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 06.8.21〜25 北海道ー若狭ー石川探索 

先の韓国探索の最中に、祖父が逝去した関係で、お盆は北海道の実家へ戻ることとなりました。そこで、この際、北海道の歴史探索もアイヌ文化とのかかわりで捉えてみることにしました。16日昼自宅を出て、大洗に21時半に着き、夜23時59分発のフェリーで、茨城から北海道は苫小牧に向かいました。苫小牧というと、そう最近甲子園を沸かせている駒大苫小牧のところです。太平洋岸を航行し17日夜21時に苫小牧に到着。それから自宅に戻りました。その後祖父の供養と、親族の婚姻のお相手にお会いして、用事を済ました後、20日から、アイヌ文化探索に乗り出しました。

海からの風景→視聴

 

21日

21日は、ちょうど父母が車で祖母の介護関連で出向く用事があり、その車で道南のアイヌ文化の一大拠点である白老に向かいました。道南の太平洋岸は、北海道でも暖流が流れており、雪も少なく比較的すごしやすいところで す。そのこともあり、アイヌも多くすんでいたとのことで、白老には白老ポロトコタンという、アイヌ民族の文化や歴史を総合して体験できる施設があります。アイヌの狩猟の道具や、丸木舟なども興味深いのですが、アイヌ方言の中に、神=「カムイ」とか、男=「オッカヨ」 女=「メノコ」 父=「ミチ」 母=「ハポ」 祈り=「カムイノミ」 ・・・という、日本語の基礎単語にいくらか類似性が見出されるものがあったのもきになりました。また逆に国=「モシリ」 村=「コタン」など、日本語とは似つかないものも、やはり比較していくことが重要だと感じます。知里氏のアイヌ語辞典を購入してきたので、後日分析してみたいと思っています。

そのアイヌ民族博物館にてアイヌ文化の歴史と遺物を見学した後、3時からちょうどアイヌの方々による文化説明や歌・踊りがなされるとのことでしたので、さっそくそばのチセと呼ばれる住居に入りました。

黒と赤の四角い紋様のアイヌの衣服を着て、白ひげと長く伸ばしたアイヌの方から、アイヌの生活から、習慣、信仰、言語と北海道の地名とのかかわり等のお話を聞いた後、アイヌのムックリや琴による演奏、アイヌ民謡を聞きました。ムックリという単一弦を口ではさんで演奏する楽器の音色は、マイクを通してきれいにスピーカーから聞かせていただきましたが、まさにシャーマニズムの世界を彷彿させるものであり、その女性奏でる弦の音色が、高く、早くなっていくごとに、魂の抑揚が感じられる、そういう特殊な体験でありました。アイヌは、自然の神々を信仰の対象としており、神のことを「カムイ」と呼ぶそうで、天国や地の下の国と いう、世界共通の観念をやはりもっているそうです。アイヌの文化は中世以前の縄文文化から、鉄器が12,3世紀の導入されて、それ以降擦文文化となり、稲作が導入される近世まで続いたそうです。鉄器の導入には本州から持ち込まれた説などいろいろあるそうですが、またアイヌ文化を考える上では、サハリン方面からの山丹貿易の影響も考慮しなければなりません。

アイヌ・ムックリ演奏→視聴 アイヌ民謡→視聴

中国から東北方面の諸民族に下賜された衣類などの諸品は、東北方面から、黒竜江沿いに、サハリン方面へ向かい、さらに北海道の日本海側をとおって、渡島函館方面や東北秋田方面 へ舟をつかって持ち込まれ、日本人にその中国の品々を商売したり鉄器と交換することによって、アイヌ民族は利益を上げていたそうです。また東北奥州藤原氏なども、当地の鉄文化ばかりではなく、それらの交易で利益を上げたことが発展に影響したとの可能性も指摘されているそうです。ですから、これらの山丹交易の影響もアイヌ文化を考える上で重要です。

