渡来人研究会メニューを飛ばして本文へジャンプ

渡来人研究会掲示板ログ

『RE『秦氏と八咫烏の記述発見』』
管理人 2002年4月28日(日) 1:43:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、いろいろ情報ありがとうございます。唐代の景教の普及については、教科書でならって以来、興味ぶかく感じているところであります。景教伝来のそれ以前にも、ローマからシルクロードなどを通じて実にさまざまな物品がもたらされていました。その遺品の数を数えたら、大変なものとなることでしょう。ローマでキリスト教が公認された313年以降唐代7世紀にいたるまで、3,400年の間にその文化はさまざまな側面から唐に影響を与えてきたことでしょう。さて景教伝来の特質は、おそらくは、彼ら自体、技術職人としてではなく、宗教的側面、そしてそれと深くつながっている哲学教義的側面に影響されていたであろうことであります。
実質的にそれ以前から、それらのキリスト教的思想・教義に基づいた物品が数多く持ち込まれていたことでしょう。しかし、その思想・教義そのものとともにそれらが伝来していたかどうかはなお疑問が残るところでありました。その物品自体は、たとえば五世紀から六世紀にかけての古墳から出土するガラス製品などとして日本に伝わっているわけです。それはまた奈良時代の正倉院の宝物にも西洋のものがずいぶん入りこんでいることもありますね。最近もギリシアのものとおもわれる玉の類が見つかったそうですね。さて、やはりここで問題となるのは、ただ物品が諸外国から流入したのか、あるいは、人が物品をもちこんだのかという相違についてです。三角縁神獣鏡では、中国製のものと日本製のものがあり、後者はいつからか中国のそれを真似してつくられたものと考えられています。文字などからもその中国的思想が日本人にかならずしも理解されていなかったようであることも考えられています。この場合、職人は渡ってきたかもしれないが、思想を理解していなかったというよりは、最初の職人は理解していたが、その弟子たちは理解できていなかったとかいう線が推測されます。そのへんをくわしく分析するキーはやはり流入時期であると思います。ものだけが流入したならば、思想や教義は理解されないでしょう。しかし人がモノとともに流入したならば、思想・教議も次世代まで伝来することも考えられ、またそのモノとは別のモノなどにも、同種の思想が同一時期に刻まれてくると思うわけです。そこで、渡来人の流入を考えた場合、やはり五世紀後半という秦氏が伝来した時期に、青銅器具ばかりでなく、土器などさまざまな側面で変化がおきているわけで、しかも多くの側面で次世代に思想的にも伝承されていあるといえます。やはり人がモノとともにある種の思想を保持しながら流入したと考えるわけです。もちろん思想や宗教的な文書などについては、次世代になってはじめて表面化してくる場合もありますね。そこで、話はもどって景教徒が実際に日本にまで流入したかについてであります。すでにキリスト教あるいはギリシア文化思想に影響された物品は多く流入していたはずであります。問題はモノとともにそのモノに思想などを刻み付ける人が流入していたかどうかですね。もし人も流入していたならば、当然、同一時期に、そのモノだけでなく、他のモノにも同一の思想が
刻まれるわけであります。そして、モノだけでなく、儀式や教義、あるいは楽や、建築物、薬、神話・教義・・・というふうに同一時期におそらくは普及するとおもわれるわけです。樂については、たとえばタジ調とか呼ばれたアラビア風の音楽と器具が6世紀代には流入したらしいことは、福島の横穴墓からの出土品の調査などからもわかっています。その横穴墓群の壁画からは正倉院の幡金具と同種の模様が刻まれており、正倉院の文物との思想的共通性が予想されてくるわけです。このような事例は、つまりおそらくは単に物品が正倉院に納められたということを超えて、そのモノに思想を刻み付けた人が流入したことを物語っているのでありましょう。わたしは景教徒が秦氏との関係で伝来したとの説は、ホームページではあえて否定しないわけで載せてあるわけであります。私は対外は不確定な俗説については、載せない方針でいるのですが、ギリシア・ローマ文化の影響を受けたモノと人と思想・教義との流れを捉えるという点において、研究価値があると考えているからであります。それではいつも秦さん、貴重な情報提供いただき感謝しております。


『秦氏と八咫烏の記述発見』
秦義則 2002年4月27日(土) 23:25:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「少名彦名」を奉る秦氏が九州に秦王国を築いた後、瀬戸内海から熊野に入り、大和を目指すわけですが、ここまでくると神武東征の神話と類似します。神武天皇が熊野山中で「八咫烏」(ヤタガラス)に出会いその導きで、大和にたどり着いたのは有名な話です。ヤタガラスの話は朝鮮半島が起源とかで、秦氏とヤタガラスとの関係に興味を持っていました。古代史ファンクラブの記述に見つけましたので抜粋し添付します。
:秦氏とは何か?ご存じの様に渡来人が帰化した人々だが 、世界史に明るい人は、すぐに気づくと思われるが、『太秦』と言えば、 中国の唐の時代635年に景教が伝来して、隆盛を極めた『大秦景教流行 中国碑』を思い浮かべだろう。大秦とは、当時中国ではシルクロー ドの1つの終点であるローマを意味している。つまり431年エフェソス公会議で異端とされ破れたネストリウス派のキリススト教徒(景教徒)= 秦氏ということになる。
ネストリウス派のアタナシウス派との教義の違いは、後者が三位一体説 に対し三位三体説をとっている。その影響を強く表しているのが、太秦の近くの『蚕の社』にある三柱鳥居や、神武の東征の道先案内をしたと言 われる三本足の『八咫烏』(日本サッカー協会のトレードマーク)等もそうだし、古事記に出てくる神様も、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱、ということになっている。また、九州の宮崎にある天の逆矛は、ご存じ『逆木』の形、つまり剣が天に逆さに三本延びてる形となっている。この『逆木』→『榊』を意味するものらしい。秦氏とは、古代ヤダヤの血を引くネストリウス派のキリスト教徒だと言える。秦氏系の神社の、八幡系神社は「ハチマン」の他にも、「ヤハタ」と読む。つまり八は末広がりで、多くのと言う意味を表し、幡=秦であり、 何々八幡神社とは、秦氏の社である。また八坂神社の八坂は弥栄(イヤサ カ)であり、YHAはヘブル語で「神」の意味で「ヤッサカ」とは、神よと叫ぶの意味。つまり八坂神社は、ヘブル語では、Oh! my god神社となる 。また神社のことをよく社「ヤシロ」と読むが、”ヤ”は前述した様に神の意 、”シロ”は臨在の幕屋が建てられた場所を表す。 「イスラエルの人々はシロに集まり、臨在の幕屋を 建てた」・・(旧約聖書ヨシュア記18章 1節) 神社にも、基本的ご神体の偶像はない。一部神仏混合の影響で偶像がある場合があるが、ほとんどは「鏡」「幣帛」「神札」があるのみで、ソロモン神殿同様、偶像崇拝は御法度なのだ。


『RE『豊中市服部天神の由来』』
管理人 2002年4月25日(木) 0:38:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さんまた貴重なお話聞かせてくださりありがとうございました。宇佐から大宰府にかけては秦氏の本拠で、いろいろ伝説が残っているようですね。その中でも、今回の秦氏と医薬にかかわる伝承はひときわおもしろいです。秦氏というと、酒作りとの関連が注目されていますが、医薬のほうには今いち関心が向いていなかったように思います。酒も医薬のひとつでしょうか。賀茂の葵祭りや、その禊の儀式とかは、秦氏の松尾社の禊儀式などが元になっていてるそうですね。秦氏が賀茂社と関係するようになって、その儀式にも影響されたというようなことを、掲示板で聞いた覚えがあります。賀茂のみあれ祭などは、朝鮮・中国の五月の端午節との関係、特に菖蒲の湯に浸かるとか、東流水上の禊の儀式なんかと、関係あるんでないかと思ってます。さっきも一日の疲れを癒すのに、銭湯の薬湯に浸かりながら、ぼーっと秦さんのメールのこと考えてたんですが、菖蒲の湯なんかも薬湯の一種ですよね。秦氏と禊と医薬との関係なんかもそういうところにあるんでないかとも感じます。普通秦氏の祖先には、弓月君がきますが、たしかに少名彦名神が関係してくるケースもありますね。大国主との少名彦名の国つくり神話も考えてみると面白いですね。因幡の白兎の話なんかも医薬の職につく氏族独特の表現とも受け取れますね。それは、確か前に関係したことを掲示板で書かれた方がいたような気がします。少名彦名と大国主の話のあと、そのあとに出てくる大物主の子孫の系譜はまた、ソホリの神や韓神など、朝鮮との関係が深いことで注目されているところですね。この辺の神話と秦氏と職業的関係について、もっとよく調べてみるべきですね。それでは今回も奥深いお話お聞かせくださりありがとうございました。




『RE『古墳の被葬者を割り出しています』』
管理人 2002年4月24日(水) 1:58:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 首長さん、はじめまして。吉備の古墳の被葬者のことお調べになられているのですね。吉備の古墳の中でも、かつて石母田氏が注目した月の輪古墳とか、随庵古墳からの鉄鋏などの出土とか昔調べたことがあります。とはいえ考古については素人なので、たいしたことは言えません。ただ、随庵古墳の周辺の地域には、河沿いに東漢氏、忍海漢氏、西漢氏の人名が見え、また吉備津神社まで下流にいくとまた渡来系の氏族の足跡が見えますね。そのへん、備中国大税負死亡人帳とか、吉田晶氏や船尾氏が分析してたと思うので、参考にしてみてください。
藤井氏の吉備津神社の本や、門脇氏などの論も参考にした覚えがあります。5世紀の吉備の古墳群と渡来系の関係や、6世紀の児島屯倉の創設から、上流へカヤ郡への渡来系氏族の動きは注目されますね。吉備津神社の釜鳴神事へ毎年随案古墳からもうすこし北に上ったところの地域から、釜が後納されるというのも気になっていますが、あまり調べる機会がなかったので、その辺の地域の方に聞いてみてください。この辺の屯倉進出に関する渡来系氏族の動きというのが、いわゆる渡来系氏族を奴隷的な形で、製鉄に関する技術者などとして王権によって派遣されたのか、あるいは渡来系氏族の独自行動によって上流への進出が行われたのかとか、院の時考えた覚えがあります。それでは、ご意見どうもありがとうございます!


