北隆鉱山・戦中に消えた北辺の金山






現雄武町にあった北隆鉱山は大正7年に発見された金山で昭和2年12月に日本鉱業に経営権が移り本格的な採掘が開始されました。昭和10年には青化精錬所を建設し、人口も一時は2000人を超える程でしたが戦中の昭和16年に閉山になっています。戦後も金採掘の調査が行われるも具体化せず、無人の地となって半世紀以上の時間が経過しました。



国道238号の脇にある看板。当初は行くつもりはなかったのですがこんなものを見せられては国道を折れずにはいられません。



案内は親切にも辻ごとにあり迷わず行くことができます。そうはいっても音稲府川沿いの道はダートが果てしなく続き、本当にこの先に目的地があるのかと不安にさせます。途中には農家の廃屋も幾つか確認できましたが川沿いは一部を除き荒野へと還っています。



そして案内板の出現です。昭和14年12月の集落の配置が記されていました。案内板は一部が錆びていて古く行先案内の設置より前からあるものの様でした。



居住機能は鉱山中枢よりも下流側に位置していました。地図には学校、郵便局、北隆会館、風呂場、床屋、消防器具置場、教員住宅、鉱夫住宅、鉱夫飯場、学校、校庭、診療所、神社、所長宅、職員住宅の記載があります。



鉱山中枢はその上流に離れて位置していました。地図には合宿所、大工小屋、ボイラー室、精錬所、材料庫、倉庫、供給所、事務所、坑、大工小屋、工作所、機械室、発電所、倉庫、重油庫の記載があります。



そしてそのあった場所ごとに案内板が立っています。墓地はただ林が広がるだけでした。



鉱山集落跡。戦前の住宅ということで木造であったと推測され当然のことながら今は痕跡は何も残っていません。



平成6年に北隆鉱山の碑保存会の手により建立された北隆鉱山慰霊之碑。日本鉱業株式会社北隆鉱山絵葉書の文章がそのまま刻み込まれていました。



神社跡。川の向こうに大きく育った木々が神社であることを静かに教えてくれます。



唯一の遺構として確認できたのは小さな橋梁の橋台部分。



そしてその前後を見渡すと車道の少し上にすっと直線の路盤跡が確認できました。軌道の跡かもしれません。


さらに奥地はまだ雪で覆われ単独で歩いていくのは危険を感じたので引き返しました。鉱山中枢訪問は次回持越しです。



北海道旅情報巻頭  3-1.炭鉱町を旅する
北隆鉱山・戦中に消えた北辺の金山