さて、また個人的に興味を持っていたのは、最近DNAで掲示板で話題に上っている人種的な形質についてがありました。アイヌの中にも数種類の系統があるそうですが、ひげや彫が濃い顔立ち、やや大きめな頭部などの特徴は、聞いていたとおりでありました。最近の学説だと、中国南部から中国を北上していたモンゴロイドが、50万年くらい前に、中国東北部にて分岐して、東北へ向かいサハリン、北海道方面へ渡ってきたのがアイヌ民族の祖先とのことであります。東北方面で、西北方向に向かったモンゴロイドとは、別に東北方面へ向かったモンゴロイドがアイヌだとすると、確かに南方モンゴロイド独特の唇の厚さや眉毛の長さなどが、今のアイヌの方々にも確認できるように感じました。逆に西北方面へ向かった細く切れ長の目や彫の浅い特徴は見られないことも、確かです。全体としては寒冷適応して体毛が長くなったりしてはいるものの、確かに南方モンゴロイドの特徴を多くもっており、肌もやや茶色っぽく白くはなく、その名残が見えるような気がしました。いわゆる縄文人の形質ともやはり類似性を感じたことも確かですが、どうなのでしょう。

その後、西進して室蘭を超えて、伊達市の善光寺に向かいました。善光寺は蝦夷三官寺と呼ばれ、826年 の創設伝承を持ち、中世から松前藩等により再興された由緒あるところでした。寺院内に有珠郷土館があり、釈迦如来大仏には、帽子をかぶっており、その姿はアイヌの同様なとんがり帽子をかぶった婦人像と類似したものであり、色濃くアイヌ文化を反映したものだそうです。善光寺裏手の公園には、さまざまな大岩や、アイヌの復元住居などがありました。

 

22日

雨が降ってきて、車で来て正解だったと感じつつ、帰宅。22日は、バイクでフェリー乗り場のある小樽に向かうことになっていたので、昼間は日本海側の小樽、余市、積丹方面を巡ることにして出発しました。

小樽には手宮洞窟という4,5世紀のものとされる壁画が描かれた洞窟があります。あいにく月曜日は休館日で中に入れなかったのですが、近くの小樽市博物館にてその実物大模型をみてきました。この壁画には羽のある人や角のある人など数十もの画像が描かれており、トルコ方面の語ではないかとかいう説から、さまざまな解読例が挙げられてきたそうです。同様な彫刻は東隣の余市のブゴッへ洞窟にもみられ、現在はシベリアアムール川周辺に見られる岩壁画との関係が指摘されており、いかにサハリンからこの小樽、余市にかけての海路が大陸とのつながりで重要な拠点であったかがわかります。

その後余市に向かい、ブゴッヘ洞窟を通って、近くの丘の上にある西 山ストーンサークルを見てきました。このあたりには80を超えるストーンサークルがあるそうで、お墓として石を環状に置くという習慣があったもようです。

この余市は、また古代史面では斉明朝に蝦夷遠征に向かった阿部比羅夫が、北海道の(後方羊蹄)シリベシに造ったとされるシリベシ政庁のあった場所との説が出されているところであります。このシリベシのありかについては、津田左右吉をはじめさまざまな学説が出されてい ます。政庁跡が出てきているわけではないので、なんともいえませんが、確かに積丹半島の東側の湾に位置する古来からの重要な拠点であり、北はサハリン方面からの舟が積丹半島に出くわす際に、必ずこの余市に寄港するはずであり、アイヌ人は6世紀代にも多くすんでいたはずであります。シリヘというのは後方の意味で、羊の蹄(ヒヅメ)という意味は、確かに積丹半島という「ヒヅメ 」の尻尾にあたるこの地に、適した名前ではあるのですが、はてさてどのような真実が隠されていたのでしょうね。

その後はその積丹半島を北上し、神威崎という観光地へ走りました。4,50キロ海岸沿いを走ると、その木が生えていない草原のなか、風が強く吹くその岬はあらわれてきます。断崖の岬から眺める海の色は、大変透明度が高い青で透き通っており、かつては女性禁制であったとされるアイヌ信仰の拠点だったようであります。大変神秘的なところ、ぜひ北海道へ来られた際は訪れてみてください。

 

23日

夜は小樽にもどり24時発のフェリーで一路日本海を南進して若狭は舞鶴へ。フェリーというのは比較的安い乗り物で、舞鶴→小樽間でさえ、片道1万円程度、バイクを載せても2万円前後で収まります。飛行機は2〜3万前後ですから、割安であります。風呂、レストラン、ゲームセンターから、マッサージルームまで 、ありとあらゆる設備があるので、そこそこ暇もつぶせますし、デッキの外でビールを飲みながらはるかにひろがる海に沈む夕日を眺めるなんているのも、ちょっとした魅力ではありますね。日本海航路では、能登半島北部や、若狭近くになると白山が見えてきて、新羅の舟が白山を目印に航海してきたという伝承をそのまま体験できることも、フェリーの楽しみ方のひとつだと思います。

