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飛鳥・奈良の遺跡探索 11.08.30

昨年に引き続き、今回も飛鳥・奈良方面の遺跡探索をしてきました。春に渡来人研究会でもひさしぶりに会報第3号を出版したこともあり、そこで触れた遺跡を今回は探索することにしました。

当初案内してくれる予定だった飛鳥在住のヒメさんが、近所の葬式で急遽これなくなったこともあり、管理人一人で向かうことになり、いささかアタフタしながら旅にでることとなります。

まず八木西口駅前のホテルを出て、橿原神宮前駅で降りて、藤原京方面へ。途中で日本書紀に出てくる藤原氏の氏社・鷺栖神社へと立ち寄ります。この神社、実は埼玉行田市のサキタマ古墳群そばにもあって、関口昌春氏の著書によれば、そこに第2の藤原京があった証拠のひとつとしてあげているところです。ただ鷺栖坂と記載されたような坂はすでにない感じでしたが・・・・。

それから、すぐそばの藤原京跡地へと向かったわけですが、ちょうど耳成山が北方によく見えるところであり、その北方には平城京、さらに天智天皇陵墓へと続くのであります。

それで、天武天皇が住んでいた宮殿跡地に向かうと、朱雀門の柱列だけが復元されていたので、それをビデオにおさめて、それからそばにある資料館へ。資料館では、藤原京の模型があり、また3DCG映像などを通して、当時の姿を体験できるようになっています。

 

その後バスに乗って、橿原神宮前駅へ向かい、そこから南の飛鳥駅で降りて、さらにタクシーで最近話題の牽牛子塚古墳へ。この古墳は八角墳で斉明天皇陵と看做されているわけですが、実際上ると八角形であることも理解できます。さらに石室も覗くことができ、二つの石棺を入れるための石室構造を垣間見ることができました。

それから、近くのマルコ山古墳へ向かいました。この古墳は六角墳で、一説には川嶋皇子の墓であるとも言われていますが、見た感じは円墳にしか見えない感じでした。

 

 

それからまた飛鳥駅に戻り、北上して大和西大寺で乗り換えて、一路物部氏との関わりが深い富雄へ。富雄駅で降りてから、タクシーに乗って富雄丸山古墳へと向かったのですが、この古墳まったくただの大きな森で、看板も入口もない有様にはがっかりでした。オマケに薮蚊にもさされてしまい・・・。

ただ、この古墳は円墳で飛鳥東南部のマキムク・柳本古墳群の古墳が、北方の佐紀盾列古墳群へと移動する過程で作られた古墳とも言われており、三角縁神獣鏡など、前者の古墳群とゆかりの深い品々が出土しています。一説には物部氏の古墳とも言われており、飛鳥東南部と、物部氏の本拠の枚方の磐船神社を結ぶ中間地点に構築されていることは、渡来人研究会の会報第3号でで記したとおりです。

それからこの古墳と関わりが深いとされる登弥神社へと向かったわけですが、その「登弥」の名称は、物部氏の祖・ナガスネヒコの妻・トミに由来するとも言われ、崇神天皇紀に出てくるヤマトトトビモモソヒメとも関わりがあるといわれている次第です。

 

その後、日が暮れてきたのですが、さらに夜行バスまでの残り時間を駆使して、奈良市北部の上狛に位置する椿井大塚山古墳へと向かいました。ルートは大和西大寺駅から、奈良駅に向かい、そこで近鉄からJRに乗り換えて、木津・加茂方面へ乗ると、すぐに上狛駅に到着します。

そこから、徒歩で30分ほど歩くと椿井大塚山古墳へ着くわけですが、この古墳は丘陵の上にあり、墳長部に登ると、はるか南方に飛鳥・奈良方面、北方に京都方面を一望することができることに気付かされます。

ここから多くの三角縁神獣鏡が出土していることも、おそらくは防衛の要所として、この地を選らんだことは想像に難くない感じです。おそらくは木津川右岸に位置し、漁具を出土していることを考慮すると、水運関連の見張り台としての機能も果たしていたのではないかと思うわけですが、その辺もまた研究会報第4号をご参照いただきたいところです。

こんな感じで、今回は飛鳥から奈良にかけての古墳と宮都を巡ってきたわけですが、時代によってその造営方法や、葬送観念も少しづつ異なっていることが顕わにされてくるのでして、あえて時代のまったく異なる遺跡を巡って、比較体験することによって、より一層のその相違に気付くこともあるのではないかと感じてます。次回は今回迎えなかった高句麗系渡来人の遺跡について取材・報告を予定しています。お楽しみに。 

(記:研究会の管理人)