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06.7.10〜23 九州・韓国探索 

今回は、かねてより念願だった九州・韓国のほうを探索して参りました。9年ほど前にまだ学生だったころ、九州は大宰府から熊本にかけて、そして韓国はプサン・慶州・テグ方面は一度行ったことがあったのですが、今回はそれ以来の訪問となりました。

そもそもは、数ヶ月前から10日から14日まで屋久島で、勤め先関連の仕事の予定があり、また20日から23日までのカトリックの青年対象の大集会に、韓国人の友人からお誘いを受けていたことがありました。14日に東京に帰り、再度20日に韓国に行くのも、旅費を考えると無駄が多いので、思い切って屋久島から九州を縦断して、さらに北上して韓国にフェリーで向かうという、大計画を実行することに決めました。

かねがね大分のかわかつさんの地元や、渡来人・秦氏の本拠豊前地域も訪れてみたかったこともあり、九州ではかわかつさんにご案内を頼むことにしました。ちょうど九州については、研究会創刊号でヤマトタケル遠征のレイ?ラインについて触れていたこともあり、そのライン上に出てくる宇佐神宮や、日向方面を探索する必要がありました。さらにヤマトタケル伝承と表裏一体の関係にある景行天皇の九州熊襲遠征伝承の遠征経路も、調べてみる必要があることに気づくにあたり、いよいよ行ってみたくなりました。

そこで、九州は鹿児島から宮崎、高千穂経由で、大分、宇佐、福岡へと、その伝承経路のご案内をかわかつさんにお願いしました。またその後、韓国へはフェリーで向かうことに決めましたが、以前に下関→プサンをフェリーで行っていたので、今回は、博多→壱岐→対馬→プサン経由も考慮に入れて旅を進めることにしました。

韓国については、以前ゼミで釜山、金海、高霊といういわゆるカヤ地域の博物館や遺跡は巡っており、慶州も仏国寺などは見ていました。そこで今回は、まだ訪れていない韓国西部、百済方面を探索してみることにしました。ちょうど2日に韓国に詳しいおおたさんが、東京にこられる用事があるとのことで、とみたさんとともに、上野の国立博物館で待ち合わせして、韓国のお話をおおたさんにお聞きすることができました。そして、おおたさんから、ご友人の韓国の白さんをご紹介していただけることになりました。その後、白さんにソウル方面をご案内いただくこととなりました。仕事のほうも、上司から長期休暇を取る許可をすんなりいただけたこともあり、10日までになんとか、仕事をこなすこともでき、いよいよ大イベントへと出発することとなりました。

改めて皆様のご協力にここで感謝を申し上げます。  

(飛行機からの映像→視聴 ※QUICKTIMEプレイヤーが必要です。プレイヤーのダウンロードはこちらから。)

10日〜14日 屋久島

10日は朝、羽田を出発して、鹿児島経由で、飛行機で屋久島に到着。屋久島では、上司の知り合いの方のお出迎えがあり、その方の家に4日間泊まらせていただきました。今回は、障がい者である上司の介護をかねて、屋久島各地を訪問することが目的となっておりましたので、4日間、車で各地をご案内いただきました。

屋久島については、あまり予備知識がなかったのですが、日本書紀を調べてみると、屋久島人が種子島人とともに、白鳳天武17年に朝廷で禄を賜っており、また中国の書物『唐会要』にも、ヤコ(屋久島?)の王、タネ(種子島?)の王、ハヤ(隼人?)の王が見ええいることがわかりました。

また、屋久島については、創刊号でも掲載した西域から来たトカラ人の故郷として考える説があり、その屋久島の風景をみておくことは、トカラ人研究においても、欠かせないことでありました。屋久島の位置については、南から、奄美大島→トカラ列島→屋久島・種子島→鹿児島という並びにあり、そのトカラ列島との関係も、トカラ人を考える上で重要です。

そもそも創刊号では、斉明朝のとき、西域のトカラ人が西海から日本に渡ってくる際に、奄美大島に漂着し、さらに日向にも漂着、筑紫経由で、飛鳥の都まで送られ、そこで、インドの舎衛人の妻とともに歓待を受け、どうも飛鳥池に残る須弥山石や、石人像の作成に深く関与したらしいことが、明らかになってきていました。

そのことを踏まえたうえで、屋久島の風景を見てみると、屋久島という島は1900メートルを越える山々が、円形の島に聳え立っている構造となっており、海岸部から一気に山間部へと急な傾斜をせせり上っていくような構造であります。そのため、屋久島は、海岸部から山頂にいたるまで、南洋植物から、北方にしかみられないような植物まで、多彩な自然を見て取ることができ、そのことが、世界遺産として屋久島の自然が登録された理由だそうです。

実際、急な坂道を車で登っていくと、シダ科の植物から、屋久杉で有名な杉林など、多くの自然の変化を見て取れます。特にその急な山並みは、ちょうど飛鳥の須弥山石の山の姿に、どことなく似ていることがあり、その須弥山石のモデルをここに見出すこともありうるかなとも感じました。須弥山石は三段に重なった構造になっているのですが、屋久島の三岳のうち奥岳の頂上にも、似たような丸っこい数個に分裂した石が散在しており、またその岩と岩とが重なってできる隙間の岩陰に祭祀を祭るという形態は、岩陰祭祀ともつながるところがあります。その辺は宮之浦の屋久島環境文化村センターで屋久島の自然、文化、祭祀等について、紹介されていますので、ぜひ屋久島に行かれた際は立ち寄ってみてください。