『豊中市服部天神の由来』
秦義則 2002年4月23日(火) 22:45:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
 その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
 このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。


『RE『秦氏と平家』』
管理人 2002年4月23日(火) 22:22:25 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦氏について、おっしゃるとおり京の灌漑、広隆寺の菩薩像や大避神社の事、など、いろいろ土木にかかわる話が残ってますね。伊賀の服部部など、技術が特定の氏族によって伝播して痕跡を残していくというのは、興味深いですね。岡山の逃れたというのは初耳ですね。どうして岡山だったのでしょう。親族でもいたのでしょうかね。思い出すのは岡山の児島の屯倉の話ですね。書紀などにも、そこに秦氏など渡来系氏族が派遣されたという記事が載っていますね。岡山の吉備津神社のあたりだと、いまでも三宅とか地名が残ってたり、渡来系氏族が死亡人帳にみえたりしていますね。そもそも、屯倉という記載自体は、書紀にはみえますが、その現地にいくと「三宅」に変わるんですよね。宅が三つあるということからもある種の役所みたいなものを想像させるんですが、でも確かに倉もあったのでしょう。そして、その倉なんかも、よく群馬の国府の後にあった倉が再現されたりしてますが、簡単につくれるものではなく、寸法や収められる量など、細かい王権?の規定があるわけです。そうですから、やはりその製作職人も、中央の技術者による可能性のほうが高いんではないかと思います。延喜式なんかでも木工寮と秦氏との関係も出てくるし、秦氏と土木との関係を示すことは多くみられますね。秦氏というのは、在地性が強いと言われます。技術的側面を有していたために、在地へ派遣される可能性も多かったのかもしれませんね。秋田城からでてる漆紙文書とかにも秦氏がでてくるんですね。伊賀と服部さんの忍者とのことも、秦氏との関係があるというのは、まんざらうそではないかもしれませんね。全国的には秦氏というのは見えるのは確かですけど、伊賀というのは天武の時に伊勢国から分離したんですが、そもそも伊勢神宮の起源自体も天武ころに求める説もありまして、伊勢の神宝なんかもどこでどうやって作られるのかが気になるところです。例の絹関係のものも多いし、式年遷宮のたびに木工寮から、技術者が派遣されるのでしょうか。もちろん朝集使などとともに毎年の儀式で必要なものが運ばれるのでしょうが、皇太神宮儀式帳や延喜式などでは、材料自体、三重周辺から集める例も多いんですね。そういう秦氏なかでも職人家系に属するものが、伊勢周辺に住んでいて後服部部さんになってもおかしくはないと思います。秦氏の子女が広大斎宮の火拒になるのは相変わらず興味あります。実際秦氏に関する記述もあの辺ありますしね。伊勢のアマテラスと機織伝説との関係、伊勢自体は禊自体と関係するのか、五十鈴川?沿いにあるということもあり、水運の整備なんかもやはり特殊技術と関係してくるんかもと思います。よく古墳の形が変わるとか、なくなるとかいうのも、王権の規定とともに、中央の職人集団の状況というのを考慮してみてはとも感じます。聖徳太子の時代に秦氏が分散したというのも、そういうのが、たとえば地方の群集墳に影響するとか、横穴墓の壁画に影響するとか、なんかそういうのないでしょうかとかおもってみたりしますが・・・。では長くなりましたが、興味深いご意見本当にありがとうございます!!!



『秦氏と平家』
秦義則 2002年4月22日(月) 23:58:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 聖徳太子のパトロンとして秦氏がおり、秦河勝は聖徳太子から弥勒菩薩を戴いたというのは有名ですね。その仏像の安置場所として京都の広隆寺を建立しています(聖徳太子は法隆寺ですよね)。その頃にはすでに京都に秦氏一族がいました。徐々に京都を灌漑し桓武天皇の頃には、一大土木事業が完成した事になります。
京都に弓月の君と始皇帝を祭る大酒神社があり、兵庫の南西部(赤穂)に大避(おおさこ)神社があります。大避神社は秦河勝を祭っています。どちらも牛祭りがあります。河勝は太子と接近しすぎ蘇我氏から迫害を受け赤穂まで落ちていった様子。その後河勝の技術は岡山県に伝わっていくようです。
河勝亡き後も京都にとどまった方の一族は大化の改新後自由になり、灌漑事業を完成し平安遷都へとこぎつけたのだと思います。秦氏一族は技術集団として活躍はしましたが、歴史の表舞台に立とうとはしなかったようです。平安遷都後、秦氏は影を潜めてしまいますが、平安時代に秦氏は滅亡したのでしょうか?平安時代に登場するのが平家ですね。平家は海上戦に長けていました。秦氏と何らかの技術交流があったと思われます。平氏が追われるとき、西へ海へ出てゆきます。河勝のように。広島県因島には平家とともに落ちた秦氏一族があります。
秦氏は歴史の裏に隠れたようです。秦氏と服部氏との関係?同じ部族だったと思います。伊賀の服部とは忍者ですね。歴史のロマンを感じます。


『RE『面影もありませんが』』
管理人 2002年4月22日(月) 1:21:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私は札幌出身で関東人なもので、亀岡市の位置がわかなかったのですが、今地図で確認しました。湖だったのですか。嵯峨野から右京へと進出したのですね。嵯峨野から松尾神社あたりは、歩いたことがありますが、確か松尾神社にも船がありましたね。なんでこんなところに船があるのかとか感じてたこと思い出します。今地図みると猪名川の上流に愛宕山というのがあり、確か愛宕郡計帳とかいうのにも秦氏の連名があったような気がします。丹波播磨から池田市付近をとおってか、東に移動してるんでしょうね。確か、播磨方面から、地祇に入れられている貴船神社とかと関係する水神の移動についても、雨乞い儀式とかの関係で注目されてますね。たぶん渡来系もかかわってると修論の時考えてました。
干拓技術などは、やはり長岡や京の水利をいろいろ調整するのにも重要だったのでしょうね。古墳の周溝なども秦氏との関連あるのでしょうか・・・。機織から、干拓まで水に関する思いは秦氏にとってひとしおだったのでしょうね。それではどうもありがとうござます!



『古墳の被葬者を割り出しています』
首長 2002年4月22日(月) 0:16:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして 岡山県の古墳を案内しています。また、古墳の被葬者の割り出しをおこなっていますが、吉備の国にも渡来人がいたという説があります。製鉄に関連する人物とされていますが、調べているうちに貴サイトへたどりつき足跡を残させていただきました。また拝見させていただきに寄りますのでよろしくお願いいたします。またよろしければこちらへもお立ち寄りください。スレッド型BBSもありますのでいろいろな説を提供ください。


『面影もありませんが』
秦義則 2002年4月21日(日) 21:22:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 池田市に秦氏が住んでいたのですが、猪名川の上流の三田市にも多く住んでいた様子。また池田の北、大阪府から京都府に入ったところに亀岡市があります。亀岡市はもともと大きな湖だったのですが、秦氏が干拓し、ここに一族の一つの拠点を置きました。亀岡から嵯峨野一帯に秦氏が住んでいたのですが、そこからさらに今の京都市内を干拓し、桓武天皇を京都に招いたようです。
僕自身は池田市出身ですが、本家は亀岡市本梅町です。
秦氏は大陸から渡来する技術を持っていたわけですから、海上の交通や水路の移動手段には長けていましたし、まず水を治めることが一族を繁栄させることを知っていたのでしょう。亀岡にも湖があった事、桂川や加茂川にも堰を設け巧みに水を操った事、土木灌漑技術が優れ、また、養蚕の技術から、医術、酒作りまで幅広い技術をもった集団であったと思います。
今となれば面影もないのが情けないです。


『秦さんですか!』
管理人 2002年4月21日(日) 0:13:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!池田市の伝説興味深く感じています。特に綾服部(アヤハトリ)呉服部(クレハトリ)について、書紀の記述だと漢氏の祖先阿智使主が中国から連れてきたとの伝説があります。そして、わたしは漢氏との関係でしか捕らえていなかったのです。しかし、池田市にみられる秦氏の足跡や、秦氏との関連でよくでてくる絹と機織伝説との関係を考えると、あらためて秦氏と両服部との関係を考え直すべきですね。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名ができたとのこと、また勉強になります。機織と水路との関係について、なかなかそういう現場を知らないわたしとしては、想像が行かなかったのでした。いろいろ「水」については思い当たりますね。今年は、アマテラスの岩宿神話と機織、秦氏と機織伝説との関係を調べてみたいと思っていたので、いろいろ勉強になって感謝です。これからも、よろしくおねがいします!



