◆◆◆ 電脳PiCARO ◆◆◆第5弾記事

大祖国戦争(Great Patriotic War)の光と影
    もう一つの独ソ戦

山内 克介


 1941年7月3日、リャザン州のある村で農夫たちが鍛治屋のそばに集って、拡声器から流れるスターリンの演説に耳を傾けていた。それまで鋼鉄の人としてロシア農村の涙をかえりみようともしなかった<親父>が、取り乱した、涙ぐんだ声で「兄弟姉妹たちよ!...」と呼びかけた途端に、一人の農夫が黒いボール紙の拡声器に向かって応えた−「この売国奴めが、このざまはどうだい!」と言って、卑猥な仕草を拡声器に向けてやった。まわりの農夫たちは大声を出して、笑い転げた。
戦争の初期におけるロシア農村の感情はこのようなものであった。ということは、田舎の小さな駅で最後のウオッカの瓶を飲み干して、土埃のなかを肉親たちと踊りまくった予備役兵士たちの感情もこのようなものであったに違いない。

 そして大戦中、百万人を越えるロシア人が、ドイツ国防軍そして武装SSに属し、「大祖国戦争」を標榜するソ連邦に対し真っ向から闘いを挑んだ。戦後、彼等は「ヴラソフ兵」の名の元に「祖国に対する裏切者」として極北の彼方へ葬られた。東部において時には、武装SSよりも激しく戦ったロシア義勇兵とは、一体何者なのだろうか?...そして何が彼等をしてベルリン(バルト三国や西部ウクライナでは、その後も十年近く)まで戦い抜かせたのだろうか?彼等を通して、もう一つの大祖国戦争が浮き彫りにされる。

 彼等、ロシア人義勇兵の殆どは、ロシア十月革命の申し子たちであった。彼等の多くは革命後に生まれ、1937年には革命20周年記念パレードに参加し、開戦時には赤軍の大部分を構成していた。彼等は、バルバロッサ作戦をその顎と肋骨でもろに受け止め、破滅的な包囲戦によってドイツ軍の捕虜となった。そして完全な自由意志で、憎むべき敵であるドイツ軍に協力を申し出たのである。激しい消耗に悩まされていたドイツ軍前線部隊は、そうした彼等を「志願補助員(Hiwis)」として受け入れた。最初は運転手や炊事手伝いとして、後にはドイツ軍の軍服を着た分隊員として。そして彼等は、大量の捕虜の中から、占領したソビエト市民の中から、絶えること無く増え続けた。最も公正な体制を謳った社会主義ロシアで、最も正当な戦争が始まった途端に、これらの「裏切り行為」が噴出したのである。

