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日本武尊伝承ルート探索 06.1.8〜10

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
今回は、今原稿で調査中の日本武尊伝承にかかわる拠点を巡ってみることにしました。原稿でも取り上げているとおり、日本武尊伝承の拠点は、東西・南北を結ぶライン上に位置していることが明らかになっており、特にそのライン上の拠点に絞って今回は探索してみることにしました。

1月8日朝、小田急ロマンスカーで小田原に向かい、そこから東海道線で富士宮駅へ。そしてそこから、熱海を経由して富士駅に向かい、身伸線に乗って北上し富士宮駅に向かいました。途中熱海を通っていて驚いたのは、椰子の木が生えていて、南方の気配が感じられたことです。確かに伊豆半島は日本ではフィリピン海プレートに乗っている唯一つの場所ではあるのですが、大陸移動と植生とのかかわりなのか、南方の植物が住んでいる、これは非常に不思議なことだと感じました。最近は富士山も、どこのプレートに乗っているかという話もああるそうで、はてさてプレートテクトニクスまで視野に入れて歴史を語らなければならないのかなと感じました。

さて、よく晴れた富士宮につくころには、富士山頂上の雲が薄くなってきており、もしかすると全体を見ることができるのではと期待しながら、日本武尊の伝承の残る浅間大社へ徒歩で向かいました。市街のなかでも浅間大社の周辺は、さすがによく富士山が見えるように公園にする配慮があり、東北方向に大きく富士山を見ることができました。実際日本武尊が東征の際に建てたといわれる山宮は、北方6キロほどの場所にあり、今回は時間もないので省略しましたが、この大社の地は、会報に掲載しているとおり、伊勢→鹿島の23・4度レイライン上に位置する拠点であり、806年の坂上田村麻呂によって現在の位置に移されたそうです。そのころには、ライン拠点と測量の技術が相当進んでいたのでしょう。境内には湧玉池という、富士山からの地下水が湧き出る場所と禊場があり、この地が湧き水との関連でも選ばれたことがわかります。その後、富士山の頂上の雲もなくなり、はじめて間近で富士山全体像をみることができてひときわ感激でした。

その後、富士宮に戻り、東海道線で焼津に向かいました。この焼津は日本武尊の伝承では、草薙の剣をもって、賊を焼き払った伝承で有名なところであります。またここは原稿でも触れているように、日本武尊の最初の墓である鈴鹿の能 墓から真東(北緯34度52分)にあたる場所です。詳しくは会報をご参照ください。駅で降りて10分ほど歩くと平地上に焼津神社がありました。市杵島姫社なども注目すべきところですが、パンフの図では古来は焼津の名前のとおり、神社のそばまで海岸線が来ていた模様で、漁業とともに歩んだ信仰の姿が見受けられました。

その後、東海道線で静岡まで行き、そこから新幹線で名古屋へ向かい、日が暮れたので、駅前で宿を取り、8日の探索は終わりにしました。

翌日9日は、朝から東海道線を北上し、一宮駅で下車して、徒歩で真清田神社へ向かいました。この神社に入ると、どういうわけか手に水をかける作法への感じが強く感じられました。というころで省略しがちな手洗いをしてから、本殿をみて神水として有名な井戸みてすぐに、この神社が湧き水への信仰が元になっていることを理解しました。真清田の由来は、木曽川の清く澄んだ水による水田地帯が広がっていたことにあるそうです。祀る神は、尾張・海部氏の祖である天火明命でありますが、真神田氏の系譜は物部系ニギハヤヒであり、天火明の別名がニギハヤヒであるように、両者の間にはつながりが見えますが、そのつながりをどう見るかで意見が分かれているそうです。また摂社には萬幡豊秋津師比売命があり、機織神社としてかなり大きな社殿で祀られていたのですが、天火明命の御母神であり、伊勢の内宮御正宮に相殿の神として祭られているそうで、また機織の神として織姫信仰とも結びついているそうです。原稿で触れたように、この真清田神社は、伊勢伊雑宮から真北に当たると同時に、物部の本拠磐船神社から諏訪前宮への30度ライン上にあり、ちょうど物部ラインと伊勢内宮の海部氏・尾張氏ラインとの接合点にあたるわけで、物部と尾張氏との関係が伺える神社であるといえるでしょう。なお詳細は会報をご参照ください。

