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4Sクラブ2006年3度目 |
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2006年3月5-6日、前回スキーを始めたばかりの西川の特訓のための臨時スキー会に参加した。特訓の教官は小林氏だ。これに1級のバッジテストを目標にしている川上が参加するというので急に参加を思い立った。日曜日には北沢家 三代もほぼ総員が参加した。
第一日目
天気は快晴。朝5:00起床で自宅を出発、9:00長野駅集合、小林氏の車で西川と共に野沢に到着。昨日から2泊で来ている北沢、川上 ら先発グループと携帯で連絡をとって上の平で合流すべく、日陰ゴンドラリフトで上ノ平に移動。ここで訓練をしながら先発グループとの合流を待つ。
今日が2度目の西川訓練生にとっては上ノ平ゲレンデの下のほうはスロープがキツイ。何度も転倒を繰り返す。疲労がたまっては訓練できないと小林教官に北沢氏の息子さんも加わって、ボランタリーコーチ3人が救援活動を展開。リフトの乗り降りも迷惑のかからないように両側から訓練生を抱えて行うという徹底ぶりであった。北沢氏はスロープの緩い、上 ノ平上部で訓練をしているだろうと判断してさがしたため合流できず、結局全員が日陰ゲレンデに下りて遅い昼食をとる。(訓練生はゴンドラ経由で下る)
午後は全員一緒に上ノ平ゲレンデに登り、上部ゲレンデで訓練を行うことにした。北沢、川上、青木の3名は訓練生と小林教官を残して毛無山山頂に登る。今回は苗場山に加え、越後駒ケ岳と八海山が重なって、その右に中ノ岳が並んで真っ白な姿を見せていた。
上部ゲレンデの方がスロープが緩く恐怖心がわかないので、訓練生はかなり心の余裕を持ってシュテム・ウェーデルンができるようになった。大進歩である。
毛無山を背景に上の平上部ゲレンデにての特訓
訓練も終わって宿に帰るべく林間コースを下っているとき、私がうつぷせに倒れて気を失っているのをあとから下ってきた北沢氏がみつけた。からまってしまったスキーを外して助け起こそうとしたところ、ムクッと自分で起きあがり、スキーをはいて又滑り出したという。ただしパラレルクリスチャニアではなく、ボーゲンであったとのこと。
しかし私には転んだ理由、助けられた模様、そして滑り出してしばらくするまでが全く思い出せない。私の記憶では出来の悪い映画のようにシーンがプツンと変っただけで連続して滑っているのだが、「なぜ私はここで滑っているのか」という疑問がなんとなく頭にうかぶ。「ああソーだ友人とスキーに来ていたのだ。しかしなぜか上手くすべれないな。疲れたのかな」という感じであった。脳震盪だと皆がいう し、北沢ジュニアの奥さんが同じ経験をしたというのだが貧血になって視野が暗転した経験しかない身にとって全く不可解な現象であった。
それに宿にかえってズボンのポケットに見覚えのないカギが入っていたのにも驚かされた。これは一緒にいた西川に「エーそれも覚えていないの?スキーをロックしたカギ じゃない!」といわれて、ようやくそこだけの記憶は戻った。
川上が 安全を見て風呂はパスしたがよいというので素直に従ったが酒の魅力は抗しがたく、少々飲んだ。カラオケにも川上と二人で繰り出したが歌えるはずの歌が上手く歌えなかった。
第二日目
朝方は雨のためゆっくりと食後の団欒をした。政治の舞台での新聞にもテレビにも報道されない、取材合戦の裏話を取材側と取材される側のかってのそれぞれの立場から話すのを聞くのはトテモ面白いものであった。隣の席の埼玉からきたというグループなど、とっくに朝食が終わっているのに席を立たずに聞き耳を立てているしまつであった。
雨も上がったため、昼までの時間は昨日の午後の繰り返しとなった。訓練生の上達はめざましく、来シーズンは皆でそろって林間コースを下れるようになりそうだ。
午後3:00には長野駅解散。
一過性の脳梗塞ではないことを確認したくなって、
帰宅翌日、湘南鎌倉病院でCTスキャンを含む検査をしてもらう。脳震盪という診断をもらってめでたく一件落着した。頭をぶつける直前の記憶がなくなるのを逆向性記憶障害というのだそうだ。記憶が固定するまでにしばらく時間がかかるので外傷があったときより少し遡った時点以降の記憶が形成されないためという。
海馬(RAM)から永久記憶(HD)への信号がしばらく途絶えるのと同じだ。残念ながらこの記憶は永久に失われてもどらないという。作家片岡義男がいうように自分の人生は記憶の総量とイコールだから、なにか人生の一部を失ってしまったような寂しさを感じた。
損傷からあとの記憶が失われたり、ものを覚えにくくなることを順向性記憶障害というのだそうで、スキー保管のカギがなんであるか自分では思い出せなかったのがそれにあたる。
人から教えてもらってようやく記憶がよみがえった。
CTスキャン影像で脳血管からの出血や閉塞は見えなくとも脳細胞のいくつかと、神経線維がダメージを受けているのだそうだが、しばらくすれば別の回路ができるのか実質何の障害もでないという。
直後の入浴は控えたが、酒は若干飲んだ。じつはこれは危険な行為であって内出血は転倒後3-6時間継続するので、それまで待たねばいけないのだそうだ。しかし結果オーライで、第2日には毛無山の頂上から滑降できたので後遺症はない。
今後数週間は慢性硬膜下血腫だけを注意すればよいという。頭痛、頭重感、歩行障害、手に力が入らないような症状がでたら病院にかけつけて溜まった血を抜けば完治ということのようだ。医者は登山はOKということであった。
どのようにして転倒したのか目撃者は居ないが、直前、内股の筋肉疲労を感じたのを覚えている。うっぷせに倒れ、めがねも外れていたというのでスキーのエッジを雪面にとられて股裂き状態になり筋肉の力が衰えているために修正できず前のめりに転倒したと考えるのが妥当だろう。
反省点は長い林間コースをノンストップで滑降するのではなく、中間点で休憩を入れるべきであったということ。評価できる点は常にスピードをセーブしているので大事に至らなかったのだということである。
ゴーグルは着用していなかったが、顔面制動の場合に緩衝材になるので着用すべきなのだろう。ボード用のヘル着用などよいかもしれない。 少し通気性が悪いが、モーターサイクル用のジェットヘルを試してみよう。
ルートマップ
March 8, 2006
Rev. February 23, 2009