さて、舞鶴に21時ごろについて、そのまま東舞鶴のビジネスホテルへ。夜は東舞鶴で一番安いという飲み放題2000円のところで、いろいろ舞鶴の京都なまりの女の子たちから地元の話を聞いてご満悦?でした。

 

24日

朝は舞鶴の自衛隊の艦船と有名だそうな赤レンガ倉庫を横目にみながら、道すがら目についた三宅神社へ。なぜ、古来から重要な軍港であったろう舞鶴に、三宅の地名が残っているのか、屯倉軍事拠点説を考える上では欠かせない場所であろうと感じました。

その後、若狭湾、丹後半島を北上して、掲示板でも話題になっている海部氏系譜の残る籠神社方面へ。途中、和江というところで、和江神社と和江国分寺跡地に寄りました。山椒大夫の伝説で有名だそうです。そこからさらに北上して、宮津市に入り、天の橋立のそばにある宮津市歴史資料館に行きました。天の橋立の成り立ちから、海部氏系図、籠神社に保管されていた辺津鏡こと内行花紋鏡、京丹後出土の青龍三年(235年)銘の記された方格規矩鏡、福知山出土の景初四年(240年)銘の記された盤龍鏡など、古代史を揺り動かしてきた貴重な品々をみながら、この地の海部氏と大陸とのつながりを考えさせられました。

その後知恩院に寄って、そばでみかけたカトリック岩滝教会で祈ってから、いよいよ籠神社へ。籠神社は、若狭湾ののどかな海岸沿いにあり、伊勢神宮の元宮として有名なところです。海部氏の祖倭宿禰も祀られており、由緒ある神社でした。神社裏山には真名井神社があり、バイクで上って少し行くとそこに着きました。実にすがすがしい気分になるような、森林の中の清涼な雰囲気漂う場所で、真名井と呼ばれる井戸水もまたこころを清めてくれる、そんな感じのよい水でした。籠神社近くの砂浜で、天の橋立の不思議な風景をみながら、のんびり空を眺めて、ぼっーと昼寝をするのは、都会のせわしさを忘れさせてくれる、ちょっとよい時間でありました。

さて、籠神社を後にして、そのまま海岸沿いを北上していくと、伊根湾という漁港につき、そこから内陸へ入り178号線で北上していくと、浦嶋神社が見えてきました。どうも浦嶋太郎の像がおいてあるので、浦嶋伝説と関係あるのかと思い、立ち寄ってみました。するとちょうど神主さんが資料館の和室で、なにやら講話をされているようなので、一緒に聴いてみることにしました。浦嶋伝説の成り立ちから、当社縁の貴重な品々まで、30分くらい講話していただき、大変勉強になりました。神主さんによるともともとは浦嶋太郎伝説は、海の 底の竜宮城へいくのではなく、中国道教思想で海の彼方にあるという扶桑の国に行くことが設定されていたそうで、道教的な影響も受けているとのことでした。また全国数ある浦嶋伝承を残す拠点のうち、海を渡るという伝承が残っているのは、この浦嶋神社ほか3つの拠点だけであり、大変古いものであること、浦嶋伝承にある不老長寿の話など道教的な思想は、また道教独特の北辰信仰や鉄信仰とのかかわりがあるとのことです。浦嶋神社は古来から宇良神社と言われ、裏山からも鉄遺跡が出てくるそうで、鉄文化とかかわりがあるようです。そのほか、浦嶋縁起の絵図や、鏡、玉、文書などいろいろ見せていただき、大変貴重な講話に預かったことは感謝でした。

その鉄とのかかわりについては、フェリーの中で、さらに丹後半島の内陸に、弥栄という地名があることに気づいていました。この弥栄は一関の祖父の実家の地名なのですが、先日の調査でホロハ山にうちの祖父方の姓の神社があり、どうも一関で有名な製鉄と関係があるらしい、レイラインともかかわりが深く、弥栄信仰も八坂信仰と関係しながら、製鉄拠点となんらかのつながりをもっていることがわかっていたので した。そこで神主さんについでに弥栄と鉄とにかかわりがないかお尋ねすると、弥栄村には3世紀〜12世紀に渡って、出雲の鉄を上回るほどの製鉄拠点が出土しており、縁所遺跡というとのことでした。そして、そこへ行くには、丹後海岸通りが通行止めになっているので、内陸道路を使うべきことをお教えいただき、大変お世話になりました。