その後、名古屋を南下して熱田神宮へ向かいました。熱田神宮はご存知のとおり日本武尊伝承でも、草薙の剣との関連で有名であり、現在も草薙の剣がここにあるともいわれるところです。その敷地の大きさに圧倒されたわけですが、ちょうど1月1日から24日まで開催している新春特別展示で「今に伝える歌人たちのこころ 〜言霊の世界〜」とのことで、万葉集の原版などを展示していました。そしてそこで熱田本日本書紀をガラス越しに間近に読むことができ、さらにはその日本書紀のちょうど日本武尊伝承のところを開いておいてくれたので、まったく今回の探索のテーマである日本武尊伝承の原本を読むことができたことは、まことに感謝でした。文献史学で論文を書く上で原本に当たれることほど重要なことはないので、その意味することの重大さに改めて気づかされる次第でありました。まさに草薙剣が道を開くというべきでしょうか。

その後、名古屋駅から関西本線で西進し、桑名駅で近鉄養老線で北上し多度駅で下車して、徒歩で20分ほど歩くと多度神社に着きます。この多度は、もともと日本武尊伝承では、尊が剣を置いていったとされる尾津と呼ばれた場所であり、多度でも香取のあたりは今でも長良川沿いにあたり、すぐに大河を見渡すことができる場所であります。多度大社は、やや山腹方向へ歩いていったところにあるのですが、神社はその多度山の急斜面の岩間に建てられており、神妙な雰囲気が漂う神社でありました。この多度山には1500年前から多度山の神へ村人の願いを届ける白馬への信仰があり、5月4日、5日には「上げ馬神事」が開かれるそうです。この神社は雄略天皇の時代に建てられたと由緒にはあり、尾津の日本武尊信仰とのかかわりで原稿で記したとおり、雄略天皇と日本武尊が同一であろうことは、この辺でも明らかになってくるようです。ここ多度の田んぼには、1月に入って60年ぶりに白鳥が飛来したことが、毎日新聞に掲載されていたそうです。北側お隣の養老には毎年数百羽の白鳥が来るらしいのですが、今年は寒気が激しく多度まで南下してきたのかもしれません。多度つまり日本武尊伝承の尾津にもきっと、古代においても寒い年は白鳥が来ることもあったのかもしれません。それがいつしか白馬伝説に変わったのかもしれず、また日本武尊が死んで白鳥になって飛んでいったという伝承の元になったこともありうるでしょう。この多度大社は、熱田神宮から真西の北緯35度07分ラインにあたり、熱田の白鳥の地名が残るように、日本武尊がこの多度大社=尾津にかかわるならば、やはりここにも白鳥伝説があってもおかしくないわけです。逆にこの地の伝承が日本武尊伝承の白鳥伝説に影響を与えた可能性もあるのではないでしょうか。

その後、そのまま日本武尊伝承で尊が亡くなり最初の葬られたとされる鈴鹿にある伊勢能褒墓へむかうことにしました。本当は多度から養老線で北上し、尊が山の神と戦った伊吹山方面へ向かうことも考えたのですが、すでに去年の探索で伊吹山および泉神社の尊が飲んだという醒井は見てきたので今回は時間の関係で省略しました。関西本線で四日市方面へ南進し、井田川駅で降りて、タクシーを呼んで能褒野神社へ向かいました。この神社そばに大型の前方後円墳があり、日本武尊の最初の白鳥陵とされております。まさに伝承にふさわしい大型の墳墓でありますが、この墓の位置が会報で書いたとおり、熱田神宮と飛鳥の琴弾原の白鳥陵(尊の2番目の墓)とを結ぶ35度ライン上に位置しているのであります。伝承によると、この伊勢能褒墓から尊の魂が白鳥となって抜け出し、飛鳥琴弾原の白鳥陵へと飛んでいったとされます。そして墓をあけてみると空であったと。

そこで飛鳥琴弾原の白鳥陵へを探索するために、タクシーで亀山市に向かってもらい、亀山市から
関西本線で奈良へ1時間半かけて向かいました。奈良に着くと日が暮れたので、宿を取ることにし、よく使うホテルサンルートに電話してみました。奈良駅そばかと思ったら、ずいぶん歩いて猿沢池のほうであるとのことで商店街を抜けて、なんとかたどり着きました。そして宿でもらった地図をしらべているうちに、そばに元興寺があることに気づいたので、夜中見てくることにしました。元興寺というと、原稿でも掲載したように日本霊異記で尾張の農夫が鉄の杖を振りかざしたら天から落ちてきた小子雷の話で、その小子雷が農夫に育てられ、元興寺の僧侶となったという話がありました。小子雷は元興寺に夜鐘楼に現れるという得たいの知れない鬼を退治したことで有名ですが、まさに夜中の元興寺を垣間見ながらそんな情景を重ね合わせてみてひとしお感動してしまいました。

翌朝は、そのまま元興寺に向かい、小子坊や行基葺きの瓦屋根を見て、そのそばにある鐘楼の礎石を見て、元興寺領域にある塔跡などを巡ってみました。よく考えてみるととまったサンルートホテル自体元興寺領域にあったわけで、いかに当時の元興寺が広かったかを感じさせられたのですが、思えばサンルートという名称、日の道であり、聖マイケルラインに由来するレイラインを意味しているのは、おもしろいご縁でありました。その後興福寺を見て、飛鳥琴弾原の白鳥陵へ。

