メニューを飛ばして本文へジャンプ

碓氷・草津 06.4.18〜19

春になってようやく暖かくなりはじめ、バイクで出かけるのにもここちよい季節となりました。そこで、今回は昨年の日本武尊伝承のルート探索で行き残していたところ、つまり雪でバイクでは行くことができなかった群馬と長野県境にある碓氷峠から、軽井沢をとおって草津温泉にいたるルートを探索することにしました。

埼玉は17号をとおって高崎を越えて、中山道に沿って西に向かい、多胡郡を通過して、群馬を長野の県境の日本武尊伝承に出てくる碓氷峠へ走りました。碓氷峠に近づいていくと、ごつごつ尖った岩が突き出ている妙義山が見えてきます。なんとも古代人の信仰の対象となりそうな岩山です。妙義山を越えてから、バイパスを通らずに、古代からの中山道をとおって徐々に山腹を登りはじめるました。さすがは古代でも難関とされた碓氷峠、バイクでも数十あるカーブの連続で、かなりハードでした。古代の信濃から上野へ向かう大和朝廷の軍隊は、ここを越えていかねばならなかったはずであり、関東豪族の防衛の拠点であったろうことは想像に難くない感じです。日本武尊伝承でも、日本書紀には碓氷峠(坂)が記載されているのに対し、古事記には記載されていません。その代わりに古事記では箱根方面の足柄峠が記載されております。古事記のほうの伝承を古いという前提をもとに、ここから日本書紀は大化の改新以降の陸奥への進出を背景にして、その支配拠点としての碓氷峠を記載したとの説が出されています。そして古事記のそれは、陸奥支配以前の段階での大和朝廷の支配の境界を示しているとされています。とすると、この碓氷峠は古代は関東豪族が最後まで大和朝廷と張り合った拠点だったのかもしれません。そしてここで最後の戦闘があったのでしょうか。ともかく日本武尊伝承にこの碓氷峠を記載したことは、大和朝廷としても支配を確立したという証だったのでしょう。碓氷峠については、日本武尊が、東征において今の東京湾で、海神の怒りを静めるために自ら進んで身をささげた武尊の妻、弟橘姫のことを思い出して、東南のほうを望んで、三度嘆きながら「吾嬬(あがつま)をや」と歌ったと記されています。ここから碓氷峰から東を「アズマ(吾妻・東)」と呼ぶようになってとされます。関東を支配して、この峠から見渡したことを示しているとされますが、なぜニギハヤヒ系の物部氏の同族穂積氏の娘が入水したという伝承を、この吾妻の伝承にもたらしたのか、私は碓氷峠にも信濃は諏訪から続く物部氏との関連を感じるのですが、なにか妻を思うその英雄の気持ちに不思議な共感を覚えながら、その意味を問い続けて走りました。

さて、碓氷峠の頂上を越えると、あまり標高差のない直線道路が続き、そのまま軽井沢台地に入ります。台地といっても非常に平坦な土地で、峠の道の厳しさとは打って変って住みやすそうな、別荘地にふさわしいところでした。中軽井沢から北上して草津方面へ向かいます。やがて白く雪が積もった浅間山が見えてきました。さらに峠を越えて、有料道路に入ると、巨大な浅間山を左手に、永遠と続く一本道を走ります。その途中は私のバイクだけになっていたのですが、走るのを止めて、ポツンと一人だけ浅間山を前にして永遠と続く台地の中にたたずんでみると、なんともいえない不思議な感覚を覚えました。春の草原で、まったく風以外音のない世界に、私と雄大な浅間山とが対面している、その静けさは都会にいるときは味わうことのできないものであります。一瞬「神」の存在を感じさせるような場所だったわけですが、古代人がなぜ浅間山を信仰するのか、そのヒントがここにあるような気がしました。

その後、なだらかに坂を下って行き、3,40分走ると草津温泉に着きます。草津についてから、まず夕暮れ前に日本武尊伝承がのこる白根神社を写真に収めることにしました。草津という町自体、実に複雑に入り組んだくねくね道で構成されており、ずいぶん迷わされたのですが、町のど真ん中の丘陵上に神社がありました。意外にも派手に信仰されている様子はなく非常に質素に静かにたたずんでいるという感じでした。この白根神社には日本武尊の伝承が残るのですが、この神社からまっすぐに南にラインを引いていくと、山梨の先日探索した酒折神社、つまり日本武尊伝承に出てくる酒折宮に見事に出くわします。さらに南にラインを引いていくと富士山ふもとの浅間神社(日本武尊の伝承がある)につながります。これらの南北ラインについては、雑誌「渡来人研究」の創刊号に掲載しましたので、ご興味ある方はこちらをご参照ください。これらの神社の南北ラインは、日本書紀の成立年代や浅間神社の創建年代を考慮すると、大化の改新以降となりそうですが、酒折宮の成立がいつごろかも英雄時代論との兼ね合いでいろいろ話題にはされているところで、あらためて古代日本史において「ライン」とはなんだったのかを、考慮する時期にさしかかっているとおもうところです。