 バルバロッサ作戦が始まった時−それは大量虐殺を伴った農業集団化(これは重税の為の第2の農奴制であった)から10年後に、ウクライナ地方の大飢饉(600万人もの人々が餓死し、人喰いが横行した)から8年後に、大粛清から4年後に、手かせ足かせとなった生産に関する法律が制定されてから1年後に始まり、しかも国内に1500万人もの囚人を収容していた強制収容所がいたる所にあり、年配の人々がまだ革命前の生活を生々しく記憶にとどめていた時に始まった戦争だったので、国民の自然な感情は自国の政権への嫌悪だった。そしていとも簡単に30万人もの(スモレンスク、ベロストーク)、また65万人もの(ブリャンスク、キエフ)武装した男達を見殺しにして、壊滅的な包囲網が完成し、各戦線丸ごと崩壊して、有史以来おそらくどこの国も、どの戦争でも体験した事のない電光石火の奥地への退却は、「奇襲を受けた」とか「独軍が航空機、戦車の数において勝っていた」(東部ファンならご存知の通り、人員装備において数量的に圧倒していたのは他ならぬ労農赤軍の方だった)からではなく、くだらない政権が一瞬にして麻痺し、その下にあった国民が、倒れかかってくる死体から逃げるようにそこから離散していったからであった。共産主義の幸福な24年間(1917-41)を肌身に感じて体験した、これらの人々は、既に1941年の時点で、まだ世界で誰一人知らなかったことを知っていた。それは、有史以来この地球上に、自称<ソビエト>というボリシェヴィキ体制よりも非道く、血みどろで、それでいてより狡猾な体制はなかったという事を。虐殺した人々の数において、長年に渡ってそのイデオロギーを深く食い込ませることにおいて、その見通しの良さにおいて、徹底的な画一化と全体制化において、地球上のどの体制も遠く及ばない事を。
1941年までのソ連国民は当然の事ながらこんな想像を抱いていた−「外国軍隊の到来は、すなわち共産主義体制の打倒である」−彼等は誰かの到来を待ち焦がれていた。誰でもいいから、とにかくスターリン政権に代わる誰かを待ち焦がれていたのだった。それは心理学でいう極地転換の願望だった−「もう嫌気のさした自分のものの代わりに、何でもいいから、他のものが欲しい!」というわけだ。「この世の中に我が国の死刑執行人たちより非道い連中がいるなんて想像できようか!」。どんなことでも、ソビエトの宣伝を真に受けてはならないと自身の体験から悟っていた彼等は、当然の事ながらナチスがロシアを植民地にし、彼等を奴隷にしようとしていると云う警告には耳を貸さなかった。20世紀の人間がそんな馬鹿げた事を考えているなんて想像もできなかったし、それは現実に自分の身を以て体験しなければとても信じられない話だった。こうして、彼等はオスト(東部)大隊へ、ヴラソフ軍団へ、パンヴィツのコサック師団へ、未来の「大西洋の壁」を築くために労働大隊へ、リビアの砂漠へ、英領チャンネル諸島の守備隊へ、果てはパルチザンを追跡して捕らえる為に農村の警察にまで(このパルチザンの多くも後にソビエトから見捨てられるのだが)身をやつしていった。彼等はこうすることで、かってボリシェヴィキ自身が使ったやり口を真似たのだった。ちょうど第1次大戦で弱り果てたロシアの身体に食い込んで行ったように、第2次大戦でも同じ時期に自国の政権に襲いかかったのだった。
 1941年8月22日に、赤軍第436狙撃兵連隊長のコーノノフ少佐は「自分はスターリン打倒を期してドイツ軍へ走るが、希望者はついて来い」と連隊の前で公然と宣言した。彼は反対にあうどころか、連隊が一丸となって彼の後についてきたのだった!こうしてコーノノフは戦線のあちら側で志願兵から成るコサック連隊を編成した(彼自身ドン河流域のコサックだった)。彼が希望者を募集する為にモギリョフ市の近くにあった捕虜収容所へ行った時、そこに収容されていた五千人の捕虜のうち、四千人までが彼の連隊へ入隊することを希望したが、その全員を取ることはできなかった。同じ年に、チリジット市近郊の収容所に収容されていたソビエト捕虜の半数が、つまり一万二千人が、今の戦争を内戦に変える時期がきたという内容の声明書に署名したのだった。また千人以上にのぼるレニングラード市の青年グループが、ドイツ軍の到来を待ってからスターリン体制と戦う為に、ガッチナ市近郊の森へ潜んだ(しかしドイツ軍は、これら学生たちを後方へ送って看護助手や鉄道工夫として使った)。