『私の先祖は渡来人?』
秦義則 2002年4月19日(金) 0:10:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして、秦といいます。名前が難しく、正しく読んでもらえなかったり、読めても正しく書いてもらえなかったりします。「泰」や「奏」とかかかれます。生まれは大阪の池田市。池田市にも伝説があります。大阪湾から渡来人が都に上がるのに水路で猪名川に入り池田に来てとどまった様子。二人の姫がいて、一人を綾服部(アヤハトリ)もう一人を呉服部(クレハトリ)と言います。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名があり、五月山には絹掛けの松があります。綾羽神社、呉羽神社があり、それぞれの姫が祭られています。秦氏に関係があるようです。池田市には秦野という地名があります。池田の南、豊中市に服部と言う地名があり、服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。自分の名前なので興味を持っていました。


『お返事おくれてすいません。』
匿名希望 2002年4月10日(水) 4:36:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさまお返事遅れてすいませんでした。実はある音響機器に関するシステム上の変更のため、先日プレレリリースバージョンのウィンドウズ2000をインストールしたのですが、その結果インターネットとCDロムが使用できなくなりました。今日やっと復旧させました。ご迷惑かけました。今後気をつけます。
Jyouyiさん、お返事ありがとうございました。
書紀などの撰者・編者と、文書を起こした方との相違もよく区別すべきでしたね。よく思い出してみると私も新撰姓氏録の撰者と、文書官人名との相違に頭を悩ませました。撰者には、藤原氏の貴族層が、文書官人のほうには、渡来系氏族が多く見えます。ご専門の万葉集についてはわかりませんが、書紀についても、もっと調べる手段を追求したいですね。書紀ではありませんが、古事記の太氏(多氏)は文書官人としても気になる氏族ですね。北九州に本拠を持ち、蘇我氏の関東進出とともに、先におっしゃいました例の碑文のある高崎方面や東関東方面に進出したようですね。この多氏というのは、また秦氏とどうよう、後代まで大陸系に由来する雅楽の伝承をしていたことで有名ですね。天武朝前後の樂とその歌われた歌詞との関係、あるいは樂と儀式との接点が大変研究上重要になってくると考えています。文書の地方への伝播は、やはり渡来人の地方国府へ移動などが影響しているとのことですね。福島地方の壁画古墳などにも、幡具を描いたものもあり、舞楽で使用された器具も出土しているようです。どのように、後代の地方の郡司・雑任層にも、渡来系氏族が影響を及ぼしていったのかなど、注目されているところではあります。楽しみですね。また、別ページで書紀については、すこし意見を述べたいと思いますのでご参考にしてみてください。

小林さんお返事ありがとうございます。史部の研究とのことですね。ただ史と史部との相違について気をつけてください。関晃氏がまず「倭漢氏の研究」で書かれていたと思いますので、最初に読まれてはどうかと思います。その他「史部」に関しては渡来系にかぎらずいろいろ研究は出されています。特に東西史に関するならば、下出氏の道教的側面からの分析もありますし、とかく儀式面と制度面との双方から迫ることをお勧めします。文書官人おいて、儀式と制度的職業とが、分離していく過程を追うことも面白い課題です。そして「○人」という集団から、「文人」が特別に「史」とされるにいたってのプロセスが重要です。「史」というのはカバネとして天皇から賜与されるものです。「史」の朝廷にお位置付けの盛衰や、その意味付けも課題とされてます。部民制から人制、カバネ制から伴造制へ、そして律令制にいたるまでの制度の変遷と「史」との関係の変化を追うことも前提となってくるでしょう。また、同様に儀式的な変遷も頭に入れておく必要があります。これらの前提を踏まえて、書紀の特定部分に絞って研究されてはいかがかと思います。がんばってください!

伊吹さんお返事ありがとうございます。嵯峨野の群集墳とは、大変渡来人研究においても重要な地域を課題とされているのですね。どうもホームページ拝見したかったのですが、つながらないのでアドレスの方再度確認お願いいたします。群集墳について、よく四方観念のこととか、遺骨からの人種解析とか世帯構成とか、大陸系遺物の出土や、陵墓に関する制度的規定の問題など、渡来人研究にもいろいろ気になるところであります。理論を発展させていくにあたっては、雑要素を排除して純化して、真理を浮き彫りにしていくことがあり、大変だと思います。しかしまた欠如部分の補完や最終的な実証で、あるいはを何らかの文献などで補助していければいいですね。微力ながらご援助できればと今後の研究を楽しみしています。がんばってください。



『はじめまして♪』
伊吹童子 2002年4月9日(火) 0:49:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして、伊吹童子と申します。
私は現在、大学で日本史学を専攻しており、
所属サークル(考古学研究会)の活動で渡来人をとりあげていることから、
渡来人研究会さんにはよくお世話になっておりました。
ありがとうございますm(__)m全国幅広い情報は、私の視野を大きく広げてくれました。
私達のサークルは京都・嵯峨野地域の群集墳を測量・踏査すると共に、それらの群集墳の被葬者と考えられる秦氏についての研究を進めています。また何か質問させていただくことがあるかもしれませんが、その時はどうぞよろしくお願いします☆

さて、私も自分のホームページを持つに至りました。考古学や歴史学に関する考察を中心としたページですが、最近では古典についてや、私のつたない随想なども載せております。今後は、一般に軽視されがちな理論考古学を平易に解説することで、それを広めていこうと思っている次第です。よろしければ一度おいで下さい。歓迎いたします。できれば、相互リンクしていただけると嬉しいです。


『失礼します』
小林 2002年4月7日(日) 17:34:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 結構前に卒論の事で伺ったものです。
遅くなりましたがご返事ありがとうございました。

もうすぐ授業が始まるのにゼミの宿題が終わってません(泣)

とりあえず、教授に「史部」の方向で聞いてみることにします。(…変わる可能性も大ですが;)
「渡来人」なのは変わらないので、またちょくちょくページを拝見させていただきます!
よろしくお願いしまっす。


『上代特殊仮名遣い』
Youyi 2002年4月4日(木) 13:26:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 レスありがとうございます。
管理人さんのご意見に対し、思うところを述べます。

>>日本書紀の編者が特に百済亡命の渡来人であったとの説

私は「編者」とは言っておらず、あくまで記紀万葉等の最終的な文字起こしをした文書事務官が朝鮮帰化人だった、と言うにとどまります。例えば日本書紀β群の文字起こしをしたのが山田史御方だったにせよ、その人物が主体的に文章を書いたのか、それとも誰かの指示に従って単に文字起こしをしただけなのかはわかりません。それは史学の方にお任せします。(^ヘ^)

>>推古紀に通訳としての「訳語」(ヲサ)という表記がありました。この「をさ」の「を」も普通の日本人なら「お」とすべきところだと思います

「訳語」が「ヲサ」なのは、一番最初にのべた有坂第三法則「B同一語幹内にO乙はAと共存することが少ない。(即ちO甲とAが共存することが多い)」で説明が付きます。

ワ行の「ヲ」とア行の「オ」は、前者が/O/の甲類、後者が乙類で、これは上代特殊仮名遣いのなごりだと考えられます。
例えば「リンゴを食べたい」と言ってみれば「ゴ」よりも「を」の方が円唇化するのがわかるはずです。
ですから、「ヲサ」は母音が「o-a」と続くので、/O/が甲類の「ヲ」で書かれるのは当然なのです。

尤も「ヲとオは/O/の甲乙であり、上代特殊仮名遣いのなごりである」という説を出したのも、私が日本で初めてらしいですが、このことは音声学的に様々な角度から検討して間違いないという確信を持っています。

>>百済亡命氏族が二世にいたって、かえって日本語も自由に扱えたことによって、律令制導入によって台頭してきた日本人に圧倒されずに、

むしろ白村江によって大量の読み書きできる帰化人が得られたことによって、律令制施行が可能になったのであり、それがなければこの時代に律令制が成立することはありえなかったでしょう。

歴史学者も国語学者も誰一人指摘しないことですが、白村江以前(国語学で言えば推古期遺文以前)に都周辺以外の地方で作成された文書というのはただの一つも現存していないのです(ただ、推古朝に書かれたとされる伊予の道後温湯碑というのが続日本紀かなにか?に引用されているだけです)。
即ち、白村江以前には、都以外にはまともに読み書きできる人間がいなかったということです。
ところが663年の白村江以降、670年には「庚午年籍」が作られ、681年には「上野国山名村碑」、690年には「庚寅年籍」、700年には「那須国造碑」、711年には「上野国多胡郡碑」、720年頃には「風土記」、そして「万葉集」と、地方で作られる文書が急激に増えるのであって、この時代に一気に読み書きできる人材が地方に拡散したことを意味します。

