「今日あなたは学校で何を学ぶのか」
- エピステーメー、テクネー、フロネーシス
(2000年8月19日唐津セミナーでの講演

オヴェ・コースゴール (AWE 世界教育機構会長、
デンマーク王立アカデミー客員研究員)

講演するオヴェ・コースゴール
講演するオヴェ・コースゴール
■富、貧困、そして知識

 知識というものの概念が富、貧困、そして教育を語る上で、非常に重要になってきています。

 古典的経済学は富を生み出す主な要素として、土地、資本、労働力の3つを扱ってきました。古代文明においては、最も重要なのは土地でした。富は農業によって生み出され食料備蓄を可能とし、都市の人口を支え、町を作り、戦争によってまた新たな土地を獲得する。土地はその源泉でした。これはエジプト、ローマ、中国、メキシコ、ペルー、カンボジアの古代文明に共通しています。また、中世のヨーロッパにおいても、土地は最も重要なものでした。

 産業革命後は、これに”資本”、”労働力”などの新たな要素が加わります。大量生産は少数の人々の保有する巨大資本を必要としました。今世紀初頭のカーネギー、1920年代のフォード、1950年代のアメリカ、1980年代の日本はその典型です。

 19世紀の資本主義においては”労働力”は、単に賃借され、雇用され、また解雇されるといっただけの大して重要ではないものでした。しかし、社会主義の出現は、それまで資本主義社会の中で脇役であった”労働力”を、経済活動の主役に押し上げました。これが社会主義に政治的にアピールする力を与えたのです。

 しかし、多くの経済学者たちは、今日の経済は土地、資本、労働力といった3要素だけでは理解する事が出来ない。そこに4番目の要素、”知識”を加える事が必要だと主張しています。

 今日、世界経済において”知識”は重要な原動力となっています。個人、会社、共同体、そして国家が富を出す上では、土地、資本、労働力よりも 日本やデンマークにおいて、富は人的資源がその80%を構成し、残りの20%を土地及び、天然資源が占めるに留まっています。

 21世紀における富の創出は技術、知識獲得システムの変化を求めています。成功するために必要な技術、知識は益々増え続けると共に、急激に変化しています。このような状況の中、人生初期の12年、16年という期間内だけで生涯に必要な技術を得る事は難しくなっています。ここに生涯教育の必要性がますます現実味を帯びてまいりました。

 今日、教育や職業訓練は、生涯教育の必要性を求めている世界市場への入り口となっています。生涯教育の概念はこのような社会状況の中で非常に重要なものとなっています。

■どのような組織を我々は望むのか?

 過去の歴史において、知識の伝達は農耕、台所などの家庭、ギルドのような徒弟制度などの環境で、年上の者、若い者が直接関わる事で行われてきました。学習においては学校が職場にとって変わるようになった事が、知識伝達の上の決定的な変革をもたらしました。学習場所が職場から教室への移行していった時期は、近代国家形成と時期と時を同じくしています。

 学校が職場に取って代わり始めたはのフランス革命以降です。デンマークでは、1814年、すべての子どもたちのための公教育が世界に先駆けて始まりました。日本においてすべての子どもたちのための公教育は、1868年の明治維新以降、導入されました。デンマーク、日本の教育における新たな動きは、同じ原則の上に、始まってはいますが、その形態はにはかなり差があります。最も大きな違いは、教育に対する国家の関わり方にあります。ナショナリズムには国家的ナショナリズムと民衆的ナショナリズムの2つがあります。国家ナショナリズムとは権力側から与えられるナショナリズム、民衆ナショナリズムは民衆から湧き起こってくるナショナリズム。それぞれの状況によって、また教育制度の形も変わってきます。

 明治時代、日本政府は、当初、それまで存在していた僧侶、医者、その他、有志の教育者たちによって運営されていた民間学校(寺子屋など)のに対しては一定の敬意をもって接していました。しかし、その後、間もなく、管理に向けて動き出します。1881年には教育内容を指定し始めます。今日においても日本の学校は学習指導要領というナショナル・カリキュラムに従う事が強く義務づけられています。文部省は小学校から高校に至るすべての学年の教育内容を指定しています。