そこで、内陸道路を通って、弥栄村へ向かいました。途中碇山から丹後の海を眺め、細川がラシャの隠れ地への道路もあり、のどかなところでしたが、大宮神社のところで、縁所遺跡への道を聞き、あじわいの里というところにある縁所遺跡へ。すでに元に埋め戻されておりましたが、その写真をみると、多くの横穴があけられた相当な規模の遺跡であったことがわかります。

そこから北上していくとすぐ琴引浜につきます。この琴引浜は砂浜を歩くと「キュ」っと音が鳴ることで有名ですが、わたしもさっそく歩いてみると、最初は鳴らなかったのでショックでしたが、海のほうにさらに近づいて歩いてみると、どういうわけか音がなり感動。ビデオにとってきたので、ぜひそちらをご鑑賞ください。

琴弾浜ビデオ→視聴

その後、網野、豊岡へ向かい、豊岡から内陸へ426号に載り、出石神社へ。この出石神社は、かわかつさんのHPで知ったのですが、新羅の皇子天日槍を祀り、彼のもたらした八つの神宝を保管しているところであります。さすがは日本海文化圏、新羅と海との文化が色濃く残っているところに歴史を感じます。

ここで夕暮れとなり、福知山を通るころには日が暮れてしまったので、福知山の古墳群はまた後の機会として、そのまま京都縦貫道を通って、若狭湾は敦賀へ。

敦賀につくころには真夜中になっており、敦賀の気比神宮へは門前で写真を撮って、そのまま石川へと向かうことにしました。門前でバイクのライトをつけて由緒の写真を撮ろうとしていると、携帯電話のバッテリーがなくなり、電池交換してもうまくいかずあたふたしているうちに、なんとバイクのバッテリーがあがってしまい、エンジンがかからなくなってしまいました。これは参ったなと思っていると、おじさんが出てきて、そばの消防署でエンジンかけてもらったらというので、神社前の消防車へ。消防署の方も、車のエンジンはかけたことがあるが、バイクは電圧がわからないので、どうなるかわからないとのこと。12ボルトと24ボルトがあるけど、バイクのはどちらかわからないので、壊れても保障できないよとのことで、どうしようかとおもいましたが、思い切って12ボルトの電圧機器で、バイクのバッテリーにプラグを差込み、エンジンをかけてみることに。しばらくはかからないままでしたが、すこし時間をあけてバッテリーが充電してからかけてみると、ちゃんとかかってくれたのは感動でした。消防署のみなさんありがとうございました。今からではすでに石川に向かうのは遅すぎるので、七尾のホテルはキャンセルして、敦賀市内のホテルを探して泊まることに。そのまえに、気比神社にはご挨拶をして、いろいろ市内でホテルを探したものの、どうにもホテルひとつ見つからず、ちょっとパニックに。こうなると、石川は七尾市のホテル井田屋さんが、とりあえず来た時のために、部屋の鍵を置いておいてくれるとのことだったので、思い切って七尾市に向かうことにしました。

北陸道を北上して、福井、金沢を抜け、そこから、能登半島を北上して、ひたすらまっすぐに直線道路をバイクで2時間以上走って、2時半に能登半島中部東海岸に位置する七尾市に着きました。そして駅前の井田屋さんへ。フロントに鍵を置いておいてくださ り感激。風呂に入って睡眠できることにひとしお感謝を感じました。井田屋さんありがとうございました。