律令制の仕組みをだれが立案したかは知りませんが、全国60カ国以上に国府を作り、戸籍を作り、計帳を作り人民全てを掌握して中央集権国家を作るためには、膨大な数の文書実務者が必要なのであって、それだけの文書実務者育成は一朝一夕に出来ることではありません。白村江以前には地方ではただ一つの文書も作れなかった国が、わずか40年ばかりで律令制を施行できたのは、読み書きが出来る3000人以上もの帰化人が得られたからでしょう。

律令制の施行で各国に国府がつくられるころには、日朝バイリンガルで読み書きの出来る白村江帰化人二世が大量に育っており、近江など都周辺の二世が選抜されて派遣されたり、東国に配置された者の二世が現地採用されたりして、各国国府の文書事務を担当したことでしょう。
そう考えない限り、7世紀末〜8世紀前半の万葉集や風土記で東国から九州に至るまで全国一律に上代特殊仮名遣いが現れることの説明がつきません。
彼らの身分は史書に名の残らない主典以下の七位・八位・初位ぐらいの微官だったでしょうが、地方の豪族や庶民からみれば、やはり貴族で読み書きの出来る超文化人、是非婿にと望む者も多かったはずで、地方豪族の婿となってその姓を名乗り、土着した者も多かったでしょう。そして、そのようにして土着した帰化人を通じて地方にも読み書きが徐々に広がっていったものと思われます。

私は日本史上帰化人が果たした最大の役割は、文字文明を全国に波及させたことだと考えています


『RE『上代特殊仮名遣い(補足)』』
管理者 2002年4月1日(月) 23:53:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お返事おくれてすいません!先日すでにお返事書き込んでおいたつもりだったのですが、どうも掲示板の書き込みボタンではなく、クリアボタンを押してしまっていたようです。この辺は今後掲示板を利用される方も注意したほうがいいですね。さて、誤解のほうは了解しました。人間の無意識下での条件異音と、言語の習得・経験からくる八母音・五母音などの相違について区別して理解する必要があるのですね。勉強になりました。日本書紀の神話部のいわゆる「一書」などにみられる神話などについても、やはり人間が特定の条件下で普遍的に創造する話と、ある特定のテキスト・事実の経験によって語られる話との相違を考えていくことと似ていますね。そして、言語的・文書的に、人間本来の特性によってつくられたのか、あるいはどこかからの伝播によるものなのかを、区別し、双方のからみあいの関係を理解していくことが課題です。
八母音を理解して区別していた日本書紀の編者が特に百済亡命の渡来人であったとの説は、新たな視点で大変貴重であります。日本書紀冒頭の「一書」や古語拾遺の元テキストがどのように天武朝ころから、奈良・平安初期にいたるまで、中国的に装飾化されていくのかをゼミで調べたことがありました。確かに日神・月神がアマテラス・つきよみに変わっていくなどは理解できたのですが、細かい言語的部分については、神野志氏の儀式的側面と関係を示したテキスト論なども参考にはしましたが、到底歴史学者には追求できない現実に直面したのでした。そして、その言語学・国文学の協力無しには前進することもできないでしょう。同様、修論でもご存じかと思いますが新撰姓氏録という氏族書を分析いたしました。各氏族の出自を載せているのもですが、渡来系の氏族の中には、中国から朝鮮を経由して日本にきたというものもあり、その出自伝承にも朝鮮的発音の名前など、中国的な装飾文、伝承内容など、いろいろまざっていました。そしてその当の祖先を同じくする氏族内でも枝氏によっては祖先を中国としたり朝鮮としたりまちまちなものをあります。やはりこの書物も本格的に言語学的解析がなされるべきだと期待しています。さっき電車の中で、書紀をひさしぶりにみたのですが、推古紀に通訳としての「訳語」(ヲサ)という表記がありました。この「をさ」の「を」も普通の日本人なら「お」とすべきところだと思います。この区別はいつの時期のどの底本でふられたかも気になりますが、朝鮮系の発音と関係あるのでしょうか。渡来系氏族によくみられるのカバネ?に「曰佐」というのがあり、確か言葉の起源は朝鮮と関係があったと思います。その発音について、しっかり伝承的に理解していたのでしょうか。参考にしてみてください。渡来系のカバネや氏名・出自伝承には、かなりそういう類のものがありますが、歴史学者ではいまいち深い理解にたっしないみたいです。さて百済亡命氏族が二世にいたって、かえって日本語も自由に扱えたことによって、律令制導入によって台頭してきた日本人に圧倒されずに、さらなる文書職務に関する活躍をされたとのことは、言語に精通された方ならではの目新しい貴重なご意見だと思います。そのことが具体的に証明できればいいですね。亡命百済系渡来氏族の官位昇進のあり方や職務の付き方などからも、立証できないでしょうか。ただ、三世にいたって蕃国史観にもとづき日本化していったかどうかは、なお慎重にすべきと思います。なお渡来系氏族の職業継承は律令制導入後も、簡単には倭系氏族に代わられることは少なく、蕃国史観があるなしに関わらず、具体的な職務としては平安初期まではなお渡来系氏族の継承によるところが大きいとの見方を、私は支持しています。私は修論で平安初期の新撰姓氏録の分析をするにあたり、エクセルで「出自」「カバネ」「その氏族員が到達し得た最高官位の平均値」「職務」などについて分析しました。そしてそれぞれ、「漢」「唐」「百済」「新羅」「任那」「倭」において、その平均昇進官位、出自・カバネと記載順序によって表現された天皇からの位置づけ、からも蕃国史観がどのように具体的に職務・官位・それぞれの出自主張にあらわれているかを研究しています。
さらに、「左京」「右京」「山城」「大和」など地域別にも、諸「蕃」国、カバネ、官位、出自などについてデータを出しています。結論としては、果たして蕃国史観がかれらの日常にそう影響を及ぼしたかどうか疑問が残るとの理解に至っています。平安初期以降に至るまでの三世の倭系化については、なお慎重に考えてみたほうがいいと思います。データ類などについては、必要な方面の方がおりましたら、提供いたしますのでご連絡ください。
それでは、改めて貴重なご意見ありがとございます。今後ともよろしくお願いします。

渡来系



『上代特殊仮名遣い(補足)』
Youyi 2002年3月31日(日) 10:20:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご研究のお役に立てれば幸いです。(^ヘ^)

ただ、私の説を多少誤解なさっておられるようですので、説明させていただきます。

>>古代朝鮮語が渡来人によって日本にもたらされ、今なおわれわれが無意識に発音を繰り返している中に影響を及ぼしている

などということは私は全く言っていません。

私が言っているのは、奈良時代已往の日本は殆ど無文字社会であり、貴族以外の純粋な日本人で読み書きの出来る者が殆どいなかったため、多数の朝鮮帰化人と少数の中国帰化人が「お雇い外国人」として文書事務を担当していた、ということです。
ただ、この「お雇い外国人」も白村江以前には少数しかおらず、あまり質も高くなかった為、少数の文書しかつくれなかったのが、百済・高句麗の滅亡、白村江敗戦の結果、大量の質の高い人々が得られたため、その二世達が活躍する奈良時代には大量の文書作成が可能になった、ということです。
そして、そのことは歴史学的にだけではなく言語学的にも証明できる、ということを言っているだけです。

朝鮮語と日本語は古代から全く別の言語であり、白村江後に「大量の」朝鮮帰化人が亡命してきたと言っても、多く見積もってせいぜい1〜2万人、当時の日本の人口は600万人弱と推定されていますから、その程度の異言語話者が移住してきたからといって、日本語の音韻体系が変化するなどと言うことはあり得ません。影響があるとすれば、せいぜい朝鮮語起源の外来語が日本語語彙に取り込まれるぐらいです。

現代日本人が無意識に二つの/O/母音を使い分けているというのも、純粋に発音上の経済法則に従っているだけであって、朝鮮語とは全く無関係です。

人間が発する母音は人種・民族を問わず範囲が決まっていますが、それをどのように分割するか、いくつに分割するかは言語によって異なり、朝鮮語では八つに分割し、日本語では五つに分割します。
すると、八つに分割する朝鮮人が五つにしか分割しない日本語を聞けば、日本人自身が意識していない発音の差を別の母音として認識する、という現象が生じてきます。
もし現代日本語に文字が無く、韓国人がハングルを以て日本語を聞こえるままに記述するとすれば、やはり日本語母音を八つに分けるはずです。同じことを奈良時代に朝鮮帰化人がハングルの代わりに朝鮮式漢字音を以てやったのが「上代特殊仮名遣い」だということを私は言っているのです。

日本語の/O/母音の許容範囲は広く、朝鮮語の/┻/と/┫/の両方の領域にまたがりますが、日本人はランダムにそれを使い分けているわけではなく、前後に接続する母音・子音との関係、アクセントやプロミネンス(強調)などの法則に従い、無意識のうちに/┻/に近い発音と/┫/に近い発音を規則的に使い分けているのです。
こういうものを言語学では「条件異音」(conditional allophone)といいます。
例えば、ソファーで隣に座っている人に小声で「オイ」と呼びかけ、次に100メートル向こうにいる人に大声で「オーイ」と呼びかけてみてください。もしこの二つの「オ」の唇の形が同じだったら100万円差し上げます。(^ヘ^)
つまり、我々日本人の意識のなかでは小声の「オ」も大声の「オ」も同じ音なのですが、客観的にみれば全然違う音であり、こういう話者自身は全く意識していないのに別の基準からみれば別の音、というのが「異音」です。
ところが、この二つの「オ」は日本人にとっては同じ音(異音)でも、/┻/と/┫/を区別する韓国人が聞けば別の音に聞こえ、文字に書くとすれば別の文字で書きます。それが上代特殊仮名遣いの正体です。