 41年7月16日に、スターリンが発した命令第19号にはこうした理由があったのだ−「いかなる戦線にも、敵陣に逃亡し、敵軍に遭遇した途端に武器を捨てるような分子が多数いる」(41年7月初めにベロストーク附近で捕らえられたロシア兵捕虜34万の内、2万が寝返った。スターリンは当時の戦況を絶望視して、41年10月には、ソ連領土に25個ないし30個のイギリス軍師団を上陸させて欲しいという電報を、チャーチル宛てに打電した)。1942年にも、オシントルフで義勇ロシア部隊が編成された時、そこにはとても受入れられないほど多数の志願兵が殺到した。スモレンスク州と白ロシアでは、農民達がモスクワの指導下にあったパルチザンから自分達を防衛する為に、志願兵から成る10万人もの<人民警察>を結成した(慌てたドイツ軍当局はすぐその解散を命じた)。また、1943年の春になっても、ヴラソフが2つの宣伝旅行(スモレンスク、プスコフ)を行なった時には、いつも住民から歓待と激励を受けた。その時分にもまだ住民達は期待をもっていたのだ−いったいいつになったら、我が国に独立した政府が樹立され、独立した軍隊が結成されるのか?と。さらには1943年3月だというのに、ハリコフ市近郊の将校捕虜収容所でヴラソフ運動(幻の)に関するビラを配ったところ、七百三十人の将校達が、ロシア解放軍への入隊呼び掛けに署名した。しかも、それは戦争が丸2年続いた後の出来事だった。彼等の多くはスターリングラード戦の英雄たちであり、その中には師団長たちも、連隊の政治将校たちも含まれていたのだ!しかも、その収容所の食事事情は良かったから、彼等が空腹に負けて署名した訳でないことは明らかだった。
 そしてこれらは全て、兵士や農民、コサックからなる全面的に下層の人々によって行なわれた。革命を逃れて亡命した元貴族や白軍将校の多くは、ソビエト・ロシアの側についてヒトラーと戦い、インテリゲンチアの多くは戦場で一兵士として死んでいった。こうして、もし侵略して来たのがあれほど愚鈍で高慢なドイツ軍でなければ、もし第3帝国にとって収奪に便利なコルホーズ制度を維持しなければ、この運動は一種の新しいプガチョーフの乱になったことだろう。その巻き込んだ階層の範囲と水準において、住民の支持において、コサックの参加において、高官の悪人を懲らしめるという精神において、弱い指導部と自然発生的な勢いが相まったことにおいて、それはまさにプガチョーフの乱に匹敵したであろう。この運動は、頭に描いた民主的な目標を掲げて赤色革命をもたらした20世紀初頭から1917年2月までのインテリゲンチアによる「解放運動」よりも遥かに人民的であり、庶民的だった。しかし、この運動は「母なるロシアへの裏切り」という屈辱的な烙印を押されて滅び去る運命にあった。
ところであのリッペントロップやヒトラーと結んだ友好条約(ベルサイユ条約に違反して、ソ連は将来の敵ドイツ国防軍に手を貸し、彼等がソ連の演習場を使って最初の幹部将校を育成し、戦車突破戦術や空挺降下など電撃戦の実技と理論を身につけるのを助けた)はどういうことか?戦前のモロトフ外相とヴォロシロフ国防相の空威張りはどういうことか?それに、その後のびっくりするような無能ぶり、準備不足、だらしなさ(さらに、夜逃げの様なモスクワからの政府脱出)、次々にスローガンを変えながら敗走し、包囲される度に五十万人近くの軍隊を見捨てるぶざまさ−これこそ祖国ロシアへの裏切りではなかったのか?これらの行為があれほどの悲惨な状況を招いたのではなかったのか?そしてようやくロシアの若者イワンと、「神聖なる露西亜」の力でしかドイツ軍の攻勢をヴォルガ河で食い止めることができなかった事も、失敗どころか、スターリン最大の殊勲とまで讃えられている始末である。そしてその手段にこそ、未熟なヒトラーにはとうてい真似の出来ないスターリンの老獪さがあったのであった。

