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青森、山形、栃木 05.9.20〜21、10.2

いよいよ、秋も深まりバイクのツーリングにはいい季節となって参りました。でももう北国は冬間近であり、10月も後半を過ぎると防寒装備をしないとバイクで走るのは大変です。そこで、今回あまり寒くならないうちに青森まで思い切って出かけてみることにしました。

青森の目的地は、最近ふとうわさに聞いた青森キリストの墓です。なんでもキリストが日本に渡って青森に住み、その墓があるというのです。どうもうさんくさい話なのではあるのですが、よくその関連のHPを読んでいくと、その青森のキリストの墓のある戸来(へらい)村には、ヘブライ語らしき民謡や、十字を額や指に切る習慣など、不思議な外来系の伝承があるらしいのです。そもそもある民族の習慣は外れた地ほど純粋に残っているともいわれ、渡来人のルーツについて興味を持つわたしとしても、興味を持った次第でした。

さて、朝10時に東京を出て、そのまま首都高速、東北道に乗り、岩手についたのが午後9時ごろでした。そこで1泊して、あくる日の早朝から東北道をさらに北上して八戸インターまで行き、八戸市内へ入りました。八戸市内でふと気がついたのは新羅神社というところがあることでした。こんなところに新羅??、不思議に思いむかってみました。ついてみてその正体がわかりました。どうも源義光つまり新羅三郎義光の奥州遠征由来しているそうで、この人物と日の丸の起源と八幡神との関連はおもしろいものがありました。以下HPに詳細掲載されていますのでご参照ください。
http://www.yotsuba-net.com/essay/essay1_4.htm

その後八戸市内で戸来村への道のりを聞き、西方面へ山道を潜り抜けて、しばらく走ると戸来村に着きました。戸来村のあたりに来ると、狭い盆地の中に黄色く色づいた田園風景が広がり、なかなかの眺めでした。小高い丘の上 に十字架が二本そびえたっており、それがキリストの墓でした。そのキリストの墓のそばには、キリストの墓伝承館があります。この伝承館で、うさわのヘブライ語で解けるというナニャドラ踊り についての川守田博士のヘブライ語からの解釈や、それへの柳田邦男の反論解釈などについて知ることができました。また、そばには大石神ピラミッドがあるそうで方位石など太陽礼拝所との見解がだされているそうです。縄文人のそれなのか、あるいは修験道者のそれなのか、石の製作年代のあたりが気になります。またすぐ近くに三獄神社があり、この地の起源と深くかかわりそうなので 、さっそくそちらに向かってみました。三獄神社の創建は貞観五年と言われています。その南方数キロのところに西越三獄神社というのもあり、こちらは戸来の三獄神社より50年早く創建されており、広国押武金日尊が祭られているそうです。どちらも、やや小高い岡の斜面にあり、どうも背後の山を信仰しているような雰囲気がありました。屯倉で有名な安閑天皇を祭っているというのは、ちょっと意外な感じですが、この辺も課題でしょう。三獄というと、先日行ったばかりの御岳山の御獄神社もそうですが、山岳信仰、修験道関連のなにかを思い浮かべる名前ではあります。修験道とヘブライ人、意味深な組み合わせのように感じました。

さて、その後岩手に戻る途中で雨に逢い、やむなく岩手一関でもう一泊。岩手の知り合いとも会い、ゆっくり休んでから、翌朝、山形山寺方面へ向かいました。岩手一関から4号で南下して、築館から398号へ西に折れて山形方面へ の山道に入ります。途中、こけしで有名な鳴子で昼食を取り一休みしました。鳴子はまた温泉で有名ですが、まさに温泉神社という延喜式内社がありました。由来は835年に境内南側の森が数日の地鳴りの後、突如爆発し、溶岩、熱湯が噴出したそうで、住民は火山の爆発を恐れ国司に平穏を願い出たところ、朝廷がこの玉造の地に玉造温泉神を祭ったことにあるそうです。そこで山菜うどんを食べ、名産の鳴子を買って、日本こけし館によって、午後3時過ぎ山形方面へ向かいました。47号から山道と通って近道をして尾花沢市から13号で南下して、天童市をすぎて左折すると山寺に着きました。

山寺はすでに閉館間じかでしたが、夕暮れ時のうっそうとした苔で覆われた岩の合間を登っていくのは、芭蕉が「静けさや岩に染み入る蝉の声」と歌った気持ちがよくわか るような気がしました。山道絶壁に立てられた寺院の数々もなんともさすがは仏教の修行場という雰囲気でしたが、頂上の奥の院でひとり静けさの中で平野を見渡しながらぼんやりしているのも、都会の煩悩を忘れさせてくれるいい時間でした。その後 、日が暮れはじめたので下山して、そのまま山形自動車道路で仙台まで東進して、ら東北道に入り東京へむけて南下しました。しかし、その途上栃木で急にバイクが横揺れをはじめたので、高速の路肩に止めて後輪を見てみると、なんとタイヤが変形してパンクしていました。そこで、栃木インターまで行って下車して、近く連れ込みホテルで一人で一泊する羽目になりました。翌朝、近くで聞いたバイク屋さんにバイクを預けて、そのまま東武東上線で東京に向かい仕事に出ました。