さて、日が暮れて、そのまま日帰りで関東へ戻ろうかと思ったのですが、喫茶店で食事をしているうちに、5000円ほどで温泉つきで二階に泊まれるとのことだったので、無理をせずそこの旅館に泊まることにしました。和室でなかなかのお部屋に加えて、ひとりで夜中たっぷりと草津の温泉に浸るという、なんとも贅沢な時間を過ごさせていただいたこはまことに感謝でした。すこしすっぱい感じで肌によいという独特の温泉に何度も浸ることで、肌もこころ荒れ気味の私の都会での疲れも、ずいぶん癒された気がしました。さて夜中散歩しているとそばに光泉寺という722年行基創設の由緒あるお寺があることに気づきました。明くる朝、さっそくその光泉寺へ行ってみました。行基伝承については行基の母方が蜂田薬師氏出身だったことから、行基創設のお寺には薬師如来伝承が残ることが指摘されております。そしてこのお寺にも薬師信仰がみえ、さらに湯と行基の伝承が由緒にもみらることから、なんらかの行基およびその背後にい渡来人集団との関連を感じます。また、草津の町中にある湯畑は有名なところですが、湯畑に坂を下ってみると、その光泉寺が見事に湯畑をすぐ真下に見下ろす位置に立脚していることがわかりました。このお寺が温泉との信仰との関係で存在していたことは疑いないでしょう。行基およびその背後にいた渡来人集団の関東進出についても、創刊号でとりあげたところです。信濃から碓氷峠を越えて行ったところにある群馬多胡郡には、新羅系の渡来人集団やエミシ系?の俘囚が、711年の多胡郡成立以前にいたことが確認されています。その多胡郡と藤原氏、行基、元明女帝との係わり合いについても、精銅関連の進出で注目すべきことは創刊号で指摘したとおりです。その後716年に武蔵国の高麗郡が成立しているのですが、このころにはすでに朝廷の関東支配は碓氷峠はもとより、はるかに安定したものとなって東北遠征へと視野が向けられていました。しかし在地に残る関東豪族の信仰はすぐには変わらなかったことでしょう。

その帰り道は、その草津・碓氷峠からの関東進出を考えるために、あえて吾妻川沿いに高崎方面へ東進してみることにしました。草津を南下して長野原で東に進路を変えて吾妻川沿いを下っていくと、吾妻渓谷が面前にあらわれてきます。ちょうどこのあたりは桜が満開であり、桜並木の中を走っていくのはなんとも爽快でした。吾妻町につくと大きな敷地に吾妻神社があります。このあたりのしだれ桜は、後でしらべてみてわかったのですが、とても有名だそうで、その時期にここを訪れたのはとても感謝でした。その吾妻神社の桜もすばらしかったのですが、祭神をみてみるとオオムナチ神でありました。この神様は在地豪族を象徴する神として有名ですが、この通り沿いの松谷神社でもやはり同じ神名がみえます。どうもアマテラス系の朝廷祭祀の影響というよりは、もしかすると在地系の信仰が残っていたのかとも感じるのですが、よく調べてみなければならないでしょう。またこの吾妻川沿いの鳥頭社には日本武尊が杉を植えたという伝説が残る神代杉もみえ、日本武尊伝承のこの地への流布を感じます。そして吾妻川をさらに東進していくと、かつての関東豪族の大拠点、大古墳群が残る高崎に向かい、利根川と合流して、関東平野をとおって鹿島神宮へと下っていくのであります。今回は長野原から、吾妻川方面へと向かいましたが、もうすこし南に向かい、かつて訪れた多胡神社をとおっていくルートもあります。いずれにせよ、中山道の確立がいつごろなのかが気になるところですが、古事記には碓氷坂が記載されていなかったということは、古事記の元テキストの成立年代次第では、前方後方墳を残した関東豪族の支配は案外遅かったのかなとも感じます。いずれにせよその支配と屯倉設置と日本武尊伝承とは密接にかかわりあっていることは確かであり、その支配の証として神社とその神社を東西南北にラインで連ねた事実とが重なり合ってくるのでしょう。

今回は渡来人研究創刊号での日本武尊伝承分析の執筆にあたり、最後に残っていた伝承拠点を探索したわけですが、暖かな気候に、浅間山の大自然、温泉、満開の桜や青い渓流の美しさを存分に堪能できたことは、本当に感謝を感じる旅でした。そして創刊号のテーマの再確認と、次号に向けて新たな力をいただたような気がしています。なお創刊号にご興味ある方はこちらのページをご参照ください。

 

 浅間山ビデオ映像