東方の魂(オストレーゼ)

 かつてレーニンは第1次大戦2年目の1915年に、その著<社会主義と戦争>を初めとするいくつもの論文で、この戦争が帝国主義国家間の戦争であることを明らかにし、このような戦争においては「祖国防衛」のスローガンは国民を欺く為の空文句に過ぎず、戦争を国内戦に転化せよ、と訴えた。戦争を内戦へ切り換える−これはレーニンがヴラソフ軍よりも早く提唱した事だった。また愛国心の問題についても「プロレタリアートに祖国など無い、母国というものは反動的な思いつきに過ぎない」と謳った<共産党宣言>の言葉の正さを強調し、革命を有利にするために自国政府の敗北を望むべきだと述べたのだった。これは社会主義=共産主義国家の真実であり、ソ連では戦前、「愛国者」という言葉は「君主制主義者」と同義語であった。それがヒトラーとの戦争が始まった途端、戦争準備の点であれほど多くの見落し、見損じをしでかしたスターリンが、国民とイデオロギーの関係についてだけは見誤らなかったのである。スターリンはナチの奇襲を受けて丸一週間、呆然自失の状態で過ごした後(ロバート・デュバル主演のビデオ「スターリン:独裁者の肖像」に良く描かれている)、ボロボロに朽ち果てた共産イデオロギーの支柱には何の期待もかけず、賢明にもそれを投げ捨て、イデオロギーについてはおくびにも出さず、それに換えて、古きロシアの旗印を、時にはロシア正教会の旗をさえかつぎ出した(白々しい先進的イデオロギーがまたぞろ引き摺り出されたのは、戦争もようやく終わり近く、そして戦後になってからだった)。かくしてロシア人は猛然と立ち上がり、感謝の気持ちで一杯になった心を合せて、国境の向こう側からやって来た死刑執行人を前にして、生まれながらの寛大さで自国の死刑執行人どもを許してしまったのだった。こうして、ドイツの軍服を身にまとったロシア人義勇兵たちが、スターリン親父の首を切り落とそうとサーベルに手を伸ばした時、反対に赤軍の外套を着たロシア兵達が、ロシアの背骨をへし折られない為に立ち上がったのである。

戦場のロシア人義勇兵

 勝利の為には、党の基本理念をもかなぐり捨てるスターリンと違い、ヒトラーにはボリシェビズムの最大の被害者がスラブ=ロシア人である事に気付こうとしなかった。祖国ロシアの解放という祟高な希望に燃えて、ドイツ軍に志願したロシア人義勇兵たちは、すぐ自分たちがどんなことに巻き込まれたかを悟った。やって来た連中にとって、ロシアは立ち去った連中にとってよりも更にくだらなく、更に汚く見えていたことが分かったのだ。吸血鬼にとってはロシアの血だけが必要であって、その肉体はどうでもよいということが。本物のロシア兵として祖国ロシアの再建をでなく、ドイツの手下としてロシアの破壊に手を貸さなくてはならないことが分かった。だが、もう後の祭だった。彼等は車輪のように軸にはめ込まれ、その善悪はともかく、とにかく回転せざるを得なくなった。一方の死刑執行人たちから解放されて、今度は他方の死刑執行人たちの手助けをしなければならなくなったのだ。もちろん、ドイツ軍に志願したのは、これら志に燃える義勇兵ばかりではなかった。この長い、狂気じみた戦争には権力と血を好む掠奪者共も多数寄り集まった。ウクライナやバルト三国から志願した義勇兵の中には、ナチの絶滅収容所の看守やユダヤ人ゲットーの殲滅に加わった者も多数いた(あらゆるホロコースト書籍、映画に散見される)。勇敢に戦ったロシア人義勇兵の多くが、戦後、西側連合軍によってスターリンに引き渡されたのに対し、これら残忍極まる志願兵(?)の殆どは無事に逃げ去った。