 一方、デンマークでは1848年から1849年以後の民主主義革命以降、教育制度においても革命が始まりました。1852年、クリステン・コルは最初のフリースクールを設立しました。その後、1885年のフリースクール法に基づき、親の教育権がしっかりと確保され、議会はそれを更に発展させて行きました。今日、デンマークの親たちは地元の公立学校か、或いは政府の補助を受けている多くの私学小学校の一つの中から、好きな学校を選ぶ事が出来ます。また、強い意志、粘り強ささえあれば、彼等の信念に基づいた新しい学校を設立する事さえ出来ます。

 過去、150年の間、デンマークは公立学校、フリースクール、2つの学校制度を維持してきました。そして今日、約15%の子どもたちがフリースクールに通っています。

 時同じく、近代国家形成の中で、成人教育大きなうねりも起こって来ました。新しい知識を学ぶ機会を提供する多くの社会が出現してきます。デンマークでは青年のための最初の教育機関が1844年に設立されました。これはグルントヴィによって作られ、フォルケホイスコーレと呼ばれました。

 知識創出という観点から歴史を見た時、すべての子どもたちのための公による無償の義務教育は、人類の最も大きな社会的発明であると多くの人々も認めるでしょう。これにより、家族収入と教育とのくびきが断ち切られ、特定世代における無知や低収入がそのまま次世代の無知、低収入に繋がることはなくなりました。教育を受けた者は、職場においても同様に教育を受けた同僚と仕事をするようになりました。作業マニュアルを読む事が出来ない仲間に何をすべきかを一から説明するため、多くの時間を費やす必要もなくなりました。

 結局のところ我々が当たり前と思っている生活水準の向上、継続的な富の拡大が可能となったのも、このような公教育があったからです。継続的な経済成長は、19世紀、公教育が導入される以前のデンマーク、日本では、誰も想像出来なかった事です。

 日本においては高い生活水準、強い経済力は激しい教育競争の上に成り立っていると考えられており、学校は多くの親、子どもたちにとって最大の関心事となっています。日本ほど教育が子どもたちの将来にとって大きな意味をもっている国はないと思います。これは片桐義男教授が書いているよう、その後の人生を確定していまう”学歴社会”や高等教育機関のための”受験戦争”を引き起こしています。

 デンマークおいても高い生活水準は市民の高い教育水準の上に成り立つと考えられています。しかし、デンマークに”学歴社会”はありません。また、高等教育機関に入る為の”受験戦争”も非常に緩やかです。デンマーク教育は、一般的に、難しい試験をパスするために、大量の知識を覚え込ませる事を重視しません。一般的に”ソフトスキル”と呼ばれる、理解する事、想像性、仲間と協力、コミュニケーションをはかるなどの能力を重視します。

 デンマークの教育は、知識の創造は個人作業でななく、社会的作業の産物であるというグルントヴィ思想の影響を受けています。従って、教育においては、相互の関わり合いこそが大切であります。グルントヴィに言わせると、生きた会話こそが、生きた関わりあいを成り立たせるのです。教育とは経験豊富な教員が言葉によって語る事に始まり、教員と生徒、或いは生徒間同志の対話に終わるであります。曰く、「教育の目的は生きた関わり合いの中で明らかになる・・」と言っています。

■どのような知識を我々は必要としているのか?

 知識という時、それは何を意味するのでしょうか?知識は知識だなどと簡単に片づけていまって良いものでしょうか?それとも幾つかの知識に分けて考える必要があるのでしょうか

 これについて、ギリシャの哲学者、アリストテレスは知識を3つに分類しています。

    1.エピステーメー、  科学知識

    2.テクネー、     技術的知識

    3.フロネーシス   良識、或いは知恵

 科学知識(エピステーメー)は知識の一つの形態です。技術知識(テクネー)も、別のタイプの知識です。そして良識、知恵(フロネーシス)が3番目の知識です。一番目、科学知識の伝達者は科学者であり、2番目、技術知識の伝達者は技術専門家たちであり、そして3番面、良識、知恵(フロネーシス)は市民のものです。