さて10月に入り、修理が終わったバイクを栃木のバイク 屋に取りに行くついでに、栃木周辺を巡ることにしました。バイク屋でバイクを取り戻してから、まずバイク屋の目の前に「下野国庁跡へ」という看板があるのに気づき、そのまま下野国庁跡へ田園道路を通って行きました。田園の真ん中に下野国庁跡資料館があります。そこでいろいろ情報を仕入れました。下野国司には、伴善男、菅原道真、藤原秀郷がおり、坂上田村麻呂が立ち寄ったり、平将門が国庁の印と鍵を奪ったともされ、なかなか歴史の舞台となった場所のようです。また近くの薬師寺へは道鏡が左遷されてきたそうです。 また国庁そばには宮野邊三柱神社があり、古来の直会形式をとどめている点で珍しいそうです。

そこから、宇都宮方面へ4号を北上して宇都宮から日光宇都宮道路入って西進しながら山道を進み、日光へ向かいました。日光に入り、まず目に入ったのは、有名な神橋でした。うっすらと霧がかった渓谷にあざやかな赤いアーチ橋がかかっているのは、なんとも絶妙な風景で、すばらしいものでした。そこから日光東照宮を通って、二荒神社へ向かいました。この二荒神社も背後の山を信仰するような感じで立てられておりますが詳細については以下HPをご参照ください。http://www.futarasan.jp/cgi-bin/imgsys/image.cgi?4

そこからさらに急な峠を越えて中禅寺湖方面へ向かいました。こちらにも二荒山神社があり、背後の男体山とのかかわりが深そうです。すでに夜となっていましたが、中禅寺湖温泉街の露天風呂で中禅寺湖を眺めながら、高地の冷たい空気と硫黄ただよう温泉の暖かさの中でゆったりと悠久の時間をすごせたのはまったくもって恵みでした。

その後、宇都宮の戻ったのですが、市内中心部にも二荒山神社があり、日光から宇都宮へかけての二荒山信仰を感じさせられました。そこから栃木に4号で南下していったのですが、どうも眠くなってきたので、またもや連れ込みホテルで一泊してしまいました。なんせ4000円でとまれるので安いにこしたことはないのです。

翌朝今度は栃木市内を通って、唐沢山神社へと西進しました。 唐沢山神社のいく途中北関東最大の前方後円墳である米山古墳があります。その唐沢山神社は、平将門討伐で有名な藤原秀郷が居城したところで、228メートルの山の頂上にあり、そうとう見晴らしのよいところです。頂上の神社からは、関東一円を見渡すことができ、天気が良いと、富士山を眺めることもできるそうです。唐沢山神社の背後の唐沢山は日光の真南にあたるわけですが、その 唐沢山の真南には赤見温泉というところがあります。そこに行くと、弁財天とともに、弁天池という藤原秀郷が作った池があるのですが、どうも多角形できれいな水の湧き出る池でした。そこから南下して富田というところに向かう途中、星宮神社が目に入りました。この星宮神社、下野国庁跡から宇都宮に向かう途上にもあり、岐阜などにもあるそうな。富田では筑波山神社がありました。

そしてそこから、西進して足利市に入り、織姫神社へ。なぜ織姫なのか、それが気になったので行ってみたのですが、そもそも713年の文献にすでに足利織物の記載があり、どうもこの地は渡来系の機織技術が伝わっていたようです。伊勢、朝廷へも献上されており、中国の星辰伝説の七夕伝承との関連で、織姫神社になったのでしょうか。このあたりには古墳群もあり渡来系首長のそれかとも考えられているそうです。詳しくは以下HPで。http://www.watv.ne.jp/~a0284/city/orihime1.htm
この地から室町幕府を立てた藤原秀郷流の足利氏が出たのも不思議ですが、関東一円を見渡せる背後に山を控えた小高い場所は、唐沢山の居城同様武士の拠点にはいい場所だったのかもしれません。ともかく最後にようやく渡来人との結びつきが出てきて、一安心ということで、後日もうすこし深くその辺調査分析してみようと考えています。とりあえず今の段階でわかってきていることは、今回泊まった母方の先祖の地である一関弥栄村からキリストの墓そばの西越御獄神社までは141度15分の南北レイライン上にあり、山寺から先日行った父方の先祖の地田村郡葛尾村が140度30分の南北ラインであります。、日光から唐沢山→赤見の南北ラインは伸ばすと今すんでいる私のアパートのすぐ近くを通っていくんですね。先祖がレイラインの作成に携わっていたようでありますが、今の私にも、レイラインは深く因縁があるのでしょう。