この三岳は焼酎でも有名ですが、修験道のメッカとしても有名なところだそうです。その屋久島の山道では、猿や鹿が多く生息しているのが見て取れて驚きだったのですが、飛鳥の石造物の中に、猿石というのがあり、舞楽を舞う人像とは別に、猿のような男根を曝け出した石像が多くあるのも、あるいはこの猿の影響かも??とか感じてしまいました。

また屋久島には、春から夏にかけて、大きな海亀が、産卵のために浜辺に卵を産み付けにくるそうで、それを見に行く話もあったのですが、その亀の姿は、確かに飛鳥の亀型石像物の亀のモデルとしても、どこかしら結びつきそうな感じがしました。今後のトカラ人研究には、屋久島の風景は重要な意味を持っくるのではと感じています。

屋久島では、宮之浦に宿泊したのですが、宮之浦は屋久島の北部では、大きな港であり、海岸沿いに、益救神社があります。昔は液久神社とも書いたそうで、山幸の伝承が残っています。屋久島東部には、また安房という地名の港があり、安房というと、房総半島の南部の安房を思い出すのですが、何か関係あるのではと感じます。

15日

14日に鹿児島空港で上司たちとお別れして、その後鹿児島市内の「焼き鳥鍋島」で、盲目のミュージシャンの方とお会いして食事をしたのち、鹿児島駅から隼人駅の隣の国分駅で降りて、国分シティーホテルにタクシーで向かい宿泊しました。このホテルはそばに温泉があり、回廊でつながってます。露天風呂もあり、黄色っぽい水質の温泉は、また古来から有名な湯とのこと、すばらしい朝風呂を堪能させていただきました。

朝はホテルを出てから、ひとつ山を越えたところにある韓国宇豆峰神社へ、タクシーで向かいました。この神社は、続日本紀によると、714年に大分は宇佐神宮から、はるばるこの地の隼人を教導するために、韓国神とともに四百戸が移住させられたことに起源があるそうです。そのウズの発音については、以前かわかつさんもご指摘されているとおり、秦氏のウズマサ→太秦との関連で重要な意味を持っていると感じます。ウズの発音がすくなくとも、714年以前に遡る可能性を示すものでしょう。

その後、そのままタクシーで祭りの雰囲気している隼人町に向かい、鹿児島神宮へ。この鹿児島神宮では、隼人舞が旧暦の7月15日、現在は10月に舞われるそうで、古来飛鳥の朝廷で舞われたと多く記載される隼人舞、ぜひいつか拝見したいものです。

その後、隼人塚とそばの隼人塚資料館に向かいました。隼人塚については708年もしくは720年の隼人の反乱の後、宇佐神宮で隼人の霊を慰めるためにはじまった放生会が、鹿児島神宮に伝わり、祭りの神輿が隼人塚に立ち寄った際に、供養の儀式を行ったとされることがあるそうです。石塔自体は1000年代のものであろうとのことです。そこで宇佐神宮のほうに隼人の首塚があるとのことを聞き、いよいよ隼人と朝廷、そして宇佐神宮との係わり合いのあり方が、興味深く感じました。

個人的には、先の宇豆峰神社の宇佐からの派遣の年代と、この隼人塚での供養伝承というのが、年代的にどのくらい接近してくるのかが、気になってます。また隼人の盾などを資料館で拝見していくと、南方のマレーシア方面とのつながりが見えてきて驚きです。隼人町50周年記念の隼人サミットでの講演・シンポジウム録も資料館にあり、大変勉強になりますので、ぜひ訪れた際にはご購入してみてください。

その後、電車にのり、霧島神宮駅で降りました。霧島神宮駅から、霧島神宮へは、数キロの山道を越えていかねばならず、バスも乗り合わせがなかったものですから、そのまま断念して西都原古墳へ向かおうと思いました。ところが、タクシーの運転手さんが、熱心に勧めてくるので、とりあえず霧島神宮の古宮跡までタクシーで3000円かけていってみました。

神宮は噴火で最初の頂上の場所から、今回訪れた古宮跡へと移り、さらにその後、現在の神宮の場所まで、降っていったそうです。その古宮からは、高千穂峰への登山口があり、背後に大きな二つの山をつなぐ峰を望むことができます。日本書紀を開いてみると、ニニギの尊が日向の襲の高千穂の峰に、降り立って、串日の二上の天の梯子から浮島の平らな土地に降り立って、最後に阿多の隼人の本拠に向かうことが記されています。この高千穂峰のことを言っているようで、その二上の梯子というのが、この古宮跡からみえる、二つの山がつながっていて、はしごのようになっている感じを、もしかしたら表現していたのかなとか、眺めていて感じました。

この場所で、日本書紀を開きながら歩いてみる、いい経験になりました。書紀の伝承を記した編者はきっとこの風景をどこかでみたのだろうとなと、現場に行ってしみじみ感じさせられるもので、霧島神宮へ向かってよかったと感じます。  古宮跡からの風景(ビデオ→視聴

