アムステルダム市

満席のKLMのボーイング747で10時間辛抱すればスキポール空港につく。ビジネストリップならすぐタクシー乗り場に直行だが、今はバックパッカーの身の上、アムステルダム中央駅行きの切符を買い、エスカレータでホームに下りて列車に乗り込む。20分もすれば、中央駅につく。列車が動き出して思い出したのだが切符切り場がないので自分でホームにある黄色いスタンプ機に切符を差し込んで日時を刻印しておかないと不正乗車とみなされ、車内検札でみつかると高額の罰金を科されることである。幸い車内検札はこなかった。寒い国なので乗るときも降りるときも他の客が居ない時はボタンを押さないとドアは開かない仕組みになっているので注意が必要である。オランダでは自転車を列車に持ち込めるので旅に出るにも非常に便利だ。

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アムステルダム中央駅ホーム

駅ホームはヨーロッパはどこでもおなじみのドーム状の屋根の下にすっぽりと納まっている。中央駅の北側は北海と連なる北海運河に面しており、ここから北岸までフェリーが定期的に出ている。北岸にはシェル石油研究所の高層ビルが見える。南側はカイペルス設計で1889年に建設されたネオ・ルネッサンス様式のレンガ作りの駅舎がある。東京駅のお手本となったという。

駅近くにホテルを予約したのだが、探すのは面倒とタクシーに乗り込むが、すぐ近くだから歩いて行けと言われる。やむを得ずトランクを引きずりながら石畳の歩道をホテルまで歩く。この石が皆輸入したものだというから驚く。どうりでレンガの建物が多いはずだ。

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アムステルダム中央駅

アムステルダムは基本的には水の都、ベニスに似て運河が多く、16世紀に掘られた運河が中央駅を中心にして半円状に何重にも囲む構造がそのまま残っているためか、地下鉄は4路線しかなく、市電、バス、自転車が主要な市内交通手段だ。市電、バスは馬力があって乗用車のように急加速、減速するのでバカにしてはいけない。それと自転車専用道路を自転車が高速で走てくるので歩行者は常に左右に目配りしていなければならない。オランダの自転車はブレーキハンドルがなく、ペダルを反転させて後輪のハブ内に仕込んだブレーキで制動するタイプなので急には止まれないのだ。

ホテルにチェックイン後、日没まで間があったのでアムステル川にダムを築いてアムステルダム発祥の地となった、ダム広場までノイエダイク街を散策する。観光客で一杯だ。観光客若者と退職者と思しき初老のグループに大別される。観光客は言葉のなまりから識別するとお隣のドイツ人が一番多く、英国人とフランス人がこれに次ぐ。米国人はほとんど見当たらない。アジア系では中国人が一番で日本人が少々という感じである。中国人がかっての日本人の地位を奪ったようである。

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ダム広場、王宮、新教会

ダム広場から東進し、運河を二つ横切り北進すれば、飾り窓地区(レッドライトゾーン)だ。まさにピンクの蛍光灯が窓に点燈している。旧教会、旧証券取引所脇を通って、ホテルに無事帰着。

二日目はハーグ市とデルフト市に日帰りで列車で出かけて不在。

三日目は再びアムステルダム市内観光とした。午前中は王宮から西教会へと歩き、西教会近くのアンネフランクの隠れ家を訪問した。隠れ家の隣を出入り口、展示場、ユーティリティーゾーンとして本体横から中に入る。有名なドアに作りつけの本箱より奥は別棟になっていて、表通りからは見えないが、奥の別棟はこの界隈の家屋が作る中庭に面しており、夜など明かりが点燈していれば他の家屋から見えたはずである。結局、いまだ不明の密告者に裏切られることになるのは時間の問題だったのだろう。室内はかって彼女の本で読んだとおりに保存されており、ただ一人生き残った父親の無念さと保存への執念のほどが察せられる。

