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九州探索(オフ会) 12.01.07〜09

今回は、九州の装飾古墳を中心に遺跡探索をしてまいりました。2ヶ月ほど前に、ひさしぶりに大分の古代史研究家のかわかつさんとお話する機会があり、先の会報第3号で記載した装飾横穴を訪問したいとのことを申したところ、装飾横穴に詳しい福岡の蕨手さんをご紹介いただき、そこに横浜のククチさんが加わり、今回訪問する運びとなりました。

早朝の深夜バスに乗って、羽田空港からククチさんのポイント割チケットに便乗して彼と一緒に福岡空福岡空港へ向かいます。そこで蕨手さんの車に乗って一路高速道路を通り、その途中でかわかつさんを拾って、人吉へと向かいました。そして人吉から東進して内陸部にある西米良へ向かい、当地の古老Nさん宅にお邪魔して、当地のお話を聞かせていただきました。

西米良は、平家の落人伝承や、磐長姫が籠った伝承など、隠里としての側面を持ち合わせており、永い歴史をもつ場所ですが、また自然豊かな村落で、奥様の手料理をいただき、ひさしぶりに「人間らしい」時間を過ごした感がありました。

 

その後、資料館をご案内いただき、西南戦争や張作霖関連の資料を拝見した後、古老とお別れして、再び人吉方面へと向かいました。

人吉では、桧皮葺の鳥居が残る王宮神社へ寄った後、京ヶ峰横穴と、大村横穴に向かい、横穴の入口部分に彫られた浮き彫り紋様を確認しました。見終えたあたりで、夕暮れになったので、そのまま植木の月華荘で泊りました。豪勢な鍋料理とともに、4人で楽しい分かち合いのひとときでした。

 

翌8日は、朝から北上して菊地市にある木甘子二ツ塚古墳に向かいました。ここで石人を見た後、「わいふ一番館」(資料館)へ向かいました。ここには帽子のような形をした絹笠の石造物を拝見し、また学芸員さんから、当地の神社にあったという宋代の獣帯鏡の現物を見せていただきました。私も手で古鏡に触れてみるのは初めてで、その重さや凹凸の具合を肌で理解したことは、大変貴重な体験でした。

 

その後、市内にある鞠地城(歴史公園鞠地城)へと向かいます。ここには白鳳時代の朝鮮式山城があり、八角形の構造物や米倉などが復元されていました。この八角形構造物の目的は鼓楼や宗教施設など所論が出されているところですが、昨年韓国で取材したニ城山城同様に、複数の多角形構造物や、貯水施設などを持つ点で、共通性をもっています。

 

その貯水池そばからは、10センチほどの小さな百済観音が出土しており、当館で拝見できるのですが、このような観音像は高貴な人物しか所有できないとのことで、百済の亡命渡来人が、この山城に住んでいたとも論じられているとの説もあるようです。

当城がその後200年あまりも使用され続けていたことや政庁らしき遺構が出土しつつあることを考慮すると、軍事的なの山城としての側面とは別に、さらに広い意味での居住施設であった可能性も考慮すべきであろうと感じます。

 

さて、その後は、山鹿方面へ向かい、鍋田横穴、長岩横穴を拝見しました。そこにも人吉の大村・京ヶ峰横穴と同様な浮き彫り式の紋様が入口部分に刻まれており、弓矢や盾の紋様から、軍事氏族集団との関わりを考える見方もあるようです。

 

さらに、西進して江田船山古墳そばの道の駅で食事をした後、石貫穴観音横穴と、石貫ナギノ横穴を見ました。ここでバイクでやってきたスカイトレッカー氏と初体面することとなります。

 

穴観音横穴は石室内部に屋根を模した横板を渡したり、船を模した石障構造など、特殊な石室構造を見ることができます。またそのうちの一室の奥壁に、千手観音像が掘り込まれていることから、その名称がついたようです。

またナギノ横穴にも見られる彩色壁画は、有明海方面特有のものだそうで、山鹿から玉名へと有明海方面へ近づくにしたがい、違う文化や技術が混じりこんできている様子を伺うことができました。

 

その後、夕方になり、高速に乗って北上し、うきは市にある屋形古墳群(日ノ岡、月岡古墳)と珍敷塚古墳へと向かいます。吉井町歴史民俗資料館の学芸員さんにご案内いただきました。

 

最初にご案内いただいた月岡古墳では、古墳上の神社に奉納される白い巨大な家型石棺を拝見したのですが、そこから出土した多数の兜などを考慮すると、大陸とのつながりをもつこの地の有力者の古墳とのように見えました。

 