バスで霧島駅に戻ってから、霧島駅そばのお蕎麦屋さんで、独特の太めで角の丸いうどんをご馳走になり、そのまま宮崎に向かいました。さすがは南国宮崎、日差しが強烈で気持ちいいくらいでしたが、その宮崎からは、バスで西都に向かい、西都からタクシーで西都原古墳群へ向かいました。

西都原古墳群についたときは、まだ夏の日差しは大変明るかったのですが、すでに6時をまわっており、自転車を借りることができませんでしたので、徒歩で広大な古墳群を巡ってみました。

3世紀の前方後円墳から7世紀の横穴墓にいたるまで、多くの古墳が散在しているのですが、鬼の窟古墳はやはり目にとまりました。横穴式石室をもつ円墳の周囲を円形の壁が取り囲んでおり、異様な形態をしているのには驚かされました。

3世紀代とされる13号墳なども、そうとうな規模でこの地の首長の力を感じたわけですが、後円部が、前方部にくらべて、はるかに盛り上がっているのは、九州にきて初めてみた形で、特徴的だなと感じました。聞いた話では、最近のニュースでもっとも古い前方後円墳が、この西都原の81号墳だということがわかってきたそうで、やはり後円部の特に3段目が大きく盛り上がる特徴的な形態に、原始的な前方後円墳の構造とその造成の意図があるのかなと感じました。横穴の入り口も縦に長く特徴的です。盛り上がりの傾斜は、韓国の円墳のそれを思わせるような強い傾斜ですが、なぜ尻尾みたいな細長く低い前方部がくっついたのか、それがきになりました。携帯電話についているコンパスで方角なども調べてみたのですが、いろいろ考えさせられる部分が多くありました。

最後に宮内庁の陵墓候補にあがっている男狭穂塚・女狭穂塚に向かいました。ニニギの尊と妻の木乃花開耶姫の古墳とされる、巨大前方方円墳は、確かに陵墓としての規模として、ふさわしいものでありました。ふたつの古墳が重なっているのは、新旧のそれを示しているようでおもしろいのですが、この二人から、隼人の祖や、レイライン関連で創刊号でとりあげた尾張連の祖、そして山幸つまり天皇家の祖が出ていることは、やはりこの地に神話をふくめて重要な古代史の起源があることを意味しているのではないでしょうか。

その後日が暮れてきたので、タクシー、バスと乗り継ぎ、宮崎へ向かい、宮崎神宮へ。神武天皇の宮跡に作られたという、この宮崎神宮、相当な広さの敷地でした。そこから、電車で延岡に向かい、ビジネスホテルで一泊しました。

16日

延岡を発って、バスで五ヶ瀬川沿いに、九州山地内陸部へ登っていき、高千穂神社へと向かいました。高千穂町で降りて、かわかつさんの車を待ち、無事再会できました。その後は、かわかつさんの車でご案内いただきました。天の真名井というニニギの尊の伝承で有名な湧き水をみて、そのままちかくの荒立宮へ。ちょうどなにか宴会をされており、荒立宮の方がいらっしゃったので、いろいろお話を聞くことができ感謝でした。その後天の岩戸神社へ。岩の洞窟があるそうで、この地にきていろいろ見ていくと、ほんとに神話の起源がここにあるようにすら感じられてくるのが、やはり歴史のおもしろいところです。

それから、込み入った山地を抜けていくと、九州各地の山を見渡すことができる場所がいくつかあり、阿蘇のほうへも向かって行きました。景行天皇の経路というのは、ほんとにかわかつさんから聞いていたとおり、山脈をくぐりぬける険しい道でして、実際に遠征を行えたかどうかは、疑問が残る感じもしました。鉄成分で赤くそまった河などもみていくと、やはり鉱脈関連の探索意図が、遠征経路を重なっていることもありうるだろうと感じます。途中で土蜘蛛征伐に関する健男社、つまり景行伝承の経路に記された直入物部神社にも立ち寄っていただきました。近くには直入中臣神社もあり、なぜ物部、中臣がここに出てくるのか、いろいろヒントを与えてくれます。

その後宇奈岐日売社へ。池があって、女性的なピンク色の社殿は、関東の息栖神社や、石切神社など、物部とか穂積氏とかかわりがあったその社殿を思い出しました。なんとなくその宇奈岐姫が出てくるような予感がしていたら、神社の前の茶店から、茶髪のおねーちゃんがでてきたのは、ちょっと、さすがは現代だなーと感心してしまったのでありましたが。

その後、かわかつさんのお勧めで、長湯温泉にある旅館に泊まりました。離れの和室でのんびり外を眺めながら露天風呂につかったり、九州のはるか続く山並みを見ながら、お食事とお酒、贅沢なひとときありがとうございました。

17日

別府を出発して、宇佐神宮方面へ向かいました。途中、米神山の佐田京石と呼ばれる柱状の石からなる、支石墓群を見ました。その異様な風景は、私も日本でみたことがないもので、さらに山腹には、環状列石などもあるそうです。支石墓自体は、朝鮮北部にあるそうで、渡来系の可能性も考慮してみる必要がありそうです。

