ミラージュ、または鏡 −Miroirs−

1.総論

この曲集から楽譜を見ただけではラヴェルの音楽を理解することが不可能になる。当時の文化的なこと、特に文学や絵画や舞台芸術に関する幅広い理 解が必要となってくる。今回私はこれらをある程度理解したうえで解説を進める。なお、このような視点でこの曲集を解説している人を見たことがな い。おそらく弾いている人も、フランスで勉強した人を除いては、あまり理解しないで弾いていると思われる。

この曲集は、「アパッシュ」という芸術家集団に属していた人に献呈されている。この点はきわめて強く意識する必要がある。当時の パリにはそういった芸術家集団がたくさんあった。ドビュッシーは当然のこととして、ピカソやランボーもこういう集団の中で作品を発表し、批評し あって互いに成長していった。当時はエログロを否定せず、むしろ醜悪こそが美であるという過激な、一種の「あべこべな価値観」が主流であった。ラ ヴェルのこの曲集もその価値観の延長上にあるし、エロスやその逆の孤独感など、多彩な要素が象徴的に盛り込まれている。このことを理解して弾かな いと、なかなか解釈が難しい。だから私は、子供がこの曲集を弾くことに強い抵抗感を覚える。ともあれ、ラヴェルがアパッシュのメンバーから受 けたインスピレーションを拡大し、音楽として再構成したのがこの曲集と考えられるので、アパッシュに関する考察なしでの演奏は困難になってくる。

解説を書くのに2年以上を要した理由は、そういった文化背景の勉強に時間を費やしたからである。正直なところ、背景を勉強する前はこの曲集が まったく理解できなかった。この勉強のおかげで、ようやくラヴェルやドビュッシーの曲をある程度理解できるようになった。彼らは文化背景を理解し ていた当 時の人のために曲を書いていたので、フランス文化史をしらない外国人には理解できるはずがない。文学者の書いた解説がえてして真実を突いているに もかかわらず、音楽評論家の書いた解説はどれも楽譜をなぞっただけにすぎないのは、このような理由によるのではなかろうか。

なお、日本語の標題は私が正統と考えるものに改めた。そもそも「鏡」はないだろう。ひどすぎる。「ミラージュ(Mirage=幻影)」と併 置することで、はじめて作曲家の意図が日本人にも理解できる形で表される。では鏡とは何か。鏡を見つめてウットリすることを意味しているわけはな いのは明白だ。むしろ、ナルシスの水鏡、おとぎ話に出てくる鏡、人の心を映し出す鏡、人を食ってしまう鏡、そういったものをイメージすべきであ る。

この曲集は、作曲者の心の鏡に映った幻影を切り取り描き出した、稀有な美しさを放つ作品集である、と私は結論付けた。ピアノ書法 の先進性や独特な和声法、時空を超越する思考力は、同時期に作曲された「ソナチネ」を完全に凌駕しており、ここに至ってラヴェルは自身の想念や気 分といったものを音楽に反映させる技法を確立し、さらなる未来へと羽ばたいていった。ラヴェル本人も、画期的な自信作であると言い切っている。私 はいままでラヴェルの考えていることがさっぱりわからなかったのだが、この曲集をしっかり勉強する中で、ラヴェルがいかに心優しく、繊細で、実直 な人だったのか、ようやく見えてきた。そして改めてラヴェルの音楽が好きになった。

これから各曲の解説を書くが、他の解説書ではありえない自説がいろいろ出てきても驚かないでほしい。でも私はこれがよい解釈だと考えている。さ すがに「これこそが正しい解釈だ」とは言わないでおくが。なお、音楽学的な解説はすでに多くの人がなさってるので、今回は割愛した。

 