25日

朝は七尾市からすぐ隣の、まず父方の祖母の母の出身地である和倉温泉へ向かいました。和倉温泉は大変古くから格式高い温泉街だったそうで、その祖母の母も大変厳しいところで育ったとのことでした。平氏の落人が多く、伝承が多く残されているそうです。街中には市 杵島姫を祭る弁天社と、その近くに少比古那神社がありました。少比古那神社に着くと、声をかけてくるおじさんがいて、いろいろ話をしているうちに、どうもこの辺十 数箇所の神社の管理をしている方だそうで、大変早口で気さくな方で、目的地だった白浜の白比古神社へ、案内してくださるとのことでした。その方もあまりよく知らないほど隠れた神社だそうだったのですが、電話連絡などをしてくださり、スクーターで案内してくれるのを追っかけて行きました。さすがは元バイクに乗っていただけあって、追いつくのが精一杯、するするっと田鶴浜のきれいな海岸沿いを越えて、神社まで案内してくれました。海岸沿いからすこしはなれた丘にある白比古神社、かつては新羅神社と呼ばれていたごとく、少比古那、ツヌガラヒトと関係しながら猿田彦を祭っているとのこと、いかにもという感じですが、その方によれば渡来系の地名もこの辺は多いとのことでした。大変早口で動きのすばやい方で、最後にご挨拶に渡来人研究会の 名刺をお渡ししようとおもっていたら、するするっとスクーターに乗って駆けていってしまわれたので、はてさてなんとも少比古那神のような人だと感じました。(少比古那神は、古事記 によると、するするっと大国主を助けにあわられて、国づくりを終えるとすぐに船で帰ってしまったという不思議な伝承を持っています)

それから、その方からお教えいただいたやや北方にある中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社へ向かいました。渡来系の色濃い祭りが残っているとのことだったのですが、まったくそのとおりでした。ツヌガラヒトと 関係するアラカシヒトを祀っているとおり、渡来神を祭っているのですが、そばに能登中島祭り会館という施設があります。この会館では、当地で9月20日に行われるという、多くの巨大な旗ざおをかざして、猿田彦面をつけた行列などが行進するという、とても盛大な祭りの様子を、人形や写真、ビデオ映像を案内してくれています。その旗ざおの形や行列の行進などは、いかにも朝鮮の旗竿祭祀の原型をとどめているようにも見えました。この中島町では、新羅斧なども出土しており、この能登半島中部には、新羅方面から海流に乗ってくる渡来人たちが織り成す、京から離れた能登半島独自の文化が花開いたそうで、そのことは、今回の石川探索でも新羅系の神社が多く残っていることを考慮するとよく理解できました。

この中島町にもうひとつ興味を感じていたのは、レイライン(仮称)の関係です。今回の探索の前に、出雲→新潟石舟→一関弥栄という、創刊号で触れているレイラインについて考えていたのですが、出雲と新潟石舟間には、石川県能登半島を通過しているのでありまして、その能登のライン拠点候補として、和倉温泉を実は考えていたわけでした。ただ、実測では和倉温泉よりやや北方、穴水より南方にラインが通過するはずなので、ややずれを感じており、おそらくは和倉温泉北方に、ライン拠点があるはずと考えていたわけです。そこでこの新羅系とみられる中島町の神社あたりを教えていただいたとき、ピンときたのですが、確かに今 電子地図で調べてみても、中島町あたりを出雲→新潟石舟神社ラインは通過していることがわかります。このラインが物部氏と関係すること、ヤマトタケル伝承にも関係することは創刊号で記したとおりですが、新羅系の渡来人、海人関連でも捉えることができるのではと感じています。フェリーに乗っているとわかるのですが、まったく海しかない視界においては、太陽だけが方角の支えであり、正確に航海を進めるためには、正確な地図とラインを測量しなければならないというのも確かですね。支配拠点とともに、地図測量の拠点としてのライン、このラインの研究は、やはり現在の日本古代史では研究対象外ですが、今後はやはり真剣に捉えていくべきではないかと感じます。

その後は、東京で夜勤があるので、今回の探索はここまでとして、一路糸魚川、直江津から長野を抜けて東京方面へと戻りました。

 

今回の探索では、北海道から若狭、能登へと、主に日本海航路沿い各遺跡を探索してみました。北海道ではアイヌ文化と和人文化、東洋文化との比較、触れ合いについて勉強し、若狭、石川では、新羅からの渡来人を中心として、朝鮮から日本への日本海文化圏における交流のあり方について、多くを知ることができました。そして、その中で鉄文化やレイ?ラインなどがどのように重要視されてきたかなど、渡来人研究会で研究してきた課題に多くのヒントを与えてくれるものであり、今後もこの日本海文化圏の研究を進めていくことが重要だと感じています。今回の探索でお世話になったみなさんにあらためて感謝いたします。