その後、赤い鳥居がみえてきて、いよいよ宇佐神宮へ着きました。呉橋はまた大変優雅な姿をしており、装束使が通る橋だそうです。かわかつさんのお話によると、辛島氏の巫女、後に入った大神氏の巫女の託宣と、和気清麻呂との関連などが知られており、新旧の勢力交替とともに、さまざまな点で重層構造を神宮はなしているそうです。

宇佐神宮では、三つ御殿があり、一の御殿に応神天皇、二の御殿に比売大神、三の御殿に神功皇后が祭られています。そして、比売大神が一番古いそうです。武内宿禰を祭る黒男神社も、とても興味深いものがありました。ちょうど、宇佐神宮は庭園の池にまた蓮の花が咲きはじめたころで、鴨の遊ぶ姿とともに、楽園的な風景を、垣間見ることができたのはとても幸運でした。

宇佐神宮の参道を境内の外に抜けていくと、隼人の首塚があり、かわかつさんがおっしゃるには、宇佐に使いなどが参るときには、首塚を横目にみながらいくことになってうたそうで、そのまま行くと、隼人を慰めるための儀式である放生会で使用される化粧井戸があり、この道の歴史の重みを感じさせられました。

その後、すこし離れたところにある赤塚方形周溝墓群へ。個人的にははじめて方形周溝墓というものを拝見したわけなのですが、そばにある前方後円墳と比較してみると、まったく似ても似つかない構造であることは、やはり両者の時代差や技術的な相違などを感じるものでありました。

それから辛島勝氏の墓とされる葛原古墳をみて、昼は特産のうなぎをご馳走になりました。近くの円紋様が残る横穴墓では、九州装飾古墳文化の一端を垣間見ることができました。

その後、宇佐を北上して、いよいよ秦氏の本拠地、豊前は香春岳方面へ。途中呉姫の墓があり、記紀に記されている中国から送られた4人の機織女のうち、ひとり呉姫が、九州に残ったという伝承に基づくものです。山間部に位置しますが、近くに小川が流れており、どこかしら機織の伝承にふさわしい場所のように感じました。

そして、特徴的な形をした香春三ノ岳が見えてきて、そのふもとの古宮八幡宮へ。こちら長い階段を上ったところに社殿があり、由緒によると、一の御殿に豊比売、二の御殿に神功皇后、三の御殿に応神天皇が祀られております。元明天皇(709年)に創設されたとあり、多胡郡をはじめ銅山の開拓に熱心だったこの時代に、この香春岳の銅山そばにこの社殿ができたことに意味がありそうです。

ちかくの平地には、古墳の上にたつ鏡作神社があり、銅鏡の鋳造の歴史に興味が向かいます。さらに、香春町には、香春神社があり、かわかつさんから以前聞いていたとおり、第一座に辛国息長大目尊、第二座に忍骨尊、第三座に豊比売が祭られておりました。その辛国息長大目尊の名称が、かわかつさん的には、神功皇后およびその伝承の原型とも関係して意味深いそうです。わたしもこの地に、皇后伝承の原型があるのではと感じました。

そしてさらに国東半島へ北上して、竹原古墳へ。夕方になりこの日はちかくの旅館に泊まりました。こちらも、露天風呂があり、豪勢なお食事とともに、いいところでした。この周辺を走っていると、犬吠峠とか、黒丸、黒目などの地名がみえており、近くには黒水神社という黒の名称がつく地名がありました。そこで、かわかつさんと隼人との関係を話し合っていたのですが、もうすこしこの辺を調べてみる必要がありそうです。

18日

朝、竹原古墳に向かった後、いろいろ思考錯誤した結果、そのまま福岡市内を高速で抜けて、博多港からフェリーで壱岐へ向かうことになりました。ちょっと唐津によるか、あるいはフェリー釜山へいくかどうか迷ったのですが、かわかつさんに叱られながら間一髪でフェリーに乗り込むことができました。そのまま壱岐島の芦辺港へ。

ここでタクシーに乗ることにして、ちょっと年を取っていてよく地理案内してくれそうな感じの運転手さんを選んで、案内していただきました。まず壱岐島北部にある男岳神社と、そこにある石猿石像群に向かいました。この神社には、猿田彦信仰の基づくとされる石猿の石像が数百もあり、また石の牛像もありました。壱岐といういわば日本と朝鮮との境の土地に、境の神である猿田彦が祭られているのは、もっとも自然なことでありました。

その後、さらに内陸部へ走ると月読神社がありました。祀神は、中:月夜見尊 左:月弓神、右:月読尊であります。由緒によると、壱岐の県主の祖である忍見尊が487年にこの月読社を伊勢に移したのが、伊勢の月読社であるとのことで、かなり驚かされました。伊勢が月読の本拠だと思っていたので、こちらに元宮としての本拠があるとすると、また大変興味深い事実であります。

さらに山道を進むと壱岐国分寺跡地がありました。説明によると、壱岐国はイザナミ・イザナギが産んだオノゴロ島とのことで、この壱岐島を全国の中心にした心の御柱とする考えがあるそうで、へそ石というのがあります。

国分寺からすこし走ると鬼の窟古墳があり、6世紀末から7世紀初頭ものとされる、相当な規模の古墳で、特に横穴式石室の天井岩が大きく注目されているそうで、当地の首長のものであろうと感じます。こちらの墳形も、後円部が前方部に比較して大きく盛り上がっており、九州西都原のそれと同様、特徴的な形でした。