2.各曲解説

(1)夜に舞う蝶(Noctuelles):詩人のレオン=ポール・ファルグに献呈。

これは日本語訳が大失敗だと感じる。「蛾」や「夜蛾」ではイメージが伝わらない。「夜に舞う蝶」とすることではじめて娼婦がイメージで きる。そもそもこの曲はファルグの詩の一節(部屋から部屋へと飛び移る蛾)にインスピレーションを得ているとされる。この一節が娼婦を暗示している ことは自明だろう。100年前のフランス人であれば、というかアパッシュのメンバーであれば、その程度の教養は当然持っていた。しか し言葉を額面どおりにしか受け取れない現代人にそこまで推し量れというのは無理である。若干意訳になってしまったが、意味が通りやすく象徴的な標 題に改めた。この曲集はラヴェルが象徴主義を意識した曲集でもある。
さて、ラヴェルは娼婦−おそらくはモンマルトルの娼婦−と仲が良かった。ラヴェル自身は同性愛者なので性的な関係は持たず、気の置けない友人とし て夜な夜な語り合ったのだろう。クロスリズムを用いたひらひら、ふわふわと舞うパッセージがまさに蝶のようであり、女性の衣服のベールのようであ る。エロティシズムと、すこしの悲哀を感じさせるフレーズから、彼女たちに向けるラヴェルの暖かい視線を感じさせる。

(2)悲しげな鳥たち(Oiseaux tristes):初演者リカルド・ビニェスに献呈。

ビニェスは学生時代からラヴェルやドビュッシーと知り合っており(ラヴェルと同年代)、ラヴェルのピアノ曲はほとんどこの人が初演している。こ のことからもわかるように、ラヴェルから絶大な信頼を得ていたのは間違いない。この曲もビニェスの言葉からインスピレーションを得ており、当人に 献呈されている。ラヴェル自身はつぎのように語っている。「夏の、とりわけ暑い日に、暑さで眩み迷い子になった鳥たちの姿。真夏の光も届かない、 ほの暗い森の中で動けなくなった鳥たちは、ひっそりと息絶えます。」
もちろん鳥は空を飛ぶ鳥のことではない。クープランが「葦」で孤立した王族の悲哀を描いて見せたように、ラヴェルは都会に住む同時代人が抱いてい た孤独感を鳥に見立てて描いた。標題は複数形なのだが、決して群れているわけではなく、1羽1羽はみな孤立しているのだ。気高くも悲しい情景であ る。

(3)洋上の小舟(Une barque sur l'ocean):画家のポール・ソルドに献呈。

これももちろん舟を描いているわけはなく、周囲や社会情勢に流されてしまう人々の悲しさ、愚かさ、おかしさを描いていると考えたほうがよいと思 う。悲しさとおかしさ、賢さと愚かさは常に表裏一体であり、人間の本質である。それが美しさであり、だからこそ芸術なのだ。ゆえに波は一定ではな く、拍節やテンポ感すらあいまいになっていく。このあいまいさをわかって聞くと、私はたまらなく悲しくなってしまう。これを美しいと感じられるほ どまだ人間として成長していない。よく引き合いに出される「水の戯れ」が感情を含まない純粋な描写であり、機械的なアルペジョによって表現されて いることと好対照である。
なお、波+小舟のイメージの源泉は葛飾北斎による富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」ではなかろうかご存知のとおり、この浮世絵には 大波に翻弄される3隻の舟が小さく描かれている。奥に控える富士山ではなく、この舟に目を向けたラヴェルの感性は、実にフランス人らしいと思う。 日本人なら豪快な波と富士山の対比に圧倒されるばかりで、舟までは注意が回らないだろう。北斎は当時のフランス文化人の間で絶大な人気があり、浮 世絵はもちろん、日本ではマイナーな北斎漫画ですらよく知られていた。ドビュッシーも自分の部屋に「神奈川沖浪裏」を飾っていて、この絵にインス ピレーションを受けて交響詩「海」を作曲している。なおポール・ソルドはアパッシュのメンバーである。ソルドは画家なのでもちろん北斎の絵を知っ ていて、ラヴェルに紹介したのではないかと私は推測している。