言語学・日本語学方面で私の功績があるとすれば、@現代日本語/O/母音の条件異音の発現法則を発見したこと、Aそれが上代特殊仮名遣いオ段甲乙音の書き分け法則と一致していることを発見したこと、の二つです。
特に@は言語学者(音声学者)・日本語学者・国語学者の誰一人今まで気づいていなかった、というよりこれまでそういう研究した人がいなかったのです。ですから、今の私の急務はこれを定説として音声学者や日本語学者に承認させることであり、そのために今いろいろ実験をし、客観的データを集めているところです。音声学の世界でこれが定説となれば、いかな頑迷固陋・因循姑息な国語学者たちでも私の説を承認せざるを得なくなります。
そして、国語学者が私の説を認めるなら、歴史学者も帰化人観・古代国家観を改めざるを得なくなるでしょう。
ただ、韓国が大喜びして、新たな歴史教科書問題が生じるかも知れませんが・・・・・

これまでの国語学の定説では、日本に文字をもたらしたのが朝鮮帰化人であることは否定しようがないものの、それは5〜6世紀のことであり、8世紀頃にはすでに日本人が読み書きに習熟しており、記紀万葉を書いたのも日本人だと考えられています。というより、それを客観的に実証研究した人間はおらず、ただ漠然とそう信じられているだけです。しかし、記紀万葉を記述したのは明かに帰化人なのであって、日本人自身が独力で文書作成が出来るようになるのは9世紀平安時代に入ってからだということです。

こんなことを言うと愛国的心情を持つ人々(国語学者は皆国粋主義者らしいですが)は反発を覚えるかもしれませんが、初期ローマ帝国で文書事務をやっていたのはギリシャ人であり、モンゴル帝国では中国人・ウイグル人・女真人などであるように、世界史を見渡せば無文字言語の新興国家で外国人(異言語話者)が文書事務をやっていることなど珍しくもなんともないのであって、別に恥じるようなことではありません。


『RE『上代特殊仮名遣い』』
管理者 2002年3月31日(日) 1:22:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 youyiさん、貴重なご意見ありがとうございました。古代日本および朝鮮・中国での言語について知りたいと思っていたところでしたが、まさかご専門の方からご意見いただけるとはももってもいなかったので大変感謝を感じています。本文を読ませていただき、いろいろと渡来人と記紀など諸文書との関わりについてアイデアをいただいたことは本当に恵みでした。このような分野や国・地域を越えた研究対話が、今特にワールドカップを控えたこの時期に必要とされてきており、またホームページという分野と時間差を埋めることができる場を提供できていることにあらためて喜びを感じます。
さて内容に関してでありますが、まず、古代朝鮮語が渡来人によって日本にもたらされ、今なおわれわれが無意識に発音を繰り返している中に影響を及ぼしているとのことには、今大変な驚きとその研究の重要性を感じています。おそらくはもっともはっきりと現代日本人と古代渡来人との関係を浮き彫りにする事実ではないでしょうか。このような無意識における日本人の「記憶」をたどり解明していくことは、実は現代の日本人の文化意識の土台からその発展を考えて行く上で、大変重要であることと思います。現代においては無意識となってしまったものが、過去においては明確に意識され区別されていたことを明らかにされていることは、すばらしいことですね。渡来人研究においては特に渡来後二世・三世となるにつれてどのように、渡来系であるという意識に変化が生じていったのか、その影響のもとどのように彼らが、あるいは日本人がお互いの和合を考えていったのかが重要視されています。その手段として、わたしなどは、修論において奈良初期の記紀と平安初期の新撰姓氏録とにみられる渡来系氏族記載の分析を系譜しました。そしてそのカバネの変化、官位昇進から諸神祇への関わりの変化を研究したのでした。しかし言語学的側面からの変化を追いかけることは極めて難しいことでした。ゼミでも森博達さんの日本書記記述への分析研究の応用報告を聞きましたが、なお本格的な言語分析は不可能であります。今回、その最新の研究成果の一端を読ませていただき、改めて分野を越えた協力なしには、渡来人研究をはじめ古代史研究の進展はあり得ないことに気づかされました。わたしなど研究から離れている小才では、あまりお役にはたてそうにありませんが、古代史学者との対話を目指して研究をなされていくことは、かれらにとっても今大変望んでやまないことと感じます。その他、読ませていただきいろいろ気づいた詳細については、後日あらためてご報告いたしたいと思います。
それではこれからもよろしくお願いいたします。



『無題』
Youyi 2002年3月31日(日) 8:19:32 削除・編集


『上代特殊仮名遣い(つづき2)』
Youyi 2002年3月30日(土) 10:56:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信  上代特殊仮名遣いの最大の史料は万葉集ですが、朝鮮帰化人が記述した、という観点から万葉集を眺めれば、その臭いがプンプン漂ってきます。

 「万葉仮名」と言っても、全てが一字一音の借音仮名で書かれているわけではなく、借訓仮名、訓読等の様々な表記法が併用・混用されています。
 万葉集の中で借音仮名が多用されている巻は、巻五・巻十四・巻十五・巻十七・巻十八・巻二十などですが、その中で特に巻五・巻十四・巻十五が注目に値します。
 まず、巻十五の前半の歌は天平八年(738)の遣新羅使一行の歌を集めたものですが、遣新羅使には当然通訳を兼ねた朝鮮語が出来る中下級の書記官達が同行したはずです。
 また、巻五は大伴旅人・山上憶良などが神亀五年(728)〜天平五年(733)に太宰府や筑前で詠んだ歌を記録したものですが、太宰府や筑前は対新羅外交・防衛の拠点であって、実務を担当する中下級の書記官には情報収集の為に朝鮮語のできる者が多数配置されていたはずです。また、国文学の方面では、山上憶良自身が幼児の時に来日した白村江帰化人であるという説も有力です。
 さらに巻十四は東歌や防人歌を集めたもので、東国の諸国府で収集されたものです。日本書紀によれば、666年に2000人に及ぶ百済人が東国に送られ、その後も多数の百済・新羅・高句麗からの帰化人が東国に送られており、これらの歌は諸国府で現地採用された中下級の帰化人二世書記官達が記録したものだと考えられます。
 特に東歌は当時の東国の諸方言を記録していることで有名ですが、朝鮮からやってきていきなり東国へ送られ、そこで育った二世達には当時の標準語(関西方言)も方言も見分けがつかなかったでしょうから、朝鮮語音韻体系で聞こえるままに記述したのが、方言の記録となって残ったのでしょう。

 また、森博達氏は日本書紀を漢文の正確さからα・β二群に分類し、α群を書いたのは中国帰化人の薩弘恪・続守言、不正確なβ群を書いたのは山田史御方ではないかとしています。
 当時「史」姓を持つ者はほぼ100%帰化人であったと言われており(でしょう?)、この山田史御方という人物も当然帰化人であったはずです。そして、この人物は若いころ新羅に留学していたとされていますが、新羅に留学して朝鮮語を学んだのではなく、もともと朝鮮語が出来たが故に新羅に留学し、別のことを学んでいたのでしょう。

 このように、記紀万葉等を誰が編集・監修したかではなく、誰が実際に筆をとって文字起こしをしたのかを考えれば、朝鮮帰化人、特に白村江帰化人二世達であったと考えるのが一番妥当です。

 この説は既に昨年5月の国語学会大会で発表し、さらに今年9月に音声学会大会でも発表する予定です。

 ただ、この研究をしていてつくづく思うことは、各学問分野の横の連絡の悪さです。
 国語学者は歴史や朝鮮語に興味がなく、古代史学者は国語学や朝鮮語に興味がなく、言語学者や音声学者は歴史や古代語には興味がなく、朝鮮語学者は歴史や日本語に興味がない・・・・皆が専門の殻の中に閉じ籠もって近視眼的にしか物事を見ないことが、この「上代特殊仮名遣い」という現象を70年以上も「日本語史上最大の謎」にしてきたといえます。

 長くなりましたが、皆さんの渡来人史研究に多少なりともお役に立てればと思い、投稿してみました。
また、これから歴史学的方法での論証にはお力を借りることもあるかもしれませんので、宜しくお願いします。m(_ _)m



『上代特殊仮名遣い(つづき)』
Youyi 2002年3月30日(土) 10:1:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信  では、言語学者でさえ気づかない微妙な発音の差が、なぜ記紀万葉において書き分けられていたか、といえば、それを書いていたのが朝鮮帰化人だからと考えるしかありません。
 単に時代背景がそうだからというだけではなく、朝鮮語ではの円唇のO(甲類)を「┴」、非円唇のO(乙類)「┤」として厳密に区別するのです。朝鮮語をよく知っている人ならわかると思いますが、日本人がこの二つの母音を聞き分け、発音し分けるのは至難の業ですが、朝鮮語母語話者は明確に聞き分け、書き分けることができるのです。
そして、記紀万葉の借音漢字の朝鮮漢字音を調べれば、O甲類には明確に「┴」、乙類には「┤」(少なくとも非「┴」)が現れます。 