そこから、さらに西海岸部まで走ると、壱岐風土記の丘があります。ここでは、大型の掛木古墳とともに、丘の斜面に、百合畑古墳群という小型の墳墓が6つ連なっており、首長家が長く続いた様子が伺えました。

その後は、南進して住吉神社をみて、原ノ辻遺跡と資料館で、船着場跡の様子や、島内の遺物類を見て、海岸部を通って、島西南部に位置する郷ノ浦港へ向かいました。郷ノ浦には塞神社があり、猿田彦、天の宇豆女との関係から、疫病を防ぐ境の神として、いつからか信仰されてきたそうです。巨大な男根像があり、個人的には、初めてみる信仰形態で驚かされました。

夜、大変お世話になったかわかつさんとお別れし、子供が祭りの向けて太鼓をたたいて、町内を巡り歩いているのを楽しみながら、私はビジネスホテルに泊まりました。

19日

夜中2時50分発対馬行きのフェリーに乗り、対馬の南部の厳原港へ5時に到着、7時まで仮眠をとり、8時10分のバスで、対馬北部の比田勝港に向かうことにしました。7時から1時間時間があるので、タクシーで厳原周辺を巡っていただきました。朝鮮通信使が訪れたという国分寺跡を見て、延喜式に載る上県の宇努刀神社に向かいました。この社の由緒によると、神功皇后は新羅遠征の際に、上件の「豊」村に着いた際に大国魂神社を拝し、そこから佐賀村をとおって、この地にいたり島火国魂神社にて・・皇后自ら祀ったとあります。そのほか今宮マリアを祀っている祭殿や、安徳天皇を祭っている祭殿を見ました。

そこから、宗氏の金石城跡や墓所である万松院などを巡って、そのまま8時10分に、北部の比田勝行きのバスに乗り込みました。10時50分に到着するまで、対馬の風景を見ながら、上県と下県をつなぐ万関橋をわたって、比田勝に着きました。

比田勝では、2時50分の釜山行きフェリーまで時間があるので、またタクシーに乗り、島北部を巡ってもらいました。対馬北東部の比田勝港から、やや南に海岸沿いを走ると、霹靂神社があります。この神社の丘には朝日山古墳群があります。そこには石室が多くあり、勾玉など遺物が出ているとのことでした。また祝部土器の編年で有名な古墳だそうで、もっとも古い対馬の港はここではなかったかとも感じます。

そこから島北部の山地を抜け、西海岸に至り、韓国展望台で遠く韓国のほうを眺めて、そこから北端のほう海岸沿いに比田勝港まで走っていただきました。途中、最北部の入江に「豊」という町があり、そこに那祖師神社がありました。豊御鎮座三神社由緒記とあり、島大国魂神社:天狭依姫・スサノオ尊、那祖師神社:スサノオ尊、若宮神社:五十猛尊だそうです。この「豊」という地名が、先の宇努刀神社の豊村と関係する感じがしすこし気になるところです。こちらも隣町の泉とともに、よい港で古くからの韓国との交流の拠点でなかったかと感じました。

2時50分に釜山行きのフェリーに乗り、4時40分に釜山に着きました。その間は40キロほどしかなく、短い海峡であるのですが、前線の影響で海が荒れており、しかも韓国は見えず、やはり荒れた日の航海は渡来人といえでも、かなり命がけだったろうと感じました。

釜山についてから入国手続きをとり、新羅の都であった慶州に向かうため、地下鉄1号線に乗り北上し、終点の老ポ洞へ。釜山南部は、以前ゼミで金海方面まで巡っていたので、今回は立ち寄らずに直接慶州に向かうことにしました。ただその途中で、梵魚寺という駅があり、このお寺は678年に創建された韓国禅宗の総本山ということでしたので、タクシーで行きました。山の頂に立脚しており、いかにも禅宗という感じがしました。

その後、高速バスで慶州に向かい、駅からはタクシーで市内中心部の民宿へ。対馬でフェリーの手続きを国際ラインの方にやってもらっているときに、一緒に慶州の旅館も安いところで手配してもらったのですが、着いて見て、まさか民宿とは思っていませんでした。このサ・ランチェという民宿は、天馬塚などの王陵がある公園のそばにあるのですが、古い瓦屋根の民家が立ちならぶ趣深いところにあり、その古い家をそのまま使用した一階建ての民宿でした。木造の柱と、セメント壁に、床にはオンドルの暖かさが伝わる、韓国の古くからの建築に泊まることができたことは、とても貴重な経験でした。夜は、韓国料理店へ向かい、葉で豚肉を包んで食べる韓国料理を食べ、その後、飲み屋にふらりと行きました。飲み屋では、キムチとか、小魚とか、ジャガイモ、など多くのつまみや、野菜、それにビールや、白い地酒などが出てきて、気持ちよく酔わせていただきました。ちょうどそのときテレビで最初韓国の王朝の時代劇ドラマがやっていたのですが、その後日本の「新撰組」が放映されていて、両国の古来の建築や服装、礼儀作法とか文化の相違を見ながら、かなり楽しませてもらいました。

 

