読書録

シリアル番号 1152

書名

ふぉん・しいほるとの娘 上下

著者

吉村昭

出版社

新潮社

ジャンル

小説

発行日

1993/3/25発行
2011/12/25第10刷

購入日

2013/8/7

評価



新潮文庫

友人倉見からのおさがり。 読まねばならぬ本が多く、後回しになっていたが、ようやく腰を据えて読みだすととまらない。

倉見からもらった吉村の本は戦艦武蔵零式戦闘機海の祭礼海の史劇でいずれも力作であったが今回は4代にわたる大河小説で幕末から明治にかける世界と日本の動きが活写されていた。宮崎駿の2013年のアニメ「風立ちぬ」はゼロ式戦闘機を参考にしていることがわかる。

女房の希望でシーボルトが収集した植物園を見にわざわざライデン市ま ででかけたことからシーボルトの関心は博物学だとばかり思い込んでいた。この本を読んで、伊能忠敬の作った日本地図を持ち出そうとして間宮林蔵の密告で発 覚し、大勢の関係者が処刑されるといシーボルト事件を起こしていることを初めて知った。クルーゼンシュテルンの『世界周航記』などと交換のために日本地図をシーボルトに 贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受けている)

本著の主人公お稲が、シーボルトとお滝の子として長崎で生まれるが、シーボルトが追放となり、生き別れ。お滝は長崎の廻船問屋と再婚する。お稲は長じてオランダ語を学びたいと志し、シーボルトの弟子二宮敬作がいる宇和島に渡るところで上巻は終わる。

ちなみに、シーボルトはガク・アジサイにオタクサと命名した。これはお滝さんからとったという。

本書を読んで鎖国とはいえ、貿易は長崎経由で行われ、しっかりしたシステムが作動していたことを知る。吉村昭という作家は徹底して資料を読み込んでいるから、 その詳細なこと。長崎の街が自分の故郷になったような錯覚に陥る。諏訪社の祭礼が頻繁に出てくる。諏訪社は一般には「諏訪」を社名に持つ神社。全国に約 25,000社あり、長野県の諏訪大社を総本社とする縄文時代に発生した信仰である。この本に出てくるのは鎮西大社諏訪神社のことだろう。長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三 社が起源である。戦国時代に長崎はキリスト教徒の支配地となり、社寺は全て破壊された。江戸時代に入った後の寛永2年(1625年)、長崎奉行・長谷川権 六や長崎代官・末次平蔵の支援によって佐賀の修験者であった初代宮司の青木賢清(かたきよ)が、円山(現在は松の森天満宮の鎮座地)に三社を再興し、長崎の産土神とした。盂蘭盆も盛んに出てくる。サンスクリット語のullambanから来ており、古代イラン語の先祖の意味だという。

宇和島に渡る経路は長崎から諫早に抜け、有明海を船で横断、熊本に上陸し、阿蘇山を横断して臼杵(うすき)まで歩く。そこから船で豊後水道を横断し、八幡浜に上陸、あとは宇和島まで歩くという行程であった。この記述もなかなか情緒があり、かってバイクで四国一周した時とほぼ同じ山道を歩くのでなつかしく読んだ。

二宮敬作は女がオランダ語を学んでも、家業となっている通詞にはなれないので医者、それも産科を学ぶようにすすめた。お稲は5年間二宮敬作の下で学び、一 旦長崎に帰省したのち、二宮敬作の推挙により、同じくシーボルトの弟子だった、石井宗謙に産科を学ぶために岡山にゆく。その道行は諫早⇒有明海⇒柳川⇒久 留米⇒飯塚⇒小倉⇒瀬戸内海⇒岡山であった。ここで6年産科を学ぶが宗謙に犯され、女児タダを生み、シーボルトが宗謙に与えた鉗子を宗謙より取り上げ、赤子を連れて長崎に帰る。