 独ソ戦最初の冬に、ロシア人義勇兵から成る小隊と中隊が編成されたが、曹長と少尉はドイツ人だった(伍長以下はロシア人でもよかった)。号令もドイツ語(Achtung!Halt!)になっていた。そしてこれらの義勇部隊は赤軍に対してではなく、ブリャンスク、オルシャ及びポーランドのパルチザン掃蕩に投入された。また、他にも多くのロシア人志願兵が、非公認ながら前線部隊の補充兵として各歩兵中隊に12人の割で配属された。彼等は周囲のドイツ兵と同じ軍服を着ていたので、外見では識別できなかったが、その劣悪な環境−最悪の指揮、最低の装備、差別待遇、ドイツ兵からの蔑視、一向に編成されないロシア解放軍−に比べて驚くほど果敢に戦った。例えば、1943年7月、オリョール近郊でドイツ軍の軍服を着たロシア人小隊は、ソバキンスキエ移住村を死守した。これらロシア人義勇兵小隊は、この貧村を自分たちの手で建設したかのように、必死になって闘った。1人の義勇兵が穴蔵へ追込まれた。そこへ手榴弾を投げ込むとロシア人義勇兵は射撃をやめた。だが赤軍兵士がそこへ突入しようとすると、またもや短機関銃を撃ち始めるという始末だった。義勇兵が完全に沈黙したのは、対戦車用手榴弾が投げ込まれた後だった。しかし、これらロシア義勇兵たちがどんなに奮戦しようとも、ナチ首脳部の猜疑心を解くことはできなかった。ロシア人義勇兵は、最も歩の悪い将棋の駒として犬死を強要され、彼等にドイツの為にしか死ぬことを許さなかった。決して独立したロシアの運命を考えることを許さなかった。揚げ句の果てには、クルスク戦の失敗(作戦計画の漏洩)をおしつけられ、縁もゆかりも無い西ヨーロッパはフランスへ部隊ごと移送させられた(一部の部隊はパルチザン殲滅要員、焦土作戦の破壊作業班として依然ロシアに留まった)。こうして彼ら義勇兵の悲願であったボルシェビキ政権の打倒も、独立した自由ロシアの建設も夢と消え、第3帝国の傭兵として滅亡の運命を歩む道だけが残されたのであった。ロシア戦線では総じて勇敢だった彼等も、西部戦線において、ある者は戦わずして降伏し、またある者はやけくそになって戦死していった。

 ヒトラーとその側近は、既に全ての戦線に渡って撤退を始め、もはや破滅の瀬戸際にありながらも、個々のロシア人義勇兵部隊への根強い不信を拭い去ることができなかった。だから全面的にロシア人から成る師団を編成することにも、ドイツに従属しない独立したロシアの幻影を創ることにも踏切れなかった。ようやく戦争も末期になって、1944年11月になって、プラハで遅ればせながら猿芝居が許された。全ての民族グループを統一する<ロシア諸民族解放委員会>の結成であり、その布告の発表であった(その委員会ですらも、ドイツとナチズムから切り離してロシアを考えることが許されなかった)。委員会の議長には有名なヴラソフ将軍がなった。もはや赤軍がヴィスラ河とドナウ河まで来てから、ロシア解放軍の師団が編成され始めた。ところがドイツ人の先見の明の無さを嘲笑するかのように、これらヴラソフ麾下の各師団(ワルシャワ反乱鎮圧で悪名高い白ロシアのカチンスキー旅団の生き残りや、西部戦線で編成され、反乱、武装解除された元SS第30擲弾兵師団「ロシア第1」の隊員で編成された)は最初にして最後の独立作戦を展開して...ドイツ軍に攻撃を加えたのだった。もはやドイツが地図上から消滅しようとしていた時、国防軍最高司令部の合意を得ぬままにヴラソフは、45年4月末までにその2個師団半の部隊をプラハ附近に集結させた。5月5日、ヒトラー自殺が知れ渡り、プラハの市民が駐屯するドイツ軍に対して蜂起した時、ロシア解放軍はチェコ人の側に立ってプラハの市街戦に介入した。これまで抑圧され続けたロシア義勇兵たちはその非道で空しかった3年間にドイツ軍に対して抱き続けてきた屈辱と憎悪の限りを、今やドイツ軍に対する攻撃に爆発させたのであった。ドイツ軍は予想もしていなかった方向から攻撃を受けて、プラハから追い出された。こうして、あわよくばチェコを赤軍の進駐から守り、反共の防波堤として戦後の身の置きどころを確保しようとしたロシア解放軍であったが、プラハ解放の24時間後には、助けたはずのチェコ暫定政府からも退去を命じられる始末だった。その後ヴラソフ軍はアメリカ軍の方へ後退していった。ロシア人義勇兵の希望は、もはや西側連合軍にかかっていた。西側連合軍の役に立つ、そうすれば長い間ドイツで味わった苦しみも意味を持ってくると、彼等は考えていた。ところがアメリカ軍は、彼等の前に立ちはだかり、ヤルタ会談でスターリンと打ち合せした通り、ソ連軍への投降を迫ったのである。同じ頃、オーストリアでも9万の反共コサック軍団とその家族を、イギリス軍が騙し討ち同様にソ連軍に引き渡していた。中立国のスウェーデンでは、ソ連の御機嫌を伺う政府によって、クールラント包囲陣から逃れてきたロシア人義勇兵を強制帰還させていた。断固として故国に戻りたくない彼等の多くは自殺して果てた。またソ連国内でも、多くの反共義勇兵を出した民族を対象に、その民族を丸ごと中央アジアの砂漠へと、絶滅の目的で強制移住させていた。こうして、母なるロシアを巡るもう一つの戦争は終わりを告げ、彼らロシア人義勇兵と彼らの偉大な事業も次第に忘れられていった。

