、諏訪、鹿島と関連しながら物部氏の全国展開において、かれらの岩船信仰などの彼らの文化習俗・諸信仰とともに、越国をとおり青森までレイライン拠点を気づいていったことがわかります。時代的には7世紀半ばから後半の時点で、すでに青森、秋田方面まで達しているように思われ、阿部氏の蝦夷遠征とも関わっているのでしょう。レイライン拠点の作成の目的は、信仰面に加えて、軍事や測量などいろいろあったようですが、その辺の解明が今後の課題でしょう。