 長い間、知識という言葉の持つ多面性、複雑さは忘れられていました。知識とは単に、科学知識(エピステーメー)、技術知識(テクネー)のみを指し、3番目の良識(フロネーシス)が取り上げられる事はありませんでした。また学校も科学知識、技術知識のみを重視してきました。しかし、ここ2、30年間で、知識という概念についての多面性、複雑さが再発見されるようになりました。そして3番面の良識(フロネーシス)が非常に重要である事が解ってきました。昨今、固有の知識、良識、無言の見えない知識、伝統知識などの新しい言葉が出てくるようになってきた事も、その傾向を表していると思います。

 グルントヴィの生きた時代にあっても、科学知識、技術知識は重要でありました。またグルントヴィ自身も決してそれら知識に反対していた訳ではありません。ただ彼が危惧したのは、第3番目の知識、フロネーシス(良識、知恵)が消えてしまう事でした。このような理由から、彼は新しい学校、フォルケホイスコーレを考え出したのです。

 フォルケホイスコーレは、第3番目の知識、フロネーシスが大切であるという事だけでなく、生のための学校と呼ばれる環境の中で学ぶ事が出来るとの前提の上に成り立っています。グルントヴィによると、フロネーシスを学ぶ為に、教育は民衆的、庶民的でなければない。彼はまた、教育は”歴史的、詩的”、過去の歴史の中から我々にとっての新たな意味を見つける行為でなければいけないとも述べています。過去の歴史において、デンマークのフォルケホイスコーレは、3番目の知識、フロネーシスを伝達するため、ただ今述べた歴史的、詩的教育方法をとってきました。文学、芸術、体育、歌、音楽、工芸を通じ、それを実践してきました。

■危険と隣り合わせの社会における学習

 ドイツの社会学者、ウルリヒ・ベックは、デンマークにおいても日本においても我々は未だ脱工業化社会に生きていない。いや、我々はむしろ危険に満ちた社会に住んでいると言っています。ベックは富の拡大、危険の拡大の2つを分けて論じ、古典的工業化社会においては”富の拡大”ばかりが”危険の拡大”よりも、殊更、大きく取り上げられてきた。しかし、危険に満ちた現代社会においては、それは逆転だと言っています。社会は手放しで科学を受け入れる事が出来なくなっている。産業技術が力をつけてくるにつれ、危険も拡大の様相を見せています。初期段階においては見えにくい副作用に留まっていたものが、それが世界化するにつれ、市民による批判、精査に晒される事になり、政治的、社会議論の中心的な課題となってきました。

 今日、科学の独占が崩れる事により、知識の多元化、多様化が進んでいます。これにより、アリストテレスが言った3つの知識の定義、エピステーメー(科学知識)、テクネー(技術知識)、フロネーシス(良識、知恵)が見直される事となっています。特に危険に満ちた現代世界では、3番目の知識、フロネーシスが新たな注目を集めています。科学知識、技術知識を学ぶだけでは充分でない。危険に満ちた社会においては、良識、知恵を学ぶ事が必要なのです。グルントヴィの示した”生のため学校”は決して時代遅れでなく、将来にとってこそ必要なのです。

 グルントヴィ教育思想に強い影響を受けている世界教育機構の基本的な考えを最後に示し召しながら、まとめにしたいと思います。我々は主張します。我々が世界に身近に関わっていという事を教育が気付づかせるものであるとするならば、我々自身、我々の共同体を知ることが最も効果的であり、且つ、満ち足りた体験になるはずです。今日、世界とその各地域は過去に経験した事がなかったほど、繋がり、相互依存を深めています。

 今日、世界の様々な地域が運命を共にしている。人類は同じ地理的、生態学的領域に住んでいるのです。この認識は新たな形での世界の一体化を促します。富める者、貧しい者の衝突を根絶する事は出来ないにせよ、限られた環境のなかで生きる共同体の一員であるという新たな認識を持つ我々は必要があると考えます。

 今日、進みつつある世界グローバル化にも2つのタイプがあります。その一つは権力側、上から進められるグローバル化、また別の一つは民衆の側から進められるグローバル化です。この唐津セミナーにみなさんが集うことこそは民衆の側から進められるグローバル化にほかなりません。ご静聴ありがとうございました。(訳 藤森修一)