(4)道化師の朝の歌(Alborada del gracioso):批評家のミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシに献呈。

表題はセレナーデ(夜の歌)の逆だが、これはラヴェル流の逆説的な表現であり、内容的にはまぎれもないセレナーデと考えて良い。つまり伊達男と フラメンコ・ダンサー の一夜の恋のイメージを情熱的に描いた楽曲である。
音楽的には、全編にわたってラヴェルのスペイン嗜好が濃厚に反映しているのが特徴である。記譜上は8分の6拍子だが、ファンダンゴという12拍子 (3連符4つ)のリズムが基調になっていて、このリズムをことさら強調するような前奏から始まる。9拍子に変化するところは2+2+2+3の軽く て速い刻み(ダンサーのステップの模倣)と、3+3+3のリズム(楽器演奏や手拍子)が入り乱れポリリズム的になり、複雑な熱狂を表現している。 中間部では、甘い愛のささやきの合間にフラメンコのリズムが挿入される。
ピアノ書法的には「グロテスクなセレナード」の延長上にあるが、ギターを模倣した書法はいっそう洗練されている。ただフラメンコのリズム自体が難 しく、なかなかよい演奏に出会えない難曲でもある。ガット弦を掻き 鳴らす同音連打、スライド奏法による流れるようなアルペジョやグリッサンドなど、まるっきりギター曲のようなフレーズも多い。そう思っていたら、アンデシュ・ミリオンとい うギタリストが弾いていた。

(5)鐘の鳴る谷(La vallee des cloches):作曲家のモーリス・ドラージュに献呈。

この曲はもちろんフランツ・リス トの「オーベルマンの谷」のオマージュであり、連弾曲集「耳で聞く風景」に収録されていた「鐘の鳴る中で」のア イディアもとに独奏作品として生まれ変わらせたものである。ということで、一般的に「鐘の谷」とされる表題に「鳴る」という言葉を足した。ドラージュはラヴェルの弟子にあ たる作曲家で、幼少時にインドや中国、日 本に滞在したこともあり、ラヴェルにとっては羨ましい経験をしてきている。作曲家としても優れていて、ケージより前にプリペアドピアノを使うなど 前衛的なことをやっており、アパッシュ内での評価も高かった。
ラヴェル自身の言葉によるとこの曲は「正午にいっせいに鳴り響く、パリじゅうの教会の鐘の音からインスピレーションを得た」ということなので、鐘 はひとつではなく、いくつも折り重なっていると解釈すべきだろう。すなわち、冒頭の遠くの鐘にかぶさってくるチラチラしたパッセージはさらに遠く で鳴っている鐘の残響である。鐘はつぎつぎと重なりあい、響きあい、やがて消えてゆく。具象性の高い音楽である。しかし私は鐘= 人の心ま たは人間そのもの、ととらえたい。人は多くの人と出会い、影響を与えあい、互いに響きあい、離れていく。その様子を表現して いるのではないか。このように解釈すると、単なる象徴を超えた幻想性と、人間を愛したラヴェルの暖かい心が伝わってくるように思える。

 

3.あとがき

以上で解説を終える。ここに到達するまでの道のりはとても長く、険しかった。「標題の示す真実の捜索」はむずかしかった。けれども謎解きのおも しろさ、楽しさを初めて体験することができたように思う。
個人的なことだが、病に倒れこの解説を公開できずに生涯を終えるところであった。こうして無事に公開することができたことを、とてもうれしく思 う。ささえてくださった多くの人に感謝します。本当にありがとうございました。
最後に、この解説が読んでくださった人のお役に立てれば幸いです。

 

<改訂履歴>
2011/12/04 初稿掲載。
2011/12/10 カルヴォコレッシの著作を取り寄せて読んだので「道化師の朝の歌」の一部を修正した。
         「あとがき」に加筆。
2019/9/21 全体的に改稿。

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