ボード上のロシア人義勇兵たち

 実際には、いかなるロシア解放軍(ROA:ヴラソフ兵)も、殆ど終戦まで存在せず、ドイツ軍の指揮下に様々な民族主義的部隊、東部大隊が欧州中に散在していて、精密な戦闘序列を誇るゲーム、あるいは余程気のきいたゲームでなければ、ロシア人義勇兵はボード上には現われない。中でも肝心の東部戦線のシミュレーションに登場するロシア人義勇兵は少なく、まとまった形で部隊が現われるのは(GDW)Scorched Earth(Fire in the Eastの続編:42年から44年までの全ロシア戦線を再現)ぐらいで、これには26種類に及ぶロシア義勇兵部隊と、10種類もの反ソビエトゲリラが登場する。実際のキャンペーンプレイ(8人戦)では、史実同様これらの微戦力ユニットにまで目が廻らず、鉄道や街をパルチザンから警護する為に配置されたら、後は完全に忘れ去られる。(3W)ブリッツクリーク・イン・ザ・サウスには、ウクライナ民族主義者ステファン・バンデラ麾下のウクライナ義勇兵部隊が登場し、虐殺を行なうべくリヴォフへ向かう。このゲームでは他にも、SD特別行動隊によるホロコーストも描かれ、独ソ戦のタブーに光を当てているのが印象的だった。山崎氏製作の(3W)クリミア・シールドには、クリミア・タタール人による義勇山岳歩兵が登場する。(AH)アドバンスド第3帝国には、ロシア義勇兵たちの夢であった<独立ロシアの樹立>をドイツが認めていたら?という選択ルールがある。(CoA)エーデルワイスには、現在のチェチェン紛争の原凶となった反共志願兵による対パルチザン哨戒が、また後作のプレリュード・ディアスターには、エーデルワイス用の追加ユニットとして親独コサック部隊が付いていた。(GAMERS)Enemy at the Gatesにも反共カルムィク人騎兵が、(SPI)チトーには、パンヴィツの反共コサック師団が登場する。東部戦線もポーランド、ドイツと後退して来ると、ぼちぼち義勇兵ユニットが登場するゲームが出てくるが、何を今更と云った感は否めない。ただ残念ながら(AD)走れパットンのプラハ仮想戦には、史実のヴラソフ師団は出てこなかった。
 ところ変わって西部戦線では、ロシア義勇兵により編成された東部大隊が盤上を賑わせている。また、それゆえにロシア義勇兵の事情を知らないゲーマーからは、邪魔だ弱小だと罵倒され、これまた史実同様、弾よけ足止め捨て駒とあらゆる逆境に堪え忍ぶか、全くかえりみられないかのどちらかである。そんな中、最も端的に東部大隊を描いているのが(AH)THE LONGEST DAYで、黒山ほどの東部大隊(自転車装備だったりすると、ボカージュを素速く移動できるので意外と重宝)と、ロシアで捕獲されたソ連製大砲がこれでもかとばかりに登場する。特に76.2mm野砲/通称ラチョ・バムも多く、東部で独軍戦車を震撼させたように、M4シャーマンも撃ったのだろうか?