近鉄奈良線に乗り西大寺駅まで行き、そこから橿原神宮前駅に特急で向かいました。せっかく飛鳥まで来たので、最近出土した飛鳥池の亀型石造物を見ようと思い、そのままタクシーに乗り、飛鳥寺方面へ。その途中水落遺跡に寄り、水時計を見て感心。飛鳥寺を見ながら、今朝方行った元興寺の木材や瓦が飛鳥寺から移動してもたらされたことを思い出していました。特に元興寺の木材に使われた「間斗」は、年輪年代法で580年代が推定されており、飛鳥寺の柱材を加工して造られたと考えられているそうです。なぜ飛鳥寺そのものを奈良に移行させなければならなかったのか?これもひとつの謎であります。その後、亀型石造物に着きました。見たところ、流水管から亀型の石桶に水が流れ落ちるような仕組みで、二つある石桶のうちのひとつは、思い起こしてみると水落遺跡の水時計の石と確かによく似ている気がします。ただ、相違点としては、石桶の深さが深いところと、流水の仕組みが、水落遺跡のそれより、勢いがありそうなことです。この辺どのくらいの速さで流れたかがひとつのキーとなりそうです。会報で飛鳥寺とトカラ人の饗応や元興寺・行基関連について書いているので、ご興味ある方はこちらをご参照ください。見終わってから、猿石を見るため、そのままタクシーで移動し、川原寺跡や、鬼の洗濯岩などを横目にみながら、欽明天皇陵方面へ向かいました。猿石は、吉備姫の陵墓にあったのですが、4体の石人像を見るに、1体はトカゲのようであり、もう1体は陰部を正座状態で丸出しにしており、どこか修験道者のような帽子をかぶっており、もう1体は彫りの深い西洋人のようであり、一番右の一体は福島の横穴墓から出てきたアラビア系の多治舞を行う老人像によくにた髭面でありました。かれらが一体何者だったのか?謎ではありますが、噴水が出る猿石もあるそうで、庭園でのある種の舞楽などのためのモニュメントや道具ではなかったかとも感じます。

そこから、そのまま御所琴弾原の白鳥陵に行ってもらうことにしました。途中欽明天皇陵によっていただき、さらに本当の欽明陵との話があるそうな丸山古墳を見てきました。その後、西進し、葛城山を前面に見ながら、日本武尊第2の墓、琴弾原の白鳥陵へ。なかなか森林奥深く込み入ったところにあり、タクシーで行って正解だったと感じました。陵墓自体は、確かに掲示板でタックンさんのご指摘にあったように、岡の斜面をそのまま利用した感じで、古墳の形態を有していないというのが正直なところでした。もし後代の偽造だとすると、それではなぜ、この場所に第2の墓を造らねばならなかったのか?ということになりますが、原稿の地図に記したとおり、この場所が、葛城一言主神社から真西にあたると同時に、熱田神宮と鈴鹿の白鳥陵とを結ぶラインの延長上にぶつかることからその理由が理解できると思います。そしてそのラインをさらに南西の伸ばすと、日本武尊が討伐した熊襲の地・大隈に伸びていくわけです。伝承の拠点を結ぶラインにあわせて第2の白鳥陵が形成されたのでしょう。(なお詳細は会報をご参照ください)