20日

朝から慶州市内をさっそく巡り始めました。慶州は先に仏国寺と博物館しかみていなかったので、今回は以前見逃していたところをみました。まず8時30分に宿を出て、そのまますぐ隣の大陵園に向かいました。ここは、多くの王陵があるところで、味鄒王陵や武列王陵などの巨大な円墳が並んでいます。そこから、道を挟んで東部史蹟公園に入ると、多くの円墳のなかに、アジア最古の天文台である瞻星台があります。その円形13段に石をくみ上げ、筒型の天文台が聳え立っている様は、日本にはないものであり、地震のない国だからこそ、7世紀初頭から今も残っているという感じがしました。 (瞻星台ビデオ映像→視聴

そこから月城までの間には、雛林という新羅の王が降ってきた伝説の舞台があります。そして月城に入り、なだらかな丘の傾斜をのぼっていくと、石氷庫があります。古代の冷蔵庫ともいえるもので、日本でも氷室として、6世紀以前から存在していたようであり、吉備などにも氷人として記載が文献に残っています。古墳の横穴式石室に似ていたのですが、山城の頂上部地下にやや掘り込む形で存在していることは、王宮、あるいは戦時の食料保存と関係してくるのでしょう。日本の場合は、どうであったのか、気になるところではあります。

月城は、周囲が堀でめぐらされており、それなりに初期の山城のような構造を見て取れます。さらに月城から道路を挟んで、雁鴨池に向かいました。こちらは、飛鳥池の庭園構造や、石像物などとの類似で、最近特に注目されているところです。実際相当な規模で土地を掘り込んで作られており、大変優雅な印象を外国の使節にも与えたことでしょう。斉明天皇が飛鳥池を作り、庭園を構築する際にも、その辺の情報を仕入れていたことはおそらく間違いないと思います。

そして、そのまま近くの博物館に行き、雁鴨池館にて出土遺物を先の雁鴨池の出土遺物を確認しました。博物館は二度目ですが、やはり先の創刊号でも触れた、新羅とローマ文化の交流を考えていく上で、ローマングラスが数多く展示されているのを見ると、あらためてその文化拠点としての慶州の意味を感じさせられました。

その後タクシーで市内のバスターミナルになんとかもどり、ぎりぎり10時40分のバスに乗って、一路百済の都であった熊津や扶余にむけて、まず韓国西部の交通の拠点である大都市大田に向かいました。大田につき、そこからさらにバスを乗り換えて、公州つまり475年〜538年までの百済の都・熊津へと向かいました。3時半ごろには公州につきましたが、その間にモバイルの電池の充電が切れてしまい、メールと電話帳も一緒に使用できなくなったことは後々尾を引いてきます。

公州についてから、まずタクシーで巨大河川である白馬江(錦江)を渡って、国立公州博物館へ向かいました。ここで、あらためて百済文化について、午前中に行った慶州博物館での新羅文化を思い出しながら、百済と新羅の文物の比較をして理解を深めました。百済や新羅の瓦などは、それぞれ日本にもやや時間差をおいて、伝来しており、ほぼ日本の瓦のそれと同じ紋様を確認することができました。ただ逆に瓦でも百済や新羅独自に発展した複雑な紋様は、日本へはうまく伝来しなかったことも伺え、その辺が渡来人の技術伝播のおもしろいところだろうとも感じます。百済のほうは、新羅ほど金属加工物や、ガラス関係遺物が多く出土していないようであり、日本の古墳出土の金属製品の伝来が主に新羅・カヤ系だったのではないかと感じました。仏像なども顔の表情や動きの感じに、それぞれ若干相違があるようです。

この博物館でタクシーを呼んでいただき、すぐちかくの武寧王陵に向かいました。この武寧王陵は、百済宋山里古墳群にあります。独立した古墳と思っていたのですが、実際は三つの王陵が一緒になってひとつの古墳を形成しており、日本の古墳とはすこし異なった結合構造をしているのには驚かされました。強いていえば双円墳に近いのかなとも感じますが、はてさてどうなのでしょう。またその同族の三つの古墳それぞれで、石室の石のくみ上げ方の築造方法が異なっており、これも日本の古墳の画一的な石室築造構造とは、違った側面を有しているように感じました。石室内部には残念ながら入ることはできないのですが、そばに資料館があり模型があります。壁画の四神の模様などは、高句麗ほど派手でないものの、系統としてどこかつながりがあるようです。

その後待たしておいたタクシーに乗って、白馬江沿いの丘陵にある百済の山城、公山城に登ってもらいました。これぞ朝鮮式山城という感じで、周囲を高い防壁の石組みで囲んでいるの点は、岡山でみた鬼の城のそれと類似するものがありました。山城の中にある王宮跡地に、蓮池という円形に石を3mの深さまで、積み重ねた遺跡があり、その円形に石組みをする構築法が、日本のそれとはちがった円の文化??を感じさせるものでした。新羅の天文台もやはり円形の石の積み上げでしたが、日本の場合、円墳は円形ですが、前方後円墳に変化したりと、どうも完全な円形の石の積み上げをする文化が少ないように感じるのは気のせいでしょうか。