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西教会とアンネフランクの隠れ家

プリンセン運河沿いにカナルハウスなどを見ながら散策し、ノールデルマルクト広場で小鳥市というファーマーズマーケットで明日の朝食の材料を仕入れる。中央駅前でカナルクルーズ船に乗り込む。幾つかの会社が違ったルートをクルーズしているが、このLovers社の船は一旦北海運河に出た後、ヘーレン運河を南下し、アムステル川に出てモンテルバーンズ塔脇を通過してオーステルドック、北海運河にもどるというコースを取る。大勢の中国人の一団が船を下りてダイヤモンド研磨会社に消える。

プリンセン運河沿いは特に裕福な商人の館だった建物が多いそうだが、いずれも運河に面したレンガ壁は少し運河側に傾き、破風上部には荷物を引き上げる滑車をかける棒が突き出しているという基本デザインは同じである。戦火にも遭わず17世紀に出来たものがまだ残って実用に供せられているため街並みは古めかしい。

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カナルクルーズ

カナルクルーズ後、再度、飾り窓地区と中華街を横切って1512年建設のモンテルバーンズ塔を1999年に描いた水彩画を描いたであろう橋の上にたどり着き、記憶を頼りにシャッターを押す。下の写真がそれ。ボートハウスが手前右の橋を隠してしまっている。アムステルダムに限らずオランダの古い建物や塔はいずれも地盤がわるいため、程度の差はあれ傾いている。地震がないため、不安なく永く使えるのだ。

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モンテルバーンズ塔

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水彩画のモンテルバーンズ塔

市庁舎裏のノミの市を見ようと歩いてゆくと中国人が消えたくだんのダイヤモンド研磨会社の門の前にでる。見学OKとのことなので案内を乞うた。ノミの市をひやかした後、15世紀後半に造られたというムント塔の方角に散策しているとホテル・デル・ヨーロッパの前にでる。これが九州のハウステンボスのホテル・ヨーロッパのモデルとなったものらしい。

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ホテル デル・ヨーロッパ

四日目はライデン市とザーンセ・スカンス村を訪問して不在。

五日目は再びアムステルダム市内観光とした。東京の環状線内の面積の数分の一のおおきさだから数日あればほぼ徒歩ですべて廻れるが、今日は路面電車に乗って南下し、コンセルトヘボー前で下車、ミュージアム広場を国立博物館に向かって散策する。ちょうどフェルメールの特別展示中であった。

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国立博物館

ここでのお目当ては当然、レンブラントの「夜警」と上の写真の看板にもでているフェルメールの「牛乳をそそぐ女」である。フェルメールの「デルフトの眺望」はすでにハーグのマウリッツハウス美術館で観、デルフト市で画家が立ったであろうスキー運河の南岸から東門を見ている。ところでフェルメールの全35枚の絵は完璧な遠近法で描かれ、まるで写真のような絵である。これをどのようにスケッチしたかについて二論あるそうだ。一つはカンバスにピンの穴跡があることから、このピンに糸を張って放射状の線を描いたという説と当時出回ったレンズをつけた暗室、すなわちカメラ・オブスキュラ(暗室)に入って壁にカンバスを張り、その上に逆さに写る像をなぞったという説である。

レンブラントにしろフェルメールにしろ巨匠の後にはそれを支える旺盛な需要があったわけで、数しれぬ画家がプリンセン運河沿いの今でも残る館を建てたであろう裕福な商人達の肖像画、嵐にもまれる帆船、罪人の船底くぐりの処刑図、英国勃興後の1652-54年と64-67年の2度にわたる英蘭戦争の海戦画、浜に休む帆船などが多数ある。グリーンウッド氏は帆船の絵が好きなので大いに堪能した。写真撮影はフラッシュを使わない限りOKなので下に2件、紹介する。

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英蘭戦争の海戦画

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浜に休む帆船

国立博物館を出て雨の中を隣のヴィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館に向かう。途中ビルダーバーグホテルの前を通る。ここはビルダーバーグ倶楽部発祥のオーステルベークのホテルのアムステルダム本店だ。

ヴィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館での展示はめぼしいものはなかった。なぜかロシア人の団体客が大勢でおしかけていた。ロシアは一時の混乱もすぎ、石油資源大国でもあり、経済状態がよくなったようである。自宅の観賞用にカナダ産のコピーカンバス画を買う。

昼食後、レイツエル広場ですれ違った紳士に日本から来た方かと声をかけられた。うなずくと「日本の凋落振りは忸怩たるものがある。日立、東芝、富士通などははもう再起不能ではないか。日産など外国人の助っ人でたちなおったとはしゃいでいいるがみっともない話だ」とおっしゃる。「それにくらべトヨタはしっかりしているから大丈夫だ。東京の悪弊にそまっていないところがいい。イモがリーダーをつとめるのがいい。ソニーなどアブナッカシイ」とおっしゃる。「たしかに日立など欲しいとおもう製品を出してませんね。ところでここはオランダですよね、オランダ人のウォルフレンが日本を良くするにはまず東大を廃校にしなければダメといってますよ」と受けると「まさに教育こそ日本経済を再活性化させるポイントだ。日本の次世代のリーダー育成が大切。それと率直に意見を言える国にすること」」とおっしゃる。氏は安田財閥の末裔の一人の名取という者だと自己紹介された。スタンフォード大を出た後、日本生産性本部の郷氏に目をかけられ、マクナマラ総裁時代の世銀で働き、今は人材育成事業に携わっているらしい。奥さんはフランスでピアノの教師をし、スイスに別荘を持って、仕事で日本に時々帰るという優雅な生活をしているとのこと。互いに意気投合し、レイツエル広場に面するカフェで約1時間お話をうかがう。「バブルに躍った堤清次が目前のレイツエル広場の由緒ただしい高級ホテルを買収したが、結局手放した」と教えてくれる。グリーンウッド氏が奉職したエンジニアリング企業も堤清次の不始末で多大な損害を被り、訴訟事件まで経験したのでさもありなんと相槌をうつ。「三井不動産の江戸英雄氏の恩を忘れるような小澤征爾など人物としては小さい」と散々である。空海より最澄の方がほんとうの宗教者であるなどという意見もうかがった。楽しいひと時であった。

シンゲル運河まで更に歩き、シンゲルの花市、ベギンホフという身寄りのない女性の養老院を視察してホテルに帰着。

第六日はアムステルダム最後の日である。いままで見落としていたニューマルクト広場、旧東インド会社、レンブラントの家、アムステルダム植物園を訪問しようと再々度飾り窓地区を横断して出かける。旧東インド会社は今はアムステル大学の図書館にな っている。かってVOCのマークは世界を席巻していたのだ。

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旧東インド会社

レンブラントの家は裕福な商人の館のように立派で、その収集物とともに、いかに彼が成功した画家であったとしてもその維持は困難であったであろうと察せられるものであった。立派な館ではあるが、階段は教会の塔の中に設えるような狭いラセン階段で、それも木製である。なぜオランダの家屋が破風頂部に滑車をかけるフックを用意しているのか納得した。アムステルダム植物園では日本からフランス経由で持ち込まれたという桐の大木が見事だった。日本でこのような見事な桐の木を見たことがない。

最後に新教会にも立ち寄ったが、オランダはスペインからの独立戦争当時、教会を破壊したこともあり、ボールトは木製で、スペインで観たゴチック建築の華麗さは見られない。南教会など外見は教会ではあるが活動を停止している。教会の尖塔には十字架が乗っているのは他の国と同じだが、その上に金色のニワトリの風見が乗っているのがオランダの特徴のようだ。

アムステルダム最後の夜は典型的なオランダ料理を食せんとダム広場近くのOud Hollandにでかけ、ムール貝の蒸したものをバケツ一杯食べた。(Restaurant Serial No.217)オランダには花屋が多く切花を沢山売っているが、なぜかレストランのテーブルに飾ってある花は全て根付きである。オランダ人の合理的精神がそうさせるのだろう。ケチといえばケチではある。

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2003/10/10

Rev. September 8, 2010


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