そして、第3の羽曳野白鳥陵へ向かうために、近鉄御所駅に向かっていただきました。運転手さん大変お世話になりました。御所駅から尺度で乗り換えて近鉄大阪線で古市駅でおります。そこから、すこし歩いて、日本武尊陵に着きました。水堀をめぐらせた堂々たる大型前方後円墳でした。お隣の安閑天皇陵も見てきましたが、双方同じ西(すこし北)方向を向いた同規模の古墳で、同時代の同族の同じ方角に関する信仰をもった古墳ではないかと感じます。この日本武尊陵は、父である景行天皇陵と北緯34度32分52秒の東西ライン上にあり、この三輪山付近にある景行天皇陵もやはり西(すこし北)方向を向いています。さらに規模も同じ位です。つまりこの2古墳はやはり同じ方角信仰の観念をもっており、何らかの同族的なつながりがあったのではないかと感じます。ただし日本武尊陵は古墳中期、景行天皇陵は前期とされていますから、この辺の時代差も課題でしょう。さて、そこからすこし北に歩くと、応神天皇陵があるのですが、あまりに敷地が大きくもはや、何もいわれなければただのなだらかな丘にしか見えないところが不思議でした。この手の大型前方後円墳は、木々を伐採して石積み部分を露呈しないとモニュメント性が失われたでありましょう。その近くに誉田白鳥埴輪製作遺跡があるのですが、ここからは登り窯が多く出土したそうで、埴輪を焼いた場所だったようです。登り窯自体は渡来系と縁が深く、吹田市の吉士部神社出土の登り窯などは、そこから奈良方面へ瓦等を水運を通して運んだことがあったそうです。そして登り窯からだいたいこの地の古墳の製作年代が明らかにされてくるのでしょう。さらにまた近くには、はざみ山古墳があり、応神天皇陵と同類の円筒埴輪が出土しているそうです。さて、そこから日本武尊伝承とかかわりが深い雄略天皇の陵墓をみるために、タクシーに乗り恵我之荘駅方面へ行ってもらいました。雄略天皇陵は、古墳時代の陵墓にしては異例の円墳であり、見た感じやはり規模が小さい感じで、この地域の地図を見ても円墳が周囲に見えないことを考えると、いろいろ不思議な古墳であります。そこから恵我ノ荘駅方面に向かうと、大塚山古墳があり、タックンさんの情報にもあったように雄略墓ではとうわさされる理由が納得できる大規模な古墳でした。またこの古墳はこの羽曳野周辺の古市古墳群の中では唯一応神天皇陵と同じ方角を向いている古墳であり、その方角思想に同一の信仰観念があったのではと感じます。

いよいよ夕暮れも迫ってきて、最後の目的地、物部の本拠石切神社へ向かうことにしました。恵我ノ荘駅から大阪阿部野橋駅に出て、四天王寺駅から鶴橋駅へ。そして近鉄奈良線急行で生駒山を越えて生駒駅まで行き、そこから一駅逆戻りして生駒山を越えると石切駅に着きます。駅から生駒山地を南へと長い商店街をずっと降っていくと、石切神社に出ます。石切神社というところは、普通の神社にはない不思議な 石造物がたくさんあって驚いたのですが、入って左手にある水神社などは茨城鹿島近くの息栖神社の水際の鳥居などに類似性を感じました。この水神社の水の池には、亀の背に願い事を書いて放つ習慣があることが、説明板に記載されていたのですが、その中に穂積神霊社にまず祈り亀を放つことが記されています。この穂積氏が石切神社を本拠としていたらしく、会報でも書いたとおり日本武尊伝承においては、相模と房総半島との間に位置する浦賀水道を、尊が渡る際に、妻である穂積氏の娘が入水して神の怒りを鎮めたことが記載されていることがあります。穂積氏や同族物部氏と全国屯倉支配との関係も原稿に書いているとおりですが、なぜ鹿島に石上神宮の霊剣が模造されて安置されたのかなど、製鉄と水運との関係、穂積氏物部氏関連で解けてこないかと感じます。

夕暮れになり、今回も探索も終わりにして帰ろうと近鉄奈良線に乗っていて、ふと気づいたのは、石切神社から真東にラインを伸ばすと、春日大社にぶつかり、この春日大社の本宮から真南にラインを伸ばすと物部氏の本拠である石上神宮に出会うとのことでした。そう、3社を結ぶと直角三角形を描くわけです。そこで、先ほど興福寺から近鉄奈良駅に向かう際、春日大社に寄るべきではと感じていたことを思い出しました。行っておけばよかった!!ということで、ちょうど奈良線に乗っていたのでそのまま奈良駅に行き、タクシーで夜の春日大社へ。夜の春日大社、実は数年前にも夜中ここを素通りしていたことに気づいたのですが、何か意味ありげな場所ではあります。後で調べたところでは、藤原氏が支配する以前に、オオ氏らの春日山への信仰があったのではと、レイラインで有名な荒俣氏の意見もあるそうです。石切・石上神社とのライン拠点になっていることは、藤原以前の信仰拠点であった可能性を示しているのではないかと感じます。

今回の日本武尊伝承の拠点をめぐる探索を終えて明らかになってきたことは、日本武尊伝承が、尾張氏、穂積・物部氏、天皇家の支配拠点とその地域伝承とを融合する形で形成されていったことがあります。そしてその伝承拠点が原稿に書いたように正確な東西・南北ラインで結ばれていることも、単に後代の作者が拠点を選定してラインを引いたケースとは別に、やはりライン測量をとおして屯倉などの支配拠点を形成していった歴史を背景にしている可能性が出てきたように感じます。どうして尾張氏と穂積氏の娘が日本武尊の妻となり、この伝承に影響してくるのか、物部・尾張の霊剣伝承は何に由来しているのか、ご興味ある方はぜひ会報のほうを読んでみてください。それでは長くなりましたがみなさま今年もよろしくお願いいたします。