などとユニットを眺めているだけで興味は尽きない。(GDW)ラインへの道では、ロシア義勇兵で編成されたSS第30擲弾兵師団が初めて連合軍ZOCに入た際、反乱チェックを行なう。個人的に最も興味深々なのは、(3W)Hitler's Last Gambleに登場する第669東部大隊で、アルデンヌの戦いに参加した唯一のロシア義勇部隊である。彼らはソ連製兵器で武装していたのだろうか?バルジで実際に戦闘したのだろうか?是非とも、ダニー・パーカー氏に聞きたいものである。
 ともあれ、これらのゲームをプレイして気にかかるのは、彼ら非業の犬死を遂げたロシア人義勇兵の心情である。東部戦線ならまだしも(そこも酷いもんだが)、西部戦線で死んでいった彼らの胸中に去来したものは何だったのだろうか。ソ連に侵攻したのがナチ第3帝国でなければ。せめて柔軟な政策の下、ロシア解放軍の編成を認めていれば。だが、相手が人種馬鹿のヒトラーで、一方が銀行強盗あがりのスターリンでは、これも虚しい幻想に過ぎないのだろう。
 最後に、独ソ戦を描いた本の中でも屈指の名作、A・アナトリー(クズネツォフ)著「バービィ・ヤール(無削除決定版:講談社1973初版)」から、ロシア人義勇兵に関する記述を引用して、この記事の終わりとしたい。場面は−1943年10月末−独軍キエフ放棄に際し、キエフ市の破壊を命じられたヴラソフ兵たちが著者の母と話すシーンである。

 彼等の士官、元赤軍指揮官が僕たちの部屋の明りに気付き、ほろ酔い加減でやって来ると、並んで腰を下ろし、頭を抱え込む。
「何とも結構な目に遭ったもんさ。もとはと言ゃ、俺たちはロシアの自由の為に銃を取った。ところがその自由がこのざまだ。」
「味方に銃口を向ける者がいたって噂だけど、あなたもそうなの?」
「叛旗を翻した連中、捕虜収容所で死にたくなかった者、腹ぺこで仲間入りした奴ら、死にかけて入った者、色々さ。だがドイツ軍は馬鹿じゃない。たちどころに一番汚い仕事をやらせやがった。もう後には退けんようにする為さ。で、俺たちは首までそれにどっぷり浸ってるのさ。ドイツ軍と一緒に最前線に飛び込んで行くんだ。赤軍に捕まりゃ睾丸括って吊るされるわ。」
「どうしても逃れられないの?」
「どんな逃げ道があるってのかね?今時この世に、一体どこへ行きゃ逃げ道があるんだね?」
 仲間の士官が呼びに来た。
「止めろよ、ミハイル!いつもこうなんだ...一寸飲むと、すぐさま理屈をこねまわす。さあ来いよ。もう一杯やろうぜ」
 ミハイルは飛び上がると、ヒステリックな唸り声をあげ、シャツの前をビリッと引き裂いてこう言った。
「オーッ!俺たちゃな、溝にはまった犬ころみたいに野垂れ死によ!」

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