また日ノ岡古墳では、壁面に描かれた6つの大きな同心円紋や、動物文様を拝見しました。なお、これらの彩色壁画を見るにあたっては、構造上(天井石が落下している)、石室の天井部分から下を覗くような形で見ることになり、撮影の際には、見下ろす形になるので、一工夫する必要があります。

 

その石室構造は、高く平たい石を積み上げたドーム状の天井空間になっており、他の一般的な横穴式石室とは一線を画するものでありました。

最後にご案内いただいた珍敷塚古墳は、同じ吉井町でもやや離れた山裾沿いにあります。道路工事の際に、古墳を半分壊した状態で見つかったそうで、今は建物の中に壁画部分が格納されていますが、ガラス窓の外から拝見することが可能です。

この壁画の紋様は、他の装飾壁画にも見られるような同心円紋や船・武具・人物・動物などとともに、ヒキガエルとカラスが描かれているのが特徴的です。そこには中国的な道教思想を感じさせるものがあり、また彩色の仕方にも変化があり、やや新しい時代の大陸系文化に影響された様子を見て取ることができます。

ここでちょうど日没になったので、そのまま日田の美芳旅館に向かい、その後、かわかつさんのご紹介で、日田古代史研究家のみなさんに歓迎いただき食事することになりました。そこで当地の歴史について、貴重なお話を聞かせていただいたことは、大変貴重な財産になりそうです。

特に日田の氏族と高句麗・シルクロード文化、方位ライン関連のお話などは、管理人の研究テーマとも重なるところが多く、今後もお付き合いをさせていただきたく感じております。

翌9日は、朝からまず日田市刄連(ゆきい)町にあり、日下部氏との関わりも指摘される法恩寺山古墳群に向かいました。

そして高速に乗って東進して玖珠ICで降りてすぐのところにある鬼ヶ城古墳を見ました。こちらは小高い山間部に位置しており、巨石板からなる石室内部に、木(葉)の紋様を刻み込んだ線刻壁画を見ることができます。このような線刻壁画は、大分から山陰地方に分布するものだそうです。

その後、一度日田の宿に戻り、ここでかわかつさんとお別れし、さらに西進して朝倉方面へと向かいました。

 

筑後川沿いにある朝倉の地は、斉明天皇の時代に百済遠征の基地として一時は朝倉宮が置かれたこともあり、当時の関連遺跡も残っています。今回はククチさんのお知り合いからの情報をもとに、当地の山間部にある高木神社へと向かいました。

 

高木神(タカムスヒ)との兼ね合いで、神明関連の諸神や、五部神を祀っているのですが、神社内部には、古式の鳥居があり、どこかしらかなり古い歴史を感じさせる神社でした。

その後、当地の方から、祭礼の様子や中世あたりからの歴史や遺跡の状況などをお教えいただき感謝でした。またそこで聞いた祭礼関連のお話については、前日の晩に日田の研究家さんから聞いた伝承と瓜二つのものがあり、驚きだったのですが、先の会報の拙稿を裏付けるものであったことは、これまた天啓と言うべき感がありました。

 

その後、山を降りて、甘木市にある弥生時代の環濠集落・平塚川添遺跡を見ました。多重の環濠が特徴的で、安本氏等によって、邪馬台国の所在地の可能性が指摘されているそうです。

 

そして、八女方面へ南進して、石人山古墳と岩戸山古墳に向かいました。八女丘陵の尾根沿いに古墳が直線的に並んで造られており、西から東へに向かうに従い時代が新しくなるようです。

その一番西にある石人山古墳では、直弧紋を刻んだ巨大石棺と、武装石人を拝見しました。また岩戸山古墳でも、資料館にて多くの武装石人や石馬・石造物を拝見しました。これらの石造物は、ユキなど装飾壁画にも用いられたモチーフと共通したものがあり、文化的共通性を示すものであります。

 

 

このように、今回の探索では、九州各地の装飾壁画をメインに見て回ってきたのですが、同じ伝承を題材にした壁画モチーフでも、その地域と時代ごとに異なる地形・習俗の影響を受けて、その表現方法にも相違が出てきた様子を伺うことができました。

このような相違を、現場の遺跡に向かうことを通して肌で感じ取ること、それが古代史研究の原点であろうと感じています。

今回、見事なガイドとプロデュースをこなしていただいた九州当地のかわかつさんと蕨手さんに、改めて感謝とお礼を申し上げます。そしてお二人の今後の活動を通して、さらに多くの方にフィールドワークの実践と楽しみとを伝えていただくことを期待して、活動の発展をお祈りいたします。

(記:研究会の管理人)