 つまり、記紀万葉及びそれ以前の時代に、日本において文書事務をつかさどり、借音仮名で日本語を記述していたのは殆ど朝鮮帰化人(一部は中国帰化人 森博達説)であり、言語的に純粋な日本人が書いたものがあるとすれば、万葉集の中の借音仮名以外の表記法でかかれたものやせいぜい木簡ぐらい、ということになります。

こう考えて大局的に日本語史を眺めれば、
○白村江以前の文書は何故殆ど残っていないか?
●白村江以前には純粋な日本人で読み書きのできる者は貴族しかおらず、文書実務にあたる下級の帰化人書記官の数が少なかったため文書自体が少なかった

○白村江以降、特に奈良時代にはいって記紀万葉・風土記等の膨大な文書が現れるのは何故か?
●白村江の敗戦によって膨大な帰化人書記官が得られた。但し、彼ら一世書記官は日本語が不自由だったため、その活躍は中央に限られていたが、日本生まれの二世や早期の三世は父や祖父から習って朝鮮式の読み書きが出来、日本語・朝鮮語共に母語として話せるため、太宰府はじめ地方の国衙にも送られて活躍した。このバイリンガルの白村江二世書記官達の活動最盛期が、奈良時代前半、記紀万葉・風土記などが成立した時代に当たる。

○奈良時代後半(八世紀後半)から上代特殊仮名遣いは急速に崩壊し、平安時代(九世紀)に入ると殆ど消滅してしまうが、それは何故か?
●奈良時代半ばごろから、バイリンガルの白村江二世書記官達が死に絶えて行き、血統的には帰化人でも日本語しか出来ない(朝鮮語の話せない)三世・四世の世代に移ったため。
また、帰化人がテクノクラートとして優遇されていた白村江以前の時代とは異なり、奈良時代を通じて朝鮮(新羅)を「蕃」として蔑視する傾向が強まって、朝鮮帰化人であることはハンディになりつつあり、日本語に不自由ない二世以降の世代は積極的に純粋日本人と通婚し、生まれた子供には敢えて朝鮮語を伝えようとしなかったものと思われる。

 このように、「上代特殊仮名遣いとは朝鮮帰化人の用字法」と考えれば、国語学・音声学・朝鮮語学・歴史学・社会学どの方面から考えてもこの現象は全く矛盾なく理解できるのです。

 歴史社会学に考えれば、白村江敗戦の結果、日本は朝鮮権益を喪失した代りに、膨大な数(日本書紀に見えているだけでも3000人以上)の優秀な文書事務官が得られ、彼らがその後の律令国家成立を実務面で支えたと言っても過言ではないでしょう。即ち、白村江帰化人の果たした役割はこれまで考えられているよりも遙かに大きく、その証拠が「上代特殊仮名遣い」として記紀万葉に残っているということです。


『上代特殊仮名遣い』
Youyi 2002年3月30日(土) 9:49:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさん、はじめまして。
言語学・日本語学が専門で、現在「上代特殊仮名遣い」を研究している者です。私の研究は渡来人研究とも大いに関係がありますので、ご紹介しご高評を頂きたいと思います。

「上代特殊仮名遣い」とは、記紀万葉の借音漢字(万葉仮名)による日本語表記を分析すると、キヒミケヘメコソトノモヨロ(及びその濁音)の13音が甲乙2種類の漢字で書き分けられているという現象です。
 そこから「奈良時代(上代)日本語には母音が八つあった」と言う説が生まれ、長らくそれが定説になっていました。しかし最近ではイ・エ段音(キヒミケヘメ)の区別は本質的なものではないということがほぼ定説となり、現在はオ段音(コソトノモヨロ)の区別が本質的かどうかを巡って、六母音説と五母音説が対立している状況にあります。
 五母音説とは即ち、奈良時代も現代と変わらず母音はアイウエオの5つしかないという説で、松本克己という言語学者が最初に唱え、現在かなりの支持を集めています。

 私もまた五母音説に立ちますが、私の説は松本説とは全く異なり、簡単にいえば「上代特殊仮名遣いとは朝鮮帰化人の用字法であり、朝鮮語と日本語の母音体系の齟齬があらわれたものであって、日本語は元々五母音であった」というものです。

 渡来人研究の方なら朝鮮語はご存じでしょうが、(現代)朝鮮語には音声学的に基本母音が「├」「┤」「┴」「┬」「─」「│」「┤│」「├│」の八つあります(/ya/や/yo/は音声学的には半母音で母音には数えません)。上代八母音説と朝鮮語八母音の一致、そして記紀万葉が成立した時代は、663年の白村江敗戦以降に大量亡命してきた百済・高句麗帰化人一世・二世が大量に存在した時代である・・・・私の発想の原点はここにありますが、これだけでは単なるアナロジーに過ぎず、頑迷固陋な国語学者達を納得させることはできません。しかし、私はいろいろ分析してみた結果、音声学的に上代日本語が五母音であったという確かな証拠を掴みました。

 現在焦点になっているオ段甲乙音の使い分けに関して、上代特殊仮名遣い研究の先駆者有坂秀世が発見した「有坂三法則」と呼ばれるものがあります。即ち

@同一語幹内に O甲 とO乙が共存することは決してない
A同一語幹内に O乙は Uと共存することが少ない。(即ちO甲とUが共存することが多い)
B同一語幹内にO乙はAと共存することが少ない。(即ちO甲とAが共存することが多い)
松本克巳はさらに@の補足として
Cオ母音のみで形成される同一語幹内には現れるのは原則としてO乙のみである
(O・U・A:オ・ウ・ア母音)

 これらは長らく奈良時代日本語の特殊法則の様に思われていましたが、音声学的に実験してみた結果、現代日本人もまたこれらの法則に基づいて2種類のオ段音を使い分けていることに気づいたのです。

 まずBからいうと、「アオ」「イオ」を発音してみれば、「アオ」の「オ」は円唇化する(唇が丸くなる)のに対し、「イオ」の「オ」は円唇化しないはずです。(わからない方は、鏡を見ながら「アオアオアオアオ・・・」「イオイオイオイオ・・・・」とできるだけ早口で10回繰り返してみればわかります)即ちこの円唇化した「アオ」の「オ」が甲類、円唇化しない「イオ」の「オ」が乙類と考えれば、この法則は現代語から説明できます。

 次にAですが、実は現代語において関西方言のウは円唇母音、関東方言のウは非円唇母音という違いがあり、関西方言の人が「ウオ」というと「オ」は円唇の「ウ」に引きずられてやはり円唇化します(関東方言の人の「ウオ」のオは円唇化しない)。記紀万葉の歌の大半は畿内の貴族が詠んだものですから、やはりこの法則もこの現象で説明できます。

 次に@ですが、上のことより円唇のO甲類はア・ウ段音に接続すると条件下で現れる条件異音、非円唇のO乙類はイ・エ段音に接続する条件下で現れる条件異音です。従って、オ段音が連続する場合にはそういった条件が存在しない為、同一語幹内にO甲 とO乙が共存する道理がないのです。鏡を見ながら、「トコトコ」「ノコノコ」などと発音してみればわかるように、必要もないのにわざわざ唇を動かすバカはいないという法則です。
 そしてCですが、円唇のO甲類と非円唇のO乙甲類を比較してみれば、後者は唇を丸めるエネルギーが節約できるため、ア・ウ段音に接続という条件のないときは、人は発音の楽な乙類で間に合わせるという法則です。これも「トコトコ」「ノコノコ」などを発音してみればわかります。

 このほかにも、子音との関係・アクセントとの関係・強調との関係で円唇・非円唇のOが発生する法則があり、それらを含め、現代人が無意識に使い分けている円唇のOと非円唇のOをそれぞれ甲類・乙類と考えれば、上代特殊仮名遣いについてこれまで知られている事実はすべて現代語から矛盾なく説明できるのです。即ち、奈良時代から現代まで日本語の母音体系は全く変わっていないのです。

現代日本語のO母音が前後の母音・子音・アクセント・強調等との関係で微妙に変化することは、これまで一般人はもちろん、言語学者・国語学者も誰一人気づいていませんでした。


『RE『天皇家と朝鮮半島』』
管理者 2002年3月24日(日) 23:10:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 天皇陛下がそのような発言されたのですか。隣国との歴史もしっかりと勉強されていて、友好的な発言としてうけとれますね。いつもながら情愛深いすばらしい方です。
DNA調査の件は天皇陵にかぎらず、興味深いですね。
渡来系のDNAというのは見つかるのでしょうか。朝鮮系・中国系で現代はDNAや血液型で相違あるようですが、古代においてはどうなのかもきになりますね。遊牧系とかトルコ系とか仏教関係のインド系とかもどう違うのでしょうね。中国でも南と北とではずいぶん違うというし・・・。でも、確かに渡来人がその地域の多くを占めていたところも高市郡とか、百済・狛・・などいろいろあるので、発掘とDNA調査の結果が知りたいとこですね。


『天皇家と朝鮮半島』
足利義満 2002年3月24日(日) 0:51:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信  天皇の68歳の誕生日(01/12/23)に先立って行われた記者会見で、天皇は「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語りました。
 桓武天皇だけではないはずです。少なくない研究者が初期の天皇の多くに朝鮮系、特に百済の血が直接・間接に入っているのではないか、と指摘しているようです。
 これに関連して、当時の日本の支配階級と朝鮮半島の言語は非常に近かったといえるかもしれません(弥生時代以来の渡来で現代の西日本の人の遺伝子は7:3の割合で渡来系が多いとか言われているので渡来開始からあまり時間が経っていない当時がそういう状況になるのは当然ですね)。
 いずれにせよ天皇家と渡来人の関係を明らかにするには「天皇陵」を発掘し、土葬されている遺体のDNA検査をすればすぐにわかることでしょう。
 是非、右翼の皆さんに聞いてほしかったこの発言を報道した大手メディアは彼らが読みそうもない「朝日」のみ。「産経」はどうしたのかな。
 過去を封印しようとする深層心理はいまだに現代日本人の多くに宿り続けているようです。


『書紀の扱いについて』
管理者 2002年3月23日(土) 2:9:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今日は夜になってすこし時間があったので、日本書紀の扱い方について、思うことを「日本書紀についての雑感」とのページを作って書いてみました。しばらく研究からはおいとましてるので、記憶違いがあったら申し訳ないですが、よかったらみなさんの研究の参考にしてみてください!