そこからさらに、頂上部分までは、タクシーでは行けないので徒歩で登ってきました。山城の頂上部から眼下に広がる、白馬江と町並みを一望できるのは、さすがはこの地を支配した王族の住処だなと感じさせるものでした。おそらくこの河の大きさを考慮すると、三国史記にみえるような、外国の軍勢なども、船で直接ここまで攻め入ることもできたのではないかと思われますが、この城を攻略するのはまた容易ではなかっただろうとも感じます。

その後、待たせておいたタクシーでバスターミナルに戻り、そこから540年代からの百済の都・泗ヒ(サビ)、つまり扶余にバスで向かいました。扶余に1時間あまりかけてついたころには日が暮れ始めており、そこでガイドブックに載っていたアリラン・モーテルに3000円で泊まることにしました。このモーテル最新の設備がそろっていて、現代韓国の生活でくつろげたのですが、携帯電話を充電するための電圧変換機器はなかったので、結局携帯電話は復旧できませんでした。

内線で日本や韓国の方に連絡を取ろうにも、内線の使用法がわからず、ホテルの方とは日本語・英語ともにまったく通じず、さらに公衆電話で電話をこころみたものの、やはり国際電話のかけ方がまちがっていたのか、まったく通じませんでした。そこで、電気屋を探してみましたが、やはり携帯電話充電に役立ちそうな機器もなく、ネット喫茶もパソコンのキーボード自体がハングルで、打ち込み不可。結局外部との連絡はここであきらめました。

でも、案外日本文化との接触が切れると、日本という国や文化が、どういうものだったのかが、あらためて客観的に理解できるようになり、良い面、悪い面いろいろ浮かび上がってきたのは、貴重な経験になりました。ホテルでは親切に洗濯もしてくれて、いつも韓国の方の親切さには、頭が下がる思いがします。

21日

この日はやや遅めに起きて、10時半にホテルを出て、すぐ近くの定林寺跡に向かいました。ここには6世紀末の五重石塔が今の残っております。この石塔には唐の将軍が百済を滅ぼしたときに、刻んだ文字が記されており、その歴史を重さ感じるとともに、石造物の構造組み上げ方がしっかりしている点は、先の新羅の天文台と同様な感じがしました。今あらためて写真で見てみると隼人塚との石塔比較なども興味深いものがあります。ここには、また石仏もあり、笑った表情がなんともいえなく百済的?な感じでした。

そこから、国立扶余博物館に徒歩で向かいました。博物館には、日本語の説明が聴けるヘッドセットがあり、理解しやすかったのですが、この辺の博物館の設備の充実は韓国の文化活動への力の入れようを感じ取ることができるものです。この博物館の図録にも日本語版がありすばらしいのですが、はてさて日本では逆に韓国語版を作成することはないのだろうかとも感じます。

いろいろ巡っていて特に気になったのは、銅鐸の原型とされる馬鐸との比較、九州の甕棺と百済・新羅のそれとの比較、支石墓の構造、磨崖仏の比較、日本書紀にも記されている砂宅智積の堂塔碑についてなどでした。加えて漢以来の香炉の製造技術の高さや、弦楽器の構造、博物館の外に展示されている7世紀の石桶、9世紀の亀型などの石桶などの石と水の文化なども注目すべきものでした。

その後タクシーで扶蘇山に向かい、この山城も徒歩で登ってみました。こちらは、百済の都が扶余へと移った540年代から、新羅・唐連合軍によって滅亡する660年ごろまで王宮があったところであります。やはり白馬江を一望できるところに建てられていました。そこの落下岩からは、百済の官女3000人が百済滅亡の際に身を投げたとされております。実際その現場に行ってみると、白馬江と船着場が一望でき、白馬江を唐・新羅の船団がきっと遡ってくるのを見て、絶望的な感覚に襲われたのではないかと想像しました。官女が3000人身を投げるのととは別に、やはり数千人の百済官人が、亡命渡来人として日本に渡ってきたことは、先の創刊号でも触れてとおりであります。そしてあらためてその亡命にかけた彼らの思いなり、主君への忠誠心など、日本のそれとは異なった王と城と人民が一体となった文化への理解の重要性をあらためて感じさせられた次第です。

その後、別コースで山城を降りて、途中水源である湧き水井戸や、数段に重なっている石塀と堀とをみながら、バスターミナルにタクシーで向かいました。そこからバスでカトリックのイベントが開かれる百済中西部のコットンネーへと向かいました。まずバスセンターの方の薦めにしたがい清州に向かい、そこからバスでさらに内陸部の忠州方面へ向かいました。山間部を抜けて行ったのですが、熊ともトラともいえぬような短気な感じのバスの運転手さんは、日本語も英語も通じないのでした。そして、「ここがコットンネーですか?」と聞くと、怒って「違う座ってろ!」っていうだけなので、もう彼に任せてしまいました。その後しばらく走った田舎にて、その運転手さんが「降りろ」って合図をして、「タクシーで行け」って怒鳴るので、そこで降りました。ほんとに山間部のど田舎で、携帯電話はもはや使用できなかったので、その日日本から、このイベントに来るはずの韓国人の友人にも連絡できず、日本にももちろん連絡できないし、タクシーも来ないし、夕暮れになってきて、このままもしかすると、そのイベント会場こには到着できないのかと思いました。