時代背景として「鎖国をやめるほうが日本のためになる」というオランダ国王の親書を持ってきたのはパレンバング号という軍艦であったという。太平洋戦争のとき、 日本が占領したインドネシアの製油所はパレンバングにあった。パレンバングはマレー王国の首都であった。幕府は気が付かなかったがオランダ国王にこの書簡 を書かせた背景にはシーボルトが居た。 シーボルトはペルリに顧問になりたいと売り込むが無視される。幕府はペルリに対抗するために忍藩、川越藩、会津藩などに江戸湾の警護を申し付けたが、彼 我の兵力の差は歴然としていた。こうしてペルリの圧力に屈し下田と函館が開港した。長崎ではアヘン戦争で清国が疲弊し、唐船も入港しなくなり、家業の廻船問屋は 仕事が亡くなった。1954年には南海トラフ巨大地震が発生し、長崎も大揺れだった。

宇和島の歴代伊達藩主は英明でオランダが長崎にもたらした蒸気船を学ぼうと二宮敬作らオランダ語の出来る人材を長崎に送り込んだ。こうしてお稲と敬作の10年の時を隔てての 再会がなる。医者になることを諦めていたお稲だったが、敬作の強いすすめで再チャレンジの決心をし、娘のタダをお滝にあずけて再び宇和島に向かう。ここで産科医として実績を積んでいる間に日本の開国がなり、シーボルト の再入国が許されたことを知り、お稲は敬作とともに長崎に帰り、シーボルトの到着を待つ。

シーボルトは帰国後48才で、ドイツ貴族(爵位は持っていない、戦前の日本であれば華族ではなく士族相当の層)出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルン と結婚。3男2女をもうける。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オラ ンダ貿易会社顧問として息子アレキサンデルを伴って長崎に英国船で到着する。お滝、お稲、タダとも再会を果たし、お滝はシーボルトの生活基盤として鳴滝熟(現在もシーボルト記念館がある)があった鳴滝の土地を買戻し、生活基盤として提供する。

1861年、シーボルトは対外交渉の幕府顧問 となるためにタダのいいなずけ三瀬周三を通訳として江戸にでかける。しかし列強の干渉で1862年に官職を辞さざるをえなくなる。息子のアレキサンデルを 英国大使館に勤めさせて帰国する。三瀬周三は武士でもないのに帯 刀したとして逮捕され、3年間石川島人足寄場の牢につながれる。ここは隅田川下流にあった石川大隅守屋敷裏の沼地を埋め立てて設置された獄舎で、衛生状態 は劣悪であった。助命工作が効いてようやく釈放され、宇和島藩の通詞の採用される。三瀬周三はアーガス号での伊達候とパークスの会談のた めアーネスト・サトウに会っている。宇和島藩主伊達宗城(むねなり)の媒酌で浜御殿(現在も跡地は公園になっている)で周三とタダの婚礼の式が執り行われる。

お滝の死後、お稲は東京にでて産科を開業。繁盛し宮内省の侍医になり福沢諭吉とも三田で あって激励される。しかし、結局過去の人間だとさとり、長崎に引退する。すべて順風のようにみえたのもつかの間、娘婿の三瀬周三をコレラで失う。急遽、娘のタダを医者にして自活させんと片桐重明につけて東京に送 りだす。しかしタダは片桐に口説かれ身をまかせ、身ごもった。お稲は生れた男児に周三という名をつけ、自ら育てる決心をする。タダは医者の山脇泰助と再婚し、 子を沢山もうけ琴の師匠になる。

お稲は孫の周三の教育のために東京に出る。そして英国系の慈恵医大に入学させる。かって東京で開業するための資金にするためにアレキサンデルに鳴滝の土地 の権利書を150円で売っていた。手持ちの医療器具、医書を売って作った資金でこの権利書を買戻し、周三のために残すと遺書をしたためて老衰で死ぬ。

シーボルトは1863年にはオランダの官職も辞 して故郷のヴュルツブルクに帰った。1866年10月18日、ミュンヘンで70歳死去。

シーボルトが収集したコレクションが2016年日本で巡回展示。

Rev. September 4, 2016


トップ ページヘ