大和 郡山城



お城のデータ
所在地 奈良県大和郡山市城内町
遺 構 復興櫓、櫓門、曲輪、石垣、堀、移築現存門
形 式 平山城 築城者: 筒井順慶 築城年代: 天正8年


見 ど こ ろ

 『菜の花の中に城あり郡山』と許六が詠んだ大和郡山城。 今でこそ菜の花は見かけないけれど、桜は見応えがある。

 城跡には、梅林門、月見櫓、大手東隅櫓、多聞櫓が復元されている。 小振りで武骨な櫓や城門だが、豊臣秀長築城当時の城の姿を思い浮かべるにはもってこいだ。

 本丸天守台北面の石垣には、たくさんのお地蔵様が組み込まれてあり、中でも「逆さ地蔵」が有名だ。 また、平城京羅城門の礎石も石垣に転用されている。

 南門外の郡山高校グランド西側にある永慶寺(柳沢氏の菩提寺)には、唯一現存する建物の遺構である城門が、移築されている。


歴     史

 天正8年、筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ、筒井城から郡山城に移り、砦規模の城を本格的な戦国城郭へと修築を開始した。 

 城の修築半ばで2代定次は、伊賀上野城へ移封となり、天正13年に豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城すると、城の修築は本格化する。 豊臣秀長の死後、養子秀保が嗣ぐが文禄4年17歳で死去し、大和大納言家は断絶する。

 大和大納言家時代に内郭部分が完成していた城に、増田長盛が郡山20万石で入封する。 長盛は、城の修築を続け外堀(総堀)を普請し、ここに城の完成をみる。 しかし、長盛は関ヶ原の役に西軍に組みして領地没収となった。 

 元和元年、三河刈谷城主水野勝成が6万石で入封する。 勝成が備後福山に移り、その後に、松平忠明が大坂城から12万石で入封する。 水野・松平時代に大坂夏の陣で戦火を被って、荒れていた城を幕府直轄で、伏見城から城門を移築するなど近世城郭へと改修した。

 その後、本多・松平・本多氏と城主は替わり、享保9年に甲府城主柳沢吉里が15万石で入封する。 以後、柳沢氏は信鴻−保光−保泰−保興−保申と代々居城し明治維新を迎える。

 尚、柳沢氏大和郡山15万石は、大和国内にまとまっておらず、大和以外にも近江・河内国内にも領地があった。 近江五個荘には采地陣屋である金堂陣屋があった。


お城へのアクセス
鉄 道: 近鉄橿原線近鉄郡山駅、JR関西本線郡山駅〜徒歩
 車 : 西名阪道郡山IC〜国道24号線〜市道
駐車場: 郡山城梅林門前の無料駐車場(10台程度)を利用。


ひとくち MEMO
菜の花の中にあると詠まれたお城。

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