『RE『初めまして』』
管理者 2002年3月22日(金) 0:11:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こちらこそはじめまして!
渡来人について取り上げられるとのことですね。渡来人関係についても、ホームページで紹介しているように研究領域が広いので、「史部」なら「史部」だけに絞られて研究なされることをお勧めします。調べやすいテーマとしては、資料が少なくて済むということでしょうか。渡来人関係ですと、記紀、新撰姓氏録あたりが基本となります。
記紀だと、応神・仁徳・欽明・天武・推古・持統あたりの記事に渡来人記述が多いです。その記事をさらに絞って
いろいろな視点から何度も巡回的に読みなおしながら、
出てくるものを論文にしてみてはどうでしょう。なお史部については、記紀・律令職員令・延喜式神祇式などが基本になりますが、渡来系以外の史関係についても、触れておく必要があります。渡来系・非渡来系との分類をしっかりなされることが、案外いい視点を提供できるかもしれませんよ。それでは卒論がんばってください。


『初めまして』
小林 2002年3月18日(月) 21:53:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初めまして。いつも興味深く拝見させていただいてます。
私は来年度(4月からですね)4年生になり、卒論で「渡来人」をに扱う事になったのですが、その中から何をテーマにしたら良いか決まりません。もし、よろしければどなたか助言いただけないでしょうか。(史部がいいな〜とか漠然と思ったんですが、どう調べてよいのやら…。他に調べやすいモノがあったらお願いします!)


『RE『歴史ネコ --- 白山神社(神奈川県三浦市)』』
管理者 2002年1月23日(水) 22:44:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 いつも歴史ネコさん、すばらしいホームページ、特に渡来人関連の地域調査について、ありがとうございます。今回は特に以下のところ大変興味深くかんじました。

「山陰から北陸にかけての地方は、たくさんの渡来人が対馬海流に乗って移り住んできた地域です。 当時、白山山麓周辺にも、数多くの渡来の文物がもたらされたことは、この地域の遺跡の出土物からもわかります。
 北陸の白山は、頂上に雪をいただき、白く輝く高山です。 そのため、朝鮮半島から渡海して来る人々にとっては、はるか海上からでも望むことができる山であったでしょうし、印象的なその山容は、航海の際の目標にもなったはずです。」

白山を目印に対馬海流に乗って渡来したとのこと、大変興味ぶかい視点ですね。みなさんもぜひ、歴史ネコさんのホームページご覧になってくださいね。

 
 


『散策準備がんばってください!』
管理者 2002年1月23日(水) 22:34:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 高麗川周辺の歴史と文化の解明から、きっと町々、そして日本文化を見直す第1歩が始まるといいですね、こころから応援しています!渡来人の存在と歴史を真剣に直視すること、それは日本全体が長年直視することから逃げてきた課題であります。渡来人に関連する事柄から逃げることによって、日本は歪んだ文化的成長を遂げているのかもしれません。それは当然隣国との付き合い方にも歪みを生じてきます。自分たち国の歴史をまともに直視できないならば、隣国の歴史・文化についても、どうような感じであいまいにしか理解できないこととなるでしょう。そういう面で西洋文化圏の国々はお互いの歴史文化をどう捉えているのでしょう?とかふと感じます。よい準備ができるといいですね!


『歴史ネコ --- 白山神社(神奈川県三浦市)』
mayagwa 2002年1月23日(水) 22:4:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんにちは。

 「歴史ネコ」というHPを開いている Mayagwa と申します。
 今回、<関東の渡来の遺跡−5>として、神奈川県三浦市の白山神社をレポートしました。

 境内には、とっても愛想よい黒ネコがいます。 また、奈良時代のものといわれる横穴墓があり、中に入ることもできます。
 白山信仰と朝鮮半島からの渡来人との関わりを考えてみたいと思っています。

 ご覧いただければ幸いです。

☆URL:http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/hakusan.html

☆E−mail:rekisi-neko@cat.email.ne.jp



『リトル・ペブルに与えられたメッセージ』
紅雀 2002年1月23日(水) 10:27:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ●◆「日本における聖シャーベル修道会」
( ORDER OF SAINT CHARBEL in JAPAN )
http://homepage1.nifty.com/charbeljapan/index.htm
 はじめまして!皆様は聖母予言をご存知でしょうか。それは20世紀に終わり頃より、天罰によって世界中に火の粉が降り注ぐとした恐ろしいマリア様のメッセージです。今は21世紀、たまたま神様の御憐れみにより苦難は回避されたかのようにみえますが、本当のところは一時的に引き延ばされているに過ぎず、人間に現在がある限り回避することは不可能です。しかしながらメッセージには祈りによって滅亡の危機から救うことができるとも記されています。したがって、いかなる大きな犠牲を払ってでも子供たちの未来のため、世界の将来の為にも私達は神様によって与えられた霊的使命を果たさねばならない、そこで私達は具体的な御旨の実践として日本での「聖シャーベル修道会」共同体設立を目的として、「会則・会憲」「聖母マリアからのメッセージ」などを紹介しています。どうぞ、ただの一度で結構です、私達のホームページを覗いてみて下さい!!

◆有料メールマガジン「箱舟の聖母」5/31創刊号!

 皆様もマリア様を喜ばせましょう。マリア様はあなたの小さな奉仕にも大きな恵みで報いて下さいます。あなたが愛する人の救いのために「箱舟の聖母」を役立ててください。「箱舟の聖母」は宣教誌です。購読しコピーし身近な人にわたすなら、あとはマリア様ご自身が働いて下さいます。そしてあなたの購読料はマリア様の事業を支えます。あなたのマリア様に対する奉仕を神様は永遠に忘れません。
 
メッセージを読み、マリア様の指示に聞き従い、スカプラリオを肌身離さず首から下げ、毎日マリア様に対する愛を込めてうやうやしくロザリオを唱えるなら、あなたが救うのは自分一人ではありません。その愛と、多くの人々を救いたいという望みの強さに比例して、あなたは数え切れない霊魂を悪魔の手から救えるのです。全ての人が、この戦いに召されています。多くの人が応えて、このやさしいたった10分の実践を行なうなら、マリア様は日本を救うことができます。

 日本人の罪に対する神様の正義の罰を、のばし、やわらげ、あるものはとりやめてくださるようにと取り次いでいるマリア様に、さらに力を与えるのも、私達の祈りです。その罰とは、富士山の噴火による数百万人の死、中国の侵略による全人口の60%の死、いくつもの巨大地震、大津波、火山の噴火、凶作と伝染病、彗星による火の雨、放射能汚染と数え切れません。しかも最後には、日本列島そのものが海の中に沈んでしまいます。これらの出来事は目前にきています。

 自分の救いと日本の救いを望むならば、まずあなたがマリア様の戦士として戦い、あなたのまわりの人にも戦士として戦うよう宣べ伝えなければなりません。マリア様には日本を救うために、あなたの精神的・時間的・金銭的援護が必要なのです。 
 
 ・リトル・ペブルに与えられた聖母マリアのメッセージ
 ・大警告・大奇跡・大天罰
 ・今、死ぬ人の95%が地獄に墜ちている!
 ・ファチマ第3の預言はローマ法王庁に改竄されている
 ・ロシアの奉献 
 ・富士山の大噴火と中国の日本侵略、日本列島の海没!日本の行く末を危惧する
 ・紀宮様への聖母のご出現と皇室のカトリックへの回心
 ・間もなく起こる最後の教皇ペトロ二世(現リトル・ペブル氏)の即位
 ・「コホーテク」「ワームウッド」彗星の地球衝突による人類滅亡の危機
 ・リトル・ペブルよりブッシュ大統領に宛てた書簡
 ・聖シャーベル修道会.....etc

( 年間3,000円、毎月1回発行 )
  