すると教会が急に目に入ったので、そこへ向かって、このイベントのパンフとともに、いろいろ説明したら、幸いそのコットンネーのカトリックのハンディキャップを支援する施設を知っておられたようでした。そして親切にも車で山を越えたところの施設まで、ご案内くださったのでした。そして笑顔ひとつで喜んで帰って行かれたのですが、いつも韓国の方の親切さには、とても頭がさがる思いがします。

帰ってきた後に知ったのですが、この時間にわたしの祖父が老衰で亡くなったそうで、今思うと、どこかさきのバスの運転手さんと、やはり昔運転手をしており短気だったうちの祖父の姿が、どこか重なってくるのは不思議な感じがします。ともかく生きてたどり着けたのは、まったくもって神の恵みであったろうと感じます。

その後、ようやく韓国人の友人の携帯電話で、ソウルでご案内いただくことになっていた白さんとも連絡がつきました。そのイベントでも多くの韓国の若者と交流をすることができ、歌い、踊り、祈り・・と、すばらしいひと時をすごせていただいたことは大変感謝です。加えて視覚障害をもつ音楽ミュージシャンとも知り合いになり、私の本職である音楽や介護、パソコン機器をとおしての障害者支援のあり方(ゴールドコンサートC-MUSIC等)について、この大規模なカトリックのハンディキャップ支援施設で、いろいろ勉強できたことは、大きなプラスであったと感じます。 (大会映像→視聴

23日

この日は日曜で、キリスト教徒が多数を占める韓国からは、1万人ほどの人々がこの集会にくるとのことでした。朝からバスが続々と到着するなか、わたしのほうははやめにご暇することにして、8時のバスでソウルに向かいました。9時半には、大都市ソウルに到着し、白さんとの待ち合わせ場所にした景福宮の中にある国立民俗博物館に、地下鉄で向かいました。11時の待ち合わせで早めについたので、宮殿の資料館を見て、韓国の伝統衣装を着た兵隊さんが並ぶ光化門に向かいました。多少連絡の行き違いがあり、11時半すぎにお会いして、その後、新しくできた国立中央博物館へタクシーで向かいました。

巨大な博物館で驚かされたのですが、まず全部は見れないので、古代に絞って見ていくことにしました。百済、新羅の遺物も集合しており、あらためて韓国の文化を網羅することができました。百済と新羅での須恵器・土師器の導入時期の相違なども興味深かったのですが、金石文の専門家の白さんから、新羅・百済と中国の文体の相違などについて、いろいろお教えいただたことは大変貴重な経験でした。

また、ローマングラスなどの経路について、博物館の図では、シルクロード経由のほかに、海路でイラン方面からインド・マレーシア経由で朝鮮にたどりつく流れが記されておりました。白さんもその経路がむしろ重要であることをおっしゃっておられ、大変新鮮でした。まだ日本ではシルクロード以外の海路経由でのローマの文物伝来は、あまり主張されていないので、この辺が今後の研究課題となるのではと感じます。先のトカラ人がどうやってアフガン方面から、奄美大島などの南方海路経由で、インドの舎衛人の妻とやってきたのか?なぜ西海へ帰っていったのかなど、その辺の海路経由での交流も理解していく必要あるのではと感じます。

ちょうどその日は、なにかほかの仏像の展示もされているようであり、白さんに確かめていただくと、なんと、北朝鮮から遺物が展示されていることがわかりました。そこで急遽そちらの展示も見ることにしました。

高句麗の遺物が多く展示されており、ここ数日でみてきた新羅・百済の遺物とは、また違った土器や鉄製品などを拝見しました。また日本まで広がる銅鐸や甕棺などもあり、大変貴重な品々ばかりでした。丸みを帯びた遼寧式銅剣や、雷紋土器、狛犬そっくりの石獅子像や、菊の紋章のついた永康7年の金銅光背、白さんも珍しがる文字資料など、貴重なものばかりで大変勉強になりました。朝鮮三国と日本の文化をこうして比較できたことは、まったくもって奇跡的な恵みであり、感謝を感じる次第であります。

その後、白さんにソウルの各地をご案内いただき、名産百済地鶏のお食事や、帰りの航空チケットの購入までお手伝いいただき、韓国の方の社会・政治問題への考え方から、習慣についてまで、いろいろお話をお聞かせいただいたことは、また大変勉強になりました。ありがとうございました。

 

まとめ

今回の探索を通して、九州南部の隼人や南方文化圏と日本神話の関係について実感することができ、また九州北部での渡来人集団の渡来から、製鉄・精銅、祭祀をとおしての流れを理解し、そこからヤマトタケルや景行天皇の遠征伝承の背後にある実態についての足がかりを見出すことができました。

韓国では、三国の文化とその相違を現地調査によって、新たに古代史を含めて総合的に把握することができ、客観的な視点からあらためて日本文化、渡来人についても考えていくことができました。

そのほか、トカラ人についてなど、西域の文明の流入のあり方、亡命百済人・高句麗人についてなど、また創刊号で触れた多くの論点について、探索をとおして、実体験としてあらたな視点を加えることができ、今後の研究の進展に大きな一歩を踏む出せたと感じます。

かわかつさん、白さん、おおたさん、研究会のみなさま、金さん、お世話になったみなさま、ご協力まことにありがとうございました。