お申し込みは下記からお願い致します。また、あなたの実名、実住所が記載されているものに限らせて頂きます。

  E-mail : charbeljapan@nifty.ne.jp
  郵便振替:口座番号00840−3−132438
         「箱舟の聖母」社


◆共同体研修のご案内

 もし私達のホームページ内のメッセージの内容にご興味をお持ちの方で、なおかつ天国へのさらなる奉献を積み重ねたいかたがいらっしゃいましたらどうぞ私達にご連絡下さい。一日当たり3000円で研修プランをご用意しています。 また当直スタッフは常に二人のみしかおりませんのでできましたら、直接お越し頂くよりも、事前に電話等にてご一報くださいましたら幸いです。ご指定の駅までスタッフが車でお迎えにあがります。

  所在地:〒448−0846
        愛知県刈谷市寺横町2−82−3
       「箱舟の聖母」社  TEL/FAX 0566−29−2805

  交通手段:JR刈谷駅下車、県立刈谷北高校近く(詳しくはカトリック刈谷教会等にお尋ね下さい)

※なお私達はあくまで真理を追求し霊魂を研鑚する正統的なカトリックの団体です。クリスマス期間中をはじめここ最近私達に成りすました一部の方による悪質な嫌がらせが続いていますが、万一不審な投稿、メールをご覧になられた場合は法的手段等を行使して全力を以って追跡・追及しますのでお手数ではありますが日時、内容、ソースを明記のうえ私達にご一報頂ければ幸いです。またこの投稿はマリア様のメッセージのお知らせであって宗教勧誘を目的としたものではありません。



『RE『リトル・ペブルに与えられたメッセージ』』
管理者 2002年1月23日(水) 23:56:2 削除・編集


『御返事感謝!』
Wallace 2002年1月23日(水) 8:14:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん御返事有難うございます。
実は来月の初めに同僚の世界史の先生と高麗川を散策してきます。そのために予備知識として現在、渡来人関連の文献を読み漁っているところです。
私自身は英語教師ですが、私の考えとして私達日本人は英語圏文化、言語のみならずもっと基礎とし私達が現在当たり前として享受しているいわゆる”日本文化”の根本を問いただす時期に来ていると感じています。身近な文化からの融合感じることからこそ、西洋文化、西洋言語の特異性を感受できるのだと考えています。


『RE『飯能市、志木市について』』
管理者 2002年1月23日(水) 0:9:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信 Wallaceさん、貴重なご意見ありがとうございます。なんとなくいつも耳にする飯能市、志木市が、渡来人との関係があるとのこと、私も大変興味深く感じました。調べてみますね。特定の地域の町や市とそこに住む人々にとって、その地域特有の文化・習俗の記憶を探り、その事実と向き合うことによって、はじめてその地域の成長の有り方の是非や、無意識になぞとして育ってきた習性を確認し、さらにそこから住民の間でや、隣の町々との癒しと和解が生じ、正しい文化的発展へと修正、成長してゆく糧となっていくのではないかと感じます。ぜひホームページを見てくださるみなさんもなにかお分かりになることあったらおしらせください。



『飯能市、志木市について』
Wallace 2002年1月21日(月) 23:21:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初めてこのサイトを見させていただきましたが非常に
興味深いです!!!
私は埼玉の飯能市で教員をしているのですが隣街の日高市の高麗川と渡来人の関係を調べるうちに同僚の社会の先生から飯能市(はんのうし)はもともと韓国語読みの 
Han(英語のnear近いの意味)Nara(国、ここでいう国とは隣街の高麗川のこと)から来ており昔は”はんのう”ではなく、”はんなら”と発音されていたのが、
今の飯能になったという説と同じく埼玉県の志木市は昔は
新羅という地名だったと話しを聞きましたが、これについて興味があるのですが、どなたか、知っていらっしゃる方はいらっしゃいますか?宜しくお願いします。


『無題』
匿名希望 2001年12月12日(水) 2:10:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 どうも、お返事おくれてすいません、調布・狛江周辺の渡来人について、その人数とかは、わかりませんが、本ホームページの地域情報のところで、「関東」にその情報について過去の書き込みがありますので参照にしてください。
今回氏族別渡来人情報も修正・更新してますので、参考にしてみてください。


『東京の渡来人』
明光丸 2001年12月4日(火) 9:6:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 東京の狛江は、「高麗」に通じます。百済というより高句麗ではないでしょうか。
 その他平塚市や飯能市に「高麗」の地名がありますね。
渡来人の数については、よくわかりませんが。

『ありがとうございました』
K.Nomura 2001年12月4日(火) 21:49:35 削除・編集


『東京の渡来人の居住地について』
K.Nomura 2001年12月2日(日) 23:7:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 東京都の府中市の一部・調布市・狛江市には、百済系の
渡来人が居住していた聞いたことがあるのですが、何人
くらい住んでいたのでしょうがお分かりでしたら教えて
ください、よろしくお願いいたします。


『渡来人と宗教』
管理人 2001年11月21日(水) 22:8:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 明光丸さん、お返事ありがとうございます。仏教と渡来人との影響は、聖徳太子伝説とか弥勒菩薩像など、有名なところから、地方への仏教伝播などいろいろ貢献していますね。中国からの道教思想などについても渡来人との関わりは随所にみられますが、神道についても渡来系技術とその祭儀で使用する器具の作成など、間接的な関わりも見られます。しかし、宗教と渡来人とのつながりを考えていく上では、やはりその渡来人のもっていた神話なり、思想なりをまず確実にしていくことが必要です。各地方でも渡来人特有の思想があると思うのですが、その共通性をつなぎあえわせていく努力も必要ですね。明光丸さんも、そのへん
お気づきもことあったら教えてください。



『渡来人の影響について』
明光丸 2001年11月21日(水) 9:49:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 宗教の影響ですか。難しいですね。仏教、儒教は渡来人の影響があると考えてもいいでしょうね。


『RE『渡来人の影響について』』
管理人 2001年11月15日(木) 11:26:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 野村さん、初めまして!書き込みありがとうございました。渡来人を過大に評価すべきかどうかとのことについてですが、私は基本的に評価というのは、われわれの主観による部分が大きいので、各個人に任せたらと思うのですが、それでも歴史では各時代、現代においても重要な影響を残すような事実があり、必然的にその評価も過大になりがちであります。私は渡来人が文化・宗教・技術など、当時の日本に重要な変革をもたらしたこともあったと思うのですが、もし野村さんが聞いたような天皇家の祖先が渡来人だったり、古事記、日本書紀が渡来人の手で書かれたとするならば、その評価はどうかわるべきなのかと言う点に興味深く感じます。思うに天皇家によって維持された宗教儀式や古事記にみられるような日本人の根底に生き続ける宗教観などが、もし渡来人の強い影響のもとに成立したと実証できるならば、それは当時だけでなく、現代にいたるまでのわれわれ日本人の根底意識に大きな影響を与え、そのことが二次的、三次的にあらゆる文化・技術へと発展していったとするならば、その渡来人が来たことの評価は、過大ではなくても重大であったと言えると思います。しかし、ただ渡来人が製鉄技術をもたらしたとか、文書技術をもたらしたとかいうならば、それは明治維新の欧米文化の
介入程度でしか評価されるべきではないでしょう。別に渡来人自身は渡ってきてもこなくても、文化のみがわたってくればよかったわけです。また渡来人の人口がもし当時の日本人の1割とかであったならば、それは遺伝学的に現代にいたるまでの渡来人の影響ははなはだ大きいというべきでしょう。われわれは遺伝によって、病気で苦しんだり、あるいは才能に恵まれたりすることもあるのですから。
思うに渡来人が宗教をもたらしたというならば、大きい影響力があると思います。そして、その宗教的側面が、二次的、三次的な形で、渡来人の製鉄技術、文章技術などに影響していると確認され、その神道的側面と奈良以前から共通しているのであれば、その実証も可能となってくるでしょう。しかし、製鉄技術、文章技術が、宗教性とは別個に渡来人と存在していたなら、渡来人は技術面でしか当時に影響を与えていないとなり、その評価はしかるべきところに留まるべきだと思います。その相違を研究することが大きな意味をもつのではないかと個人的には思っています。それではこれからもよろしくお願いします。




『渡来人の影響について』
K.Nomura 2001年11月15日(木) 9:35:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信
はじめまして、

楽しく渡来人研究会のHPを拝見しました。

僕は渡来人が縄文・弥生時代の以来の日本の文化・宗教・
技術力の発展に影響を与えたことは認めているのですが
だからと言って課題に評価するのもどうかと思います。

日本の歴史を研究している人の中には、渡来人が日本の
天皇家の祖先であったり、日本書紀・古事記を渡来人が
藤原氏の為に書いたと言うようなことを描述している人達もいるみたいなので


『掲示板変更いたしました。』
管理人 2001年11月13日(火) 21:51:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 いろいろ問題があったこともあり、あらたに携帯電話でも
使用できる掲示板に変更いたしました。今後ともよろしくお願いします。


『11月11日の講演について』
明光丸 2001年11月13日(火) 21:50:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昨日和歌山市立博物館で徳島大学の東潮先生が「大谷古墳と東アジア」という演題で講演をおこないました。
 大谷古墳は5世紀末のもの朝鮮半島南部の玉田古墳にからも類似の馬冑が出土したということです。
 東先生は古代高句麗の研究が専門ということで木村さんに紹介したかったですね。
 特別展は11月25日までです。